内山マネージャーは、この部屋に寝に帰っていただけなのかもしれない。生活の匂いがあまりなかった。
「一見代わり映えしない男の一人暮らしって感じだろ。だがな、寝室兼書斎を見てみろ」
 野口に言われ、廊下の途中にあるドアを開けてみる。中を開けてびっくりだ。
壁一面に岸辺綾音のポスターが貼ってあり、ガラスの大きなショーケースには岸辺綾音のグッズが所狭しと飾ってある。
ずいぶん熱心なマネージャーなんだな。うちの元マネージャーもこんな感じだったんだろうか。いや、ないな。わたしが刺されたというのに、すぐに首を宣告する非情な奴だ。やはり内山マネージャーが変なのかも? 正直、ちょっと気持ち悪いわ。
桃花は眉を顰める。
 ベッドには岸辺綾音の等身大抱き枕と顔写真のついた枕が置いてあった。夜の添い寝として使用されていたのだろうか。
「ここまで固執されると、ちょっと気味が悪いわね」
 茉莉の顔はひきつっていた。
 クローゼットの扉を開けると、桃花の写真がダーツの的に張り付けてあった。顔の部分は穴だらけになっていて、目鼻は見えない。
「ひど! なんで?」
 桃花はショックを受けた。
 隣には梨美の写真も貼ってあった。梨美の写真には大きく黒のマジックペンでバツが書いてある。
 どうして私たちの写真が? 
桃花は唇をぎゅっと引き締めた。
クローゼットの引き出しを茉莉が開け始める。
「おい、あんまり触るなよ」
「内山を殺したのは、誰なのかしらって思って。この辺にヒントとかないのかしら」
 茉莉はクローゼットの扉をそっと閉めて元通りにした。
 わたしだけでなく、梨美までターゲットだったの? わたしはまだ何もされていないけど、梨美は大丈夫だったのだろうか。
桃花の胸に不安がよぎる。
綾音先輩が独立し、一緒に働くことを断られた内山マネージャーは落胆したのだろう。もしかしてメタモルフォーゼのせいだと思ったのかもしれない。
桃花は顔をしかめた。
なぜ内山マネージャーが殺されたのか。
内山マネージャーは綾音先輩にかなり傾倒していたようだ。それに気が付いた綾音先輩が内山マネージャーのことを殺したって線もある。
どうだろう。ちょっと気持ち悪い変態だけど、自分の味方の元マネージャーを綾音先輩は殺すだろうか。最大の理解者とみることもできる。
桃花は首をかしげる。
 黒木さんの可能性もある。本当は綾音先輩のことが好きで、綾音先輩を奪い合いになり、内山マネージャーのことをうっかり殺してしちゃったとか?
 問題は、黒木さんは茉莉さんのことが好きなんだよね。
 桃花は思考を止めた。わからないものはわからないのである。
「さ、もういいだろ?」
 野口に促され、茉莉と桃花は外に出る。
 ダーツの的にするくらいだ、わたしを襲ったのも、内山マネージャーかもしれない。桃花は腕を組んだ。
あ、それは無理だ。だって、わたしは内山マネージャーとの車にはねられたんだっけ。
 じゃ、誰がわたしを襲ったのだろうか? 不思議だ。
「そうそう、桃花の部屋で見つかった女装死体のほうは解決できそうだぞ」
 野口が明るい表情になった。
「どういうことですか?」
「鑑識の結果によると、ご遺体の爪の中から、内山の皮膚片が見つかった。内山の手の甲にもひっかき傷があった。おそらくゴンザレスを殺したホシは内山できまりだ」
 野口が内山の部屋のカギを閉め、周りを確認した。幸運なことに警察関係者はいなかった。
野口はほっと一息ついていた。
 桃花はよきストーカー・ゴンザレスさんのご冥福をそっと祈った。

十一
昨日は晴天で暑かったのに、今日は雨が降ったりやんだり。今は止んでいるみたいだけれど。
「はああ」
 思わず桃花はため息をつく。
この時期は何を着ていいのか迷うよね。湿気でジメジメするなら、思い切って半袖でもいいかもしれない。だけど、急に寒くなる可能性もある。
桃花がクローゼットの前で悩んでいたら、茉莉が「大学に遅刻するわよ」とあきれられた。
つまらない服は着たくない。自分が着たい、心ときめく服を着ることにしている。見た目で判断されることも多いのだから、ちゃんと自己主張したいと思うのだ。だから毎日の洋服選びは時間がかかってしまう。
桃花はマオカラーのノースリーブに透け感のあるシャツを羽織り、パニエの上にひだがたっぷりとってあるエメラルドグリーンのスカートを履いた。予想通り、玄関を開けると、ムァっと湿気が襲ってくる。
空は黒っぽい雲で覆われていた。しばらくすればまた雨が降るだろう。そうしたら、たぶん冷えてくるかもしれない。
梅雨寒にならなくても、このシャツは透け感もあるし、いくらか涼しいだろう。冷房もあるしね。
授業の休み時間に食堂に行くと梨美の姿を見つけた。手を振りながら駆け寄ると、人の気配に気が付いた。
わたし、誰かにつけられている?
そっと後ろを振り向くと、見たことのない男と女がいた。
尾行よね? わたし、初めて尾行されてるわ。本当に後をくっついてくるのね。
桃花の気分は少し昂った。
友達でも知り合いでもない。そもそも仲がよい友達自体少ないのだ。考えられるのは、刑事さん。警察かぁ。本格的に私が疑われているのかな。悲しい。
でも、内山マネージャー殺しもゴンザレスさん殺しもわたしが犯人じゃないんだけどな。どうして尾行されているのだろう。
向こうも仕事だし、わたしのことなんかなんとも思ってはないんだろうけど。
「桃花、もうケガの具合はいいの?」
 梨美が心配そうに尋ねた。首元のスカーフを指先でいじっている。
 スカーフなんてめずらしい。よく見ると、おとなしめのデザインのワンピースだ。就職するから、服装の路線を変えたのかな。
 桃花は少しさびしい気持ちになった。
「うん、ケガは順調に治ってきてるよ」
 桃花が説明する。
「よかったわ」
 梨美は安心した顔つきになった。
「あのさ、いろいろ考えたんだけど。わたし、自分で事務所を立ち上げて動画クリエイターとしてやっていこうかと思うんだ」
 桃花は恐る恐る梨美の反応を伺う。
「桃花はそうした方がいいと思うわ」
 梨美はあっけらかんとして笑った。
「そうかな? 本当にそう思う?」
「思うわよ。だいたい、桃花みたいな人が会社勤めできるとは思わないし。会社に入ってもストレス溜めて、すぐに辞めそうだもの」
 たしかにその通りである。梨美にはかなわない。桃花はぽりぽりと頬をかく。
「梨美は、これからどうするの?」
「そうねえ、どこか就職できればいいけど」
「梨美ならできるよ。だって、礼儀正しいし、ひとあたりもいいじゃない」
 桃花が励ます。
「そうかな。できたらお給料のいいところがいいなあ」
「スタイルもいいし、オシャレだし。モデルだって、アイドルにだって転身できそう。そうだ、アナウンサーとかどう? テレビうつりもいいと思うし。わたしじゃ、無理だけど」
 桃花はわざとらしく自分の身体を見た。
「桃花ったら、わたしのこと買いかぶりすぎ」
 梨美が眉を八の字にして困った顔で笑った。
「梨美が羨ましい。わたし、身長が低いし、嫌われることも多いしね」
「桃花は個性が強いからね。そこがいいところだけど」
「否定してよ、もう」
 桃花は梨美の肩を軽く叩く。梨美の身体が以前より細くなったような気がした。
「桃花は大丈夫よ。悪運も強いし」
「やだ、悪運とか。幸運がいいな」
「運がいいのは同じよ。本当にあなたが羨ましい」
 梨美が顔を一瞬ゆがませた。
「明日からわたし一人で動画を配信する」
 桃花は決意を語る。
「うん。桃花ならできる。わたしの分も頑張って」
「それで、相談なんだけど」
「なに?」
「きょう、ゲストとして来てくれない?」
 梨美は桃花のお願いに吹き出した。
「やだもう、おもわず吹いちゃったじゃない。ごめんね、もう動画には出ないって決めたのに、すぐにゲスト?」
「そうだよね。無理だよねえ。ねえ、梨美、痩せた?」
 桃花は寂しそうな顔をした。
「ううん、痩せてないよ」
「顔色も悪くない?」
「そう? 気のせいよ」
 いたたまれない雰囲気が二人を包む。
「桃花なら大丈夫よ」
 梨美が口角を上げた。
「よ! 何しているんだ?」
「あ、大樹くん」
 桃花が手を振った。梨美は少し驚く。
「この人は、大樹くん。茉莉さんの息子だよ。同じ大学の二年生」
「うん、知ってる。人気の勉強系ヨーチューバーだよね。びっくり。あ、どうも。はじめまして」
 梨美の目が輝いた。
「いま、新番組にゲストとして梨美が応援に来てと、口説いていたんだけど。断られちゃった」
「ごめん。引退するって決めたし、きょうは用事があってね……」
 梨美は申し訳なさそうな顔をする。
「じゃ、俺でどう? 俺、暇だし」
 大気が笑顔を見せる。
「え? 大樹くん、わたしのチャンネルに遊びに来てくれるの?」
「いいよ。コラボしよう。その代わり、今度こっちにも来てよ」
「ほんと? たすかる。もちろん遊びに行きます」
 桃花は嬉しそうに笑った。
「編集合宿とか、いろいろやろうよ。桃花さんたち、カット割りがうまいよね」
 カット割りとは、撮影した動画をシーンでカットし、繋げることである。
「そう? テンポ悪くなると、動画を閉じられちゃうから、スピード感は重視してるかな。編集合宿、流行ってるもんね。やりたいね。梨美もお手伝いってことでその時は来てくれる?」
「忙しくなかったらね。考えておくわ。なんてったって大樹くんとだもの。わたし、ファンだったんだよね。どうやって知り合ったの?」
「大家さんである茉莉さんの息子さんだったのよ」
「すごいね」
 梨美は目を丸くする。
「えー、早く出会っていればよかったね。梨美さん、動画クリエイターをやめちゃうの? ヨーチューバーの中でも二人のことが話題になってるよ」
 大樹が残念そうな顔をした。
「うん。将来のことを考えてね。ああ、ツイテないわ。大樹くんとコラボしたかったな。でも、もう表には出ないって決めたの。撮りダメしてある動画でおしまいかな」
「なんで? もったいないな」
 大樹が惜しむ。
「もう大学三年生だし、就活しないとね」
 梨美は肩をすくめた。
「そうなんだね。そういう考えもあるよね。就職活動、頑張ってください」
 同じ歳でも一学年下の大樹は大きく頷いた。
 梨美は「またね」と荷物を肩にかける。
「明日、配信できるよう徹夜で編集するから。梨美も見てね」
 桃花の言葉に梨美はわずかにうなずいた。

 大学が終わり、茉莉さんの家で撮影が始まった。大樹くんの部屋にお邪魔して、本棚を背景にする。本棚には赤本や受験で使った問題集もたくさん置いてあった。
「きょうはサプライズゲストに大樹くんが来てくれました。大樹くんの部屋にお邪魔してます」
「どうも。大樹です」
「かっこいいですね」
「いや、そんなことないっすよ」
 大樹が大きな笑顔になる。
「実はですね、わたしはこれから単独で動画を配信していくことになりました。いろいろご心配をおかけしていますが、今後とも応援お願いします。そういうこともあって、大樹くんが初めての単独配信に応援にきてくれたのです。本当にありがとう」
「いやあ、役に立てればいいな」
「このお礼は、コラボっていうことで」
 二人の掛け合いは続く。あとは編集で「わぁー」という効果音や拍手の音を入れて、カット割りしていけばいいだろう。オープニングは上手くいった。
 桃花はちらりと構成を確認する。
「大樹くんは勉強系ヨーチューバーなんですよね」
「はい。自分は勉強が苦手だったので、勉強が苦手な人の助けができたらなと思ったんですよ」
「塾の講師とかは考えなかったの? バイトの定番でしょ」
「塾の講師や家庭教師も考えたんですけど、それよりも、もっと多くの人に勉強するときのコツやつまずきがちなところを伝えたくって。それも受験が終わったばかりの今、忘れないうちに言いたいという思いがありまして」
 大樹くんは自作の資料を見せた。