茉莉は黙って聞いている。
「動画配信、好きなんです。うまくいくかわからないので、梨美は誘えませんが」
「そうねえ。梨美さんにも独立するって報告はした方がいいと思うけど」
「もちろんです」
「あなたのように自分を大事にすることができる人は、個性を殺して働くのに向いていないわ」
「どういう意味ですか」
「だから、動画クリエイターに向いているってことよ」
「なんだかバカされたような気もする」
「そんなことないわ。適材適所ってこと」
 茉莉はふふふと笑った。



茉莉さんの料理は大皿料理が多い。きょうの夕飯は回鍋肉と麻婆豆腐だ。
「以前は息子が一緒に住んでいたから大皿料理なの。男子高校生の食べる量が恐ろしいのよ」と茉莉さんは言っていた。だから自分の食べられる分だけ食べてもらうスタイルらしい。
「中年女性が男子高校生と同じ量を食べたら、あっというまに糖尿病に高血圧、高脂血症で病院通いよ。余った分は次の日の朝食か、昼食に回せばいいの。無理に食べないでね」
 茉莉さんは笑みを浮かべる。
「おいしい! この味付け、お店みたい。白いご飯がいくらでもはいってしまいます」
調子に乗って食べ過ぎてしまった。ヨーチューバーなのに美意識が高くなくてごめんなさい。
桃花は反省した。お腹がいっぱいで動けなくなった。
「大丈夫? 桃花さん。きょうは特別に片付けもしてあげるわよ」
茉莉が鼻歌まじりに、食べたお皿を片付ける。
「ありがとうございます」
「いっぱい食べてくれる人がいるっていいわね。一人で食べるよりおいしいもの。デザートは桃だけど、食べられる?」
「はい」
 桃花はつい返事をした。お言葉に甘えてソファーに座り、お腹を撫でてから、ノートを取り出す。このノートには事件で分かっていることを書きだしてある。
 初めはわたしが刺されたことだ。
 桃花はノートの文字を読み進める。
結局、わたしの部屋で殺されたゴンザレスさんは何がしたかったんだろう。ゴンザレスさんだってこれから社会に出ていろいろやりたいことがあったに違いない。全然知らない人だけど、彼を殺すほどのことがあったんだろうか。
この世のどこかに殺人犯がいる。
わたしを刺した人もいる。
わたしを襲って得する人なんているだろうか。謎だ。
もしかすると、わたしを刺した人と、ゴンザレスさんを殺した人が同じってこともあり得る。
桃花が唸っていると、茉莉さんが桃をのせた皿を持ってきた。ふんわりと甘い匂いが漂う。
冷えた桃の果肉が口の中で消えていく。
「甘い桃、産毛によって守られる」
「どうしたの? いきなり俳句?」
 茉莉さんが変な顔をしている。
「昔、ほおずりして痛かった、桃の産毛を思い出していたんです」
「わかるわ。桃の産毛って、意外に刺さるんだよね。ふわふわだと思いきや、頬にスリスリなんかしたら大変よ。しばらく痛いからね」
 茉莉さんも御存じとは! 仲間だ。
 桃花と茉莉は笑った。
「このとげは虫よけでしょうかね?」
「昔、大樹に聞かれたことがあったので調べたことがあるわ。桃の毛は虫から守るための他に、雨や日差しからも実を守るって書いてあったわよ」
「なるほど。攻撃態勢なんですね」
 二人の胃袋に桃の実二つが消えていった。
 ゴンザレスさんは住居侵入罪になってつかまってしまうのに、なぜわたしの部屋に入ったんだろう。入らないといけないことがあったんだろうか。パジャマが欲しかったというのもあるのかもしれないけど。全くわからなかった。
 桃花はスマホを取り出して、ゴンザレスのSNSのアカウントを探す。検索すると、まだ削除されていなかったようで、すぐに見つかった。ラッキーである。
六月一日、『正しい推し活とは?』『彼女の命が危ない』『彼女に言わないといけない』と連続でつぶやいていた。
彼女って、わたしのことだよね?
桃花は読み進める。
『彼女にはどうしても言えなかった。やっぱり待ち伏せするしかない』『推しを守るのがファンの役目だ』と六月十日に書いていた。
 彼はわたしに何か伝えたかった? そういうこと? 警告がしたかった?
 ストーカーは、ゴンザレスさんであっていたらしい。
 彼は頻繁にある女性の発言に『いいね!』をつけていた。
誰なんだろう。
確認すると、わたしそっくりの服を着て、化粧をする男性のアイコンがあった。どうやら、ゴンザレスさんの女装姿らしい。
「これって、もしかしてゴンザレスさんの裏垢?」
 目元や鼻の形がやっぱりゴンザレスさんだ。
裏垢とは、本当のアカウントは別に作られた、もう一つのアカウントのことだ。例えば本垢はプライベート、裏垢は趣味の話をつぶやくなど、区別をして使っている人が多い。
ゴンザレスさんはわたしに何か伝えたくて待ち伏せしていた。よいストーカーというのもおかしいが、正義感のある人だったんだろう。ゴンザレスさんは何を伝えたかったのか。危険が迫っているならぜひ教えてほしかった。
「あら、この人、桃花さんそっくりね」
 唸りながら考えていたら、茉莉がパソコンの画面をのぞいてきた。
「ゴンザレスさんです。この前、隣のわたしの部屋で亡くなった方ですよ」
「ああ、死体の方ね」
 茉莉は眉を顰める。
「ゴンザレスさんはわたしに何かを警告したかったみたい。それでうちに来たみたいなんです。でも、殺されてしまった」
「そうなのね」
 桃花と茉莉は黙り込む。
ゴンザレスさん、ぜひ理由を教えてほしかった。
「あ、そうだ。きょうはお客が来るのよ。同じ歳で同じ大学の桃花さんに会わせたかったの」
 ピンポーン。
 玄関の呼び鈴がなった。
「お帰り、大樹。桃花さんもいるわよ」
 茉莉さんは微笑んだ。


六月二十日。きょうも暑い。梅雨はどこに消えたんだろう。大学はエアコンが効いていて涼しいけれど、一歩外に出るだけで熱気が襲ってくる。
桃花はハンカチで汗を拭いた。わざわざハンカチで汗を拭くには理由がある。手で拭ったら、その手は服で拭くことになる。大事な服を汚すことはできなかった。
「あれ?」
正門前で、梨美と綾音先輩の姿を見つけた。綾音先輩は美脚を露わにしたミニ丈のフレアスカート、梨美はハイネックのサマーニットを着ていた。二人とも立ち姿も美しかった。周囲の学生たちも見惚れている。
「梨美、綾音先輩」と手を振ろうとしたが、二人が何やら真剣に話し合っている雰囲気。声がかけづらく、そっとその場を離れることにした。
(わたしのせいでトラブルになってなければいいんだけど)
 事務所や動画の件などでいくつか心当たりがある桃花は、二人のことが心配になる。
あとで聞いてみようかな。でも、梨美は言わないかも。梨美は弱みを晒すタイプではない。打ち明けてくれるのを待つしかないか。
最近、梨美の顔色が悪いのも気になる。体重も減っているんじゃないかな。
眉根を寄せて、桃花はスマホを確認する。梨美から連絡は来ていなかった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 茉莉さんがリビングのドアから顔を出した。
「桃花さん、あとちょっとだから、休んでいて」
リビングはエアコンが効いていて涼しくなっていた。桃花はすぐに夕飯の準備ができないくらい疲れていた。夏の暑さは身体に応えるのだ。
冷蔵庫にあった冷えた麦茶をいっぱい飲んでのどを潤すと、身体の熱が下がったのが分かった。桃花はソファにだらしなく座る。
スマホをいじりながら最近のヨーチューバーの動画をチェックしていたら、インターフォンがなった。「最近、来客が多いんだよね」と桃花はつぶやいた。
午後の株式市場が終わり、茉莉さんも部屋から出てきた。
桃花が応答すると、モニターには野口連の胡散臭い笑顔があった。
「こんにちは。ちょっとお話聞かせてください」
 うさんくさいアンケートの人みたいだけれど、野口は警部である。
「もううちには用事はないでしょ。早く事件を解決してください」
 野口の声に、茉莉が応えた。
「そう冷たくしないで、茉莉さん。きょう来た理由を聞いたら、きっと驚くと思うよ。俺と話してよかったって思うから」
 茉莉は右眉をピクリとさせた。
「しかたないわね。早く言いなさいよ」
 茉莉はしぶしぶ野口を部屋へあげる。
「せっかちだなあ。僕を求めてくれるなら嬉しいんだけど」
「求めないわ。ぜったいにない」
「ひどい。俺は茉莉さん一筋だって、信用してよ」
 野口は眉を八の字にして目を潤ませた。顔がいい分、破壊力のある攻撃だ。しかし、茉莉はめんどくさそうに見ていた。
「はいはい。それで?」
「内山マネージャーが死体で発見されたよ。寝室で頭から血を出して倒れていた」
「ええ?」
「どうして?」
 桃花と茉莉が驚きの声をあげた。
「ほら、俺が来てよかったでしょ。茉莉さん、このこと知らなかったでしょ?」
 野口は両手を腰にあてて威張る。
「いつ殺されたの?」
「推定死亡時刻はきのうの午後九時くらい。何度も頭を殴打されているようだ。寝室の床に血だまりがあった」
「なるほど」
 茉莉は肯く。
「死亡推定時刻ってどうしたらわかるんですか?」
 桃花は疑問に思ったことを聞いてみた。野口ならきっと教えてくれるだろう。
「直腸の温度が分かればすぐに出るぞ。一時間に〇・八度ずつ体温が下がっていくからな。三十七度から直腸の温度を引いて、〇・八で割ればいい。ただし例外もあるけどな」
「そんなふうに死亡推定時刻って出すんですね。知らなかった」
 意外なところでも数学を使うんだなと感心した桃花だった。
「で、死因はわかったんですか?」
「えええ? まあな。これ以上言うと怒られるからダメだよ」
 野口はわざとらしく口を閉じる。
「そんな。ここまでしゃべったのに?」
 桃花は不満げな顔をした。
「内山さんの部屋を見たいなあ。ねえ、ちょっとだけ見せて。ちょこっとでいいから。だって桃花さんは被害者なのよ」
 茉莉がにこりと微笑む。
「いや、それはなあ……」
 野口が渋る。
「あなたにしか頼めないの。お願い」
「んんんん。茉莉さんがそういうなら」
茉莉に頼まれ、野口は満面の笑みだ。どこにも触らない、静かにしていることを条件に内山の部屋を見せてもらうことになった。本当にいいのかなどは野暮な質問だ。ダメに決まっているだろう。
「桃花さんの周りは事件が多いわねえ。残念な星回りなのかしら」
「茉莉は占いなんて信じないだろ?」
 野口が突っ込む。
「だって、もう二人が亡くなっているのよ」
 茉莉は眉を八の字にする。
「わたし、そんなに恨まれていたんですかねえ」
桃花は首をひねる。そんなに恨まれるようなことをした覚えはないんだが。
「バレたらクビだが仕方がない。茉莉のため、茉莉のため」と野口はぶつぶつ言いながら、桃花と茉莉に白い手袋をくれた。
「星占いってロマンチックでしょ」
「じゃあ、もし俺と再婚した方がいいって占いがでたら、再婚してくれる?」
 野口が茉莉の瞳を覗き込む。
「ううん、ない。しないわよ」
 茉莉は秒殺した。
「やっぱり」
 野口は悲し気に首をすくめた。
「だって、あなた、占い師を買収しそうだもの」
 茉莉さんは呆れたように言った。
そんなに茉莉さんが好きなら、離婚騒動のとき別れなきゃよかったのに。
桃花は二人のやりとりで思う。
でも、わたしがもし妊娠中で、例え浮気未遂だったとしても、ひと晩女性と過ごしたなら、やっぱりその後の結婚生活の継続はないかな。野口さんにはいろいろお世話になっていて、味方になれずに悪いけど。
桃花は手袋をはめ、野口がドアのカギを開けた。
「内山の部屋を見ても驚くなよ。それからほんとうにベタベタ触るなよ。約束だからな」
 野口が周りを確認しながら案内する。
 内山マネージャーが住んでいたのはごく普通の五階建てのマンションの一LDKだった。
芸能事務所のマネージャーってそんなにお金持ちでもないのかもしれない。玄関の飾り棚には鍵入れがあるだけで、飾り気のない部屋だ。電化製品は大きくも小さくもないテレビとレンジ、冷蔵庫などがあるだけ。何とも素っ気ない。