クンニリングスという言葉をご存じだろうか。
 辞書を調べればすぐに理解できるとは思うが、つまりは女性器を己の舌や唇を用いて愛撫する行為のことだ。オレは今までに過ごしてきた十四年間の人生の中で、当然のことながらそのような機会には恵まれなかったわけだが、如何せん中学生というのは多感な時期であることも相まって、様々な謎や疑問を解決するために無駄な行動力を見せつけてしまいたくなる非常に残念な生き物だ。机の中に仕舞われた分厚い英和辞書に引かれた黄色のマーカーは、実に八割以上がエッチな単語で占められているという情けない事実も、言わば自然の摂理であると言えるだろう。勿論、偏った知識を熱心に取り入れることによって、予備知識と妄想の中での演習を幾度となく繰り返し行ってきたとはいえ、彼女いない歴=年齢のオレの記憶が定かであれば、恐らくは今現在に至るまで成果を発揮した覚えはない。……そう、今現在を除いて。
「……、……ぁ……んぅ、……ッ」
 呼吸困難に陥りそうな状態に、思わず唾を呑む。艶めかしい、女の声が響いた。
 窮屈な姿勢に息苦しさを訴え、呼吸をするために口元を動かすたびに、胸の中から下半身にかけて自己主張が増していく。両の頬には柔らかな物体が擦り付けられ、鼻の先から顔面までを埋め尽くす悶々とした熱気を放つ薄手の布地は、徐々にではあるが湿り気を帯びているような気がした。体内に酸素を取り込むことが出来ずに息が荒くなる最中、それでも現状を打破しようと思い立たないのは、今この瞬間がとても心地よく幸せな時間だと確信しているからだ。
「んぁ……、ちょ……っと、……あ……っ、……くっ」
 我慢できずに漏れ始める声に、やんわりとした拒絶を織り交ぜながら、オレを引っぺがすために上へ上へと逃げていく。同時に、オレの体も連動するかのように追いかけていく。
 もっと聞きたい。この子の身悶えする声をもっといっぱい聞いてみたい。ついでに匂いも。
 変態性を前面に押し出す行為を前にして、遂に堪忍袋の緒が切れてしまったらしい。
「ッ、……この……スケベッ」
 真っ暗な視界の中で行われる変態的な攻防戦は、両肩に訪れる激痛と共に終わりを告げた。
 否、むしろこれが始まりだ。
「いっ、……てええぇ」
 両肩に終わらず、背中と腰、そして後頭部が、鈍い痛みを発する。甘美な一時を味わっていたはずが、一瞬にして地獄へと突き落とされた気分だ。
「くそっ、いきなり何しやがるんだ……ッ」
 後ろ手に起き上がると、意識を正常にするために頭を横に振り、ぼやけた視界に明かりを受け止める。朝、真っ暗な部屋に光を求めてカーテンを開けた時の感覚と酷似している。
「……じ、自業自得ッ」
 また、女の声が聞こえた。少しばかし恥ずかしそうな声色だが、これは文句への返事と受け取っても構わないだろう。何度も瞼を開け閉めしていると、やがて視界が晴れてくる。
 徐々に明らかになる視界の向こう側に、下着姿の女がいた。温かそうな厚手の毛布を引っ張り、それなりに膨らんだ胸元を隠し、枕を尻に敷いて壁を背にしている。しかし残念かな、胸を隠して下隠さずとは正にこのことだ。
 細すぎず、かといって太すぎない、内股に曲げられたおみ足の先に視線を向け、そこから先へと進んでいく。ふと触れた瞬間に意識が先走ってしまい、我を失い思うがままに舐めまくりたくなるような健康的且つ、おっぱいに負けじと弾力のありそうな太ももに眼福し、心の中でありがとうの言葉を大にして叫んだ上で興奮し、更にそこよりも奥に眼球を動かしてみれば、何故か湿り気を帯びた純白の防御壁がお出迎えしてくれる。心なしか、形まで透けているようなそうでないような……ああ、思考回路が末期だ。
「……ん? ひょっとしてお前、濡れ――」
「リストオン、《重力(グラビティー)》発動ッ」
「ぐぎゃあっ」
 意志のある声が紡がれたと思えば、オレはあっという間に地に伏した。瞬く間の出来事に、オレは何が起きたのかさえ理解できない。誰に押さえつけられているわけでもないのに、負荷を掛けたかのように体が重くなり、その場から全く動けないでいた。
「なん、だ……これ……、重い……ぞ……ッ」
 確か、ベッドの上で絶賛パンチラ中の女が意味不明な言葉を口にした次の瞬間、宙に電子っぽい映像が浮かび上がったはずだ。で、それから先はどうなったんだっけかな。
「当然の報い。《重力(グラビティー)》を発動したのだから動けるわけがない」
 不自由になった視界の端に、怒の感情を露わにした女の足が映り込んだ。
 毛布が床に落ち、足の先が見えなくなる。次いで、衣擦れの音が耳に届いた。
「は……はだか……!?」
 ほんの僅かではあったが、彼女が下着しか身に着けていなかったのは瞼の裏と網膜と眼球と心の奥底に焼き付けている。そんなあられもない姿の彼女から、衣の擦れる音が聞こえたということはつまりだ、すぐそばで真っ裸になっているに違いない。
「く、……くそっ、見えねえっ、なんで……見えねえんだ……ッ」
 動け、頼むから動いてくれ。ほんの少しの時間だけでいいんだ、主に欲望的な力を貸してくれるだけでオレは全身に力が湧いてくるような気がしないでもないんだっ。
「リストオフ。……変態は喋らないで」
 上から棘のある言葉を投げつけられ、オレの体がビクッと反応する。
 切実なる願いもむなしく、下半身をもぞもぞと動かす以外に抵抗することはできなかった。
 とここで、不穏な空気を感じさせながら、彼女がぽつりと呟く。
「……おかしい……漏らしたわけじゃないのに、なんで濡れて……ぇ、糸……引いてる……?」
 ブツブツと呟く声が室内に木霊し、全身の骨が軋み始めたオレの至る所を高鳴らせていく。
 ――無垢だ。彼女は世にも珍しい純心な乙女だっ。
 同年代の女子が教室で話す会話の内容に、耳を塞ぎたくなるような時代に生まれてしまったことを後悔していたが、世の中にはまだ穢れを知らない女子が存在したんだっ。
「貴方、……わたしに、何をしたの」
「その前にだな、とりあえずこの状態を何とかしてくれないか……」
 質問に答えるには、先ずは地べたに這い蹲(つくば)る恰好をどうにかしたいものだが、理解不能なことに体の自由が利かない。不埒な神様、どうかお願いしますから一刻も早く彼女の恥ずかしさ満載なお姿をこの目に拝ませてください。
「それは無理。《重力(グラビティー)》を解除したら、また同じことをするかもしれない」
 釘を刺しにくる。それもまあ、当然と言えば当然か。既に彼女はオレの思春期という衣に身を包んだ変態性を見抜いているのかもしれない。見たいだけなのに酷い奴め。
「同じことってなんだよ、……くっ、オレがいったい何をしたってんだ」
「襲い掛かった」
 ずばり指摘され、ぐうの音も出ない。
 そうなのか、オレはいつの間にか彼女に襲い掛かっていたのか。無意識とはいえ無垢な心の持ち主に襲い掛かろうだなんて、どれほどまでにオレは罪深い男なんだっ。
「……はっ、まさかオレは二重人格だったのか……ッ」
「リストオン、《磔(はりつけ)》発動」
「はぐぅあっ」
 先ほどまでに感じていた重力が一瞬にして消え去った。しかしながら難が去ったわけではない。二つ目の苦痛がオレに牙を向ける。
 髪を引っ張られたかのような勢いで上半身が浮き上がり、そのままぐるりと半回転する。
「な、なんじゃこりゃあっ」
 上下逆さまの状態で背を壁にして、十字架に磔にされたかのような態勢になった。挙句には、重力の支配が再度オレの体を蝕んでいくではないか。
 二つの拷問に身を預け、見る見るうちに具合が悪くなっていく。頭に血が上っていくのが明らかに早すぎる。これは非常にまずい状況と言えるだろう。
「それで、……わたしに、何をしたの」
 逆さまのまま、彼女が追及の言葉を口にする。
 重力によって首を曲げることが困難ということもあり、すらっと伸びた健康的で頬ずりしたくなるような両足の他には視界に映し出すことができない。このもどかしさが辛すぎる。
 オマケに、スカートの丈が見え隠れしているのを視認する。どうやら既に着替えを済ませてしまったらしい。……くそっ、間に合わなかったか。
「……うぐ、黙秘権を行使する……ッ」
 今此処で、彼女の身に何が起きたのかを伝えることは容易だ。
 しかしだ、それを行うことによって、真実を知ってしまった彼女の心や体に急激な変化が訪れてしまっては、オレはこの先、一生後悔するだろう。過度な成長は後に与える影響に悲惨な結果を描くはずだ。無垢で純心な乙女を傷つけるわけにはいかないっ。
「……そう、それなら貴方の体に直接聞いてみる」
「なんですと!?」
 新手のSMプレイが始まるんですか。
「それなら、《覗き見》発動」
 期待と不安の入り混じった視線を彼女のおみ足に向けていると、三度(みたび)、同じ台詞が聞こえた。
「……おかしい……何故、カードが出てこないの……?」
 眉根を寄せるような仕草をしているのだろうか、彼女は足の先をゆっくりとパタつかせる。
「まさか、アビリティーを発動して……」
「くっ、……その《重力(グラビティー)》とか《磔(はりつけ)》やら《覗き見》ってのは、何なんだよ」
 我慢の限界、というか頭に血が上りすぎて意識が朦朧としてきたので、とにかく現状を打破する手立てを考えてみる。その結果、とりあえずは彼女が先ほどから何度も口にしてきた奇妙な言葉(ワード)について問いかけることにした。
「冗談にしては笑えない。……けど、もしかして貴方……本当に何も知らないの?」
「当り前、だっ、……知らないから、聞いてるんだろうが……ッ」
 すぐそばに無垢なおみ足が並んでるってのに、たかだか具合の悪さに負けるだなんて思春期真っ只中の中学生が聞いて呆れるぜ。
「……嘘だったら、今度はもっと酷いことをする。……解除、《重力(グラビティー)》、《磔(はりつけ)》」
 まだ納得いかないのか、機嫌の悪そうな口調で言い捨てる。
 途端、体の自由を奪っていたはずの何かが消え去った。
「ぐぎゃっ、首がああぁああっ」
 逆向きになったまま床に落ち、後頭部から首に掛けて悶絶。今すぐにでものた打ち回りたいが、女子の前で恥をかくことはできない。……既に手後れかもしれないが。
 重力逆さま地獄から解放され、頭に上っていたはずの血が少しずつ下りていく。未だ意識はハッキリとはしないが、それでも幾分具合は良くなった。残る課題は、痛みを訴える全身に耐えながら彼女の姿を舐め回すように視姦するだけだっ。
「ちっとは優しくしてくれよ、ったく……」
 手痛い歓迎を受け、ついつい愚痴ってしまう。だが、それもすぐに終わりを迎えた。
 どうやらオレは部屋の中にいたらしい。机や本棚、ベッドが置かれた室内には、沢山のぬいぐるみが並べられている。頭にアンテナの付いた可愛らしいクマのぬいぐるみがお気に入りなのか、一つだけ枕元に置いてあった。
 そして、メインディッシュはオレの横に立ち、胸を押し上げるかのように腕を組んだ彼女の姿だ。この目にしっかりと焼き付けたのは部分的なところが主だったので、今度は全身を隈なく瞳に映し込んでいく。
 顔を上げ、オレは初めて彼女と目を合わせた。
 赤に染まる吊り目がちな瞳には、内に秘めた力強さを思い浮かべることができる。
 ほんのりと蒼が差した黒髪は、後ろを短めに切り揃え、前下がりに髪の長さが整えられているのが印象的だ。それなりに伸びた前髪が瞼に掛かっているが、彼女の特徴的な髪型の性質上、うなじはしっかりと見えているはずだ。
 青と白、そして緑に染まったフレアコートを着込み、下にはチェック柄のスカートを穿いていた。膝小僧が完璧に隠れてしまっているのはサービス精神のなさを実感するが、明かりの下に照らされた脛(すね)の裏に潜む脹脛(ふくらはぎ)のラインが、オレの視線を釘付けにするのは言うまでもない。
 胸の大きさは中の下か、それか中の中辺りだろうか。大きすぎるわけでもなく、かと言って揉みしだくのが困難なほどの小ぶりさでもない。丁度いい大きさというか中途半端というか、とりあえず顔面を埋めてもいいですかとお願いしたくなるだけの魅力は備わっていた。
 彼女の姿を確認すると同じくして、朦朧としていたはずの意識が覚醒し、全身に力が漲ってきた。特に下半身が元気になってきた。
 前かがみ気味に立ち上がると、彼女の背の低さに中学生男子として安心感を覚えた。オレの身長から予測するに、恐らくは百四十五センチから七センチってところだ。あとは服の上からでも胸囲が図れるようになれば言うことなしなんだが、さすがにそれはまだ無理か。高度な技には、それなりに経験が必要だからな。熟練度を上げなければならないんだ。
「もしかして、記憶喪失なの?」
 彼女の姿に意味不明な妄想のオンパレードをかましていると、ふいに質問をぶつけてきた。
「はあ? なんでオレが」
 眉間に皺を寄せたまま、頓珍漢なことを訊ねてくる。そんなに皺を寄せたら可愛い顔が台無しだ。見たところオレと同じぐらいの歳なんだから、もう少し笑顔を作った方がいい。そうすればもっと可愛くなって注目の的になるはずだ。……いやしかし、それはそれでオレとしては不満が残るな。大勢の男子共に彼女の姿を見られるのは我慢ならない。付き合ってもなければ同級生でもない、今さっき初めて出会ったばかりだけどな。
「……だって、そうでしょう? ラヴィリンスリングを嵌めているのに、カードについて何も知らないなんておかしいもの」
 彼女の視線の先が、オレの右手へと移される。
 右手の中指には、赤と黒に染まった古めかしい指輪が一つ。
「これ、ラヴィリンスリングって言うのか? ……創始者(ゲーム・マスター)より詳しいんだな、お前」
「創始者(ゲーム・マスター)? ……貴方の言っていることがよく分からないけど、とにかくその指輪があれば、
わたしと同じようにカードを扱えるわ。……ほら、貴方のと同じでしょう?」
 小首を傾げ、彼女はオレと全く同じ指輪を嵌めた左手の甲を顔の前に差し出してきた。
「指輪があればカードが扱えるとか言われてもだな……、というか此処、何処だ?」
「わたしの部屋。……そういえば貴方、どうやって此処に入ってきたの」
 互いに質問を繰り返し、一つずつ疑問を解消していく。頭の中はこんがらがったままだが、それでも多少は落ち着いてきた。実際には何一つ問題は解決していないんだけどな。
「だからそれが分からねえから困ってんだよ。ついさっきまで創始者(ゲーム・マスター)とエキシビジョンをしてたってのに、目が覚めたらいつの間にか此処にいて、しかも嬉しいことに……ああいや、驚くことにだな、お前が寝てるベッドの上に転がり込んでたみたいだし……あの、刺すような視線を向けないでくれるかな?」
 あの時のオレは、《トキの迷宮》の創始者(ゲーム・マスター)とのエキシビジョンを行なっていた。それは、第一回世界大会に優勝した者だけに与えられる特権だ。
 創始者(ゲーム・マスター)は、大会に出場したどのプレイヤーよりも強く、恐ろしいほどに手ごわかった。そして何より、創始者(ゲーム・マスター)との対戦は最高に盛り上がっていた。
 それなのに、何故、オレは今此処にいるんだ。
 秋葉原の会場にいたはずなのに、目が覚めたら見知らぬ女の部屋にいるだなんて、現実的に考えて有り得ないぞ。二次元の世界じゃあるまいし、何かしらの理由があるはずだ。
「貴方が何処から来たのかは知らないけれど、とにかく、この世界のことを何も知らないのは嘘ではないみたいね」
 思考回路をフル回転させ、空っぽの頭に熱を与えていると、彼女は小さな溜息を吐いた。
 それから、世にもおかしなことを口にする。
「此処は《迷宮の王国(ザ・キングダム・オブ・ア・ラヴィリンス)》――、《トキの迷宮》という名のTCG(トレーディング・カード・ゲーム)が全てを支配する世界なの」
「……TCGが、全てを支配するだと……!?」
 彼女は大真面目な表情で口を動かしていく。ただそれがおかしくて、けれども全く不自然にも思えずに、オレは言葉を失いかけた。オマケに、あろうことか《トキの迷宮》の名前が出てくる始末だ。一体全体どうなってんだ。
「ッ、どういう意味だ」
「そのままの意味だけど? ……そうね、実際に試した方が早いわ」
 そう言って、彼女はオレの手を取る。
 優しく、そっと触れ合うかのように、指輪が嵌められた右手の甲を見つめながら話しかける。
「強い意志を持って、リストオンと言ってみて」
「中二かっ」
 女子の前で恥ずかしいことこの上ない。戦隊モノのヒーローが変身する時の台詞をクラスメイトの前で叫ばなければならないほどに勇気が必要不可欠な行為だ。
「……く、くそっ、恥なら既に嫌(いや)ってほど掻いてんだ。これぐらいどうってことねえか……」
「早く。それとも、もう一度逆さまになりた――」
「リストオンンゥッ!!」
 初めから拒否権など存在しないのであれば声も高々に叫べるってもんだぜ、畜生めがっ。
 強い意志ってのがどんなものなのかオレにはさっぱり理解できないが、一先ずは大きな声で叫んでみた。勿論、その数秒後には、静寂に包まれた空間に我慢できずに逃走を試みるオレの姿が見えている。……はずだったんだけど。
「――ッ」
 強い意志とやらに反応したか否かは分からないが、リストオンと叫んだ瞬間、目の前に電子の海が現れた。それは決して比喩ではなく、パソコンの画面上にあるはずの映像が、3Dのような立体感を保ったまま、実際に浮かび上がっていると表現すればいいだろうか。
「……え、これってもしかして、TCG(トレーディング・カード・ゲーム)なのか?」
 電子の海が作り出した産物は、目の前に無数のカードを映し出していた。縦に五枚、横に十枚、その数は合わせて五十枚となり、デッキの枚数と同じだ。
 しかもだ、オレの前に姿を現した電子のカードは、オレがよく知っているものばかりだった。
「《トキの迷宮》のカードだよな?」
「記憶喪失なのに名前だけはしっかりと憶えている辺り、ラヴィリニストの端くれだけのことはあるみたいね」
 ほんの僅かに口元を緩め、彼女は小さく頷く。笑顔とまではいかないが、彼女の新しい表情を見ることができて安堵する。
 彼女はオレの横に並び、表示されたカードのリストを覗き始めた。
「ラヴィリンスリングには、二つの機能が備わっているの。一つは、今までに手に入れたカードのリストを確認すること。今、貴方が口にした言葉(キーワード)が発動条件になるわ」
 リストオン、という言葉(キーワード)を口にすることで、今現在オレの前に電子的な映像を伴い、姿を見せるカードのリストを確認することができるというわけか。科学の進歩も随分と発達したものだ。二次元の世界と比べても何ら遜色がないな。
「二つ目の機能は、貴方が構築した五十枚のデッキを呼び出す機能ね。リストオンと同じように、今度はデックオンと言えばいいわ」
 恥ずかしさは、いつの間にやら消え去っていた。
 オレは特に疑うこともなく、彼女に言われるがまま、デックオンと口にしてみる。
「お……おおっ、カードの束が出てきたぞ」
 強い意志の込められた言葉(キーワード)に反応し、リストの横に五十枚一組の山札が出現する。
「それが、ラヴィリンス形式で対戦する時に必要なもの。デッキ内のカードを入れ替える時は、今のようにリストを表示した状態で加えるカードと外すカードを選択すればいいわ」
 試しに、オレは山札の上に手を置いてみる。驚くことに、確かにそこにはカードが存在した。
 ただの映像であるはずのものが、実体を持っていた。
「カードを引いて」
 その言葉に後押しされ、オレは山札からカードを一枚ドローする。
 実際に、手に持ってみることによって、オレはこれが夢でもなければ妄想でもないってことを実感せざるを得なかった。
「……すげえな、マジで」
 これならば、実際に相手プレイヤーとの対戦を行うことも不可能ではない。むしろ面白味が増すんじゃないだろうか。
「ところで、どうやってこんなに沢山のカードを集めたの」
 感嘆しているところに、彼女の声が現実へと呼び覚ます。
 すぐそばに、リストを眺める彼女の横顔があった。
「店で買った……んだよな、多分」
 秋葉原に足を運ぶだけで、TCG専門店は腐るほど存在する。勿論、オレの地元にもTCGを取り扱う店はあった。古本屋の中にTCG専用のショーケースが設置してあって、パック以外にも好きなカードを一枚ずつ選択して購入できるようになっている。
 オレの場合、シングルカードでの購入がメインだ。一枚一枚の値段は高いものばかりだが、それでも自分が今必要としているカードが確実に手に入るとなれば、運任せでパックを購入するよりも効率がいい。
「ああ、それよりもまだ聞いておきたいことがあるんだが……」
「なに?」
 目と鼻の先とは言い過ぎだが、あまりにも近い位置で彼女がオレの顔を見つめ、次の台詞を待つ。たったそれだけのことで、オレは顔が真っ赤になりそうだ。
「……あ、えっとだな、その……、さっきの奴って、どうやったんだ?」
「さっきの奴って、《重力(グラビティー)》や《磔(はりつけ)》のこと?」
「そう、それだっ」
 恥ずかしさを押し隠すように、オレは少しばかし大きめの声で返事をする。
 すると、彼女はリストオンと言い、オレと同じようにカードリストを出現させた。
「リストが表示されている状態で、所持しているカードの名前と発動を宣言すると、指定したカードの効果が自動的に発動するわ」
 彼女は、自分のリストに表示されたカードの中から、《重力(グラビティー)》のカードを指し示す。そこには、《重力(グラビティー)》というカード名の他に、絵柄、テキスト、所持枚数の項目が載っていた。
「指定されたカードは、対象への効果を発動する代わりに、リストから消滅してしまうの」
 言われて、オレは彼女のリストから《重力(グラビティー)》の所持枚数を確認してみる。どうやら彼女はこのカードを三十枚所持していたようだが、その中の一枚をオレに向けて発動し、リストから一枚消滅してしまったらしい。現在の所持枚数は二十九枚になっている。
「ラヴィリンス形式による、デッキを用いての対戦であれば、好きなカードを何度でも発動することが可能ね。……だけど、リスト内のカードはデッキには組み込まれていないから、一度でも発動してしまうと、もう一度同じカードを手に入れる必要があるわ」
 この世界における《トキの迷宮》のカードは、現実世界への影響を与えることが可能ってことか。だが、何度でも発動できるというわけではないらしいな。
 デッキ内のカードは、何度でも発動することが可能で、逆にデッキ外のカードは、発動するたびに所持枚数が一枚減っていく仕組みか。
「あと、リストを閉じる時はリストオフと言えばいいわ」
「リストオフッ、……おお、消えたぞ」
 オレの前に開いていたカードリストが、一瞬にして閉じてしまった。
 言葉(キーワード)を紡ぐだけでリストを確認できるのは便利だな。地球でもこの機能があれば、カードの持ち運びが楽になるんだが、今の現代技術では所詮無理な話か。
「他に、知りたいことは?」
「え? ……あー、そうだな……」
 いつの間にか、オレが質問をして彼女がそれに答える形になっていた。だが、彼女は彼女で案外乗り気のようで、オレはオレで知らないことを教えてもらうのが楽しかった。
「その、ラヴィリンス形式ってのは何なんだ」
 記憶喪失でもなければ頭がおかしくなっているわけでもないが、これまでの話の流れや実際に目の前で起きた現象から察するに、此処は地球ではないと考えた方が利口だ。
 当然、慌てふためくのが当たり前のようにも思えるが、正直言って、オレは現状を楽しんでいると言っても過言ではない。地球では、毎日毎日勉強勉強、つまらないことの繰り返しだ。そんな中で見つけた唯一の暇つぶしが《トキの迷宮》だった。
 勉強では全く歯が立たなかった奴らにも、カードなら圧倒的優位に立つことができる。それが嬉しくて、オレは誰よりも強くなるために一日中カードを触っていたし、各所で行われている大会にも積極的に参加していた。そして、気付いた時には日本代表として世界大会に出場するまでになっていた。それほどにカードが好きなオレが、この世界を気に入らないわけがあるまい。彼女の話が事実であれば、此処は《迷宮の王国(ザ・キングダム・オブ・ア・ラヴィリンス)》という名の《トキの迷宮》が支配する世界だ。知識欲がビンビンに反応するのが道理ってもんだ。
 コホン、と軽めの咳をして、彼女はオレの疑問に答え始める。
「この世界――《迷宮の王国(ザ・キングダム・オブ・ア・ラヴィリンス)》には、ラヴィリンスの王と呼ばれる支配者が存在するの。この世界はラヴィリンスの王が創造し、全てのシステムを生み出したと言われているわ」
 ――ラヴィリンスの王。それが、この世界を支配する者の名前か。地球で言うところの総理大臣か大統領みたいなもんだろうか。いや、某国の将軍様の方が印象的に合うかもしれないな。
「ラヴィリンスリングを持っている者を総称し、ラヴィリニストと呼ぶわ。貴方とわたしはラヴィリンスリングを嵌めているから、この世界ではラヴィリニストになるわね」
 ラヴィリンスリングを持ち、先ほど彼女がしてみせたように《トキの迷宮》のカードを扱うことができる者のことを、ラヴィリニストと言うらしい。この指輪を嵌めているってことは、オレも彼女と同じようにカードを扱えるんだろう。早く実際に試してみたいもんだ。
「そして、ラヴィリニストにはプロとアマチュアの二種類が存在し、ラヴィリンスの王に認められしプロのラヴィリニストは、《迷宮の王国(ザ・キングダム・オブ・ア・ラヴィリンス)》公認のリーグ戦やトーナメント戦に出場することが義務付けられ、勝者にはそれ相応の賞金が与えられるわ」
「おおぉ、リーグ戦やトーナメント戦か……なんだか楽しそうだな」
 賞金が出るってことは、プロの存在が確立されているわけだから、上手くいけば一生食っていけるだけの金額を稼ぐことも可能かもしれない。地球では毎日のように《トキの迷宮》の大会に顔を出していたからな、こういう話を聞くと居ても立ってもいられなくなる。しかし、
「……死人が出ても、同じことを言えるかしら」
 率直な意見を言ったまでだが、途端に、彼女は眉根を潜めた。
「死人? なんで対戦するだけで……あっ」
 聞かずとも、すぐに把握する。
 此処は、オレがいた世界とは根本的な部分が異なっている。
 ラヴィリンスリングを持ち、《トキの迷宮》のカードを発動してしまえば、その効果の有無によっては死者を出すことも容易だと言うことだ。
 彼女が発動した《重力(グラビティー)》や《磔(はりつけ)》は、殺傷能力を持たない効果だった。しかし、中には勿論、人を殺せるだけの効果を備えたカードも存在するだろう。
 この世界の人たちは、カードで人を殺すことができるんだ……。
「……話が逸れたけど、ラヴィリニストが《トキの迷宮》のカードを用いて対戦する方法として、ラヴィリンス形式とロワイヤル形式の二種類が存在するの。ラヴィリンス形式は、自身が構築したデッキを扱い、一対一で行う対戦のこと。対戦相手のライフポイントを0にするか、山札を空にすれば、その時点で勝者となるわ。……でも、強い精神力を持たない者は、最悪の場合、ライフポイントが0点になった瞬間に……死ぬことになる」
 ラヴィリンス形式とは、つまりは地球で行われているような一対一の対戦方法のようだ。しかしながら、最後が笑えない。
 ゲームの敗者は、死を覚悟する必要がある。そんなものはもはやゲームとは呼ばない。
「ロワイヤル形式では、使用するカードをリストから選択して、発動すればいい。今さっき、わたしが《重力(グラビティー)》を発動してみせたように、好きなようにカードを扱えるわ。あらかじめ手札にカードを加えておいて、リストを表示しないで発動することも可能ね。あと、ロワイヤル形式の特徴として、一枚に付き一度しか効果を発揮することができない代わりに、カードのコストを気にする必要がない点が挙げられるわ」
 カードには、それぞれ発動するためのコストが存在する。そのコストを支払うことなく発動できるのが、ロワイヤル形式の特徴ってわけか。
 だが、当然の如くロワイヤル形式でも怪我をする。自分や相手のターンを意識せずに、一瞬で発動可能ということは、ラヴィリンス形式よりも危険度が増すことになるだろう。
「そんなに危ないのに……どうしてお前はラヴィリニストなんかになったんだよ」
「父に会うため」
 自らの生死を左右するであろう存在に、疑問を全く感じていないわけではない。
 けれども彼女は、一切の迷いもなく返事をくれた。
「行方不明の父を捜すために、わたしはラヴィリニストになった」
 彼女がラヴィリニストへの道を歩もうと考えたのは、それこそが動因のようだ。
 更には、プロを目指す切っ掛けにもなったらしい。
「プロのラヴィリニストになって、リーグ戦やトーナメント戦で優勝することができれば、ラヴィリンスの王への挑戦権を得ることができる。ラヴィリンスの王との対戦に勝利したラヴィリニストには、褒美としてどんな願いでも一つだけ叶えてくれるの」
 聞いてはならないことだったのか、それは彼女にしか分からないことだ。でも、ほんの少しでも彼女の秘密を知ることができて、オレは胸の奥が熱くなるのを感じていた。
「それで、お前は無事にプロのラヴィリニストになれたのか?」
 ついでとばかりに、新たに沸いた疑問を口にしてみた。
 彼女は、いいえと呟き、首を横に振る。
「今のわたしは、まだアマチュアのラヴィリニストでしかないわ。……でも、」
 ゆっくりと息を吸い、彼女はオレの目を見つめたまま、堂々と語る。
「――わたしは、プロのラヴィリニストになる」
 言葉(キーワード)を紡ぐかのように強い意志を瞳に宿し、それが必然であるかの如く、自信に満ち溢れた表情を作り出す。見ているこっちが恥ずかしくなりそうなほどに自信満々だ。
「記憶喪失の貴方には悪いけれど、実は今日がプロになるための選考会の日なの。だからこれ以上貴方の質問に答えることはできそうにないわ」
「えっ、選考会って今日なのか!?」
 最後にもう一つ、彼女はオレを驚かせてくれた。
 まさか、今日が大事な選考会の日だなんて思いもしなかった。
「そう、だから今から会場に行かなければならないの。……貴方に話せることは、ほとんど話したつもりだけど、まだ何か聞きたいことはあるかしら」
 初っ端から《重力(グラビティー)》や《磔(はりつけ)》をかましておいて、一度(ひとたび)オレが記憶喪失だと認識した途端、親切にもオレが抱いていた疑問や不満を解消してくれたのは非常に有り難い。だが、プロになるための選考会が行われる日に、見ず知らずの変態野郎の相手をする点は、ちと、お人よしすぎるかもしれない。それが命取りにならなければいいんだがな。
「……なあ、お前さえよければだけどよ、オレも一緒に選考会に行っても構わないか?」
「貴方が選考会に? ……もしかして、出るつもりなの?」
 もしかしなくてもその通りだ。オレは、彼女と共に選考会に出る。
「一応、オレもラヴィリンスリングを持っているわけだし、こんな身元も分からないようなオレに親切にしてくれた……お前にだな、少しでも力を貸すことができればと思ってよ」
 此処に来たばかりで、右も左も全く分からない状態のオレだが、他のラヴィリニストたちに唯一引けを取らないところが一つだけ備わっている。
 それは、オレが第一回《トキの迷宮》世界大会の優勝者だってことだ。
 この世界に来てから、まだ一度も《トキの迷宮》で対戦をしたことはないが、たとえそうだとしても、オレが持つ知識や経験というものは、アドバンテージとしては申し分ないはずだ。
「……そうね、確かに仲間がいるのは心強いかもしれないわ」
 思案顔を作るかと思いきや、案外あっさりとオレの意見を受け入れてくれた。
 それはつまり、彼女もまたオレと同じように不安を抱えているってことだ。
「特に予定はないし、オレには行くところも住むところもないんだ。ついでに言うと、この世界で知ってる奴はお前しかいない。……だから、頼む。オレを一緒に連れて行ってくれ」
 此処では、ラヴィリンスの王との対戦に勝利した者は、どんな願いでも一つだけ叶えることができるらしい。しかしオレは、ラヴィリンスの王に願いを叶えてもらうのではなく、彼女にお願いした。それがオレの願いを叶えるための、最も有効な手段だと理解しているからだ。
「裏切ったら、《重力(グラビティー)》と《磔(はりつけ)》にもう一つ加えた三重苦に遭わせる」
「構わねえ」
 即答し、オレは手を差し出した。
 その手を、彼女が不安げに握る。
「……泥船に乗ったつもりで、貴方を仲間にするわ」
 苦笑にも似た笑みを薄っすらと浮かべながら、彼女は息を吐く。
 残念ながら既に着替えを済ませているので、彼女の生着替えシーンを拝むことはできそうにない。それだけが心残りとも言えるが、よく考えてみればこれから先、暫くの間は彼女と行動を共にするわけだから、チャンスは幾らでもあるってことだ。人生って素晴らしいね、ぬふふ。
「……にやにやしないで、気持ち悪いから」
「この野郎ッ、オレはこれでも地球ではモテて……なかったけど、ぐぬぬ……」
 笑い顔が気色悪かったのか、繋いでいた手を呆気なく離しやがった。ひでえっ。
 余韻に浸る暇も与えてくれないとは、中々に手ごわい女だ。とはいえ同じ年頃の女子と手を繋ぐことができただけで天にも昇る気持ちになっているわけだがな。男子って簡単な生き物だ。
「そうだ、選考会に行く前にあと一つ、質問させてくれ」
「なに」
 そう言えば、と思い出した。
 これだけ長々と話しておいて、肝心なことをまだ聞いていなかった。
 晴れて彼女の仲間になったわけだから、どうしても今此処で聞いておく必要があるだろう。
「――時迅(ときはや)十希(とき)、それがオレの名だ」
 名を、口にする。
 初対面なのだから当然と言えば当然だが、今に至るまで名乗っていなかった。
「……ふふ、そうだったわね。まだ自己紹介もしていなかったかしら」
 今、初めて気づいたと言わんばかりの表情で、彼女は口元を緩める。
 そして、改めて手を差し伸べた。
「アリス=ラヴィニア、それがわたしの名前よ。呼ぶ時はアリスでいいから」
 彼女――アリス=ラヴィニアが差し出した手を握り、その温もりを感じ取る。
 此処には、地球には無い確かな温もりが存在していた。
「よろしく、アリス」
「こちらこそ、トキ」
 互いの名を紡ぎ、オレとアリスは部屋を出た。