目を覚ますと、颯太はベッドの上にいた。どうやら光がベッドに貸してくれたらしい。起き上がってカーテンを開けると、すっかり日が昇っている。サイドテーブルの目覚まし時計は、十一時を示していた。
 颯太は随分長い時間眠っていたようだ。頭がやけに重いのは、眠りすぎたからだろうか。

 光はどこにもいなかった。代わりにリビングには書き置きが残されている。
 昨日はごめん。言い訳も説明もないシンプルな謝罪の言葉に、颯太はすっかり気が抜けてしまった。

 昨晩の光の言葉は確かに驚いたし、ショックも大きかった。何があっても颯太の味方だと思っていた光が、颯太のトラウマに触れるような発言をするなんて、想像していなかったからだ。
 昨日は取り乱してしまったが、あのとき光は颯太に何か話を聞いてもらいたかったのではないか。

「いくら事件のことに触れられたからって、光を責めたみたいになっちゃったなぁ……」

 颯太はぼんやりと昨晩のことを考え、激しい自己嫌悪に襲われる。
 思い返してみれば光は、「事件のことっていうか」と何かを言いかけていた。きっとあの言葉には続きがあった。颯太の感情が昂ってしまったせいで、光は無理矢理言葉を飲み込んだのだ。

 自己満足だ、と光は言っていた。思い出して、颯太に許してほしい、と。
 事件当時のことを思い出すのは今でも辛い。それでも、颯太が何かを思い出すことで、親友の心を少しでも救うことができるなら、思い出すべきだ。

 颯太はスマートフォンのアプリを立ち上げ、光にメッセージを送った。
 謝罪の言葉と、もう一度ちゃんと話を聞かせてほしい、という内容だ。今度は取り乱さないようにするから、と入力しながら、颯太は静かな部屋で苦笑をこぼす。
 事件当日の話をする、とあらかじめ心の準備をしていれば、昨晩のような取り乱し方はしないはずだ。もちろん感情は揺さぶられるだろうが、ずっと心の支えだった親友に、八つ当たりするような愚行は避けられる。

 メッセージに既読の文字はつかない。光はバイトに行っているのかもしれない。だとしたら返事を待つだけ無駄なので、スマートフォンと財布を持ち、颯太も家の外に出た。
 心が不健康な状態にあるときは、日光を浴びながら少し身体を動かした方がいいのだ。昼間の太陽はいつもよりも明るい気がする。起きたばかりの颯太には、少し眩しすぎるくらいだ。
 目的地も決めず、ただ太陽の光を浴びながら、颯太は散歩をする。頭の中では、昨晩の光への八つ当たりの反省と、事件の記憶がぐるぐると回っていた。


 颯太が初等部六年のときに起きた、強盗殺人事件。
 頭を殴られて颯太は怪我をし、両親は刺し殺された。
 血で汚れたリビングや、冷たくなって動かなくなった両親の身体。頭から血を流しながら、必死になって両親の身体を揺さぶる颯太。
 両親の遺体を発見したときの忌まわしい光景は脳裏にこびりついている。それなのに、ほんの少し前、事件が起こったときの記憶は、颯太の頭からすっぽり抜け落ちてしまっている。

 誰に、どうして、どのように、両親は殺されたのか。
 思い出そうとしても、頭に思い浮かぶのはすでに血まみれになったリビングだ。しかも思い出せない上に、頭痛というオプションまでついてくるのだから困ったものである。

 強い日差しの中を歩きながら、颯太は事件当日の記憶を掘り起こそうと頑張ってみた。しかし、結局何も思い出せないまま、耐え難い痛みだけが颯太の頭に残った。

 いつも通りの平凡な一日だったのか。もしくは何かきっかけになるような特別な出来事があったのかもしれない。光が思い出してほしいのは、事件の日に起きた何かだが、事件とは一切関係のない話だという可能性もある。
 頭痛に耐えかねて、颯太は一度思考をストップした。

 自動販売機で水を購入し、一気に喉を潤すと、少しだけ頭の痛みも和らぐ。颯太は息を吐き、公園のベンチで休憩を取ることにした。
 しばらく空を眺めながらぼーっとしていると、ポケットの中のスマートフォンが振動してメッセージの受信を伝える。光だろうか、と急いでアプリを立ち上げたが、送信者は西野花梨だった。

『花梨です! 昨日はありがとね! 颯太くんと久しぶりに会えて嬉しかったよ。昨日言った通り、光には内緒で話ができないかな?』

 絵文字やスタンプが多用されていて、メッセージを見ただけで花梨の明るい性格が伝わってくる。
 会えて嬉しかった、という言葉の後にはハートマークまでついている。事前に光から花梨と付き合っていたという話を聞いていなければ、颯太は変な勘違いをしてしまっていたかもしれない。
 スマートフォンのカレンダーで予定を確認して返事を送ると、花梨からはメッセージではなく電話がかかってきた。

『もしもし、颯太くん? ごめんね、急に電話して』
「ううん、大丈夫だよ。どうしたの?」
『すぐに返信が来たから、もしかして颯太くん、今なら時間があるのかなと思って。できれば早めに話したいの。ダメかな?』

 繋がった電話の向こうで花梨が首を傾げた気がした。今日の颯太の予定は、夕方以降のバイトだけだ。どうやら光もすぐには帰ってこないようだし、謝罪のメッセージは送ってある。このまま颯太が出かけたとしても問題はないだろう。

「大丈夫だよ。僕も西野さんに聞きたいことがあるんだ」

 颯太と花梨は電話で待ち合わせの場所を決め、一時間後に顔を合わせることになった。


 下北沢にある小さなカフェで、二人は落ち合った。あまり土地勘のない地域な上に、行ったことのない店だったので少し迷ったが、颯太は無事に店に辿り着くことができた。
 すでに花梨は窓際の席に座っていて、店内から笑顔で颯太に手を振る。颯太も手を振り返し、店内に足を踏み入れた。

 ピアノの優しい音色で奏でられるクラシック音楽と、コーヒーの香りが漂う店内。
 隠れ家のような落ち着いた雰囲気で、店員は店主らしきおじいさん一人だけだ。きっと常連客ばかりなのだろう。白髪混じりの店員は、颯太を見て少しだけ驚いたような顔をした。

「すみません、待ち合わせで……」
「ああ、いらっしゃい。花梨ちゃんなら角の席ですよ」
「ありがとうございます」

 テーブルの数は少ないけれど、三分の一は客で埋まっている。老齢の夫婦はのんびりとコーヒーを楽しんでいるようだし、手前の四人がけの席を独占するスーツ姿の男は新聞を広げながらうたた寝をしていた。
 奥の席に座る花梨もリラックスをしているようで、大きなカップを両手で持ちながら颯太にやわらかく笑いかけた。

「ごめんね、急に呼び出して。場所も私のわがまま聞いてもらっちゃったし……遠くなかった?」
「そんなに遠くないよ。光のマンションからだから、むしろ近かったくらい」
「えっ、昨日光の家に泊まったの?」

 いいなぁ、と花梨がおどけて笑うが、颯太はどんな反応を返せばいいか分からなかった。
 花梨はまだ光のことが好きなのだろうか。
 それに考えなしに家の話をしてしまったが、光が今住んでいる場所を花梨は知っているのか。もし知らなかったのだとしたら、颯太は余計な情報を与えてしまったことになる。

 倉橋優姫のストーカー問題があったというのに、颯太は相変わらず脇が甘い。今の颯太の発言で光を危険に晒してしまったらどうしよう、と心中で不安に思っていると、花梨が光の住む土地の名前を口にした。

「すごくいいところに住んでるよね。さすがお坊っちゃま」
「いや、光も頑張ってバイトしてるし……」
「うん、えらいよね。別にバイトなんてしなくても、光の家なら生活にも遊びにも困らないはずなのに。予定がいっぱいになるくらいバイトを詰め込んでるでしょ」

 そういうところ、好きなんだ。
 花梨がカップに目線を落とし、どこか寂しげな表情で笑った。

 やはり花梨は今でも光のことが好きなのだ。もしかして颯太を呼び出したのも、光との仲を取り持ってほしいという要件だろうか。
 颯太にとっては初恋の相手だが、花梨のことは友人として好きだし、光のことも大切に思っている。二人が付き合って幸せになれるなら、もちろん応援したいとは思う。
 しかし光の言う通り、花梨が光を何かしらの理由で脅して付き合っていたというなら。そして、光が花梨と再び付き合うことを望んでいないのならば、颯太は花梨の恋の協力はできない。

「…………本題に入る前に、颯太くんも何か頼みなよ」
「あ、そうだね。じゃあ、ブレンドにしようかな。店内に入ってからすごくいい香りがしてたから、気になってたんだ」
「うんうん。ここのコーヒーはすっごく美味しいよ。それからマスター手作りのチーズケーキもおすすめ!」
「じゃあケーキも食べようかな」

 昼前に目を覚ましてから今まで、颯太は水しか口にしていないことを思い出した。食に頓着はないが、せっかく旧友が勧めてくれたのだ。チーズケーキを頼まない理由はなかった。

「すみませんマスターさん。ブレンド一つと、ホットカフェオレを一つ。それからチーズケーキ二つ。一個はホイップ多めでお願いします」

 花梨が慣れた様子で注文すると、店主はにこやかに返事をして離れていく。
 雑談をしている間に運ばれてきたコーヒーとチーズケーキは、食欲をそそる香りをしていた。