「汚れてないって言ってくれるのはマネージャーだけよ。桃花に公開禊の機会も奪われちゃって、派手な転身もできなくなっちゃったし。災難よ」
「ああ、桃花か」
内山は苦々しい顔をした。
「ほんと余計なことしてくれちゃって。何が『あこがれの綾音先輩!』よ。虫唾が走るわ。後輩でもないわ、あんな子」
「そうだな」
内山がうなずいた。
「断髪式でイメチェンして、ワイドショーやネットニュースに取り上げてもらう予定だったのに」
タレントとして生きていくには、どうしても女性、しかも主婦層の支持がいる。汚れたアイドルのことを主婦層は嫌う。だから、あえて断髪式をして、全女性の同情を誘う予定だった。
「ああ、そうだったな」
内山の表情もさえない。
「不倫ではないから、たいして汚れているわけじゃないんだけど。だからこそ、純愛を貫く清純派タレントとして主婦に受け入れられると踏んだのに。桃花のせいで丸つぶれ」
綾音は苦々しい顔をする。
「それに何なの、どうして黒木さんがあの子のそばにいるの?」
「黒木は桃花に気があるのかもしれないな?」
内山はニヤニヤする。
「まさか? 桃花が好きとか、女の趣味が悪すぎ」
綾音は不機嫌そうに黙った。
綾音は、この前の告白したことを思い出す。
「黒木さん、あなたが好きなの。ずっと好きだった」
「そういう気はない。ごめん」
あっさりと黒木に振られた。
あり得ないと思った。このわたしがフラれるなんて……。
「わたしとなら、きっと釣り合うわ」
「そういう目で、綾音のことを見たことはないから。ごめん」
綾音は目に涙を溜めて、黒木を見た。
「わかった。でも、これからも会いに来ていい?」
「え?」
「あきらめるまで、時間がかかるから」
「ああ」
黒木はしかたなさそうに頷いた。
綾音はあきらめきれなかった。一か月に一回。しつこくならない程度と決めて、黒木のいる大学病院に差し入れにいき、お茶を一緒に飲む。
そのうち、わたしの存在を受け入れてくれるだろう。
「もういいだろう? こういうことはやめてくれ」
黒木に何度か言われたが、黒木は幼なじみのわたしを冷たくあしらうことはなかった。
きっともう少しで黒木さんはわたしのことを好きになるはず。だって、わたし、アイドルだもの。わたしにぴったりなのは黒木さんだけ。
ああ、黒木さんに会いたい。
桃花が内山マネージャーの車にぶつかった日。黒木を呼び出さなければよかった。そうすれば黒木と桃花は出会わなかった。桃花が居候するマンションに黒木が通うこともなかった。
どうしてこうなってしまったんだろう。
綾音は奥歯をかみしめる。
黒木は桃花のことが好きなんだろうか。優しいから、事故に居合わせたことを気にして様子を見に行っているだけだろうか。
綾音は歯ぎしりした。
ああ、腹が立つ。桃花なんていなければいい。邪魔ばかりして。この世から消えてなくなってほしい。
「綾音、怖い顔をしているよ」
内山がそっと綾音の腕を撫でた。
「そう?」
綾音は粟立つ腕をそっと隠し、薄暗い笑顔を浮かべた。
「メタモルフォーゼは邪魔だな。綾音の華麗なるリデビューを潰しやがった。業界からいられなくしてやろうか。そうすればずっと一緒にいられる?」
内山が口角を上げる。
「こんなに君のことを理解しているのに、どうして僕を雇わないんだい? なんだったら僕が事務所を経営してもいいんだよ?」
内山が笑った。
気持ち悪い。あんたのそういうところは大嫌い。いい機会だから、わたしと離れてほしい。
綾音はそんな気持ちをおくびにも出さずうっすらと営業スマイルを浮かべた。
「タレントとして稼げないかもしれないのに、敏腕な内山マネージャーをつれていくわけにはいかないわ」
「君は本当に優しいね。僕のことを考えてくれたんだね。大好きだよ」
内山は綾音を抱き寄せようとするが、綾音はかわして、すっと右手を出す。
「ええ。ありがとう。これからも応援してね」
綾音は内山の手を数秒間だけ握った。
内山は頬を染めた。
「あら? この絆創膏は?」
内山はサッと右手をひっこめる。内山の右手の甲に二枚ほど絆創膏が貼ってあった。
「どこかでひっかいたらしい」
「内山マネージャーでもそういうことがあるのね」
綾音は口角を上げて、内山の手を見つめた。
八
「きょうは晴れていなくて残念ですね」
六本木のタワーマンションにも雨は降る。桃花が窓の外を覗くと、シトシトと小雨が降り続いていた。
「雨が止んだら、散歩に行きたいわ」
「いいですね。天気予報ではもう少ししたら止むみたいです」
スマホ天気予報を茉莉に見せる。
「大学は?」
「きょうは休みなんですよ。それなのに雨」
桃花はわざと頬を膨らませた。
「植物にとっては恵みの雨だけど、桃花さんにとっては最悪なのね」
「ショッピングでも行こうと思っていたのに」
「行けばいいじゃない?」
「雨の日に荷物が多いのっていやじゃないですか。お気に入りの靴もよごれちゃうし」
「たくさん買って、靴が汚れるのが前提なのね」
茉莉が笑った。
「ねえ、茉莉さん。わたし、これからどうしようかな」
「ええ? 人生相談?」
「まあ、そういう類です。独立しようと考えていましたが、大学のみんなが就職活動の準備をしているのを見ると、これでいいのかなって不安になっちゃって」
「わたしに答えられるかしら」
茉莉がほほ笑んだ。
「茉莉さん、わたしに事務所を設立することってできるとおもいますか?」
「そうねえ。どうかしら」
茉莉は顎に手をやる。
「綾音先輩が独立したって聞いて、わたしも自分で事務所を構えて仕事したいって思ったんです。でも、もし動画クリエイターを続けないなら、来年は大学三年だから、就活をするの準備をしないといけないですし」
「就活って、どこに就職するつもりなの? 何がしたいの?」
「えええ? それはこれから考えるつもりですけれど」
桃花は全く考えたことがなかった。
会社に就職して、やりたいことはない。そもそも受からないと思うので、受かったところに就職すればいいと思っていた。
「いい? 桃花さん。働くっていうのは、自分の時間を使うのよ? どんな仕事でもいいってわけないじゃないわよね。やりたくない仕事をするってけっこうつらいわよ? もちろん、お金をもらうためだからって割り切れる人もいる。でも、桃花さんはそういうタイプじゃないわよね?」
たしかにそのとおりである。でも、お金がないと生活ができないんだから、その考えは現実的ではないんじゃないか。それが大人になるってことだと思っていた。
寝ないで編集したり、カメラに向かってレポートするのは、きつい時もあるけれど楽しい。就職すると、動画を配信することもなくなるだろう。副業禁止のところもあるし、SNSを推奨しない職場もある。
本当にわたしは会社という組織で働けるのだろうか。また動画をつくりたくなったりするんじゃないか。
「桃花さんには動画クリエイターの仕事があるし、やっていける環境もある。だから、そのまま突っ走ればいいんじゃない?」
「でも、ずっと動画クリエイターとしてやっていけるか、自信がないんです」
桃花の言葉に茉莉が苦笑する。
「誰だって、ずっと同じところで働けるかどうか、不安だわ。わたしだって、ずっと株や暗号資産の取引で暮らしていけるなんて自信はないもの」
「茉莉さんも? でも、自分で事務所を設立するって、大変そうだし。将来を動画クリエイターに決めてしまっていいのか不安です」
「大変かもしれないけど、大学生で会社を興す人だっているじゃない? やる気になったらできるわよ。いざとなったら、動画を作る会社に就職すればいいじゃない」
「そうですかねえ」
桃花は首をひねった。
「野口と離婚してね、就職しようと思ったとき、赤ちゃんがいたの。だから仕事がなかなか決まらなくってねえ。世の中は厳しかったわ」
「そうなんですね」
桃花は小さく頷く。
「経営者側にたてば、小さな赤ちゃんがいる女性を雇う不安な気持ちもわかる。でも、わたしも生きていかないといけない。赤ちゃんも育てなくてはいけないし。でも、自分に向かない仕事はできないと思ったの」
桃花は顔をあげた。
「慰謝料はもらっていたので、最初は食いつぶすしかなかったわ。たまたま暗号資産がもてはやされる頃だったから、やってみよう。えいって慰謝料を投資したのよね。それがなかったら、今ごろどうなっていたかわからないわね」
茉莉は空を見上げる。
「よく投資できましたね」
「もうね、やぶれかぶれ。ほんとイチかバチかよ? おすすめはしないわ。でも、それをやれる環境があったのよ」
茉莉がほほ笑んだ。
「桃花さん。動画を作る仕事って、手に職と同じだと思うのよ。それにね、人生は何とかなるわ。わたしだって何とかなったんだもの。やりたいことがあるなら、やってみたら?」
茉莉は桃花を励ます。
「とりあえず、住むところはありますからね。やるだけやってみてもいいかもしれません」
「そうよ。あら、雨が止んだみたい。暇なら一緒に散歩に行く? 植物観察でも行きましょうか」
茉莉が桃花を誘う。
「大樹がね、あ、わたしの息子ね。小さいとき、あれは? これは? って何でも聞いてくるので、ポケット植物図鑑を片手に公園にいったのよ。大樹の聞きたがりは大変だったの。なるべく正確に教えてあげたくってね」
茉莉は思い出し笑いをする。
「だから、茉莉さんは植物に詳しいんですね」
桃花は茉莉と一緒に外へ出た。
湿気が肌に張り付いてべとつく。雲の合間から太陽が見えてきた。マンションをでて数分のところにある公園につく。雨に洗われた若葉がまぶしい。
「これこれ。きょうはタチアオイが見たかったの」
「タチアオイですか?」
茉莉は薄いピンク色のグラデーションの花を指さした。高さは一五〇センチくらいあるだろうか。
一本の茎にたくさんのつぼみがついている。
「梅雨の時期に咲くからツユアオイともいわれてるわ」
「よく道路際に咲いていたような気もします」
「きっと誰かが育てていたのね」
茉莉は花を覗き込む。
「フリルのような花びらが可愛らしいでしょ? さて、問題です。この真ん中のは、おしべでしょうか、めしべでしょうか?」
「ええ? めしべ?」
桃花は首を傾げた。
「残念。タチアオイは、最初はおしべ、次は時間差でめしべが出てくるの。めしべは真ん中から糸みたいなものよ。同じ花の中で受粉しないようになっているんですって」
「へえ。変わってますね」
「殺された女装の被害者は、桃花さんのようになりたかったのかもね」
「そうなんですかねえ」
桃花はそれより桃花のパジャマを握っていたのかが気になっていた。下着泥棒ならぬパジャマ泥棒だったのではないか。でも、よくよく考えれば、普通、狙うとしたらパジャマより下着の方がじゃないんだろうか。なぜパジャマなんだろう。
「その後、桃花さんのストーカーはどう?」
「しつこくインターネットでつぶやいている人はいませんね」
「きっと、女装の方だったのよ。ストーカーは」
茉莉がうんうんと頷く。
「ゴンザレスさんがストーカーですか?」
「そうそう。ゴンザレスさん。最初は桃花さんの普通のファンだったけれど、だんだん桃花さんのように自分もふるまってみたかったのかもね」
「真似ても、自分は自分なのに」
桃花はつぶやく。
「憧れの人を真似ると、自分もできる気がするじゃない」
「まあ、そういうこともありますけど。でも、自分が変わろうとしないと、何も変わりませんよね」
「桃花さんならこうするって考えて、勇気をもらっていたんだと思うわ。背中を押してもらえれば、変わるきっかけになるというか」
桃花はそう言われて頷いた。
「証拠はそのうち野口警部がもってくるわ。ネットのストーカーに関しては、プロバイダーに個人情報の開示請求して調べればわかることでしょ」
茉莉はにこりと笑顔になった。
「やっぱり、わたし、自分の事務所を作ろうと思います」
「そう」
「ああ、桃花か」
内山は苦々しい顔をした。
「ほんと余計なことしてくれちゃって。何が『あこがれの綾音先輩!』よ。虫唾が走るわ。後輩でもないわ、あんな子」
「そうだな」
内山がうなずいた。
「断髪式でイメチェンして、ワイドショーやネットニュースに取り上げてもらう予定だったのに」
タレントとして生きていくには、どうしても女性、しかも主婦層の支持がいる。汚れたアイドルのことを主婦層は嫌う。だから、あえて断髪式をして、全女性の同情を誘う予定だった。
「ああ、そうだったな」
内山の表情もさえない。
「不倫ではないから、たいして汚れているわけじゃないんだけど。だからこそ、純愛を貫く清純派タレントとして主婦に受け入れられると踏んだのに。桃花のせいで丸つぶれ」
綾音は苦々しい顔をする。
「それに何なの、どうして黒木さんがあの子のそばにいるの?」
「黒木は桃花に気があるのかもしれないな?」
内山はニヤニヤする。
「まさか? 桃花が好きとか、女の趣味が悪すぎ」
綾音は不機嫌そうに黙った。
綾音は、この前の告白したことを思い出す。
「黒木さん、あなたが好きなの。ずっと好きだった」
「そういう気はない。ごめん」
あっさりと黒木に振られた。
あり得ないと思った。このわたしがフラれるなんて……。
「わたしとなら、きっと釣り合うわ」
「そういう目で、綾音のことを見たことはないから。ごめん」
綾音は目に涙を溜めて、黒木を見た。
「わかった。でも、これからも会いに来ていい?」
「え?」
「あきらめるまで、時間がかかるから」
「ああ」
黒木はしかたなさそうに頷いた。
綾音はあきらめきれなかった。一か月に一回。しつこくならない程度と決めて、黒木のいる大学病院に差し入れにいき、お茶を一緒に飲む。
そのうち、わたしの存在を受け入れてくれるだろう。
「もういいだろう? こういうことはやめてくれ」
黒木に何度か言われたが、黒木は幼なじみのわたしを冷たくあしらうことはなかった。
きっともう少しで黒木さんはわたしのことを好きになるはず。だって、わたし、アイドルだもの。わたしにぴったりなのは黒木さんだけ。
ああ、黒木さんに会いたい。
桃花が内山マネージャーの車にぶつかった日。黒木を呼び出さなければよかった。そうすれば黒木と桃花は出会わなかった。桃花が居候するマンションに黒木が通うこともなかった。
どうしてこうなってしまったんだろう。
綾音は奥歯をかみしめる。
黒木は桃花のことが好きなんだろうか。優しいから、事故に居合わせたことを気にして様子を見に行っているだけだろうか。
綾音は歯ぎしりした。
ああ、腹が立つ。桃花なんていなければいい。邪魔ばかりして。この世から消えてなくなってほしい。
「綾音、怖い顔をしているよ」
内山がそっと綾音の腕を撫でた。
「そう?」
綾音は粟立つ腕をそっと隠し、薄暗い笑顔を浮かべた。
「メタモルフォーゼは邪魔だな。綾音の華麗なるリデビューを潰しやがった。業界からいられなくしてやろうか。そうすればずっと一緒にいられる?」
内山が口角を上げる。
「こんなに君のことを理解しているのに、どうして僕を雇わないんだい? なんだったら僕が事務所を経営してもいいんだよ?」
内山が笑った。
気持ち悪い。あんたのそういうところは大嫌い。いい機会だから、わたしと離れてほしい。
綾音はそんな気持ちをおくびにも出さずうっすらと営業スマイルを浮かべた。
「タレントとして稼げないかもしれないのに、敏腕な内山マネージャーをつれていくわけにはいかないわ」
「君は本当に優しいね。僕のことを考えてくれたんだね。大好きだよ」
内山は綾音を抱き寄せようとするが、綾音はかわして、すっと右手を出す。
「ええ。ありがとう。これからも応援してね」
綾音は内山の手を数秒間だけ握った。
内山は頬を染めた。
「あら? この絆創膏は?」
内山はサッと右手をひっこめる。内山の右手の甲に二枚ほど絆創膏が貼ってあった。
「どこかでひっかいたらしい」
「内山マネージャーでもそういうことがあるのね」
綾音は口角を上げて、内山の手を見つめた。
八
「きょうは晴れていなくて残念ですね」
六本木のタワーマンションにも雨は降る。桃花が窓の外を覗くと、シトシトと小雨が降り続いていた。
「雨が止んだら、散歩に行きたいわ」
「いいですね。天気予報ではもう少ししたら止むみたいです」
スマホ天気予報を茉莉に見せる。
「大学は?」
「きょうは休みなんですよ。それなのに雨」
桃花はわざと頬を膨らませた。
「植物にとっては恵みの雨だけど、桃花さんにとっては最悪なのね」
「ショッピングでも行こうと思っていたのに」
「行けばいいじゃない?」
「雨の日に荷物が多いのっていやじゃないですか。お気に入りの靴もよごれちゃうし」
「たくさん買って、靴が汚れるのが前提なのね」
茉莉が笑った。
「ねえ、茉莉さん。わたし、これからどうしようかな」
「ええ? 人生相談?」
「まあ、そういう類です。独立しようと考えていましたが、大学のみんなが就職活動の準備をしているのを見ると、これでいいのかなって不安になっちゃって」
「わたしに答えられるかしら」
茉莉がほほ笑んだ。
「茉莉さん、わたしに事務所を設立することってできるとおもいますか?」
「そうねえ。どうかしら」
茉莉は顎に手をやる。
「綾音先輩が独立したって聞いて、わたしも自分で事務所を構えて仕事したいって思ったんです。でも、もし動画クリエイターを続けないなら、来年は大学三年だから、就活をするの準備をしないといけないですし」
「就活って、どこに就職するつもりなの? 何がしたいの?」
「えええ? それはこれから考えるつもりですけれど」
桃花は全く考えたことがなかった。
会社に就職して、やりたいことはない。そもそも受からないと思うので、受かったところに就職すればいいと思っていた。
「いい? 桃花さん。働くっていうのは、自分の時間を使うのよ? どんな仕事でもいいってわけないじゃないわよね。やりたくない仕事をするってけっこうつらいわよ? もちろん、お金をもらうためだからって割り切れる人もいる。でも、桃花さんはそういうタイプじゃないわよね?」
たしかにそのとおりである。でも、お金がないと生活ができないんだから、その考えは現実的ではないんじゃないか。それが大人になるってことだと思っていた。
寝ないで編集したり、カメラに向かってレポートするのは、きつい時もあるけれど楽しい。就職すると、動画を配信することもなくなるだろう。副業禁止のところもあるし、SNSを推奨しない職場もある。
本当にわたしは会社という組織で働けるのだろうか。また動画をつくりたくなったりするんじゃないか。
「桃花さんには動画クリエイターの仕事があるし、やっていける環境もある。だから、そのまま突っ走ればいいんじゃない?」
「でも、ずっと動画クリエイターとしてやっていけるか、自信がないんです」
桃花の言葉に茉莉が苦笑する。
「誰だって、ずっと同じところで働けるかどうか、不安だわ。わたしだって、ずっと株や暗号資産の取引で暮らしていけるなんて自信はないもの」
「茉莉さんも? でも、自分で事務所を設立するって、大変そうだし。将来を動画クリエイターに決めてしまっていいのか不安です」
「大変かもしれないけど、大学生で会社を興す人だっているじゃない? やる気になったらできるわよ。いざとなったら、動画を作る会社に就職すればいいじゃない」
「そうですかねえ」
桃花は首をひねった。
「野口と離婚してね、就職しようと思ったとき、赤ちゃんがいたの。だから仕事がなかなか決まらなくってねえ。世の中は厳しかったわ」
「そうなんですね」
桃花は小さく頷く。
「経営者側にたてば、小さな赤ちゃんがいる女性を雇う不安な気持ちもわかる。でも、わたしも生きていかないといけない。赤ちゃんも育てなくてはいけないし。でも、自分に向かない仕事はできないと思ったの」
桃花は顔をあげた。
「慰謝料はもらっていたので、最初は食いつぶすしかなかったわ。たまたま暗号資産がもてはやされる頃だったから、やってみよう。えいって慰謝料を投資したのよね。それがなかったら、今ごろどうなっていたかわからないわね」
茉莉は空を見上げる。
「よく投資できましたね」
「もうね、やぶれかぶれ。ほんとイチかバチかよ? おすすめはしないわ。でも、それをやれる環境があったのよ」
茉莉がほほ笑んだ。
「桃花さん。動画を作る仕事って、手に職と同じだと思うのよ。それにね、人生は何とかなるわ。わたしだって何とかなったんだもの。やりたいことがあるなら、やってみたら?」
茉莉は桃花を励ます。
「とりあえず、住むところはありますからね。やるだけやってみてもいいかもしれません」
「そうよ。あら、雨が止んだみたい。暇なら一緒に散歩に行く? 植物観察でも行きましょうか」
茉莉が桃花を誘う。
「大樹がね、あ、わたしの息子ね。小さいとき、あれは? これは? って何でも聞いてくるので、ポケット植物図鑑を片手に公園にいったのよ。大樹の聞きたがりは大変だったの。なるべく正確に教えてあげたくってね」
茉莉は思い出し笑いをする。
「だから、茉莉さんは植物に詳しいんですね」
桃花は茉莉と一緒に外へ出た。
湿気が肌に張り付いてべとつく。雲の合間から太陽が見えてきた。マンションをでて数分のところにある公園につく。雨に洗われた若葉がまぶしい。
「これこれ。きょうはタチアオイが見たかったの」
「タチアオイですか?」
茉莉は薄いピンク色のグラデーションの花を指さした。高さは一五〇センチくらいあるだろうか。
一本の茎にたくさんのつぼみがついている。
「梅雨の時期に咲くからツユアオイともいわれてるわ」
「よく道路際に咲いていたような気もします」
「きっと誰かが育てていたのね」
茉莉は花を覗き込む。
「フリルのような花びらが可愛らしいでしょ? さて、問題です。この真ん中のは、おしべでしょうか、めしべでしょうか?」
「ええ? めしべ?」
桃花は首を傾げた。
「残念。タチアオイは、最初はおしべ、次は時間差でめしべが出てくるの。めしべは真ん中から糸みたいなものよ。同じ花の中で受粉しないようになっているんですって」
「へえ。変わってますね」
「殺された女装の被害者は、桃花さんのようになりたかったのかもね」
「そうなんですかねえ」
桃花はそれより桃花のパジャマを握っていたのかが気になっていた。下着泥棒ならぬパジャマ泥棒だったのではないか。でも、よくよく考えれば、普通、狙うとしたらパジャマより下着の方がじゃないんだろうか。なぜパジャマなんだろう。
「その後、桃花さんのストーカーはどう?」
「しつこくインターネットでつぶやいている人はいませんね」
「きっと、女装の方だったのよ。ストーカーは」
茉莉がうんうんと頷く。
「ゴンザレスさんがストーカーですか?」
「そうそう。ゴンザレスさん。最初は桃花さんの普通のファンだったけれど、だんだん桃花さんのように自分もふるまってみたかったのかもね」
「真似ても、自分は自分なのに」
桃花はつぶやく。
「憧れの人を真似ると、自分もできる気がするじゃない」
「まあ、そういうこともありますけど。でも、自分が変わろうとしないと、何も変わりませんよね」
「桃花さんならこうするって考えて、勇気をもらっていたんだと思うわ。背中を押してもらえれば、変わるきっかけになるというか」
桃花はそう言われて頷いた。
「証拠はそのうち野口警部がもってくるわ。ネットのストーカーに関しては、プロバイダーに個人情報の開示請求して調べればわかることでしょ」
茉莉はにこりと笑顔になった。
「やっぱり、わたし、自分の事務所を作ろうと思います」
「そう」