◇
十月上旬、外はすっかり秋の気配が満ちている。
同窓会の日取りは、信じられないくらいすんなりと決まった。全員というわけにはいかなかったが、小学六年生の頃のクラスメイトがほとんど、その数二十以上が集まるらしい。
律希は何をしていても頭のどこかではずっと、炎上騒動のことを考えてしまっていた。
けれどネットの中の流れは速く、もうみんな憂-yu-のことなんて忘れてしまったかのように話題にも出されてはいない。それから正臣と対面したあの日以降、KINGのアカウントにも動きはない。
とはいえ、閃火コンはまだ終わっていないのだ。
炎上騒動があったのにも関わらず、憂-yu-は二次審査を通過できた。蜂喪ほど有名でない憂-yu-の炎上には、気づかないリスナーも多かったのだろう。ランキングに大きな変動はなく、安定した順位のまま投票期間を終えたのだ。
すでに最終曲の提出期間は始まっている。しかし律希は新曲についてまだ何ひとつ手をつけていなかった。
自分は──憂-yu-はまだ、作曲を続けるべきなのだろうか。続けても、いいのだろうか。憂-yu-の曲を求めている人などいるのだろうか。律希の心は、揺らいでいた。
「それじゃあ、乾杯!」
グラスを掲げてハキハキとした調子で宮野が言い放った言葉に、律希は現実に引き戻される。それに続いて、みんなの楽しそうな声が聞こえてくる。
焼き肉の食べ放題なんて、久しぶりだ。正臣がああなる前は、時折家族で訪れていたのを思い出す。
肉を焼くのは好きだった。ちょうどいいところを見極めるのは得意な方だという自覚のおかげだろうか。
律希は適当に談笑に混ざりつつ、肉を焼く係をかって出る。数年ぶりに会った、仲がいいわけでもない微妙な距離の知り合いたちに、自分から話題を振るのは面倒だ。手持ち無沙汰よりも何かやることがあった方が居心地がいい。
少し離れた位置に座る紘斗の様子をうかがうと、彼は彼で宮野のことを気にしているようだった。紘斗が言うには謝罪をしたいということだったが、きっとみんなの前で話せる内容ではないだろう。
同窓会に来ることすら後ろ向きだった紘斗が、話す機会のために自ら動けるかは微妙なところだ。そのうちどうにか二人きりになれるタイミングを作ってあげよう。
律希がそんなことを考えていると、隣の席の女子に腕をつつかれた。
「ね、成沢くん、私のこと覚えてる?」
「ああ、木村でしょ」
「わぁ、うれしー。覚えててくれたんだぁ。ね、成沢くんって、いま彼女いる?」
「え、いや、いないよ」
「ふーん、そっかぁ。そうなんだぁ」
木村は律希とは反対側にいる女子となにかを小声で話して盛り上がっている。
小学生時代、律希は木村とはあまり話したことがなかった。昔はおとなしそうだった木村だが、今はどちらかというと人よりはしゃいでいるように見える。律希は、紘斗の言っていた、数年経てば変わりもするという言葉を噛みしめた。
自分だって、昔と比べれば変わっただろうという自覚がある。紘斗にだって言われたことだ。けれどそれは、表面的なものじゃない。
小学生の頃は、今もそうだがどちらかというと活発ではない方だった。それから今と比べて、人との関わり方をまだよくわかっていなかった。
思ったことをそのまま言うと、周りを混乱させてしまう。それはおそらく、なにかを見たときの感じ方が多数のそれとは違うことが多かったからだろう。
主に、芸術分野で顕著だった。図工の授業中に写生で空を紫で塗ればおかしいと言われ、自由研究で虫の標本を作れば不気味がられた。
今となればそんなのは気にすることでもないと言い切れるが、まだ幼かった自分と周りにとっては、小さなことなんかではなかった。
律希はいつからか周りに合わせるということを覚え、その能力は小学生高学年の頃には完璧に身についていたように思う。ただその過程では、こじらせていた本音の発散の仕方に悩んだりもしたのだけれど。
とにかく律希は当時も今と同じように周りに合わせて生きていて、それから元々おとなしいのもあって、おおらかで多少強引だった紘斗のような友人の存在がありがたかった。
そして紘斗くらい仲がよくて律希の内面も知っているような人は、律希が変わったということに気づくのだろう。逆にいえば、表面的な付き合いだけならば律希は当時から変わらないように思えるだろう。
人と他愛のない話をするのは、そこまで苦痛ではなかった。ただゲームのように、今までに覚えた正しい答えをちょうどいいタイミングで言えばいいだけだ。相手が誰であろうと、それは変わらない。
十九時頃、食べ放題メニューの規定である二時間が経ったことで同窓会は終わり、誰かの口から二次会はカラオケにしようという提案が出た。
そんなことになるのではないかという想像は、律希にもついていた。軽くトラウマでさえあるカラオケに律希はもちろん行くつもりなんてなかったが、そうもいかない理由ができてしまっていた。
紘斗が、まだ宮野と話せていないようなのだ。放っておいてもいいのだが、事情を知ってしまった以上、それも紘斗の背中を中途半端に押した立場で、結果を見届けることなく帰ればきっと後悔するだろう。
そんな予感のせいで律希は仕方なく、楽しそうにカラオケに向かう集団の後ろを着いていくことに決めた。
律希はカラオケに向かう道中で、ひとり暗い顔をしている紘斗を捕まえる。
「紘斗! ねえ、俺、宮野のこと呼んでくるから。カラオケ入る前に二人で話しなよ」
「あー……」
「あぁ、じゃなくて。宮野に話があるんだろ?」
「そうなんだけど、律希も一緒でいい? 三人で話したい」
「え、俺?」
「そもそも一番は律希に謝りたかったんだよ」
紘斗に謝られることなんて見当もつかない。この数年、会ってもいなかったのに。
ふと後ろから肩を叩かれて振り返ると、木村が立っていた。
「成沢くん、カラオケの部屋割りどうするか決めた? まだだったら、よければ私たちと同じ部屋にしようよ。私、成沢くんの歌ききたいなぁ」
どうやら人数が多いためカラオケの部屋を分けることになったらしい。部屋なんてどこでも構わないが、歌を聞かせるのだけはごめんだ。
「あぁ、えっと、ちょっと紘斗と話があって、後で適当に入るよ」
律希が言うと木村は残念そうに待ってるねと言い残して、友だちを連れて建物内に入っていった。律希はみんなの輪の中心にいる宮野をなんとか連れ出して、カラオケ店の横の細い路地へ誘う。
「話って、どしたの? 二人とも」
宮野は自分がわざわざ呼び出される理由に心当たりがないようで、疑問を口にした。律希だって宮野と同じ気持ちだ。口を結んで、紘斗が話すのを待つ。
「……宮野、律希、ごめん」
決心したように、紘斗は頭を下げた。律希は心の準備ができていたが、宮野は何がなんだかわからない様子だ。
「え、なになに? 成沢、これどういうこと?」
「いや、俺も詳しいことは……紘斗、兄ちゃんのことなんだよね?」
「あぁ、ちゃんと話すよ」
一呼吸置いて、紘斗は自分の兄と宮野の姉の間に何があったのかを教えてくれた。どうやら二人は以前に同窓会で口論になり、その時に紘斗の兄が手をあげてしまったらしい。
「最低だろ。それも顔に……あいつ、まだちゃんと宮野の姉貴に謝ってないと思う。宮野、うちの兄貴が本当に悪かった」
「あっ、あぁ、あの傷、そういうことだったの? なんか思い出すのもムカつくとか言って、頑なに教えてくれなかったんだよな。顔に青アザなんか作って帰ってきたからビビったけどさ、もう治りかけてるし、そのうち消えると思うよ。てか別に、紘斗が謝ることでもないでしょ?」
宮野はあっけらかんと言い放った。どうやら心の底から気にしていない様子だ。
「いや、うちのバカが謝らない以上、そういうわけにもいかないだろ……。それに口論って言ったけど、それだって宮野の姉貴は悪くないんだ。兄貴はバカだから自分は悪くないと思って俺に話してきたんだけどさ」
それから紘斗が話したのは、紘斗の兄は同窓会で過去に同級生をいじめたことを武勇伝のように語り、それを宮野の姉にたしなめられたらしいということだった。
「俺も昔は兄貴に憧れてたからさ、何聞いてもかっけぇって思ってたけど……今はもう、そんなふうに思えないし、否定したよ。もちろん。それは兄貴がおかしいって。いじめたなんて自慢みたいに言うのも、それで好きな女に怒られて逆ギレして殴ったりするのも、全部兄貴が悪いだろ。本当にバカなんだよあいつ」
「うん……ん? ちょっと待て、好きってうちの姉ちゃんを?」
紘斗は一瞬固まって、しまったというように口を開けた。しかしすぐに短いため息を吐き、それは諦めの合図にも思えた。
「ああ、なんかそうだったっぽい」
「えー……紘斗、お前の兄ちゃんって物好きなんだな。あんなわがままな女王様みたいなのを……」
宮野は紘斗の話の内容よりも、自分の姉へ向けられた好意の方に興味があるようだ。口論の件は本当に何一つ気にしていないのだろう。
それにしても、今のところ、律希が関係してそうな話題はない。もしかして紘斗に呼ばれたのは、宮野と二人きりでは話しづらいなんて理由だったりするのだろうかと、律希は推察する。
「ま、紘斗が謝る理由はわかったけど、とにかくその必要はないからさ、気にすんなよ! 姉ちゃんのことは姉ちゃんがなんとかするし、怪我だってもう治りかけてることだし。そもそも紘斗はなんにも悪くないし! あ、ほら、待たれてるからもう行こうぜ、カラオケ」
宮野が指さしたカラオケ店の入口では、何人かのクラスメイトが急かすように手招きしていた。
「ありがとう、宮野。俺と律希は後から行く」
律希は紘斗に勝手にそういうことにされてしまい、それじゃあと手を振る宮野の背中を見送った。
「……兄貴が死のうとしたって言ったろ」
ここからが本題とでも言うように重々しく口を開く紘斗に、律希は小さな相づちを打つ。
「兄貴、最初は自分は悪くないとかって強がってたけどさ。好きな女に否定されて、逆上して思わず殴っちまって、同窓会のメンバーたちからも当然ハブられて、その上自分の味方だと思ってた弟の俺にまで否定されて、なんか、折れちまったらしいんだ。ある日ふらっといなくなったと思ったら、近くの雑木林で──まぁ、そういうことになっててさ」
「そっか……」
「結局運がよかったのか、こんな言い方したくねぇけどあいつからすれば勇気が足りなかったのか、死ななかったけどさ。とにかくなんか、絶望っていうか──そういう気分を、その時に人生で初めて味わったんだと思う。兄貴は」
「うん」
「昔にいじめなんかしたこと、後悔してた。けどそんなの、いじめられた方からすれば知ったこっちゃないし、過去が消えるわけでもないだろ。だから俺、今さらだけど謝りたかったんだ」
紘斗の言っていることは理解できるが、相変わらず、謝られる理由だけはわからない。律希が言葉の続きを待っていると、紘斗は深く頭を下げた。
「律希、ごめん。うちのバカ兄貴が、お前のとこの兄貴をいじめたりしてて……俺も止められなかったし、ずっと知らないふりしててごめん」
「……え?」
今、紘斗の兄が、正臣をいじめていたと言ったのだろうか。予想もしていなかった話に、頭がついてこない。
「しかもうちの兄貴、最初はお前に目つけてただろ? あの頃は本当に悪かった」
「え、待って待って、そ、そうなの?」
「……知らなかったのか?」
知らないし、考えたことすらなかった。自分が不良のリーダーからいじめられかけていたなんて、まったく気づいていなかった。
「そうか……だったらむしろ、余計なこと言っちまったかもしれないな」
「いや、そんなことない。それに俺もちゃんと知りたいから、紘斗が知ってること教えてくれる?」
自分のことはこの際どうでもいい。結局いじめられたりはしていないのだから。気になるのは正臣のことだ。正臣がいじめられていたような素振りなんて、まったくなかったように思える。
けれど本当にそうだったろうか。見えているものがすべてじゃない。実際、律希は正臣のことを何もわかっていなかった。
真剣な律希の眼差しに答えるように、紘斗はおもむろに口を開いた。
「……じゃあ、話すけど」
紘斗によると、どうやら自分は知らないうちに紘斗の兄に嫌われていたらしい。紘斗は言いにくそうにしていたが、律希と紘斗が仲がよかったからというのが理由だそうだ。
「自分の言うことを何でも聞く便利な弟を取られるとでも思ったんだろうな。本当バカだよ、兄貴も俺も」
あるとき紘斗の兄が律希の靴を川へ捨てようとして、それを止めたのが正臣だった。そこから紘斗の兄は仲間たちと共に正臣をいじめるようになり、それで鬱憤を晴らしていた──というのが、紘斗の知っていることのすべてだった。
「律希の兄貴はかっこいいよな。律希のことを守ってくれてたんだろ。それも律希の知らない間に。……今、俺が言っちゃったけど」
本当に、なにひとつ知らないし気づきもしなかった。正臣は今でこそ引きこもってはいるが、昔はそんなこともなく、毎日登校してそれなりの学校生活を送っていた──と、律希は思っていた。
まさか正臣が律希のことを守ってくれていたなんて。自分がそれなりにうまくやれていると思っていたのが、正臣の犠牲の上に成り立っているものだったなんて。
自分は正臣のことを何も知らない。
その実感が大きくなっていくほどに、今まで自分が反面教師にしていた存在がそのかたちを崩していく。
「比べて俺の兄貴は本当に……本当にどうしようもない奴だよ。けどさ、また俺まで兄貴を否定したら、次こそ死んじまうかもしれねぇだろ。だからどうしても、見捨てるわけにはいかないんだ。あんなのでも兄貴だしさ。……律希、本当にごめん。あと、ありがとな」
紘斗がふいに呟いた感謝の言葉に、律希は戸惑う。
「謝る機会、くれて。……結局、宮野も律希も何も知らなかったし、俺の自己満足になっちまったけど。でも、話せてよかった」
紘斗から正臣の話を聞いたことで律希の心は乱れるばかりだったが、知らないままの方がよかったとは思えなかった。目を背けたって過去は消えないし、真実は真実として在り続ける。
自分だけがそれを知らずに、ぬるま湯をぬるま湯だとも知らないままで浸かり続けるくらいなら、たとえ悩みの種が増えるとしても本当のことを受け入れたかった。
「むしろありがとう、紘斗。色々教えてくれて」
「よし、じゃあ、行くか! カラオケ」
ふっ切れたのか、紘斗は清々しい表情で言い放つ。それで律希は再び憂鬱に襲われる。
どうにかしてこの場を切り抜けないと。けれどこのタイミングで帰ってしまうと、せっかく紘斗が気持ちを切り換えられたのに水を差すことになるんじゃないか。
「うん、行こっか」
律希は本音と気遣いを天秤にかけ、延長戦に持ち込むことを決めた。
大丈夫、カラオケに行ったとしても歌わなければいいだけだ。どうせ部屋には十人くらいいるはずだ。律希が歌う流れになりそうだったら、早めにトイレかドリンクバーに逃げればいい。
しかしその作戦は、早くも失敗に終わりそうだった。
「あっ、来た来た! 成沢くん、待ってたよ! なに歌う?」
笑顔の木村が、部屋に入った律希に駆け寄る。他のみんなにも声をかけられ、期待を無下にできる空気じゃない。
律希の背に冷や汗が伝った頃、誰かが入力した曲のイントロが始まった。
マイクを握っているのは紘斗だ。少し前に流行ったこの曲は、女性アーティストが歌っていたはず。原曲キーのままで紘斗に歌えるのだろうかなんて心配がよぎる律希だったが、それが杞憂であったとすぐに思い知らされる。
「紘斗、めっちゃ歌うまいね」
誰かが興奮した様子で口にした言葉は、律希の胸中を代弁してくれているかのようだった。
はじめのワンフレーズだけで、紘斗の歌の上手さは充分に伝わる。低音はもちろん、高音も伸びやかに出るし、何より透き通るような爽やかな歌声だった。
そんな紘斗の歌に聞き入っていたが、曲が終わる頃に律希は焦り始める。このままみんなが紘斗に気を取られて、自分のことなんて忘れてくれないか、なんて淡い希望を胸に抱く。
しかしまた木村が律希に選曲を促してくる。それを律希はしどろもどろになりながらなんとかごまかそうとした。その時、歌が終わって歩いてきた紘斗に腕を掴まれた。
「律希、ちょっと来て」
「えー、今、成沢くんが歌う曲選んでるのに」
「俺たちまだ飲み物持ってきてないから。ドリンクバー見てくる」
紘斗はおそらく助けようとしてくれている。それに気づいた律希はそうだねと立ち上がるが、木村は引き下がってくれない。
「じゃあ、私も行こっかなぁ」
「いや、便所も行くから。な、律希」
「そ、そうだね。ちょっと行ってくるよ」
機転を利かせた紘斗のおかげで、木村は不満そうではあるが席に座り直してくれた。律希は心底ほっとしながら、紘斗と共に部屋を出る。
「ありがとう、紘斗。助かったよ」
「いや、別に。けどどうした? 木村がうざかった?」
「あ、そういうのじゃなくて……歌いたくないんだ。俺、すごく音痴なんだよ」
「へー、そうなの? 意外」
紘斗がドリンクサーバーのボタンを押すと、グラスがコーラで満たされる。律希も自分のグラスを取って、紘斗と同じボタンを選ぶ。
「紘斗は、歌うまいんだね。びっくりしたよ」
「あー……なんか、な。歌は親も兄貴もうまいんだ。そういう血筋なのかもな」
「やめたら? タバコ。もったいないじゃん」
「もったいないって、喉が? そんな大げさな……」
紘斗は笑いながら、けれど言いかけた言葉を飲み込んで、改めて律希をじっと見た。
「律希、お前さ、いい奴だよな」
「え、なんだよ急に……」
「はは、別に。ふと思っただけ。律希がどうしても歌いたくないんだったら、俺がまたどうにかするよ。それか別の部屋の方行くか? 正直、木村はお前のこと狙ってるんだと思うけど」
「あぁ──」
「へぇ、木村っていうんだ。あの子」
律希の返事は、突然後ろから聞こえてきた誰かの声により遮られてしまった。とはいえそれは律希のよく知る声だ。振り返ると、私服姿の心海が立っていた。
「こ、心海? なんで?」
「こんばんは。偶然だね、律希くん」
「律希の知り合い? どうも」
それにしてもどうしてこんなところに心海がいるのだろうか。それも、木村のことをあの子と言ったか。
状況を把握しきれていない律希を差し置いて、紘斗と心海はのんきに自己紹介しあっていた。
「それにしてもさ、律希、浮気かな? 木村ちゃんって律希のこと好きっぽいね?」
「は、はぁ? 木村は別にそんな……てか、浮気ってなんだよ」
「え、心海ちゃんって、もしかして律希の彼女?」
「いや──」
否定しようとした律希は心海に押し退けられ、またも言葉を遮られてしまう。
「うーん、まぁそうといえばそうです! それじゃ、律希はちょっと、もらってくね?」
律希は心海に手を引かれて、彼女の借りたカラオケルームに連れ込まれる。心海の目的はわからないが、律希は彼女に言いたいことがありすぎる。
「適当なこと言うなよ……」
「適当なこと?」
心海はカラオケ機器を操作しながら、なんのことかわからないとでも言いたそうな表情を浮かべる。それから自分の隣の座面を指さして、律希に座るよう促した。
「浮気とか──か、彼女とか」
「あぁ、それ。でも、そうといえばそう、としか言ってないでしょ? これからそうなるかもしれないんだから、間違ってはないもん」
「そうなるかもって……」
つまり、心海は律希に好意があると言いたいのだろうか。いや、思い上がりかもしれない。そもそも心海が何を考えているのかはいつだってよくわからない。
「律希、木村ちゃんのことどう思ってるの?」
「どうって……別に。ただの元同級生だよ」
「ふーん。店の前で仲良さそうにしてるの見かけたから、つい追いかけて来ちゃったよ」
仲が良さそうとは言うが、あれは木村に部屋割りのことを訊かれただけだ。それにしてもわざわざ浮気なんて言ったり追いかけてきたり、どうしたってそういう可能性を考えてしまいそうになる。
ふいに、ザ・パルスの代表曲ともいえる『廻天』のイントロが流れてきた。かと思えば、心海がマイクを片手に立ち上がる。
心海の歌は、お世辞にもうまいとはいえない。けれど、律希の心には響くものがあった。
ザ・パルスの成人男性のがなり声のようなボーカルは再現こそできていないが、心海の歌声はまっすぐで、ザ・パルスの曲をはじめて聴いたときのような感覚を覚えた。
最後にメインギターの音色の余韻で曲は終わる。そして、心海は息を吸い込んだ。
「私、律希のこと、好きかも!」
その告白はマイクからスピーカーを通して、部屋いっぱいに鳴り響いた。事態を飲み込めないまま呆気にとられている律希の瞳を、心海は見つめる。
「かもっていうか、好き」
──好きって、好きっていうことか? 律希はいっぱいいっぱいの頭でせめてなにか言わなければと考えて小さく声を漏らすが、被せるように心海が言った。
「あ、これは告白とかじゃないし、返事とかも求めてないからね? ただ、この前の質問の返事、ちゃんとしてなかったから……」
告白ではないというその言葉に、落胆すればいいのか安心すればいいのかわからない。それから、質問というのが何の話をさしているのかもすぐには思い当たらなかった。
「質問?」
「なんで呆れないのって、私に訊いたでしょ」
そう言われてみると、昼休みに校舎裏のベンチで話したときのことか、と思い至る。確かにあのときは、質問の答えをはぐらかされた。
「律希とは趣味も合うし、話してて居心地いいし、ユウの曲だって大好きだし──あ、知ってた? 私、元からユウのファンなの。なんかぜーんぶどうでもいいやってなってたときに、ユウの音楽に出会って、そこからはもう、ユウの曲は私のお守りなんだよね」
心海の口から次々と紡がれる褒め言葉に、律希は頭の処理が追いつかない。
「だから、そんな大好きな人に、ちょっとやそっとのことで呆れたりしないよ。これが答えかな。……ってことを伝えたかったの」
心海は告白ではないとはいうが、こんなのもう、ほぼそうではないかと律希は思う。しかしハッキリと牽制されている以上、何も言えなかった。
ただ、自分の顔が熱を持ち、きっとそれは心海にもバレているだろうという想像がつく。
「あ、照れたでしょ?」
「……そりゃ、そんなに言われたら照れもするだろ」
心海は満足そうに笑う。そんな彼女を見て律希はふと、考えた。会話というのはキャッチボールだ。ボールを受け取ったら、投げ返す。そしてそれは今、同じ強さでするべきだと。
一度深呼吸してからおもむろに口を開いた律希の言葉に、心海は興味深そうに耳を傾ける。
「『憂』って漢字さ、一見いい意味ではないんだけど、真ん中に心が入ってるじゃん。だから真心って感じがして、好きなんだよね。心、って、なんていうか生きていく中で一番大切なことだと思うし──なんて、今のはザ・パルスのメンバーの受け売りだけど」
「確かにそれ、ライブのMCでよく言ってるよね」
うなずく心海に、律希は続ける。
「あと俺、海が好きなんだ。穏やかで波がきらきらしてるときとか、なんか、浄化される感じがするし。反対に荒れてて波が高いのだって、かっこいい。水の中はどこまでも深くて、表面から見てるだけじゃ本当の底はわからなくて、いろんな奴がそこに生きてるってのも好き」
「へぇ……そっか」
律希の言おうとしていることを察したのか、心海は照れ隠しのようにうつむいた。それを見た律希は思わず微笑んで、しかし頬のゆるみを隠しながら言い切った。
「俺も、心海からの質問にちゃんと答えてなかったから。心海って名前、どう思うかって。すごくいいし、好き──それが俺の答え」
今までに言ったことのないような台詞だったが、照れずに口にできた。律希はそのことに安堵しながら心海の方を見る。
すると彼女は両手で赤い頬を押さえて、今までに見たことがない表情を浮かべていた。
「それ、仕返し?」
「いや、お返しだよ」
心海といて気まずいと思ったのは初めてかもしれない。心海は恥ずかしそうに口を結んだままだ。
心海いわく、心海が言ったのは恋愛的な意味での告白じゃないらしい。だったら律希のだってそうだ。
それなのにこの空気は、まるでどちらかが重要なことを切り出すのを待っているかのようではないか。
「……そ」
「そ?」
耐えきれずに口を開いたのは、律希だった。どうにかしなければという思いのままにこぼしたのは、小さな疑問。
「そういえば心海、なんで俺のフルネーム知ってたの?」
「……だって、隣のクラスだよ?」
「だからって──それじゃあ隣のクラス全員のフルネームを覚えてるってこと?」
心海は少し目を泳がせて、それから律希の瞳を覗き込む。
「……顔が」
「え?」
「顔が好きだったの。律希を初めて見たときから。だから調べちゃった」
「──ふ、ははっ」
律希は思わず、笑いをこぼす。なんだか不思議と、スッキリした。心に抱えていたものが少し軽くなったような、清々しい気分だった。
結局そういうものだったのだ。どれだけ頑張って中身を繕ったって、見られもしないこともある。逆にどれだけ鎧を纏っても、隙間から覗かれてしまうこともあるだろう。
だからって、無意味なわけじゃない。律希が必死に習得したいくつもの正答例の積み重ねの上に、心海が感じた居心地のよさは成り立っている。それに、律希が大切にしている立ち位置だって、これまでの努力がなければ今の場所には届かなかった。
けれど、心海のおかげで肩の荷が降りたのは事実だ。自分はそのままだっていいと、そう言われた気がした。
「エスパーだから、じゃないんだ?」
律希の言葉に、心海ははにかんだ。
「うん。運命だもん」
つくづく便利なその言葉を、本気で信じてみてもいいかもしれない。きっと今、自分は少し浮かれている。
律希はそんな自覚こそあったものの、今だけ心のままに浮わついた感情に流されていたかった。
「あのさ。……ちょっとやそっとのことで呆れたりしないんでしょ?」
「しないよ。もっと色々知りたいって思う」
律希が勇気を出そうと思ったのは、心海に受け入れてもらいたいからという受動的な理由ではなかった。
ただ、今なら自分の中の呪いを断ち切ることができるかもしれないという、そんな予感があった。
ザ・パルスの曲のイントロが始まる。律希は息を吸い込んで、決意と共に声にする。
相変わらず音程だけがどうしても合わない歌声は、聞けたものじゃないと自分でも思う。けれど今は、聞いてほしいと思った。
心海を試したいわけではない。ただ、本当を、繕いようのないありのままを、ずっとずっと吐き出したかった。
「……これが、俺の歌」
曲が終わった後の、数秒の静寂。律希が静かに言うと、心海はいつものごとく気を遣う様子もなく、ただすべてが本心かのように、真っ直ぐに言う。
「真心、感じたよ」