◇
難しいことなんか考えないで、本当のことを表現すればいい。そもそも、一番はじめはそうしたかったんだ。心の底から絞り出した魂の叫びのような曲をつくるザ・パルスに憧れて、自分もそうなりたいと思っていたのだから。
律希はもう、悩まなかった。心海の前で歌えた。歌うことができた。だからもう、大丈夫だ。
閃火コン最後の提出曲は、心のうちをすべてさらけ出そうと決めた。リスナー受けを狙ったりしないで、自分のありのままで、本当はずっとこうしたかったんだと、本音を吐き出すような歌を作ろうと思った。
考えたこと、感じたこと、思っていることを聴いてほしい。
自分にはきっと、人と比べて優れたところも、反対に劣ったところも、取り立てて言うほどにはないと思っている。つまらない人間かもしれないが、それでも好きなものはあるし、見えている世界は自分だけのものだ。
自分が音楽を作りたかった理由を思い出せてよかった。律希は満たされた気持ちだった。
◇
そうして、今までの憂-yu-とは全然違う、自分の好きなように作った曲ができあがった。
律希はボーカルの音程を、自分の歌声に合わせることにした。一度作った正しいメロディを自分で歌い直して、その声に合わせてTOMORIにまた歌ってもらう。もちろん、音程はめちゃくちゃになる。
けれど、そうした方が、より本音に近い気がした。TOMORIのコンテストに出すのだから律希自身の声を使うわけにはいかない。だから、本当の自分をTOMORIに託したのだ。
新曲へのリスナーからの評価は、最悪だった。炎上騒動のこともあるし、単に曲だけ聞いたってひとりよがりな音楽だということは明白だ。
けれど、それでもよかった。本当のことを音楽にできた、そのことだけで律希にとっては充分だった。今まで自分は何を迷っていたのだろう。
心海の前で歌えたおかげで吹っ切れたが、律希は今さらになって、これまで自分は否定されることにひどく怯えていたのだということを自覚した。
律希はふと、紘斗の兄の話を連想する。
『否定されて、折れちまった。ふらっといなくなって、そういうことになってた』
紘斗の兄。弟に否定された兄。律希は、自分と正臣に当てはめる。
あの日──正臣と話した日から二日間で律希の家出は終わり、母親と共に帰宅した。それからは、また元通りだ。
正臣は相変わらず引きこもっているし、律希も自分から行動を起こす気はない。つまり二人は話すどころか顔を合わせてもいなかった。
だから、まさか正臣に限ってそんなことはないだろう。また前みたいに戻っただけだ。
自分に言い聞かせるように念じる言葉とは裏腹に、頭の中では最悪の可能性がよぎっていた。
「おい……」
律希は小さな焦燥感に駆られて正臣の部屋のドアをノックするが、返事はない。けれど慌てなくたって大丈夫だ。前だってあいつはノックに返事をしなかった。
やはり以前と同じく鍵はかけられていないままで、ドアノブは簡単に回った。ドアが開くのにつられて律希の鼓動が大きくなる。
そうして完全に開いたドアの向こうに、正臣はいなかった。
今は平日の十八時。成人男性の心配をするような時間ではないとはいえ、律希の頭の中には黒い不安が渦巻いていく。
だって、正臣は引きこもりだ。家にいないことそのものが異常事態に等しいではないか。
まさか偶然引きこもるのをやめて出かけたとでもいうのだろうか。こんなタイミングで。
『運命だよ』
そんな幻聴がきこえる。こんな運命があってたまるか。
こんなときに限って、母親は出かけているしどうせスマホのメッセージも見ない。父親は仕事でまだ帰らないだろう。
律希は鍵と財布をポケットに突っ込むとスマホを握りしめ、家を飛び出した。
正臣のことは嫌いだ。けれどまだ、正臣の気持ちも目的も、本当のことをなんにも知らないままじゃないか。
正臣を探したくても、正臣が向かう場所なんて律希には見当もつかない。手当たり次第に探した近所のコンビニやスーパーにはいなかった。
それから律希は、幼少期の記憶をたどるようにして、正臣と行ったことがある場所に順に足を運んだ。図書館、公園、学校。それでも正臣は見つからなくて、律希はとうとう駅に向かう。
しかしそうしたところで、どこまで行けばいいかわからない。正臣がいそうなところ──正臣が好きな場所なんて、知るわけがない。
そう考えたとき、目の前を二匹の蝶が飛んでいった。それでふと思い出がよみがえる。
小学生の頃、正臣と一緒にどちらが大きな蝶を見つけられるか勝負をした。そこは青々とした木々に覆われた広い原っぱで、遠くにはきらめく海がよく見えた。
けれど海側は崖のようになっていて、そこに近づいた律希を正臣が制してくれたのを覚えている。
『律希。夜になったら、ここから流れ星が見えるかもしれない』
──そうだ。あれは確か、キャンプをしたときだ。
あの頃は律希も正臣と仲がよく、いい思い出として心に残っている。もしかすると、正臣だって同じかもしれない。
ラズベリーカフェの近くの、今はもう廃業しているキャンプ場。正臣はそこにいるのかもしれない。
最悪な予感に沿って考えれば、廃業したキャンプ場なんて、うってつけの場所じゃないか。
◇
律希は急いで改札を走り抜けた。すっかり暗くなった夜道には、ラズベリーカフェの小さな灯りがよく映えている。
けれど今の律希に、そんなことに感動している余裕はない。
キャンプ場へ向かうにはちょっとした山道を抜けないといけなかった。その道は手入れされていない今では明かりの一つすらないし、自己主張の激しい草木がこれでもかと生い茂っている。
本当にこんなところに正臣がいる可能性なんてあるのだろうか。一瞬の躊躇が生まれたが、律希はそれに構いもせずに山道へ足を踏み入れた。
普通なら躊躇うくらいが、ちょうどいい。もし正臣が紘斗の兄と同じことをしようとしているなら、そういうところを選ぶはずだから。
スマホ画面のわずかな明かりだけを頼りに、上り坂となっている道を進んでいく。山道を歩いて十分ほど経った頃、先をふさぐ細い枝をかき分けると、開けた場所に出た。
元キャンプ場だ。その広場では背の高い雑草たちが、律希の歩みを阻もうとする。
「ま」
律希は兄の名前を呼ぼうとして、しかし色々な感情が、すぐにそうするのを許さない。
──何しに来たんだ。ここでそれをのみ込んでしまったら、結局何もわからないまま、すべてが終わってしまうかもしれない。
「正臣!」
決心と共に律希は叫ぶ。
穏やかな風が草木を微かに揺らす音、遠くで聞こえる波のさざめき、それらに紛れて聞こえてきた、小さな返事。
「……律希……?」
本当に、こんなところにいたらしい。
律希はスマホ画面の明るさを最大まで上げ、周囲を照らす。すると崖の際ぎりぎりのところに、正臣らしき人影があった。
「お、おい、何やってるんだよ!」
律希の最悪の予感が、急速に現実味を帯びていく。律希は思わず駆け出して、その場で佇んだままの正臣の肩を掴んだ。
「なんでこんなっ──……こんなこと、するなよ……」
どの口が言うのだろう。自分でも滑稽だと思う。律希は無意識に、手に力を込める。
掴まれた痛みに顔をしかめた正臣は、数回大きなまばたきをした後、納得がいったように口を開いた。
「律希……勘違いだよ」
「えっ?」
「別に俺はそんな──死のうとか、思ってないから」
律希の最悪な予感は、所詮は予感だったらしい。そう言われても、この状況で律希は正臣の言葉を信じきれなかった。
しかしそれもすぐに、正臣の言葉によって裏付けされていくこととなる。
「ここには前からよく来てる。考えごとする時に」
「よく来てるって……だってお前、ずっと部屋に──」
「引きこもってないんだ。そもそも」
「は、はぁ?」
「確かに家にいる時間は長いけど、用があれば普通に出かけてた」
そんなわけがない。だって確かに正臣が部屋から出ているところなんて、ましてや外出しているところなんて二年近く見ていない。
──でも、本当にそうだったろうか。正臣が部屋の中にいるところだって、律希は見ていないのだ。
すべて、思い込みだったのだろうか。しかし、それにしては徹底されているように感じる。同じ家にいるのにすれ違うこともなかったのが偶然だというのは無理がある。
いつの間にか、律希の手からは力が抜けていた。正臣はそれを肩から払うと、思考の渦にのみ込まれて呆然とする律希に向かって口を開く。
「……いや、訂正する。普通、ってのは違った。平日の日中か夜中にだけ、出かけることにしてた。父さんや母さんとは和解してるんだ、一応。生活費も渡してるし」
「……なんだよ、それ……」
それではまるで、正臣がどんな生活を送っているかを律希にだけ隠しているようではないか。でもどうして。
律希が疑問を言葉にする前に、正臣は遠くの海を眺めたまま呟くように言った。
「律希……ツミの音楽、好きか?」
唐突な質問。律希はそんなことを訊かれる理由が理解できず、そのうえ小さな怒りを覚えた。
こっちは正臣がツミだったということで心がかき乱されているというのに。それを知らしめるかのようにわざとらしいことを訊くなんて、性格が悪いんじゃないか。
けれどもう、その怒りを正臣にぶつける気力は残っていない。
そもそも怒りの根源は、自分の勝手な思い込みや勝手な理想の押し付けのせいだったのだ。律希の思考はそんなところに行き着いて、それならばもうやめてしまえばいいと思った。
いま目の前にいる正臣だけが、本当だ。見ないふりも、見えないものを見ようとするのも、もうやめる。
律希はただ素直に、ツミへの感情をこぼす。
「──好きだよ。……どうしようもなく」
そう、どうしようもなかった。その正体を知ってからだって、ツミの曲を嫌いになることはできなかった。
あんなに嫌っていた正臣が、あんなに憎んでいたKINGが、ツミという仮面を被って作った曲だというのに。
そのよさはどうしようもなくわかってしまう。ツミの音楽は何度だって、律希の心の深いところに響いてしまう。
「そうか。どんなところが?」
まだ訊くのか。正臣は一体どんな気持ちでそんな質問をしているのだろう。面と向かって言うには答えにくいに決まっているのに。
けれどもう、隠すのはやめた。正臣に隠しごとをされるのはもう願い下げだ。これからは何でも話してもらう。だから律希はその対価のつもりで、自分も正直に話そうと決めた。
諦めの悪いプライドに邪魔されながらも、律希は口を開く。
「……歌詞が、特に」
「そうか……」
正臣の瞳が揺らいだように見えた。それから正臣はうなずいて、もう一度そうかと小さく呟いた。
「ちゃんと届いてたんだな」
律希は正臣の言葉がどんな意味を持つのか理解できなかった。ただ、正臣が昔のような、優しい兄といった表情をしているということが印象的だ。
「俺はあの時から──律希がツミの曲を好きだと言ってくれたあの日から、律希のために曲を作ると決めたんだ」
「……それ、いつの話?」
「二年前。ツミが『ロストピア』を公開して少し名前が知れた頃だな。律希、あの曲に長文のコメントを書いてくれただろ」
確かにロストピアは、律希がツミを知るきっかけになった曲だ。投稿サイトでコメントを残したこともはっきりと覚えている。しかし、だからといって。
「なんでコメントが俺からだってわかった?」
「そりゃあ、内容的に。海の見える丘で蝶を追いかけるって歌詞が思い出と重なるとか、流れ星がどうとか。家族でキャンプをした時の話だってすぐにわかったよ。ユーザーネームもリツだったし。……あの時は本当に嬉しかったよ、律希がツミに出会ってくれて」
正臣のことを、何も知らなかった。だから、知ろうと思った。けれど、知れば知るほどに、正臣のことがわからなくなってくる。
「……お前、俺のこと、なんだと思ってるんだよ。嫌いなんじゃなかったのか」
「大切な弟。それは昔からずっと変わらない。……こんなこと、直接言わせるなよ」
正臣が律希のことを恨んだり嫌ったりしていないことは、今までの会話から察しがついていた。しかしそれでは、説明がつかないことがある。
「それじゃあ……それじゃ、どうしてKINGは──」
「律希に、諦めてほしかったんだ」
律希の言葉に被せるように、正臣は言った。
「ツミの曲、好きだったろ。ツミみたいになりたかっただろ? ツミみたいになろうとしただろう、お前は」
図星だった。真似をしただろうと言われればそれは否定できるけれど、ツミのようになりたかったのだろうと言われれば、それはひたすらに事実となる。
律希は弁解もせずに、ただ正臣の言葉に耳を傾ける。
「……だから、ダメだった。お前はこっちに歩いてきたらダメだったんだ。俺なんかの後を着いてきたら。律希は俺のことを、どうしようもない悪い兄を、反面教師にしてくれないと」
まさに律希は少し前までそうしていた。まさかそれが、正臣の望んだことだったなんて思いもしなかったが。
「いいか、俺は失敗したんだ。うまく生きることなんてできなかった。人が怖い。関わるのが怖い。けれど社会は人同士の繋がりでできている。そんなところで俺みたいな奴に何の価値もないだろ。けれど律希が、そんな俺を悪い手本として背を向けて、いい人生を歩んでくれれば──幸せになってくれれば、俺にだって存在価値はあったってことになるだろう」
──正臣の言い分は、絶対におかしい。律希はそう思うのに、心の中をうまく言語化することができない。たじろいでいるうちに、正臣が続けて口を開く。
「だから俺は、どうしようもない兄でいないといけなかった。それなのに……それなのに、どうして、こんな……」
正臣は、言葉を詰まらせる。
「こんなことに、なっちゃったんだろうな」
そう言った後で正臣は小さく口角を上げた。諦めたようなその表情が自嘲であることは律希にもわかる。
「ツミだって、バレたくなかった。俺は引きこもりのダメな兄のまま、律希にはツミを目指すのをやめてほしかった。それで色々工夫したのに結局失敗して──だからダメなんだろうな。詰めが甘くて、結局何事も成せなくて、だからやっぱり俺なんかは……」
正臣はその先を告げるのを迷うように、数秒、口を結んだ。けれどそうせずにはいられないかのように、言葉を唇の間からこぼす。それを紡ぐ声は、震えていた。
「本当は、律希の想像通りにでもなった方がマシだったかな」
正臣の言葉を聞いた瞬間、律希は、冷たいもので胸を射抜かれたような感覚をおぼえた。
「なんで……っ」
思わず正臣の両肩を掴む。見つめ合った正臣の瞳に、律希が地面に投げ捨てたスマホ画面の光が反射している。
「なんでそんなこと言うんだよ」
正臣は律希の言葉を待つように、目を見開いたまま沈黙していた。律希は自分の情けなさに耐えられず、顔を下に向けて話し出す。
「お前が昔、いじめられてたって聞いた。俺、知らなかった。知らなかったんだよ、なんにも。お前は──正臣は、俺のことを庇ってくれてたんだろ? それなのに失敗とかダメとか、そんなこと言うなよ」
「──無理なんだよもう!」
間髪入れずに飛んできた叫び声に律希は面食らって、思わず正臣の肩から手を離す。
「……知ってるか? 蝶みたいな虫って、幼虫のときにどこかしらを欠損しても、成虫になると治るらしい。幼虫の頃から成虫原基っていう細胞を持っていて、それが蛹から羽化する過程で傷なんかを修復するんだ」
ふと律希の脳裏に、幼い頃の記憶がよみがえる。小学生の頃に正臣が飼っていた青虫も、足の辺りに小さな傷があった。けれど確かに蝶になったときは再生していて、正臣はよかったと嬉し泣きしていた。その蝶を放したのも、キャンプの時だ。
「だから俺もきっと、大人になったら大丈夫って、そんなふうに思ってたよ。バカみたいに楽観的にな。でもそんなわけがなかった。一度失った物は戻らないんだ」
戻らなくたって、また新しく積み上げればいい。
律希はそう思ったが、それを正臣に告げるには、律希が正臣からもらったものは多すぎた。それに、諦めきったような正臣の顔を見ると、何を言っても届かないような気さえしてくる。
「だから俺は、もう、よかったんだ」
きっとありきたりな言葉じゃ届かない。正臣の心に響くものはなんだろう。正臣の一番大切なものはなんだろうか。
律希は考えようとして、しかしその答えはすぐにわかった。
「じゃあ、なんでツミは──なんで正臣は、作曲なんかしてる?」
律希が言うと、正臣は面食らったように口をつぐむ。
「好きだからだろ? 誰かに届けたかったんだろ? 少なくとも、俺のためにとは思ってたんだろ? ……だったらまだ、諦めてないじゃん。諦めなくていいんだよ、正臣は昔からずっと、ダメなんかじゃないんだから」
正臣は、何も言わない。ただ律希の方を見て、眼鏡の奥の目を細めた。
「……それでもまだ自分のことダメだって言うんなら、次は、そもそも今がダメだとしても一生そのままでいなきゃいけない決まりなんかない──って言うからな、俺。正臣が自分を否定するのを、俺が全部否定してやる。今日は言いたいこと全部言うし、全部聞いてやるって決めてるんだ」
律希が言い切った数秒後、正臣は深く息を吐くと、律希の後ろの方を指差した。
そこにあったボロボロのベンチに二人は並んで腰かけて、正臣がおもむろに口を開く。
「……ずっと、TOMORIが好きだった。こんなことを言うと他のマッチには怒られるかもしれないけど、合成音声ソフトであるTOMORIに本物の感情なんてものはないだろう。だからこそフラットに、自分だけの気持ちで歌を聴けるし、自分の歌を託すことだってできるんだ」
正臣は一呼吸置いてから、言った。
「救いだった」
律希は、目の前の兄と自分とを重ね合わせる。律希にとってのザ・パルスやツミのような存在が、正臣にとってはTOMORIだったのだろう。
その時の自分に必要だったもの。それからの人生の支えとなるもの。神様たりえる存在に救いを求めるその気持ちは、痛いくらいにわかる。
「……でも、いつからだろうな、どこの誰かも知らない、特定の一人ですらない、顔も名前もわからない想像上の他人のことばかり考えて曲を作るようになったのは」
きり、と胸が痛む。律希にも心当たりがあったからだ。
「名声が欲しかったわけじゃないのに、いざ期待されたらそれを裏切れなかったんだ」
確かに正臣は昔からそうだった、と律希は思う。小さい頃だって、宿題は欠かさずやるし寝坊なんかも絶対にしない、母親の言うことを素直に聞く真面目な性格だった。
それが他人の目を気にしての結果だったというのは、今になってよく理解した。
「けどやっぱり、そんなのをやりたかったわけじゃない。それなのにやめられなくて、ツミは俺じゃなくなっていって、それからはどうにかツミであろうと必死だった」
律希がかつて憧れた神様が、その正体と本音をさらけ出している。ツミは神様なんかじゃなくて、ただの等身大の人間だった。
「律希に届いてくれていたことだけが、今の俺にとっての救いだよ」
ツミから、正臣から、そんなふうに想われているなんて律希は思いもしていなかった。自分はそれにどう応えたらいいのだろう。
「……律希はどうしてTOMORIを使ってる」
律希が迷っているうちに、正臣の声色が変わった。それは厳しく、非難するようにも聞こえた。
正臣の神様はきっと未だに神様のままだ。
うまい答え方がわからない。正直に言って、伝わるだろうか。不安な気持ちが湧いたとき、律希はふと思い立つ。
ありのままを伝えると決めたんだ。言葉で繕うんじゃなくて、本当の姿を見せればいい。
──決心した律希は、歌う。
波のさざめきと虫の声、それらからひどく浮いた、音の外れた歌声が辺りに響く。律希が一番好きなツミの歌が、まるで原型を留めずに律希の声で紡がれていく。
「……ひどいだろ? こんなの誰にも聴いてもらえない。だから俺は──」
律希が言い切るのも待たずに、耐えかねたように正臣は口を開いた。
「思ったように歌えないからか。文句を言われたくない、嫌われたくない、否定されたくないからか? ──律希は大切な弟だ。けどそんな気持ちでしか向き合えないならマッチなんてやめればいい。KINGとして書いてたことは本心だよ」
正臣は言葉の端々に怒りを滲ませながら言い放った。
「でも俺は本当に──」
律希は言葉に詰まりながらも、本当のことを言おうと思った。正臣のことを知りたかった。反対に、自分のことも知ってもらいたかった。
だから律希は、心の中のありのままを打ち明ける。
「本当に、好きなんだ。ツミにもずっと憧れてた。……でもツミが正臣だったなんて知らなかったし、正臣のことだって何も知らなかった。それなのに勝手に思い込んで、一方的に嫌って、ごめん」
それから、ツミにどうしても伝えたいことも。
「あと……ありがとう。ツミはずっと、俺の神様だった」
正臣は複雑そうに顔をしかめながら、小さなため息を吐き出した。それから少し考えるように暗い空を仰ぐ。
律希もそれに倣って夜空を見上げると、一筋の流れ星が見えた。あの日の流星群とは違うけれど、今この瞬間に偶然見られるなんて、運命的ではないだろうか。
「……正臣、今、見た? 流れ星」
「見えたよ」
「『メサイア』の歌詞、『海底に落ちてゆく星よ』って、俺の言ったラズベリーカフェのロゴの話でしょ」
「……そうだよ」
「楽しかったよな、キャンプ」
「ああ、楽しかった」
少しの静寂が流れ、それをゆっくりと正臣の言葉が破る。
「……俺はただ、律希に幸せになってほしい。それだけなんだ」