光が自首をした後、想像していた通り颯太の周囲はとても騒がしくなった。警察や報道陣の訪問、知り合いからの電話に、鳴り止まないメッセージの通知。
 特に高校まで同じ学校に通っていた友人たちはショックを受けていて、メッセージアプリのグループトークは悲痛な叫びで溢れかえっていた。

 どうして光が殺人なんて、と信じられない気持ちを抱く人が多く、それに関しては颯太も全面的に同意見だ。
 誰かを庇っているのではないか、という意見も出ていたのを颯太は目にした。同じトークメンバーに颯太がいるので、さすがに名指しはされなかったが、もしかしたら疑われているのは颯太かもしれない。

 友人からのグループメッセージも、かかってくる電話も、颯太は全て無視をした。一つ一つに反応していたらキリがないからだ。
 しかし心配してくれているのは事実だと思うので、プロフィールの一言コメントに『返信できずすみません。僕は大丈夫です。』とだけ書いておいた。

 アルバイト先には光と共通の知り合いがいないので、颯太はバイトには気兼ねなく行けた。今話題になっている篠塚夫妻殺害事件の息子が、『笹木颯太』だとはバイト先の誰も知らない。女子大生殺人事件の犯人が、颯太と同じ大学だということには気づいても、まさか颯太と小学生の頃からの付き合いだなんて思いもしないだろう。
 世間で話題になっている事件の関係者だとバレていないおかげで、アルバイト中は颯太にとって唯一心を休めることができる時間になっていた。もちろん仕事に集中しているせいもあるかもしれないが、余計な不安を抱かずに済んだのだ。

 大学の学生課と相談し、颯太は少しの間休学することにした。大学にもかなりマスコミが押しかけているようで、颯太以外にも休学を申し出る学生が何人かいたらしい。
 もちろん学生課の職員が、学生の交友関係を全て把握しているはずもない。それでもさすがに颯太が事件の関係者であることだけは知られているようで、すんなり休学は受け入れられた。
 大学に設置されているカウンセリングルームも、今までにないほどの人数が訪れていると職員はぼやいていた。
 高等部のときの同級生たちと同じように、光と関わりのあった学生たちは、みなそれぞれショックを受けているのだろう。性別学年問わず交友関係が広く、人たらしな光のことだ。きっと今回の事件に衝撃を受けた人は多いに違いない。


 大学を休んでいる期間、颯太はバイトに専念することにした。お金に困っているわけではないが、あって困るものでもない。
 他に変わったことといえば、颯太は勇気を出して、病院に通い始めた。診療科は、もちろん精神科である。

 解離性同一性障害の診断と治療の実績がある病院は少なく、颯太は何本も電話をかけることになった。
 診療可能と言われた病院は全て口コミなどを集め、細かく評判を調べた。
 病院選びの最終的な決め手になったのは、PTSDに苦しんでいた患者のレビューだった。過去のトラウマに苦しんでいたが、カウンセリングを重ね、過去と向き合ううちに、フラッシュバックの回数が減ってきた、という内容だ。その患者もまだ寛解したわけではないらしい。それでも颯太の希望になった。
 颯太がニセくんと入れ替わってしまうのは、『恐怖』が原因だ。そして『恐怖』を辿っていくと、両親の遺体に縋り付いて泣いている、あの日に戻るのだ。
 颯太も過去の事件に囚われている。解離性同一性障害を治すためには、きっと颯太が両親の事件を受け入れ、恐怖を乗り越えなければならない。

 医者もカウンセラーも、とてもいい人だった。
 颯太の話を全て信じているのかは分からない。もしかしたら嘘を吐いていると思われるかもしれない。しかし、光とニセくんの会話を記録した映像や、光から聞いた情報をできる限り正確に伝えた。
 ニセくんと会話がしてみたい、入れ替われますか、と訊ねられ、颯太はすっかり困ってしまった。
 自分の意思で入れ替わったことは一度もない。恐怖を感じたり血液を見ると、ニセくんになってしまうことが多いらしい、と颯太は説明する。しばらく会話をした後、記憶がすっぽり抜けた。後から聞いた話では、ニセくんが自ら出てきてくれたらしい。
 あなたのことをひどく心配していましたよ、と伝えられ、颯太は胸の奥が熱くなった。

 颯太の一番の目的は、解離性同一性障害の診断。光の言い分を裏付ける第三者による証明が欲しかったのだ。
 しかし、もちろん治療も望んでいる。それはニセくんの存在を消したい、という意味でもある。
 ニセくんにも颯太の気持ちは伝わっているはずだ。主人格である颯太が困っていることも、ニセくんを消そうとしていることも。
 それでもニセくんは、颯太の心配をしてくれているという。

 どうして今まで気づかなかったのだろう。
 颯太の味方は、祖父母や光だけではなかった。ずっと颯太の中にいた。颯太のことを、光とは違う方法で守り続けてくれていたのに。

 鏡の中の自分を見つめ、颯太は小さく呟く。

「ずっと僕を守ってくれてありがとう。今まで気づかなくてごめん」

 はたから見れば、鏡に向かって話しかける不審者だろう。しかし颯太は構わず続けた。

「僕、強くなるよ。辛いことも苦しいことも一人で乗り越えられるように。ニセくんがもう大丈夫だなって安心できるくらいに……。だからそれまでは、まだもう少し見守っててね」

 鏡に映る姿は、いつもと変わらない。颯太にそっくりの鏡像。

 先ほどの言葉はニセくんにちゃんと届いたのか。ニセくんと会話をする術がないので、颯太には分からない。
 しかし颯太はなぜかニセくんが笑っていると思った。颯太の言葉を聞き、「仕方ないからもう少しだけ見守っててやるよ」と呆れたような、どこか愛おしげな声で言った気がした。

「…………都合のいい妄想かな」

 今度こそ本当に独り言をこぼし、颯太は鏡に背を向けた。


 光の起こした事件は大きく分けて二つ。
 颯太の両親を殺害し、強盗の仕業に見せかけた事件。
 それから倉橋優姫を殺し、自殺に偽装した事件だ。

 二つの事件のうち、颯太の両親の事件については、罪には問われないだろう、とテレビのコメンテーターが話していた。
 犯行当時の光が十四歳未満だったこと。これが重要なポイントになるらしい。
 刑法第四十一条によると、『十四歳に満たない者の行為は、罰しない』そうだ。
 十四歳未満では善悪の区別が曖昧であり、責任能力もないからである。

 番組を眺めながら、颯太は考える。もしも事件当時に光の罪が暴かれていても、逮捕はされなかったということだ。しかし光は自由に動くことができず、颯太のそばにいることも叶わなかっただろう。
 児童相談所での一時保護。家庭裁判所への送致。少年鑑別所への収容の必要性の検討。少年審判の有無、そして保護処分の決定。
 十四歳未満は触法少年と呼ばれ、少年の保護と健全な育成のため、特に配慮が必要とされるらしい。

 そしてもう一つの事件。
 倉橋優姫を殺害したときには、光はすでに二十歳の誕生日を迎えていた。
 こちらは当然刑事事件として扱われる。正当防衛や過失ではなく、殺意を持った行為であるため、おそらく起訴されるだろう。裁判でどんな刑が下されるのかはまだ分からない。自首をしているので減刑される可能性もあるが、罪には問われないとはいえ過去にも一度人を殺してしまっている。そのことが裁判官の心象にどう影響を与えるか、颯太は不安で堪らなかった。

 颯太が必死にアルバイトに励み、気を逸らそうとしていたのは、光にどんな刑が下るのか、考えるのが怖かったからだ。
 死刑。その単語が頭をよぎるたびに、恐怖に飲み込まれそうになるのを必死で押さえつけた。
 ニセくんに入れ替わらないようにするには、颯太が恐怖をコントロールしていかなければならない。そして以前心の支えにしていた、ニセくんに変わったとしても光に呼び戻してもらえば大丈夫、というおまじないも、もう効かない。
 光は隣にいない。颯太が一人でなんとかしなくてはいけないのだ。今この瞬間も、これから先もずっと。


 颯太は意識的に深く呼吸をして、気持ちの乱れを整えた。
 テレビ画面の中では、光の父親である佐久間徹元大臣について触れられている。

 佐久間徹は事件発覚直後に、大臣と国会議員を辞職した。光の事件がひどく騒がれたのは、大臣の息子だったから、という理由も大きいかもしれない。

 記者会見当時の映像が流れ始める。そんなに古い記憶でもないのに、颯太はやけに懐かしく思えた。

 先日颯太の元を訪ねてきた男は、この会見のときよりもさらに老け込んでいたように思う。
 祖父母の家に一時避難していたところへ、佐久間徹はやって来た。
 仕事のできる大人の男性が、プライドをかなぐり捨て、畳に頭を擦り付け土下座したのだ。

「私の息子が取り返しのつかないことをしまして、誠に申し訳ございません。笹木さんにとってかけがえのないご両親の命も、息子は奪ってしまいました……。許していただけるとは思っておりません。それでもどうか、償いをさせていただけないでしょうか」

 祖父は冷たい口調で「そんなものはいりませんから帰ってください」と佐久間徹を突き放した。
 祖母は泣いていた。颯太にとってはいい親ではなかったけれど、祖母にとっては大切な一人娘だったのだ。孫を心配する気持ちは本物だが、子の死を思い出し悲しむ気持ちも嘘ではない。

 土下座をする男の姿が颯太の視界に入らないよう、祖父が割って入ろうとする。颯太は「大丈夫だよ、ありがとうおじいちゃん」と祖父を止めた。

「…………僕は、あなたとたった一度だけ会ったことがあります。覚えていますか」

 颯太からの突然の問いかけに、光の父はおそるおそる顔を上げた。それから「仕事中でしょうか」と見当違いなことを言うので、颯太ははっきりと「違います」と答えた。

「たくさん遊びに行ったのに、たったの一度だけ。光はずっとひとりぼっちでした」

 颯太はあえて冷たい言葉を選び、淡々とした口調で問い詰めた。
 佐久間徹は眉を寄せたが、言い返してはこない。颯太は被害者の息子で、佐久間徹は犯人の父親。どう考えても圧倒的不利な立場にいるのは、佐久間徹の方だからだ。

 颯太は、佐久間徹のことが好きではない。光が父を嫌っていたから、というのも理由の一つに含まれるが、一番の理由は初めて会ったときの印象が最悪だったからだ。

 光の家はとても裕福だった。シングルファザーとはいえ、親は国会議員。お手伝いさんを呼び、家事は全て完璧に仕上げられている。客対応も問題なく、そもそも光自身も実年齢よりずっと大人びていた。
 しかし佐久間徹はほとんど家に帰ってこないような生活をしていたようだった。何度も光の家に遊びに行ったのに、颯太が光の父に会ったのはただの一度きり。そのときも何やら書類を取りにきたようで、慌ただしく出て行った。
 「おかえりなさい、お父さん」と話しかける光の言葉を無視し、光の存在には目をやることもなく。
 あのときの光の悲しそうな顔を、颯太は今でも覚えている。

 お父さんとケンカでもしてるの? と訊いた颯太に、光は眉を下げて笑ってみせた。いつものことだよ、と。
 お父さんはちゃんと俺の生活に必要なお金は全部出してくれるし、家政婦さんも雇ってくれてる。だけど俺に全然興味がないから……もしかしたら俺の名前も覚えてないかもね、と寂しげに呟いたのだ。

 今なら分かる。光は、寂しかったのだ。
 父が自分に無関心なことが寂しくて辛くて、自分に憧れてくれる颯太に、依存した。自分の存在に意味を与えてくれたように、錯覚したのかもしれない。
 光はたぶん、ただ無償の愛が欲しかっただけなのに。この父親は金だけ与えて保護者面をしていた。親が子どもを育てる上で欠かしてはいけない、一番大事なもの。愛情を置き去りにして。

 颯太や優姫の家に謝りにいくのは、もちろん必要なことだろう。しかし、被害者の息子としてではなく、光の友人の立場として颯太は意見を言いたい。

「光にも謝ってください。光の名前を呼んで、ちゃんと話を聞いてあげてください。あなたが光の話を聞いていて、相談にも乗っていたなら、きっと光は殺しなんてしなかった。虐待されている子どもを救い出す方法なんて、あなたならいくらでも思いついたでしょ」

 光の犯した罪は、光だけのものではない。
 助けてと頼ったのに、全てを光に押し付け、自分だけ逃げてしまった颯太も。
 相談できる環境を作っていなかった佐久間徹も。
 悔い、改めなければならないのだ。

 佐久間徹は深く頭を下げ、帰って行った。また来ます、という言葉を残して。