同窓会は参加も出入りも自由なフリースタイルの会だった。
 最初に料金を支払った後は、好きに飲食しながら歩き回っていいらしい。立食形式になっていて、颯太と光が会場に辿り着いたときにはすでに会場は賑わっていた。

 中等部卒業以来、もしくは高等部卒業後。会っていない期間は人によってそれぞれ違うが、ほとんどの級友は印象が変わっていた。

 元クラスメイトとはいえ、一年以上顔を合わせていないメンバー。しかも中学や高校のときに比べ、みんな別人のように垢抜けている。うまく話ができるだろうか、と不安になる颯太にも、明るく声をかけてくれた男がいた。
 当時仲のよかった友人だが、見た目の印象が変わっていたため、颯太は誰だかすぐには分からなかった。しかし近況を話すうちに昔に戻ったような感覚になり、二人の会話は弾んでいく。

「颯太、今彼女とかいるの?」
「んー、今はいないかな」

 生まれてこの方、颯太には恋人がいたことがない。しかし直前まで友人が楽しく女遊びをしている話を聞いていたため、それを言うのはなんだか恥ずかしくて、颯太は曖昧に笑って濁した。
 友人は特に疑問に思わなかったようで、「光はどうなの?」と訊ねてきた。

「今、彼女いるの?」
「光に? いないと思うよ」

 颯太の答えを聞き、友人は頭を抱えた。なんであいつモテるくせに彼女いないんだよ……、と呟いているのを聞き、颯太は友人の考えを察した。
 きっとこの同窓会で仲を深めたい相手がいるのだろう。しかし、全員とまでは言わないが、光はほとんどの女子の憧れの存在だった。その光がフリーなのだと知れば、女子が光に群がるのも時間の問題だろう。

「くっそー! 絶対光の総取りじゃん」
「ならないならない。お目当てが誰かは知らないけど、光はたぶん誰にも応えないよ」
「マジ!? それならワンチャンあるか!?」

 友人が女子の集まりの方に視線を移す。その視線の先にいるのが、西野花梨だと気づき、颯太は苦笑をこぼした。

 お近づきになりたいのが花梨だとしたら、残念ながら望みは薄いだろう。
 どんな経緯だったのか詳しくは聞いていないし、今の花梨に恋人がいるかどうか、もちろん颯太が知るはずもない。
 しかし、花梨は光のことを脅してまで恋人になろうとしたらしい。今は付き合っていなかったとしても、花梨が光に対し、好意を抱いていたことは間違いないのだ。

 颯太はドリンクを飲みながら、花梨を遠目で眺める。他の女子のように髪を染め、メイクもしているので少し印象は変わっているが、すぐに西野花梨だと分かった。それは颯太の初恋の人だから、というわけではなく、きっと花梨が昔から変わらず飛び抜けて美人だからだ。

 ふいに花梨が振り向いて、こちらを見た。そして離れたところから、花梨は颯太たちに向けて笑顔を見せた。またすぐに他の友人たちとの会話に戻ってしまったが、二人の心を揺さぶるにはたったそれだけの仕草で十分だった。

「花梨ちゃんかわいいなー!」
「相変わらず華があるね、西野さん」
「そりゃあそうだろ! 芸能人だぞ!?」

 花梨が芸能界デビューした、というのは颯太の知らない話だった。颯太が詳細を訊ねる前に、友人は得意気に話し始める。
 高校三年のときに花梨はスカウトされ、芸能事務所に所属。レッスンなどを続け、ついに今年の春に雑誌の専属モデルとして採用されたらしい。単独ではないが先輩のモデルと共にファッション誌の表紙も飾ったそうだ。

「全然知らなかった。光、教えてくれればよかったのに」

 颯太がぼやいたとき、会場内に派手な音楽が流れ始め、突然暗転する。
 スポットライトがぐるぐると会場を照らしたかと思うと、眩しいライトが親友を照らして止まった。スポットライトに照らされた光は、目を丸くして首を傾げている。

『さあ皆さん、お待たせしました! 同窓会の一週間ほど前に、大ニュースがありましたね! そう、みんな大好き佐久間光くんのお父様、佐久間徹議員がなんと! 大臣に任命されましたー!』

 おめでとうございます、というアナウンスと共に、周りからも祝福の声が上がる。

 光の父親の佐久間徹が、先日内閣の一員になったことは事実だ。もちろん颯太もそのことは知っていたが、光の前では一度もその話はしていない。
 父親のことを嫌っている光には、その話題は嫌がらせに等しい、と分かっていたからだ。
 しかし、光が父親の不和を知っている人は、颯太の他にいない。どんなに嫌っていても、光は自分の父親の不利益になるようなことは絶対に口にしないからだ。国民からの評価に常に晒されている父親の立場を、光は幼い頃から正確に理解していた。

 話の中心に立たされている光は、きっと何も聞かされていなかったのだろう。
 一瞬困惑した表情を浮かべたものの、すぐに空気を読み、作り笑顔を浮かべる。幹事から渡されたマイクを手に取り、「どうもどうもー、俺のために今日はありがとう!」などと軽口まで叩いていた。

 光はいつもそうだ。
 自分の本心は押し殺して、周りに合わせて笑顔を作る。颯太の前でも滅多に弱音は吐いてくれないし、怒ったり泣いたりすることもほとんどない。だから颯太は心配になってしまう。光が今この瞬間、どれだけ我慢をしているのか、分からないから。
 親友のために、颯太が今できることはないか、と考える。

 颯太は早足で幹事の元へ向かう。
 お祝いとして、ホールケーキが運ばれてきた。ケーキの中央には、大臣就任おめでとう! と書かれたチョコプレートが乗っていた。
 颯太はケーキを見て、一瞬で考えを巡らせる。そして考えをまとめ、幹事に声をかける。

「僕から光にお祝いの言葉、いいかな?」
「篠塚くんが? もちろん大歓迎だよ、篠塚くんと光、仲いいもんな」

 元クラスメイトの幹事は、颯太のことを旧姓で呼んだ。家に強盗が入り、両親を亡くした事件をきっかけに颯太の苗字が変わったことも、この男は忘れているのかもしれない。

『ここで飛び込みのお祝いの言葉でーす。光の親友、篠塚颯太くんから! はい、マイクどうぞ!』

 会場が少しざわめいたのは、颯太が人前に立つタイプではないからだろうか。それとも、今は『笹木』姓であるはずの颯太が、初等部の頃の苗字で呼ばれたせいかもしれない。
 しかし、今はそんなことはどうでもよかった。ライトを当てられ眩しさに目を細めながら、颯太はマイク越しに話し始める。

『えーっと、光、ではなく僕からは別の人にお祝いの言葉を贈りたいと思います』
『あれ? 颯太くんおかしくない?』

 いつも大学のキャンパス内で交わしているような会話を、マイク越しに交わすのはなんだか不思議な気分だった。
 颯太の心臓はうるさいくらいに騒いでいる。いたずらを仕掛けるときのような、わくわくする気持ちと、バレたらどうしよう、という少しの緊張。
 汗が滲む手でマイクを握り直し、颯太は深呼吸する。そして先ほど用意したばかりの言葉を口にした。

『西野花梨さん。モデルデビュー、おめでとうございます! それから……僕は西野さんにずっと憧れてました。付き合ってください……!』

 会場がどよめいた。
 颯太の勝手なパフォーマンスを止めようとしていた幹事も、ポカンとした表情を浮かべた後、分かりやすく態度を一変させた。

『おーっとこれは面白くなってきたー! 篠塚くんの公開告白! しかも相手は我らがクラスのマドンナ、西野花梨ー!!』

 スポットライトが光から外れ、少し彷徨った後、花梨を照らし始める。颯太を照らすライトと、花梨を照らすライト。
 突然話題の渦中に放り込まれた花梨だが、照れ笑いをこぼすだけで、逃げたりはしない。少し動揺はしているようだが、それでも花梨は迷わず回ってきたマイクを受け取った。さすが芸能人。肝が据わっている。

『颯太くん、ありがとう。お祝いしてもらえて嬉しい。でも、付き合うのは……ごめんなさい!』
『ふ、フラれたー!! 篠塚くん元気出して! 相手が西野花梨じゃしょうがないって! ほら、みんなでケーキ食べよう!』

 慌てた口調で幹事が言葉を紡ぐと、暗転していた会場が明るくなった。
 続々とケーキの元へ人が集まる中、颯太はその場で一人取り残されていた。大きなため息がこぼれたのは、作戦がうまくいった安堵のせいかもしれない。

 しばらくして、両手にケーキの皿を持った光が颯太の元へやってきた。光が颯太に渡したケーキの上には、チョコプレートが乗っている。

「プレート、いらないなら僕が食べちゃうよ」
「おー。俺には必要ないから、颯太が食っちゃって」
「ん、分かった」

 大臣就任おめでとう! と書かれたチョコプレートは、大臣とは何の関係もない颯太の口に噛み砕かれた。
 甘すぎるチョコを咀嚼していると、隣に立つ光が、颯太にだけ聞こえる静かな声で呟く。

「さっき、ありがとな」
「……なにが?」

 もちろん光の言いたいことは分かっているけれど、颯太はわざと分からないふりをした。
 光はくしゃりと顔を歪めて笑う。笑っているはずなのに、光が今にも泣き出してしまうのではないか、と。なぜか颯太はそんなことを考えた。

 同窓会が終わった後、颯太は二次会に向かおうとする花梨を呼び止めた。

「西野さん! ごめん、ちょっといいかな」

 公開告白をした颯太が、告白相手の花梨に声をかけたものだから、当然周りの人たちは囃し立てる。顔が熱くなって逃げ出したい気持ちになるけれど、颯太はなんとか堪えて花梨と少し離れた場所へ移動した。

「どうしたの、颯太くん」
「えっと……さっきはごめん。お祝いしたい気持ちはもちろん本当だったんだけど、なんか晒し者みたいにしちゃって……」
「ううん、全然。人前に立つのは慣れてるし、大丈夫だよ」

 花梨は明るい笑顔で答える。その表情は大人っぽくなっているものの、颯太の記憶の中の笑顔と重なる。

 光の話を疑っているわけではないし、颯太の脳内で初恋フィルターがかかっているのかもしれない。
 それでも、花梨が光に交際を強要する様子は、颯太にはうまく想像ができなかった。花梨は裏表のなさそうな笑顔を浮かべ、言葉を続ける。

「でもちょっと意外だったな。颯太くん、確かに昔は私のこと好きなのかなって思ったこともあったけど、今はそんな風に見えないから」

 図星を突かれて、颯太は思わず固まる。花梨は「当たった?」と顔を綻ばせた。

「う…………ごめん……」
「ううん、いいよ。きっと何か理由があったんでしょ? 颯太くん、ふざけて人に告白したりするタイプじゃないもんね」

 花梨の優しい言葉に、颯太の胸の鼓動が少しだけ速くなる。
 当時叶うことのなかった片想いも、花梨が颯太の性格を理解してくれていただけで、少し報われた気がした。

「……光が困ってるみたいだったから、助けなきゃと思って。西野さんが芸能界デビューしたって、直前に話を聞いてたから」
「あはは、なるほどね。相変わらず光が颯太くんにべったりな理由、少し分かった気がする」

 ころころと笑いながらも、その言葉にどこか棘が含まれている気がして、颯太は首を傾げる。花梨は続けて不思議な言葉を口にした。

「ほら、光は昔から颯太くんがいないとダメだから」

 昔から颯太と光は友達だった。
 颯太は周りから「光くんの友達だよね」と言われることがあるが、光が「颯太の友達だよね」と言われているところは想像できない。
 この二つは同じようでいて全く違う意味を持つ言葉だ。
 いつだって光が主役で、颯太はその友達、おまけの付属品なのだ。周囲の人にどう思われようと、颯太は気にしていない。だって光本人は、颯太のことを対等に扱ってくれるのだから。
 それでも周りの人からの評価は、きっと颯太の想像通りだ。光と、光にくっついているおまけの颯太。ほとんどの人がそういう認識でいるに違いない。

「光は僕がいなくても問題なく生きていけると思うよ。友達も多いし、大体のことは何でもできちゃうし」

 やんわりと花梨の言葉を否定するが、花梨は何も言わずに首を横に振った。
 どうやら花梨の中で、光は随分頼りない男らしい。無理矢理だったとはいえ元恋人同士。颯太には見せないような弱味も、花梨の前では見せていたのかもしれない。
 長い付き合いの颯太の前でさえ、強がりな光は本音を隠してしまうことが多い。そんな光が、弱音を吐き出せる相手がいるのは喜ぶべきことなはずなのに、颯太は少しだけ寂しい気持ちになった。

「そーうーたー!」

 どこからか光の声が聞こえてきた。二次会に来いと熱心に誘われていたが、どうやら話が終わったらしい。
 花梨がどこか慌てたような様子で、小さなバッグからスマートフォンを取り出した。

「颯太くん。連絡先、交換しよう」
「えっ、いいの? マネージャーさんとかに怒られない?」
「うん、大丈夫。でも光には内緒ね」

 光に秘密で話したいことがあるから、と花梨が言うので、颯太は頷いた。花梨の話したいことが何かは想像できなかったが、颯太も聞きたいことがあったからだ。

 花梨に付き合わされていた、と光は言っていた。光は花梨のことを嫌っているようには見えない。恋愛として好きになれない、ということはもちろんあるだろう。
 でも、無理矢理交際をさせられていたのなら嫌いになってもおかしくないはずだ。
 それに、どうして光は花梨と付き合うことを選んだのか。いや、選ばざるを得なかったのか。『何』が光にそんな選択をさせたのか。
 親友の語らない真実が、颯太は気になっていたのだ。

 花梨とメッセージアプリの連絡先を交換して、颯太はスマートフォンをポケットにしまう。
 ちょうどそのとき、光が颯太の姿を見つけたようで、自分に群がるクラスメイトをあしらいながら颯太の元へやって来た。

「颯太、帰ろうぜ」
「あれ、二次会行かないの?」
「だって颯太疲れたっしょ? 俺も疲れたし」

 二次会には行かない、という光の言葉に、残念そうな声が周囲で上がる。颯太のそばにいた花梨も、「なーんだ、光は二次会行かないのか」とつまらなそうに呟いた。

「あれ、花梨じゃん。なに、颯太と話してたの?」
「えっひどい、さっきからここにいたんですけど。本当に光は颯太くんしか見えてないんだから」
「はいはい、どうせ俺は視野が狭いですよ」
「ねえ光、二次会行かないなら後でご飯行こうよ。最近一緒に出かけてないじゃん」
「めんどくさ…………」

 社交的で、誰とでも仲良くできる光が、見たことのないほど顔を歪めている。言葉通り面倒だと思っているようで、かっこよくセットされた髪をくしゃりと崩し、大きなため息をこぼした。
 それでも律儀にスマートフォンで自分の予定を確認するのは、光の付き合いがいいからか。それとも、以前花梨に脅されていたことと、何か関係があるのだろうか。

「来週の日曜の午前中。もしくはその前の水曜日の夜、それ以外は無理な」
「じゃあ日曜日ね、頑張って午後も空けておいて」
「午後は無理って言ってんじゃん!」

 光と花梨のやり取りはとても親しげで、無理に付き合っていたなんて想像もできないほど自然だった。
 脅されていたにしては、光の態度に怯えるような素振りは見られない。だからといって光が嘘を吐いているとも思えず、颯太は心の中で首を傾げる。

「光も颯太くんも、またね」
「おー、じゃあな」
「うん、今日はありがとう、西野さん。またね」

 花梨や他の級友たちと挨拶を交わしながら、颯太と光は同窓会会場を後にした。

 帰り道。
 一歩先を歩く光が、振り返って颯太に訊ねた。

「花梨に何か言われた?」
「ううん、何も。晒し者にしちゃってごめんって僕が謝ってただけだから」
「…………ふーん」

 あまり納得していないような表情で、光が適当な相槌を打つ。自分が脅されていたからか、花梨のことをかなり警戒しているようだった。
 連絡先を交換したことは話さない方がいいかもな、と考えながら、颯太は言葉を続ける。

「光こそ大丈夫? 西野さんとご飯に行く約束してたけど……」
「ぶっちゃけ面倒くさい」
「いや、そうじゃなくて。……付き合ってないにしても、まだ断りづらかったりするのかなって」

 光が自ら話さないということは、きっと深く聞かないでほしいということだ。
 そう思って追求せずにいたが、面倒だと言いながらも花梨の誘いを断らない光を見て、颯太はどうしても心配になってしまった。
 ささいな表情の変化も見逃さないよう、颯太が光をまっすぐ見つめていると、光はおどけた口調で笑ってみせた。

「だーいじょうぶだって! 脅しの種がなくなったわけじゃないけど、今は別に何も言ってこないし。食事ぐらいなら誰とでも行くだろ?」
「それはそうかもしれないけどさ」
「颯太こそ、本っ当に何も言われてないのな?」
「うん。僕と西野さんじゃ、話すこともあんまりないし」

 光に内緒で話がしたい、と言われたくらいなので、何かしら話すことはあるのだろう。颯太だって花梨に光のことを聞きたいと思っているくらいだ。
 それでも光をこれ以上心配させたくなくて、颯太は笑顔を作る。

「公開告白はびっくりした、って言ってたけどね」
「あれな。颯太がお祝いの言葉って言い出したのも驚いたけど、それを上回る驚きだったな」

 けらけらと面白そうに笑う光は、サプライズのお祝いをされた話には不自然なほど触れなかった。
 周囲に話していないとはいえ、嫌っている父親のお祝いごとを、自分のことのように盛大に祝われたのだ。
 気にしていないはずがない。不快に思っているのか、悲しいのか、怒っているのか。光の気持ちは、颯太には残念ながら分からなかった。
 いっそ、愚痴にして吐き出してくれればいいのに。そんな気持ちを抱えながら颯太が光の横顔を盗み見ると、ばっちり目が合ってしまう。

「どうした? 何か言いたげですな、颯太さん」
「んー、……僕の大事な親友が、愚痴とか弱音とか全然吐き出してくれないから、大丈夫なのか心配になるなーって思ってただけだよ」

 遠回しな表現で伝えた心配を受け、光は他人事だと言わんばかりの言い回しで返答する。

「そのイケメンな親友くんは、たぶん大好きな友達に、自分の汚いところを見せたくないんだろ。嫌われるのが怖くてさ」

 颯太は両親を失ってから、何年も光に支えられて生きてきた。光がいなかったら、颯太は自ら命を絶っていたかもしれない。
 だというのに、今更どうして光のことを嫌いになれるだろう。
 
 あまりにも杞憂な光の発言に、颯太は思わず呆れてため息を吐いてしまった。光はため息に一瞬反応したように見えたが、颯太の顔を見ようとはしない。
 本当に颯太に嫌われる可能性があると思っているなら、光はバカだ。

 光の弱いところも汚いところも、どんな一面を見せられたとしても、嫌いになれない自信が颯太にはあった。
 どんなに嫌なところがあったとしても、光がこれまで颯太に与えてくれた優しさも、そばで支え続けてくれた事実も、揺るぎはしない。
 一つや二つの欠点で崩れてしまうほど、二人が築いてきた関係は脆くないはずだ。

「じゃあ光から僕の親友くんに伝えておいてくれる?」
「なんて?」
「そうだなぁ。今更嫌いになんてなるわけないでしょ、バカじゃないの、かな」
「…………はは。了解」

 珍しく情けない声で、光が返事をする。
 それから駅に着くまでの道中、光はずっと黙っていた。いつもはうるさいくらいに話し続けているくせに、光は口を閉ざしたままだ。
 無理に弱音を吐かせたいと思っているわけではないので、颯太もそれ以上は追求しなかった。

 光の家の最寄り駅に向かう電車はほどよく空いていた。ドアのそばの立ち、颯太は手すりに捕まる。光はポケットに手を突っ込みながら、ぼんやりとした表情で窓ガラスを眺めていた。
 夜も更けていて、外は真っ暗で景色は見えない。ガラスに映るのは反射した電車内だ。
 颯太も何気なく窓ガラスに目を移すと、反転した世界の中で、光と目が合った。

「…………今日、久しぶりに呼ばれてたじゃん」
「ん?」
「颯太の、前の苗字。あれ、腹立たなかった?」
「うん、別に。ずいぶん長いとこ聞いてなかったけど、案外しっくりくるものだね」

 笑って答えた颯太の言葉を聞き、窓ガラスに映る光も表情を緩めた。
 きっと幹事に悪気はなかった。あまり親しかったわけではない元クラスメイトの家庭の事情など、覚えていなかったとしても仕方がない。
 颯太の答えを聞き、安心したように光は言葉を続ける。

「あの頃のこと、いろいろ思い出してた」
「……もしかしてそれでちょっと様子がおかしかったの?」

 父親の件を元クラスメイトたちにサプライズで祝われたことを気にしているのだと颯太は思っていた。
 しかし、颯太の疑問に光はあっさりと頷く。

「うん。ほら、颯太に思い出してほしいって言った手前、俺が覚えてないとは言えないじゃん?」
「ああ、そうだ。光が僕に思い出してほしいことって、結局何だったの?」

 同窓会に参加させたがっていたのは、颯太に思い出してほしいことがあるからだ、と光は言っていた。そして、許してほしいのだ、と。

 中等部の頃のクラスメイトと顔を合わせたことで、颯太の頭に懐かしい記憶が次々とよみがえった。しかし、多くのメンバーが初等部からの付き合いであるため、思い出の期間も量も多すぎる。
 颯太が思い出したことの中に、光の求めている答えがあるのか。それは結局、光と答え合わせをしなければ分からないのだった。

「で、さっきの答えは? わざわざ同窓会に連れて行ってまで、光が僕に思い出させたいことって何?」

 話の続きができたのは家に戻ってからだった。光はコンビニで買ったカフェオレを半分ほど飲み干し、「怒るなよ」と前置きした上で、その言葉を口にした。

「……事件の日のことだよ」
「え……?」
「颯太んちの……事件の日のこと。何か思い出したりしてない……?」

 暑くはないはずなのに、やけに冷たい汗が背中を伝っていった。
 光の言葉を聞き、頭で理解をしてから、途端に足元が不安定になったような気がした。颯太はぎゅうと締め付けられるような頭痛に眉を寄せ、唇を噛む。

 颯太は知っている、光が優しい男だと。
 颯太は分かっている、光が不用意に人を傷つけたりする性格ではないということも。

 それでも今は、……今だけは、光の顔を見られなかった。
 どんな表情で、どんな考えで光がそんな言葉を口にしたのか、想像もしたくなかった。
 光を気遣う余裕が、颯太の心から抜け落ちてしまったのだ。

「……それ、つまり、光は僕に、あの事件のことを思い出してほしいってこと……?」
「事件のこと、っていうか……」
「それはいくらなんでも、残酷すぎない……?」

 笑顔を作ろうとしたけれど、颯太の顔はきっと強張っていた。光の目を見ることはできず、不自然に光の首元を見つめながら呟くことしかできなかった。
 光が息を飲み、「ごめん、そういう意味じゃないんだ」と言葉を紡ぐけれど、颯太の頭ではうまく処理しきれなかった。

「どうしてあの強盗事件を思い出させたいの……? 犯人逮捕のため? 僕が犯人を見てたら捕まえられたから?」
「違う、颯太。ごめん、俺が悪かったから……」
「お父さんもお母さんも包丁で滅多刺しにされたのに、僕だけ助かったもんね。子どもだったから殺すのは忍びないって思ったのかもしれないけど。殴られただけで殺されなかったんだから幸せかもね」

 まあ、殴られたショックか、両親を殺されたショックか知らないけど、僕の記憶はすっぽり抜け落ちてるわけだけど。

 付け加えた言葉に、光が大きく動いた。
 少し離れた位置にある首元を見ていたはずなのに、いつのまにか光は距離を詰めてきて、颯太の肩を力強く掴んでいる。颯太、と今にも泣き出しそうな声で親友が名前を呼んだので、颯太は自責の言葉を紡ぐのはやめた。

 ずきずきと頭が痛む。頭痛も、やけに速い心臓の鼓動も、突然へたくそになった呼吸も、全て颯太のトラウマと結びついている。本能的に拒否するかのように、両親の事件のことを思い出そうとすると、身体がどうしようもない不調を訴えた。
 やけに浅い颯太の呼吸を宥めるように、光が大きな手で颯太の背中を優しくさする。
 苦しさに生理的な涙が浮かび、颯太はその場に崩れ落ちた。背中をさする光の手もやけに冷たくて、でもその手に縋ることしかできなくて、颯太は情けなさにまた涙する。

「……ごめん、光が……悪いわけじゃ、ないのに……」
「…………俺が悪いよ、ごめんな。自分のことばっかりで、颯太のこと傷つけた。ごめん」

 自分のことばかり、というのは、何の話だろうか。もしかして、思い出して許してほしい、と言っていたのと関係があるのかもしれない。
 冷静な頭だったら、颯太はもう少し考えられただろう。しかし軽いパニック状態に陥っていた颯太は、光に謝罪された、という簡単な事実しか頭で処理することができなかった。

 トリガーは、光の発言だった。あの事件の日のことを思い出していないか、という質問。それでも、颯太が縋れる相手は光しかいなかった。たとえこの場に他の誰かがいたとしても、やっぱり光に頼ることしかできなかっただろう。

 颯太は涙をこぼしながら、助けて光、と呟く。その言葉に、やけに既視感を覚えた。
 いつだったか思い出せないけれど、前にも颯太は光に泣きついた気がする。助けて光、と。
 そのとき光はこう言ったんじゃなかったか。

『……大丈夫だよ颯太。俺が全部、何とかしてやる』

 目の前の光は、颯太の背中をさするだけで、何も言わなかった。
 俺が何とかする、と光が言ってくれたのは、夢の中の話か。それとも、実際にあった記憶なのだろうか。記憶なのだとしたら、それはいつの話だ? どうして颯太は覚えていないのだろう。

 考えようとするほど、どんどん頭が痛くなり、颯太はついに意識を手放した。
 どこか遠くで、「お前のせいだぞ」と颯太が言った気がした…………。

 目を覚ますと、颯太はベッドの上にいた。どうやら光がベッドに貸してくれたらしい。起き上がってカーテンを開けると、すっかり日が昇っている。サイドテーブルの目覚まし時計は、十一時を示していた。
 颯太は随分長い時間眠っていたようだ。頭がやけに重いのは、眠りすぎたからだろうか。

 光はどこにもいなかった。代わりにリビングには書き置きが残されている。
 昨日はごめん。言い訳も説明もないシンプルな謝罪の言葉に、颯太はすっかり気が抜けてしまった。

 昨晩の光の言葉は確かに驚いたし、ショックも大きかった。何があっても颯太の味方だと思っていた光が、颯太のトラウマに触れるような発言をするなんて、想像していなかったからだ。
 昨日は取り乱してしまったが、あのとき光は颯太に何か話を聞いてもらいたかったのではないか。

「いくら事件のことに触れられたからって、光を責めたみたいになっちゃったなぁ……」

 颯太はぼんやりと昨晩のことを考え、激しい自己嫌悪に襲われる。
 思い返してみれば光は、「事件のことっていうか」と何かを言いかけていた。きっとあの言葉には続きがあった。颯太の感情が昂ってしまったせいで、光は無理矢理言葉を飲み込んだのだ。

 自己満足だ、と光は言っていた。思い出して、颯太に許してほしい、と。
 事件当時のことを思い出すのは今でも辛い。それでも、颯太が何かを思い出すことで、親友の心を少しでも救うことができるなら、思い出すべきだ。

 颯太はスマートフォンのアプリを立ち上げ、光にメッセージを送った。
 謝罪の言葉と、もう一度ちゃんと話を聞かせてほしい、という内容だ。今度は取り乱さないようにするから、と入力しながら、颯太は静かな部屋で苦笑をこぼす。
 事件当日の話をする、とあらかじめ心の準備をしていれば、昨晩のような取り乱し方はしないはずだ。もちろん感情は揺さぶられるだろうが、ずっと心の支えだった親友に、八つ当たりするような愚行は避けられる。

 メッセージに既読の文字はつかない。光はバイトに行っているのかもしれない。だとしたら返事を待つだけ無駄なので、スマートフォンと財布を持ち、颯太も家の外に出た。
 心が不健康な状態にあるときは、日光を浴びながら少し身体を動かした方がいいのだ。昼間の太陽はいつもよりも明るい気がする。起きたばかりの颯太には、少し眩しすぎるくらいだ。
 目的地も決めず、ただ太陽の光を浴びながら、颯太は散歩をする。頭の中では、昨晩の光への八つ当たりの反省と、事件の記憶がぐるぐると回っていた。


 颯太が初等部六年のときに起きた、強盗殺人事件。
 頭を殴られて颯太は怪我をし、両親は刺し殺された。
 血で汚れたリビングや、冷たくなって動かなくなった両親の身体。頭から血を流しながら、必死になって両親の身体を揺さぶる颯太。
 両親の遺体を発見したときの忌まわしい光景は脳裏にこびりついている。それなのに、ほんの少し前、事件が起こったときの記憶は、颯太の頭からすっぽり抜け落ちてしまっている。

 誰に、どうして、どのように、両親は殺されたのか。
 思い出そうとしても、頭に思い浮かぶのはすでに血まみれになったリビングだ。しかも思い出せない上に、頭痛というオプションまでついてくるのだから困ったものである。

 強い日差しの中を歩きながら、颯太は事件当日の記憶を掘り起こそうと頑張ってみた。しかし、結局何も思い出せないまま、耐え難い痛みだけが颯太の頭に残った。

 いつも通りの平凡な一日だったのか。もしくは何かきっかけになるような特別な出来事があったのかもしれない。光が思い出してほしいのは、事件の日に起きた何かだが、事件とは一切関係のない話だという可能性もある。
 頭痛に耐えかねて、颯太は一度思考をストップした。

 自動販売機で水を購入し、一気に喉を潤すと、少しだけ頭の痛みも和らぐ。颯太は息を吐き、公園のベンチで休憩を取ることにした。
 しばらく空を眺めながらぼーっとしていると、ポケットの中のスマートフォンが振動してメッセージの受信を伝える。光だろうか、と急いでアプリを立ち上げたが、送信者は西野花梨だった。

『花梨です! 昨日はありがとね! 颯太くんと久しぶりに会えて嬉しかったよ。昨日言った通り、光には内緒で話ができないかな?』

 絵文字やスタンプが多用されていて、メッセージを見ただけで花梨の明るい性格が伝わってくる。
 会えて嬉しかった、という言葉の後にはハートマークまでついている。事前に光から花梨と付き合っていたという話を聞いていなければ、颯太は変な勘違いをしてしまっていたかもしれない。
 スマートフォンのカレンダーで予定を確認して返事を送ると、花梨からはメッセージではなく電話がかかってきた。

『もしもし、颯太くん? ごめんね、急に電話して』
「ううん、大丈夫だよ。どうしたの?」
『すぐに返信が来たから、もしかして颯太くん、今なら時間があるのかなと思って。できれば早めに話したいの。ダメかな?』

 繋がった電話の向こうで花梨が首を傾げた気がした。今日の颯太の予定は、夕方以降のバイトだけだ。どうやら光もすぐには帰ってこないようだし、謝罪のメッセージは送ってある。このまま颯太が出かけたとしても問題はないだろう。

「大丈夫だよ。僕も西野さんに聞きたいことがあるんだ」

 颯太と花梨は電話で待ち合わせの場所を決め、一時間後に顔を合わせることになった。


 下北沢にある小さなカフェで、二人は落ち合った。あまり土地勘のない地域な上に、行ったことのない店だったので少し迷ったが、颯太は無事に店に辿り着くことができた。
 すでに花梨は窓際の席に座っていて、店内から笑顔で颯太に手を振る。颯太も手を振り返し、店内に足を踏み入れた。

 ピアノの優しい音色で奏でられるクラシック音楽と、コーヒーの香りが漂う店内。
 隠れ家のような落ち着いた雰囲気で、店員は店主らしきおじいさん一人だけだ。きっと常連客ばかりなのだろう。白髪混じりの店員は、颯太を見て少しだけ驚いたような顔をした。

「すみません、待ち合わせで……」
「ああ、いらっしゃい。花梨ちゃんなら角の席ですよ」
「ありがとうございます」

 テーブルの数は少ないけれど、三分の一は客で埋まっている。老齢の夫婦はのんびりとコーヒーを楽しんでいるようだし、手前の四人がけの席を独占するスーツ姿の男は新聞を広げながらうたた寝をしていた。
 奥の席に座る花梨もリラックスをしているようで、大きなカップを両手で持ちながら颯太にやわらかく笑いかけた。

「ごめんね、急に呼び出して。場所も私のわがまま聞いてもらっちゃったし……遠くなかった?」
「そんなに遠くないよ。光のマンションからだから、むしろ近かったくらい」
「えっ、昨日光の家に泊まったの?」

 いいなぁ、と花梨がおどけて笑うが、颯太はどんな反応を返せばいいか分からなかった。
 花梨はまだ光のことが好きなのだろうか。
 それに考えなしに家の話をしてしまったが、光が今住んでいる場所を花梨は知っているのか。もし知らなかったのだとしたら、颯太は余計な情報を与えてしまったことになる。

 倉橋優姫のストーカー問題があったというのに、颯太は相変わらず脇が甘い。今の颯太の発言で光を危険に晒してしまったらどうしよう、と心中で不安に思っていると、花梨が光の住む土地の名前を口にした。

「すごくいいところに住んでるよね。さすがお坊っちゃま」
「いや、光も頑張ってバイトしてるし……」
「うん、えらいよね。別にバイトなんてしなくても、光の家なら生活にも遊びにも困らないはずなのに。予定がいっぱいになるくらいバイトを詰め込んでるでしょ」

 そういうところ、好きなんだ。
 花梨がカップに目線を落とし、どこか寂しげな表情で笑った。

 やはり花梨は今でも光のことが好きなのだ。もしかして颯太を呼び出したのも、光との仲を取り持ってほしいという要件だろうか。
 颯太にとっては初恋の相手だが、花梨のことは友人として好きだし、光のことも大切に思っている。二人が付き合って幸せになれるなら、もちろん応援したいとは思う。
 しかし光の言う通り、花梨が光を何かしらの理由で脅して付き合っていたというなら。そして、光が花梨と再び付き合うことを望んでいないのならば、颯太は花梨の恋の協力はできない。

「…………本題に入る前に、颯太くんも何か頼みなよ」
「あ、そうだね。じゃあ、ブレンドにしようかな。店内に入ってからすごくいい香りがしてたから、気になってたんだ」
「うんうん。ここのコーヒーはすっごく美味しいよ。それからマスター手作りのチーズケーキもおすすめ!」
「じゃあケーキも食べようかな」

 昼前に目を覚ましてから今まで、颯太は水しか口にしていないことを思い出した。食に頓着はないが、せっかく旧友が勧めてくれたのだ。チーズケーキを頼まない理由はなかった。

「すみませんマスターさん。ブレンド一つと、ホットカフェオレを一つ。それからチーズケーキ二つ。一個はホイップ多めでお願いします」

 花梨が慣れた様子で注文すると、店主はにこやかに返事をして離れていく。
 雑談をしている間に運ばれてきたコーヒーとチーズケーキは、食欲をそそる香りをしていた。

 レモンで香り付けされたチーズケーキは、ほんのりと優しい甘さだった。お好みで、とふわふわのホイップクリームが添えられていて、クリームで甘さを調節しながら食べるらしい。
 たっぷりとクリームを乗せてケーキを頬張る花梨はとても幸せそうで、颯太も思わず笑ってしまった。

「西野さんってすごく美味しそうに食べるね。確かにこのケーキは美味しいけど」
「あはは。よくリアクションがオーバーだよねって言われるんだ。テレビには向いてるかもしれないけど、おしとやかではないよね」

 おしとやか、という言葉から連想されるのは、花梨ではなくて倉橋優姫だった。
 颯太が恋をしていた優姫は、仮初の姿だったのかもしれない。しかし大学のキャンパスで見かける優姫は、清楚でおしとやかな印象だった。
 ふと思い立ち、颯太は優姫のことを花梨に話してみることにした。

「いきなり本題に入るのもなんだし、ちょっとだけ僕の最近の失敗談、聞いてくれない?」

 大学で一目惚れをした女の子。清楚でおしとやかで女の子らしい、優しい笑顔の同級生の話だ。特定されることを防ぐため、念のため名前は伏せて、颯太は語り始めた。

 颯太の片想いから始まり、優姫が颯太のドッペルゲンガーを見たこと。それをきっかけに優姫と仲良くなり、デートすることができた。しかし、デートの翌日、勝手に合鍵を作った優姫が颯太の家に乗り込んできてしまう。優姫は自分が颯太の彼女になった、と颯太の身に覚えのないことを主張する。
 恐怖を感じ、慌てて逃げ出した颯太は、光に助けを求める。事情を聞いた光は、優姫の思い込みが激しくて、颯太のストーカーになってしまったのだと判断した。
 危険を承知の上で光は優姫に話をしに行き、思い込みを正してくれて、何とか解決に至ったーーー。
 
 颯太は笑い話のつもりで話していた。しかし、話を進めていくうちに、だんだん花梨の表情が強張っていくことに気がついた。

「西野さん? どうしたの、大丈夫?」
「ストーカー……?」
「う、うん。あ、でも確かに怖かったけど、実害はなかったから」

 慌てて言葉を付け足しながら、颯太の頭にはある可能性が浮かんだ。
 もしかして花梨も、ストーカーによる被害の経験があるのではないか。
 そしてそれは、颯太が受けたものよりももっと恐ろしい、粘着質で気味が悪く、実害を伴うようなものだったとしたら……。
 特に花梨の場合、モデルの仕事をしているのだ。不特定多数の人に好意を向けられれば、その中に少しおかしな人がいても不思議ではない。

「もしかして西野さん、ストーカーの被害にあってたり……」

 もしも嫌な予感が当たっていたとしたら、颯太は最悪の話題選びをしてしまったことになる。おそるおそる訊ねると、花梨は青ざめたまま、首を横に振った。

「よかった……。僕、西野さんもストーカーをされた経験があるのに、無神経な話をしちゃったのかと思った……」

 安堵のため息をこぼす颯太とは対照的に、花梨の顔色は冴えない。
 心配になって西野さん? と颯太が名前を呼ぶと、花梨は震える唇で「違うんだよ、颯太くん……」と呟いた。

「違うって……何が?」
「もっと根本的に間違ってるよ……」

 花梨の言葉の意味が分からず、颯太は首を傾げる。どういう意味かと訊ねると、花梨は声のトーンを落とし、慎重に言葉を紡いでいった。

「ドッペルゲンガーは彼女の作り話……。颯太くんの彼女になったっていうのも思い込み。……こっそり颯太くんから鍵を盗んで合鍵を作った、って、言ってたよね? だから彼女は颯太くんへの気持ちをこじらせた、ストーカーなんだ、って……」
「う、うん。筋は通ってると思うけど……どこが間違ってるの?」

 光の推理を聞いているとき、颯太はしっかり考えた上でそれなら全ての辻褄が合う、と納得したのだ。

 実際にドッペルゲンガーを見たという話は優姫だけで、その後の目撃情報も颯太の耳には届いていない。
 それならば、優姫が颯太と親しくなるために、ドッペルゲンガーの話をでっちあげた、と考えるのが自然だろう。
 優姫が颯太の彼女になったと思い込んでいたことも、合鍵を持っていたことだって、颯太にとっては身に覚えのない話だ。
 光の言う通り、優姫は思い込みの激しいストーカーで、間違った方向に行動力を発揮してしまったのではないか。

 改めて考えてみても、おかしな部分はないように思えた。花梨は慎重に言葉を選んでいるようだった。

「そんなに複雑じゃなくて……、もっと簡単で、すごく現実的な可能性があるんだよ」

 なかなか本質を話そうとしない花梨に、颯太は少しじれったさを覚える。急かすのは良くないと思いながらも、話の続きが聞きたくなってしまった。

「ごめん、つまりどういうことなの?」

 少しだけ声に苛立ちが混じったのを花梨は感じ取ったのだろう。慌てた様子で花梨は謝罪の言葉を口にした。

「ごめんね、分かりにくいよね。でも私から颯太くんに、『それ』を話さない、って光と約束してるの」
「えっ、光?」
「うん。光との約束」

 突然出てきた親友の名前に、颯太は息を飲む。
 固まる颯太を見つめる花梨の目には、心配の色が滲んでいた。それでも「私が颯太くんに話したかったことと、少し繋がるところがあるから、話してもいいかな」と花梨は控えめに提案をする。
 分からないことだらけだが、颯太は頷いた。


 花梨は静かな口調で語り出した。

「私ね、光のことが好きなの。昔も、今も……。他の人と付き合おうって思ったこともあったけど、ダメだった。光じゃなきゃダメなんだって、思い知らされるだけなんだ」

 最初は光に対する恋心を語っているのだと思った。しかし、少しずつ話は違う方向へと向かっていく。

「中等部の二年のとき、『それ』に気づいたの。体調が悪くて保健室に行ったとき、偶然休んでる颯太くんと会ったの。何かおかしいな、と思って私、光に話したんだ。一年の冬に光には振られてて、何でもいいから話すきっかけが欲しかったのかもしれない。でも颯太くんと一番仲がいいのは光で間違いないし……。言い訳がましいかもしれないけど、光に話すのは絶対に間違ってないって、あの頃は本当に思ってたの」

 今はその判断が間違っていたと思っている。そう聞こえる言い回しだった。花梨が気づいたという『それ』が何か分からないまま、颯太は話を聞き続けていた。
 どうしてか、胸の奥が気持ちの悪いくらいにざわめいている。言いようのない不安を覚えながら、颯太は花梨の言葉を聞き漏らすまいと耳を傾けていた。

「光はね、知ってたみたいだった。聞いたことのないくらい強い口調で、『それ』は絶対に誰にも言うな、って言ったの。誰かに言ったら、お前のことを嫌いになる、って言われたかな」
「……光がそんなことを言ったの? 本当に?」
「信じられないよね。どんなときも怒らない、平和主義の光がだよ?」

 そうまでして光が隠したい『それ』とは何なのか。颯太は気になって仕方がなかったが、今の話でようやく理解した。
 花梨は今でもそのときの光との約束を守っている。光のことが好きで、光に嫌われることが何よりも怖かったから。

「嫌われたくなかったの。それにどうしてもこの恋を叶えたくて。だから私、言ったんだ。絶対に誰にも言わない。颯太くんにももちろん秘密にする。だから代わりに光は私のお願いを聞いてよ、って」

 バラバラだったパズルのピースが、颯太の頭の中で一つ綺麗にはまった気がした。
 花梨が願ったことは、光の彼女になりたい、に違いない。そして光は頷いたのだ。誰にも話すな、と言った『それ』について、花梨が口外しないように。交換条件として、自分を差し出したのだ。

「……それで西野さんと光は一時期付き合ってたんだ?」
「知ってたの?」
「つい最近ね。あの頃二人が付き合ってるっていう噂があったけど、実際どうだったのって訊いたら、光は無理矢理付き合わされてた、って言ってた」

 言葉通り伝えるのは、今でも光のことが好きな花梨には、残酷な仕打ちかもしれない。しかし、颯太の心に静かな怒りが湧いているのも確かだった。

 何かを秘密にするために、彼女にしてほしいと交換条件を提示した花梨に対して。
 そして、どんな秘密かは分からないが、『それ』とやらを隠すために、あっさりと自身を差し出した光も。

 花梨も、光自身も。結局のところ佐久間光という人間を大事にしていないのだ。尊重せず、軽んじている。だから秘密を守る代わりに付き合ってだなんて最低な言葉が出てくるし、光も頷いてしまう。
 沸々と湧いてくる怒りを何とか抑えられているのは、光が身を挺してまで守ろうとした『それ』が、颯太に関係する何かだと察しているからだった。

「でも結局別れちゃった。中三の冬かな、我慢できなくなって、私から」
「……我慢って、そんなに光の態度が悪かったの? 意外と彼女に対しては横柄だったり?」
「まさか! 光だよ? 無理矢理付き合い始めたのに、本当の彼女みたいに優しくしてくれたし、すごく大事にしてくれたよ」

 それならどうして、と颯太が訊ねるよりも先に、花梨が言葉を続ける。綺麗な目に悲しそうな色を滲ませながら、花梨は笑った。

「どんなに優しくしてもらっても、お姫様みたいに大切にされても……、私は光の一番にはなれなかったから」

 花梨にかける言葉が見つからなかった。立場上は彼女でも、脅して付き合い始めたのだから自業自得だ。そう言えなかったのは、花梨が本当に光のことを想っているのが、言葉の端々から伝わってきたからかもしれない。

 颯太はしばらく黙っていた。
 花梨と会って聞きたかった話は、大体聞くことができた。光を脅すきっかけになった肝心の『それ』について、花梨が口を割ることはないだろう。
 最終的には別れたとはいえ、光は花梨の交換条件を飲み、彼氏として立派に役目を果たしたのだ。ここで花梨が約束を破り、颯太に秘密を話してしまえば、光はきっと本当に花梨のことを嫌いになってしまう。

 これは光に直接訊いていいものだろうか。しかしそうすると、颯太と花梨が話をしたことも光にバレてしまう可能性がある。花梨が『それ』について少しでも話した、と疑われるのは、さすがに可哀想な気がした。
 颯太が頭を悩ませていると、花梨は無理矢理笑顔を作り、「ここで本題です!」と明るく声を上げた。
 颯太はすでに本題のつもりで聞いていたが、まだ話の前振りだったらしい。戸惑う颯太に、お願いがあるの、と花梨は呟く。

「たぶん今も光は、『それ』を一人で抱えてる。でも『それ』は、光が一人で抱えるには重すぎるの。このままじゃいつか光が狂っちゃうんじゃないかって、心配で…………」
「……僕に『それ』を光から聞き出してほしいってこと?」

 颯太の問いに、花梨は首を横に振った。

「ううん。光の家に泊まってるって言ったよね? それなら、カメラを仕掛けてみて。きっとそれが一番分かりやすいから」
「隠しカメラってこと? さすがにそれは……」
「お願い。光は昔から颯太くんがいないとダメだって、昨日言ったでしょ。同じなの。颯太くんじゃないと、光のことは救えないの」

 だからお願い。光を助けてあげて。
 花梨の切なる声に、颯太はためらいながらも頷いた。『それ』が何かは分からない。もしかしたら、開けてはいけないパンドラの箱に手を伸ばそうとしているのかも。
 それでも颯太は頷くしかできなかったのだ。
 親友が一人で苦しんでいるというのなら。そしてそれを救えるのが颯太しかいないというのなら、颯太は動かなければならない。たとえそれが、盗撮と呼ばれる手段であったとしても。


 帰り際、花梨は少しだけ晴れやかな表情になっていた。ずっと秘密を抱え込み、花梨も悩んでいたのかもしれない。
 颯太は上手くいくか分からないけど、と前置きをした上で、花梨に笑いかけた。

「もしも光が悩みから解放されて、もうちょっと気楽に生きられるようになったら。西野さんはまた光にアプローチしたらいいと思うよ」

 今度は正々堂々とね。付け足した言葉に、花梨は恥ずかしそうに頰を赤らめた。

「光に好きになってもらいたいから、頑張る。ありがとね、颯太くん」
「ううん、こっちこそ、話を聞けてよかった」

 優姫の件も『それ』について分かれば見方が変わってくると思う、と花梨はアドバイスをしてくれた。

 光が花梨と付き合うことになったきっかけ。身体を張ってまで光が守ろうとした秘密。そして優姫のストーカー事件も見え方が一変するような『それ』。

 うるさく騒ぐ心臓の音を聞きながら、颯太は自分が少しだけドキドキしていることに気がついていた。
 光や花梨の頭を悩ませた大事な秘密。二人の生活を狂わせるような『それ』とは何なのか。不謹慎かもしれないが、颯太は好奇心に沸き立っていたのだ。

「ねえ颯太くん。ずっと言おうと思ってたんだ。あの頃は、ごめんね」
「えっ、なにが?」
「私、あれから……ずっと颯太くんのこと、避けちゃってたから」

 花梨は言葉を濁してくれたけれど、颯太にははっきりと意味が伝わった。つまり、颯太の家に強盗が入ったあの日から、ということだ。
 突然両親を殺され、一人だけ生き残ってしまった子ども。そんな子が同じクラスにいたって、どう接すればいいのかなど子どもに分かるはずがない。花梨だけではなく、他の同級生たちも同じだ。
 無視をされたりはしなかったが、壊れかけの颯太を傷つけないように関わることはきっと難しかったのだろう。少し離れた距離から見守る人がほとんどだった。

「ううん、大丈夫。あれは普通に話しかけてくる光が変だったよ」
「ふふ。光は颯太くんのこと、大好きだから」

 ちょっと嫉妬しちゃうくらい! と花梨が冗談を言うので、颯太は思わず吹き出した。
 花梨は寄り道をして帰るというので、二人は店の前で別れた。またね、颯太くん! と明るい笑顔を見せる花梨に、颯太も笑って手を振った。

 またね、という何気ない約束が二度と果たされないことも知らず。

 颯太は電気屋に寄って、カメラを探した。長時間録画で音声にも対応、そして充電しながら録画できるもの。店員に相談すると、小型の防犯カメラがいいのではないか、と言われた。
 ペット用の防犯カメラなどでは、スマートフォンから録画映像を見ることもできるらしい。颯太は悩んだ結果、一番性能の良さそうなものを購入した。

 颯太が光の家に着く頃、ようやく光からメッセージの返信があった。ちょうどカメラをリビングに仕掛けようとしているときで、颯太は驚いて飛び上がってしまった。

『話を聞いてもらえるのは嬉しいけど、あんまり無理すんなよ!』

 親友からのメッセージは颯太を気遣う優しいものだ。今自分がしている行為を、颯太が恥ずかしいと思ってしまうくらいに。
 光からのメッセージをしばらく眺め、それでもカメラの設置をやめなかったのは、花梨の言葉を思い出したからだ。
 『それ』は、光が一人で抱えて生きていくには重すぎる。このままじゃいつか光が狂ってしまうかもしれない。
 光の背負っている秘密がどんなものなのか、颯太には皆目見当もつかない。しかし、光を押し潰してしまうかもしれない何かがあるというのならば、颯太は『それ』を一緒に背負いたいと思うのだ。

 颯太はリビングに置かせてもらっている自分の荷物の隙間にカメラを隠してみた。
 光の性格上、おそらく颯太がいないときでも勝手に荷物を漁ったりはしないはずだし、ここならばいつでも颯太が回収できる。
 カメラを起動した後、何度か位置や角度を調整し、問題なく撮れるように固定をした。そしてレンズだけは覆わないよう気をつけながら、罪悪感の塊を自分の荷物で見えないように隠すのだった。


 アルバイト中、颯太はカメラのことが気になって堪らなかった。
 カメラの存在が見つかれば、間違いなく颯太と光の関係にヒビが入ってしまう。覚悟を決めた上でカメラを設置したはずなのに、颯太は不安と恐怖で落ち着かなかった。

 バイトが終わった深夜一時。
 光の家まで走る颯太の元に、一件の着信があった。知らない番号からの電話は、いつもなら絶対に出ない。詐欺やセールスの電話だったら面倒だからだ。でも颯太はなんとなく、急いでいた足を止め、通話の文字をタップした。
 なぜか、胸騒ぎがした。

「…………もしもし?」

 颯太が電話に出ても、相手からは何も応答がない。間違い電話か、もしくはいたずら電話かもしれない。
 何か嫌な予感がして、知らない番号からの電話に出てしまったが、やはり出るべきではなかっただろうか。

「もしもし? どちら様ですか?」

 電波が悪くて声が届いていない可能性も考え、颯太はもう一度電話の相手に呼びかける。相手の返事を待ちながら、一度止めた足を再び動かし、夜の暗闇の中を颯太は歩き始めた。
 少しの間待ってみたが、電話口からは返答がない。しかしよく聞くと、遠くから誰かのすすり泣く声がしている。颯太は驚いて再び電話の相手に呼びかけた。

「どうしました、大丈夫ですか?」

 適当に番号を押して電話をかけた、誰かのSOSかもしれない。
 昔、両親が殺されたあの事件の日、泣き叫ぶことしかできなかった颯太。あの日の颯太のような誰かが、電話の向こうで泣いているのかも、と一度想像してしまえば、放っておくことはできなかった。

「大丈夫ですか? 泣いてますよね。とりあえず落ち着いて深呼吸をしてみませんか」

 状況が分からないながらも、何とか相手が落ち着けるよう呼びかけてみると、今度ははっきりと泣き声が聞こえてきた。女性の声だった。
 ぐす、ひぐ、と嗚咽をこぼす声を聞いていると、呼吸をできているのか心配になってしまう。颯太が再び声をかけようとしたときだった。電話口から細い声が、颯太の名前を呼んだ。

『さ、さき、くん……』
「えっ……?」

 まさか知り合いだったとは。慌てた颯太は再び名前を訊ねるが、電話口の女性は答えることなく、泣きながら何かを話し始める。

『見つかったの……でも、もう…………しん、じゃって、て……』
「あの……?」
『優姫ちゃんっ、死んじゃった…………!』

 その言葉の意味を理解した瞬間、颯太の全身に怖気が走った。手から滑り落ちたスマートフォンは、弾みでスピーカーに切り替わる。

『山の中で……今朝、見つかったって……。私、電話もらって……、でも、信じられなくて……』

 倉橋優姫が、死んだ?
 行方不明だったはずの優姫が、今朝、山の中で見つかった。それもなぜか、死体の状態で。
 全身の血の気が引き、颯太は道の端にしゃがみ込む。震える手でどうにかスマートフォンを拾い上げ、スピーカーをオフにする。再び耳に押し当て、颯太は電話の相手と思しき女性の名を呼んだ。

「真野、さん……?」

 優姫の友人である、真野絵梨花。どうして絵梨花が颯太の連絡先を知っているのかは分からない。しかし話の内容、声や喋り方、今ある情報をかき集めると、電話の相手は絵梨花以外にあり得なかった。

『笹木くん……優姫ちゃんが、いなくなっちゃった……死んじゃったよぉ……!』

 電話の向こうで号泣する絵梨花に、かける言葉が見つからなかった。


 そこからの記憶は曖昧だ。
 颯太は混乱する頭で必死に絵梨花を宥め、居場所を聞き出した。タクシーで絵梨花の元まで駆けつけ、泣きじゃくる絵梨花の背中をさすっていたらしい。
 らしい、というのは、颯太も後から光に聞いた話だからだ。
 バイトが終わる時間をかなり過ぎているのに、なかなか帰ってこない颯太を心配し、光は颯太に電話をかけた。そして事情を聞いた光が、迎えに来てくれたのだった。

 颯太はそれから数日の間、抜け殻のように過ごしていた。バイトなどは事情を説明して休んだようだが、それもあまり記憶にない。
 光は颯太のことを心配して、かなり世話を焼いてくれた気がする。大学やバイトには休まず行っているが、光は出かける前に必ず颯太に「本当に一人で大丈夫か?」と訊いてくれた。
 親友の優しさがありがたくもあり、同時に心がひどく傷んだ。優しくしてもらえる価値など、颯太にはない。そう思えて仕方がなかった。
 
 倉橋優姫は自殺だったらしい。山の中で首を吊っているところを、登山客によって発見された。
 死後三週間は経っていて、逆算すると颯太の家に乗り込んできたあの日付近に死を選択したようだった。
 絵梨花が話していた通り、バイトを無断欠勤した後、本当に家に帰っていなかったのだろう。

 颯太に振られたこと。さらに自分の行為がストーカーのそれだと指摘され、優姫はショックを受けた。そして人に見つかりにくい山中で、首を吊ったーーー。

「…………僕のせいだ……」

 呟いた言葉は、広いリビングに溶けて消えていく。カチカチと鳴る時計の針の音だけが響いていて、颯太はただぼんやりと、その音を聞いていた。

 せめて颯太が逃げずにあの場で話をしていれば、結末は違ったのだろうか。友人の光を介して、優姫の存在を拒否してしまった。
 そんなのは、お前の顔なんて見たくないと言っているのと変わりがないのではないか。
 颯太の選んだ行動が、優姫に自殺という最悪の選択をさせてしまったような気がしてならなかった。

 遺品から身分証や財布などは見つかったが、優姫のスマートフォンだけは未だ見つかっていないと聞いた。もしかしたら颯太のアパートで電池切れのスマートフォンが見つかるかもしれないが、他の場所にないとも限らない。スマートフォンが見つかれば、優姫が死の直前にデートした相手が颯太だと分かるのも時間の問題だ。

 颯太は優姫の家族に事情を説明し、謝罪をしに行かなければならない。本当ならすぐにでもそうするべきだった。しかし颯太はずっと光の家から出られずにいた。やるべきことは分かっているのに、身体がひどく重い。頭もずきずきと痛んで、起き上がっていることすらままならなかった。
 優姫が失踪の直前に彼氏ができたと言っていたことや、これから会いにいくという発言。そしてその後連絡が取れなくなり、遺体として見つかったことから、家族からすれば彼氏とトラブルがあったと考えるのが自然だろう。
 優姫の家族の連絡先は分からないが、優姫の友人だった絵梨花が取り次いでくれるかもしれない。よく回らない頭で久しぶりにスマートフォンを手に取る。充電器に差しっぱなしになっていたので、電池は満タンになっていた。

 ロックを解除すると、メッセージアプリには見たことのない数の通知が溜まっていた。
 きっと同じ大学で学科だった友人たちが、優姫の死を悼んでいるに違いない。ぼんやりと考えながら颯太はアプリを立ち上げ、目を疑った。
 一番多く通知が来ているのは、先日集まった同窓会メンバーで作ったグループのトーク欄。そのメッセージに、颯太の知らない情報が記されている。

『西野花梨さんの通夜及び告別式のお知らせ』

 同窓会の幹事だったクラスメイトが送信したメッセージだった。
 そこには続けて詳細が書かれている。
 一昨晩、水曜日の深夜、西野花梨は泥酔状態で大型トラックの前に飛び出してしまった。すぐにトラックの運転手が救急車を呼んだが、救急隊員が到着したときにはすでに花梨は息を引き取っていた。
 花梨が一人だったこと。花梨の足元が覚束なかったこと。そして他の車の影からふらふらとトラックの前に飛び出してきたことが、ドライブレコーダーの映像で確認されたそうだ。

「…………なんで、倉橋さんに、西野さんまで……」

 答える人はどこにもいないのに、颯太は絶望を口にせずにはいられなかった。
 優姫の自殺は、おそらく颯太に原因がある。しかし花梨の死は事故で、颯太には直接的な関係はない。そう分かっていても、自分に関わる人が立て続けに亡くなったショックは大きかった。

「疫病神かよ……」

 最初に死んだのは両親だった。強盗は颯太だけを生かし、颯太の両親を刺し殺した。
 次は倉橋優姫。同じ大学の友人で、颯太の好きだった人。デートをするほど仲がよくなれていたのに、彼女は自ら首を吊ってしまった。颯太が優姫の行動に怯え、彼女を突き放したからだ。
 そして西野花梨。初等部から高等部まで同じ学校に通っていた、颯太の初恋の人。明るい笑顔と光に想いを寄せているところは昔と変わらなかった。確か花梨は日曜日に光と会う約束をしていた。光のことを救いたいと心配していた花梨は、光とのデートの約束を楽しみにしていただろう。酔っ払っていなければ、事故にあうこともなく、光ともまた付き合う未来があったのかもしれないーーー。


 ふと、颯太は思い出した。
 光の家のリビング。つまり今颯太がいるこの場所に、颯太はこっそりカメラを仕掛けていたのだ。花梨にアドバイスをされてカメラを仕掛けたが、その夜に優姫の死を知り、すっかり忘れてしまっていた。
 颯太はひどく重い身体でカーペットの上を這うように移動し、カメラを回収する。花梨が亡くなってしまったのなら、盗撮する意味はないだろう。
 光を救いたいという気持ちは確かに颯太の心にあったはずなのに、疫病神である自分が親友を救うことなどできるはずがない気がした。

 スマートフォンのアプリから、カメラで録画した映像を早送りで流していく。
 このカメラも、光のプライバシーを侵害しただけの意味のないものだったな、と颯太が考えていたときだった。

 早送りで流れる映像に違和感を覚え、颯太は少し巻き戻しをする。今度は倍速ではなく普通に再生するが、リビングで光と颯太が会話をしているだけの、普通の光景に見えた。

 違和感は気のせいだったのかもしれない。
 それにしても小型カメラだというのに、随分と画質がいい。光の嫌悪感たっぷりの表情まで、はっきりと録画されている。そこで颯太はようやく違和感の正体に気がついた。
 光は、颯太にこんな表情を向けたりしない。嫌いなものを、汚いものを見るような目で、颯太のことを見たことなんて一度もない。

 重かった頭が一気にクリアになった気がした。颯太はスマートフォンの音がオフになっていることに気づき、慌てて音量を大きくする。そしてもう一度動画を戻し、再生する。
 画面の中の光が、部屋から出てきて「お、颯太起きてるじゃん。なんか食えそう?」と優しい声をかけてくれている。その表情には心配の色が浮かんでいて、いつも通りの光に見えた。

「俺がお前の手作り料理を食うの? 勘弁してよ」
「うっわ……なんだ、ニセくんかよ」

 光の顔が嫌悪に歪む。颯太は混乱して、一時停止の文字をタップしていた。
 自分の耳に聞こえている声とは少し違うが、光に答えたのはきっと颯太の声なのだろう。
 でも、何かがおかしい。いや、違う。全てだ。全ておかしい。
 震える指で再生をタップすると、光は颯太の方を見ようともせず、それでも颯太に向かって話しかけた。

「つーか最近ニセくん率高いな。颯太かなり参ってる?」
「だろうな。だから言っただろ、お前のせいだって」
「事件の日の話をしちゃったのは悪かったと思ってるって。颯太にもちゃんと謝ったよ」

 二人は会話をしているが、全く目を合わせない。互いに興味がないとでも言いたげに、全く別の方向を見て話をしている。
 画面の中の颯太が振り返り、カメラに目線を送った。ニヤリと浮かべた笑顔は、生まれてこの方颯太が一度も見たことのない、自分でも知らない表情だった。
 この颯太はカメラの存在に気づいている。いや、知っているのだ。だってカメラを仕掛けたのは、他ならぬ颯太自身なのだから。

 颯太の顔と声をした、颯太ではない誰か。
 光が『ニセくん』と呼び、当たり前のように会話をしている相手は、誰だ?
 颯太と同じ姿形をしていて、颯太ではないもの。颯太の偽物。
 だから、『ニセくん』ーーー?

 この身体は、何かがおかしい。この身体の中に、別の誰かが住んでいる。別の人格が、存在しているーーー。

 寒くないはずなのに、全身に鳥肌が立っていた。颯太はやけに速い心臓の音を聞きながら、自分の身の回りに立て続けに起こった事件について、考えを巡らせた。

 電気をつけることもせず、颯太は必死になってノートに文字を書き続けた。
 必要なのは正確な情報。そして、その情報を客観的に整理する冷静さだ。

 動画を見る限り、颯太の中に別の人格があることは、ほぼ間違いないだろう。問題は、颯太がその人格を認識できていないことだ。これまで颯太は自分に他の人格があるかもしれないだなんて、考えたこともなかった。
 いや、正確には一度だけ。倉橋優姫から颯太のドッペルゲンガーの存在を聞いたときに、冗談で口にした。
 しかしもちろん颯太は本気で自分が解離性同一性障害かもしれないと疑っていたわけではない。現実に存在するかも分からないドッペルゲンガーより、颯太が解離性同一性障害である可能性の方がほんのわずかに高い。そう思っただけなのだ。

 他の人格の存在を颯太は知らなかった。そして、人格がいくつ存在しているのかも、現状分からないままだ。これに関しては、入れ替わっている自覚がない以上、光に確認するしかないだろう。
 そして光に質問をする前に、颯太自身が情報を整理しなければならない。

 第一に、ドッペルゲンガー事件。

 倉橋優姫はきっと、別人格に入れ替わっている颯太を目撃したのだ。優姫は颯太と関わりがあったため、偽物に対し違和感を覚えた。自分に向ける態度が違うことや、声をかけても無視されたこと。他にも立ち振る舞いや表情なども違っていた可能性がある。
 人格の入れ替わった颯太を目撃した学生は、きっと他にもいたのだろう。しかし颯太は交友関係が狭いのだ。
 人気者で有名人の光とよく一緒にいる男子。周りからはきっとその程度の認識しかされていない。ぼんやりとしか颯太を知らない人からすれば、たとえ少し雰囲気が違っていたとしても、人格が入れ替わっているかもしれない、だなんて考えない。だからドッペルゲンガーの話は、優姫の口からしか語られなかった。
 そう考えれば辻褄が合う。

 倉橋さんは嘘を吐いていなかったかもしれない、と颯太はノートに書き込んだ。
 最初に優姫に話を聞きに行ったときのことを颯太は丁寧に思い出していく。あのとき優姫は、ドッペルゲンガーを見た、と言い張っていたわけではない。
 見た目は颯太にそっくりなのに、話しかけたら別人だと分かった、と語っていたのだ。そして颯太が多重人格の可能性を口にしたとき、やんわりと否定したのは光だった。

『颯太が解離性同一性障害だったら、一番に俺が気づくだろー。何年一緒にいると思ってんの』

 どうしてあのときすぐに気づかなかったのか。
 嘘をつくときの光のいつもの癖が、ちゃんと出ていたのに。
 少なくともあの時点で光はすでに知っていた。颯太の別人格の存在に気づいていて、颯太自身に気づかれないようにしていたのだ。
 颯太は当然親友の言葉をあっさりと信じ、優姫も疑わなかった。颯太の別人格は、それほどまでに颯太と違う人のように見えたのだろう。

 何より、光の誘導があまりにも巧みすぎた。
 優姫から颯太にそっくりな人物を見た、と話を聞いた光は、ドッペルゲンガーの情報を集めてきた。
 優姫が颯太のそっくりさんを見た事実はなかったことにできない。それならば、そっくりさんの存在にドッペルゲンガーというそれらしい名前をつけてやればいい、と光は考えたのだろう。

 最初は控えめにドッペルゲンガーという現象の名前だけを出す。ホラーの類が苦手な颯太は、必ずそれを非現実的だと否定し、もう少し現実的な可能性を提示する。自分に別人格があるかもしれない、と。それは普通ならば適当に流せばいい話だが、光は颯太の考えを確実に消し、疑いすら残させたくなかった。
 仮に少しでも自分が解離性同一性障害かもしれないと疑っていたなら、颯太が自分の異変に敏感になってしまうからだ。
 颯太に別人格があるなら長年親友である自分が気づかないはずはない、と光は主張する。その言葉で別人格の存在を否定しつつ、ドッペルゲンガーの解説をしたのだ。

 優姫が見たのはやはり颯太ではない、と強調するために。都市伝説として語られているドッペルゲンガーの特徴と一致することに追加して、そのタイミングで光は一番強力なカードを切った。
 優姫が颯太の偽物を目撃した時間に、光は颯太と一緒にいた、という決定的なものを。
 あまりに巧みすぎて、颯太は疑いもしなかった。事実、颯太はドッペルゲンガー事件の日、光とホラー映画鑑賞会をしていたのだから。

 ノートに情報をまとめていても、颯太の頭は混乱してしまいそうだった。
 全てはニセくんとやらの存在を、颯太にバレないようにするため。光は一人で頭脳戦を始め、颯太と優姫は土俵に立っていることにも気づかぬまま、負けていたのだ。


 第二に、ストーカー事件。

 最後に花梨と会ったときの会話を颯太は思い出す。
 大学で親しかった女の子がストーカーになってしまった、と話をしたとき、花梨はひどく青ざめていた。そして颯太にアドバイスをしてくれたのだ。

『そんなに複雑じゃなくて……、もっと簡単で……すごく現実的な可能性があるんだよ』

 ドッペルゲンガーを見たと嘘を吐き、その嘘を口実に颯太と親しくなる。
 そして取り付けたデートの約束の日、颯太から鍵を盗み、化粧室に行くと偽って、合鍵の作製を依頼する。
 出来上がった頃に再び颯太から離れて二本の鍵を受け取り、オリジナルの鍵を颯太にバレないように返す。
 合鍵で颯太の家に入ってきて、颯太の彼女になれたのだと嬉しそうに笑っていた。

 一連の流れは、優姫が颯太に想いを寄せていて、行動力のある思い込みの激しいストーカーだと仮定すれば、筋は通る。それは確かだ。しかし、不可能ではない、というだけで、かなり成功率は低いのではないか。

 颯太は確かに鍵の入ったバッグを優姫のそばに置いてその場を離れた。でも優姫からすれば、バッグのどこに鍵が入っているのか分かるはずもない。もしかしたら財布と一緒にキーケースも持ち歩いている可能性だってある。
 鍵を返すときもそうだ。たとえば鍵を落としたよ、と言って拾うふりをして返却するなら話は別だが、そんなやりとりがあれば颯太も覚えているはずだ。
 つまり優姫はもっと自然に颯太の手元に鍵を戻したことになる。
 鍵を盗むとき、そして鍵を返すとき。どちらも見つかる可能性が高い上に、失敗してもおかしくない。

 失敗を前提に、できなかったら次回でいいや、と後回しにする計画だったのかもしれない。でも、現に優姫の手元には合鍵があり、オリジナルの鍵も間違いなく颯太は持っている。つまり先ほどの成功率が低そうな計画を、問題なく完遂したことになってしまうのだ。

 もっと簡単な、という花梨の言葉が頭に響く。颯太もすでに分かっていた。
 デートの最中、きっかけは分からないが、どこかのタイミングで颯太は別人格と交代してしまったのではないか。
 そして別人格が優姫を口説き、二人は恋人になる。恋人の証に、とでも言って、颯太の家の合鍵を二人で作りにいった。

 デート中の記憶は曖昧なところがあった。緊張と寝不足のせいかと颯太は思い込んでいたけれど、たぶん違っていたのだ。
 颯太自身は別人格の裏に押し込められていた。だから、別人格が行動しているときの記憶が抜け落ちていた。

 別人格がどんな性格かは分からないし、どうして優姫に近づこうと思ったのかも分からない。しかし、きっと別人格は何かしらの意図を持って、颯太を装ったのだ。颯太の喋り方、仕草、どこまでコピーできるのかは知らないけれど、優姫は信じてしまった。
 翌日、優姫は颯太の家を訪ねてきた。当たり前のように、合鍵を持って。彼女になったから、と嬉しそうに笑いながら。

 光と話していたストーカー説よりも、ずっと現実的な話だった。颯太に別人格があるのならば、それはもう簡単なくらいに。
 ドッペルゲンガーを見たという話は、人格の入れ替わった颯太を見ただけ。そしてデートでは颯太の別人格に騙され、本当に颯太の彼女になったと信じていた。そしてもらった合鍵で、颯太の家を訪ねた。

 つまり倉橋優姫は、何一つ嘘を吐いていなかったのだーーー。

 ノートにまとめるうちに頭の中は整理されていくのに、やけに頭が重い。優姫に対する罪悪感で胸の奥が痛み、颯太は泣きたくなったけれど、何とか堪えた。
 深く呼吸をして、重たい感情も二酸化炭素と一緒に吐き出す。
 心を保て。帰ってきたら光から話を聞くんだろう。それまでに事情を把握しておかなければいけない。訊きたいこともまとめておかなければ。
 必死に自分を奮い立たせ、颯太はノートのページめくった。


 三つ目、光と花梨の共通の秘密である『それ』。

 花梨は光に嫌われることを恐れて、『それ』の内容を最後まで口にしなかった。しかしきっと花梨が中等部のときに偶然知ってしまった秘密も、颯太の別人格のことなのだろう。

 中等部二年のとき、保健室で偶然休んでいる颯太に会った。花梨は何かしらの違和感を覚え、光に相談した。光は『それ』をすでに知っていて、花梨に口止めしようとした。
 『それ』は絶対に誰にも言うな。誰かに言ったら、お前のことを嫌いになる、と。
 口止めしようとした光は、花梨に交換条件を持ち出された。誰にも言わない、颯太には絶対に言わないから、だから自分と付き合ってほしい、と。その要求を光は受け入れたーーー。

 親友のはずなのに、颯太には光のことがさっぱり分からなかった。どうしてそこまでして、颯太から別人格の存在を隠そうとしていたのか。自分の身を花梨に差し出してまで、隠す必要がどこにあるのだろう。颯太の心の安寧は守られるかもしれない。
 しかし光の意思は? 自由は? どこにあるというのだろう。当時の光に、好きな人はいなかったのだろうか。付き合いたいと思うような相手や、一緒にいたいと思う大切な人。もしもいたのなら、とんでもない自己犠牲の精神だ。

 颯太に全てを話そうとは思わなかったのだろうか。
 両親の事件の後、長らくの間颯太の心はかなり不安定だった。もしかしたら強盗殺人事件が原因で、別人格が生まれたのかもしれない。
 でも光はいつも颯太に対して普通に接してくれていた。調子がいいときも、悪いときも。おどけたり、心配したりしながら、ずっとそばで笑ってくれていた。笑顔の裏でどれほど一人で抱え込んできたのか、颯太には想像もつかなかった。

 話してほしかった、と颯太は自分の気持ちをノートに書き込む。もちろん真実を知れば、ショックは受けるだろう。実際に颯太は自分の中に他の人格が宿っていると知り、薄気味悪さを感じている。考えることをやめてしまえば、恐怖に飲み込まれてしまいそうだ。
 しかし、きちんと順序立てて話を組み立て、颯太に十分な心の準備をさせればよかっただけではないのか。光が一人で抱え込む必要はなかったのだ。

 考えているうちに、颯太はふと気がついた。自分の中に他の人格が宿っていること。その事実をもっと早く知りたかったのではない。
 颯太はただ、光が頼ってくれなかったことが寂しかったのだ。颯太のことで頭を悩ませて、苦しめてしまった。それなのに颯太の前ではいつも楽しそうに笑っていた親友に、どうしようもない寂しさを覚えている。
 大切にしてくれていることは分かっている。きっと颯太の心を守ってくれていたのだ。でも同じように、颯太も光のことをちゃんと心配したかった。光が悩んでいることを聞いて、解決できなかったとしても一緒に頭を悩ませて、そばで支えたかったのだ。

 何も知らずにのうのうと守られていたくせに。颯太が原因で光を苦しませていたくせに。烏滸がましいかもしれない、それでも颯太は思う。

 光と対等になりたい。
 光が颯太を頼れるくらい、強くなりたい。
 ずっと光が颯太のことを支えてくれていたみたいに、光が辛いときは今度こそ颯太が手を差し出したい。

 颯太はノートにまとめた情報を読み返し、光の帰りを待った。

 帰ってきた光は、料理をしている颯太を見て驚いたような顔をした。優姫の訃報を聞いてからずっと、死人のように動けなくなっていたので、それも仕方のないことだろう。

「おかえり、光。キッチン借りてるよ」
「おお、いいけど…………。ただいま」

 眉を下げた光がキッチンを覗き込み、「起きてて大丈夫?」と颯太に訊ねた。今も身体は重いままで、頭の痛みも残っている。それでも颯太は笑って答えた。

「元気ではないけど、でも大丈夫」
「別に無理して起きなくてもいいだろ。メシくらい俺が作るし」
「うん、でも何かしてたいから」

 ノートに情報をまとめ終え、手を止めた後、颯太は気がついた。本当ならば休んでいたいくらい身体はだるいのに、寝転がって目をつぶっている方が苦しい、と。
 無理にでも身体を動かしていないと、思考が勝手に悪い方へと進んでいき、罪悪感と不安で気が狂ってしまいそうだったのだ。

 光は部屋で着替えを済ませると、キッチンで颯太が作ったご飯を盛り付ける。
 大根と油揚げの味噌汁、ほっけの塩焼き、出汁巻き玉子、ほうれん草の胡麻和え。
 二人で夕飯を食べ始めると、颯太の頭の中は再び自責の念や不安、そして別人格に対する疑問で埋め尽くされた。
 まずは何から訊ねようか、と迷っていると、颯太の考えを読んだかのように、光が口を開く。

「……あのさ、颯太がいろいろ考えてるのは分かる。でも、……倉橋さんのこと、颯太のせいじゃねえよ」

 ためらいながらも光は優姫の名前を出した。優姫が自殺してしまったのは自分のせいだ、と颯太が自分を責めていることは、光にはお見通しのようだった。

「ありがとう。でも、僕のせいだよ」
「……颯太」
「ねぇ光。倉橋さんはストーカーじゃなかった。……違う?」

 颯太の問いに、光の箸を持つ手が止まる。数秒の沈黙はやけに重たく感じて、颯太は自分の心音を数えながら聴いていた。
 光はふうと息を吐き、一度箸を置くと、颯太の目をまっすぐ見つめて首を傾げた。

「……どうした? 倉橋さんが颯太のストーカーなら全部筋が通るって、颯太も納得してたじゃん」
「うん、そう思ってたけど。でも、他の可能性に気づいたんだ。もっと単純な話だって」

 整った顔がわずかに曇る。颯太は光の表情の変化を見落とさないよう、じっと親友の目を見つめ返していた。
 しばらくの間、二人は口を噤んだまま見つめ合っていた。それはただの我慢比べだった。
 光の口からちゃんと聞きたい。颯太の中に眠る人格の話も、どうして今まで頑なに隠していたのか、自分を投げ打ってまで秘密を守ろうとしたその理由も、全部。

 しかし光は颯太をただ見つめるだけで、決して自分から語ろうとはしなかった。できれば光に自発的に語ってほしいと思っていたが、それは無理な話だ。光は颯太の人格の秘密を、誰よりも颯太自身に知られたくなくて、ずっと一人で抱え込んできたのだから。
 我慢比べは颯太が折れた。きっと光は意地でも語らない。颯太が自覚してしまった、とはっきり分かるまでは。

「僕は、解離性同一性障害なんだよね?」
「…………」
「もう一つ、ううん、もしかしたら僕の中には複数の人格が眠っている」

 光は答えなかった。
 頷きはしないけれど、否定もしない。ただ颯太を見つめる目に、悲しみの色が混ざった気がした。

 西野花梨と会って話したこと、そしてカメラを仕掛けたことは伏せて、颯太は自分の考えを語っていく。
 ドッペルゲンガー事件とストーカー事件。颯太に別人格があるのなら、どちらも複雑な事件ではなかったのではないか、と。

「颯太が解離性同一性障害だったら、俺が真っ先に気づくって、前に言ったじゃん」
「うん。光は知ってて嘘を吐いた。何か理由があって僕に隠してたんでしょ」

 まっすぐな颯太の視線に、光は何かを諦めたように笑ってみせた。
 そして味噌汁に手を伸ばすと、一口飲み、「颯太が作る味噌汁ってうまいよな」と光は呟く。颯太の別人格については語るつもりがないという意思表示だろうか。戸惑いながら颯太は「おばあちゃんにかなり仕込まれたからね」と答えた。

「…………ニセくんの作る味噌汁は、すげーしょっぱいんだよね」
「えっ?」
「あれはいつだったかな……あんまり入れ替わらなくなってきてからだから、高校のとき?」

 光は味噌汁のお椀に目線を落としたまま、静かな口調で語る。


 颯太たちが高校生になると、それまで光の家に毎日来ていた家政婦が来なくなった。
 元々父親は仕事が忙しく、ほとんど家に帰ってこない状態で、母親を早くに亡くなっている。光が高校生になるまでは、光の父が雇った家政婦が、家事全般をやってくれていた。しかし何の相談もなしに突然家政婦との契約は解除され、光は途方に暮れていた。

「父さんは昔から外面だけの人間で、いい父親ぶってるくせに俺には全く興味がなかった。家事も子どもの身の回りの世話も、金で解決できるって思ってる人だったから」
「……それは、覚えてる。家政婦さんがいなくなって、家のことどうしようって光が言ってたから、僕が手伝いに行ったんだよね」
「そうそう。颯太に教えてもらいながら俺も少しずつ家事を覚えて。そのときかな、たぶん」

 光が洗濯物を畳んでいる間、颯太が夕飯を作っていたそうだ。しかし、気づかぬうちに颯太の人格が入れ替わっていて、別人格の手料理を食べることになったらしい。
 眉を下げて笑いながら、光は「俺が作った方がマシなんじゃないかってくらい、ニセくんの料理はひどかった」と語る。
 颯太の身体なのに、別の人格になると料理ができなくなってしまう。そういうこともあるのか、と颯太は驚きながら光の話を聞いていた。

「後にも先にもあれっきりだな。ニセくんの手料理食ったの」
「……ニセくんっていうのが、僕のもう一つの人格?」
「ん。颯太の身体に入ってるけど、颯太じゃない偽物。だから、ニセくんって俺は呼んでる」

 ついに、光が語った。颯太の中に眠る別人格について。ずっと一人で抱え込んでいたその秘密を。
 親友が話してくれたことに対する喜びは大きい。颯太のことでこれ以上光を悩ませたくない、と思っていたのは嘘偽りない本当の気持ちだ。
 しかし同時に、先ほどまでは疑念だった別人格の存在が、はっきりと光によって証明されてしまった。
 途端に自分という存在が気味の悪いものに思えて、颯太は鳥肌の立った腕をさすった。

「……ついに颯太がニセくんの存在に気づいちゃったか」
「光は僕に隠したかったんだ?」
「そりゃあそうだろ。だって自分の中に他の人格があるなんて、かなりショックが大きいじゃん。ニセくんに乗っ取られて、二度と颯太が戻ってこなくなるかも、ってずっと思ってたよ」

 光は困ったような表情で笑う。杞憂だったみたいでよかったけど、と付け足された言葉に、颯太はどんな表情を浮かべればいいのか分からなかった。

 どうして光が必死に、颯太の別人格のことを隠そうとしていたのか、ようやく分かった。
 難しい話ではなかった。光はただ『颯太』を守ってくれていたのだ。颯太の身体ではなく、ニセくんという別人格でもなく、『笹木颯太』という存在が壊れてしまわないように。
 颯太が真実を知って傷つけば、偽物にその身体を奪われてしまうかもしれない。その可能性を危惧して、光は颯太に真実を明かさなかった。
 全ては友人である『颯太』の存在を守るため。

 まだ聞きたいことは山ほどある。理由を知ってもなお、どうして話してくれなかったの、と問い詰めたい気持ちは残っている。
 何より、僕のために光が自分を犠牲にすることはなかったんだよ、そんなのは僕も悲しいよ、と颯太は伝えなければならない。これ以上、光が颯太のために自分を犠牲にしてしまうことがないように。

 それでも今だけは、颯太は何も言えなかった。目の前に座る光が、少しだけ泣きそうな顔をしていたからだ。
 真実を知っても颯太が別人格に乗っ取られなかったからか。それともようやく重責から解放されたからだろうか。どちらにせよ、今の光の心を占めるのは安堵の気持ちに違いない。
 迷惑かけてごめんね、と言いかけた言葉を、颯太は飲み込んだ。きっとそんな言葉を光は望んでいない。

「……ずっと、今まで、ありがとう」

 守ってくれて。支えてくれて。そばにいてくれて。
 どれほどお礼を言ってもきっと足りない。それくらい颯太は、光に返しきれないほどの恩がある。

 何がだよ、と冗談めかして笑う光に、颯太は少しだけ迷って、「僕の友達でいてくれて」と口にした。
 女の子の友情はどうなのか知らないが、男同士の友人関係で、こんな風にはっきりと『友達になってくれてありがとう』と伝えることは少ない。
 照れ臭くなって思わず目を逸らした颯太に、光は小さく吹き出した。

「笑わないでよ、恥ずかしいこと言った自覚はあるんだから」
「いや、そうじゃなくて」
「何?」
「そんなの、俺のセリフなのにな、と思ってさ!」

 驚いて颯太が光の顔を見ると、親友は眩しいくらいの笑顔を浮かべている。
 そしてやはり少し恥ずかしかったのか、「せっかく作ってくれたご飯、冷めちゃったな」と誤魔化すように口にした。

 冷めた夕飯を温め直し、二人は食事をしながら話をした。
 最初はためらいがちに、颯太の顔色を伺いながら。だんだんと話のテンポがよくなってきたのは、きっと颯太はすでに話を聞くための心の準備ができている、と光も気づいたからだろう。

 解離性同一性障害は、心的外傷をきっかけに生じることが多いと言われている。親からの虐待や、性暴力の被害経験。自分の身に起きた辛い出来事を受け入れると心が壊れてしまうため、苦痛を引き受ける代わりの人格が生まれる。

 颯太の場合はたぶんあの事件だと光は言った。
 それは颯太も予想していたことだ。本当に颯太の中に他の人格があるならば、どうしてその人格は生まれたのか。耐え難いほどのショックといえば、やはり両親を殺害された事件が一番に思い浮かぶ。
 死んでいる両親を発見したときのことは覚えているのに、強盗が入ってきたときの記憶はなかったり、事件後もしばらくはふわふわした曖昧な記憶しかない。

 光の話を聞きながら、颯太はぼんやり考える。
 もしかしたら颯太は、両親が殺される瞬間を見ていたのかもしれない。その事実に耐えられず、別人格が生まれたのだとしたら? それならば、両親の死体を発見する少し前。強盗が入ってきたときの記憶がないことも、説明がつくのではないか。
 颯太の考えを置き去りにし、光の話は進んでいく。

「さっき颯太は人格が複数あるかもって言ってたけど、俺の知る限り、颯太の他にはニセくんだけだよ」
「光とニセくんは、面識があるんだよね?」

 この答えを颯太は知っている。カメラで撮影し、二人が話しているところを見たからだ。光は嘘を吐くこともなく「あるけど、仲はよくないかな」と答えた。
 友達を乗っ取ろうとしてるやつと仲良くなれるわけがない語る光に、颯太は目を丸くする。
 そういえば光はさっきも同じ言葉を使っていた。自分に別人格があると知ったら颯太がショックを受け、ニセくんに身体を乗っ取られるかもしれない、と。
 話を聞くうちにだんだん不安になってきて、颯太は眉を下げて光に訊ねる。

「もしかして、ニセくんってやばい人?」
「んー、目的のためなら手段は選ばないタイプ?」
「えっこわいんだけど」

 箸でつまんでいたほっけが、ぽと、と皿に戻っていく。颯太の顔色が変わったことに気づいたのだろう。光は笑いながら言葉を続けた。

「まあ、俺の前では極端なだけかもしれないけど。俺とニセくんは目的が真逆だからなー。俺はニセくんを消したい、ニセくんは颯太の身体を乗っ取りたい、って感じでさ」

 光は何か嘘を吐いた。気になったが、颯太は追求しなかった。もしかしたら颯太の別人格には、颯太を乗っ取る以上の目的があるのかもしれない。そう思ったからだ。
 それに嘘よりも、光の発言が気になった。

「ニセくんを……消す……?」

 思わず復唱すると、光は大盛りだったご飯を全て食べ終え、手を合わせるところだった。
 ご馳走様でした、と光が箸を置くのを見届け、颯太は改めて「どういうこと?」と訊ねる。

「ああ、消すって言い方がよくないか。人格を統合するんだよ」

 そうすれば颯太の身体は、ちゃんと颯太の元に返る、と。複数の人格を一つにまとめる、そんなことができるのだろうか。いや、それよりも。

「どうして光がそこまでするの。確かに僕としては、知らない間にニセくんが動き回ってたら困るし、気味も悪いけど。でも光は別に困らないでしょ」

 颯太の言葉に、光は大きなため息をこぼす。
 それから「ニセくんじゃない」と小さな声が響いた。

「……俺を救ってくれたのはニセくんじゃないんだよ」
「救った? 僕が光を?」

 記憶を探ってみたが、颯太が光を救うような状況は思い当たらなかった。立場が逆ならば何度も助けられているのに。
 颯太が頭を悩ませていると、光はやわらかく笑みを浮かべ、「颯太にとってはたぶん何気ないことだったから」と前置きして答えを教えてくれた。

「かなり前の話だけど……颯太が、俺みたいになりたい、って。言ってくれたじゃん」
「それは今も普通に思うけど。……えっ、それだけ?」
「それだけ。俺はそれがめちゃくちゃ嬉しかったんだよ」

 悪いか! と頰を膨らませる光は、珍しいことに少し幼く見えた。
 光みたいになりたい、だなんて、光と関わったことのある人なら誰でも考えそうなことだ。それなのに光は、颯太の口にしたその言葉に救われたという。

 誰からも憧れられるような存在なのに、光は颯太に特別優しい。それこそ元彼女の西野花梨に、『光は颯太くんがいないとダメだから』と言われてしまうくらいには。
 ずっと前から不思議だった。どうしてたくさん友達がいるのに、いつも光は颯太に合わせてくれるのか。自分のためだ、と光は言っていたけれど、颯太が口にした言葉をずっと大事に思ってくれていたからなのだ。
 颯太の視線に気づき、光は照れたようにそっぽ向く。そして話を戻すけど、と言って再びニセくんの話を始めた。

「颯太が颯太として安心して暮らせるようになるためには、対策が必要だと思うんだよ」
「僕が僕として、か……」
「うん。手っ取り早いのは入れ替わるトリガーを引かないことかな」

 光は自分の持っている情報を丁寧に語り出す。
 颯太の中の別人格、ニセくんは、颯太が強い恐怖心や不安を感じたときに現れる。だから光はホラー映画の克服と称して、颯太に恐怖心への耐性をつけようとした。ホラー映画鑑賞会を二人でよく開いていたが、裏にそんな目的が隠されていたとは知らず、颯太は目をまたたかせる。

「ちなみに効果あった……?」
「……ちょっとだけ? ホラーとかびっくり系はマシになったよ。前は見るたびに毎回入れ替わってたけど、普通のホラーならビビるけどギリギリ入れ替わらない」

 ただ血液が出てくるとほぼ確実に入れ替わるな、と光は呟く。
 血を見ると、それがフィクションだと分かっていても颯太の頭の中では連想されてしまうからだ。両親が殺害されたあの日、死体に縋り付くあのときの光景が。
 颯太の意思とは関係なく、連想ゲームのように、血液を見ると、強盗が入ったあの日にトリップしてしまう。ひどいときにはショックが大きくて、気を失ってしまうこともある。だからグロテスクなシーンは苦手だと思っていたが、まさか人格が入れ替わるトリガーだったなんて。

 話をしているうちに、颯太はふと思い出す。確か優姫が颯太のドッペルゲンガーを見た、という日は、光とホラー映画鑑賞会をしていたのだ。
 つまり映画の最中、耐え難い恐怖で颯太はニセくんと入れ替わってしまった。光とニセくんは仲がよくないので、ニセくんが勝手に行動するのを光は止めなかった。
 そしてなぜか颯太の大学まで足を運んだニセくんは、優姫に目撃され、ドッペルゲンガーかもしれない、と勘違いされたというわけだ。
 推理した流れを言葉にすると、光は困り眉で「あれはマジで止めておけばよかったよな」とため息をこぼす。

「確かにニセくん一人で出かけたけど、まさか大学に行くとは思わなかったんだよ」
「前から勝手に行動することはあったの? ニセくん一人で」
「あるよ。気づいたらいなくなってる、なんてしょっちゅう。でも怪我とか危ないことするわけじゃないから放っておいたんだよな」

 失敗だった、と再び肩を落とす光に、颯太は慌てて「光のせいじゃないよ」とフォローを入れる。
 そもそもニセくんがどうして大学に行ったのかは分からないし、それ以外の行動の意図も読めない。
 たとえば優姫とデートをしたとき。あの日もきっと、映画の最中にトリガーが引かれた。入れ替わったニセくんは、なぜか優姫と親しくなろうとしたのだ。恋人になろうと告白をし、家の合鍵を作って渡したのだから、おそらく間違いないだろう。
 しかし、それがなぜだか分からない。どうしてそんなことをする必要があったのか。大学で優姫に目撃され声をかけられたときのように、無視をしてもよかったはずだ。デートなんて知るか、と好き勝手に振る舞ってもおかしくなかったのに、わざわざニセくんは颯太のふりをして、デートを続行したのだ。

「どうしてニセくんは、倉橋さんと仲良くなろうと思ったんだろう。ニセくんにメリットがあるとは思えないけど……」
「…………倉橋さんに合鍵を渡せば、いつかはああいうことが起こるって分かってたからじゃん?」

 ああいうこと。つまり、優姫が無断で颯太の家の中に入ってくる、ということだ。
 そんなことをしてどんな意味があるのだろう、と少し考え、颯太はハッと気がついた。

「もしかして、僕を怖がらせて、入れ替わろうとした……?」
「まあ俺もニセくんに直接聞いたわけじゃないから本当のことは分かんないけど。でも、颯太を怯えさせて身体を乗っ取ろうとしてるなら、説明つくよな」

 颯太の心に形容しがたい不安が生まれる。今は颯太が強い恐怖を感じたときに、人格が入れ替わるだけで済んでいる。
 しかし、もしも肉体の主導権をニセくんに奪われてしまったら。そのとき、颯太の意識はどこへ行ってしまうのだろうか。

 たとえば光が言った通り、颯太の人格にニセくんを統合できるのだとしたら。逆もまた、可能なのではないか。ニセくんの人格に颯太が吸収されてしまう。そんな可能性も、ないとは言い切れない。

 自分が消えてしまうかもしれない。
 唐突に突きつけられた危険に、颯太の中で恐怖が生まれた。表情の変化に気づいたのか、光が「大丈夫だから落ち着け」と颯太に声をかけてくれる。

「怖いって感じること自体は防げないじゃん? でも恐怖を感じた後に、『怖いけど大丈夫』って思えれば入れ替わらないんじゃないか?」

 ほら、倉橋さんが家に乗り込んできたときみたいに、と光に言われ、颯太は思い出す。
 確かにあのとき、颯太は強い恐怖心を抱いていたはずだ。しかし、人格の交代はしなかった。

 それはどうしてか。
 どうにかして光の家まで逃げられれば。光の元まで辿り着ければ、きっと大丈夫だ、と無意識に思っていた。

 颯太は深く呼吸をし、自分の心に襲ってくる不安と恐怖を、まっすぐ受け止める。
 ニセくんは颯太の身体を乗っ取ろうとしている。そして、優姫を使って罠を仕掛けたように、また颯太を陥れようとするかもしれない。
 人格の入れ替わりを何度も繰り返し、颯太のショックが大きければ、ニセくんに飲み込まれてしまう可能性もある。
 大丈夫、と颯太は自分に言い聞かせた。
 そんな最悪な事態が起きてしまったとしても、戻ってこられるはずだ、と。

「……もしもニセくんに入れ替わって、僕がなかなか戻ってこられなかったら……光が、僕の名前を呼んでよ」
「名前?」
「うん。光はニセくんのことを、『颯太』とは呼ばない。光が『颯太』って呼べば、それは僕のことでしょ?」

 人格が入れ替わったときのための、命綱。他の誰でもなく、光が握ってくれていれば、颯太は安心できる。
 何か恐怖を感じることがあっても、『怖いけど大丈夫』と思うことができるはずだ。
 光は数回目をまたたかせ、首を傾げる。

「そんな大事な役目、俺でいいのかよ」
「光じゃなきゃダメなんだよ」

 颯太は真面目に頼んだのに、光は少し照れたように笑った。