◇
九月の教室は、どこか気の抜けたような雰囲気が漂っている。
夏休みが終わっても夏はまだ終わっていない。前にも増して騒がしい田中が、まだまだ下がりそうにない気温に不満をこぼしているのが聞こえてくる。
自分の席で次の授業の準備を始める稲葉は、相変わらず元気がなさそうだった。律希はいつだってうまくやろうと思って生きているくせに、こんなときにすぐ気の利いた言葉をかけられない自分が嫌になる。
だからといって諦めるようなことはしたくない。律希は話を切り出すことにすら緊張しながらも、稲葉の元へ歩み寄った。
「久しぶり、稲葉。なあ、このマッチ知ってる? 最近いいと思ってるんだ」
共通の話題といえば、これしかないだろう。律希は蜂喪以外のマッチの曲で稲葉が好みそうなものを事前にいくつかプレイリストに登録しておいたのだ。
「知らないなぁ、どんなの?」
思ったよりも稲葉の反応は明るかった。律希は安堵しながら曲を再生して、スマホの画面にマッチの名前や歌詞を表示させた。
そのままスマホを稲葉に手渡して、一緒に歌詞に目を通す。
「どうだった?」
「うん、いいね。僕も結構好き」
「他の曲も聞いてみてよ、どれもかっこいいから」
その時ふと律希は、開きっぱなしの教室のドアの向こうで廊下を通っていった人物が目に留まった。見えたのは一瞬だし横顔だけだったけれど、見覚えがあるような気がした。
しかしそれをはっきりと確認する前に、その人物は視界の外へ行ってしまう。
「成沢、このプレイリストのスクショ、僕のスマホに送ってもらっていい?」
「あ、ああ、いいよ。──ちょっとごめん! あ、送っといていいから」
律希はスマホを稲葉に渡したままドアの近くまで行って廊下を覗く。しかし目当ての人影はすでにそこにはなかった。
確信はないし、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。首を傾げながら律希が戻ると稲葉は満足げに微笑んだ。
「ありがとう、成沢。最近なんか、聞きたい曲とか思い浮かばくてさ。自分ではこんなにいろんなマッチ探せなかったから助かったよ」
「いや、別にそんな……」
律希は複雑な気持ちだった。そもそも稲葉がそうなっている原因は蜂喪の炎上騒動のせいで、その火種をまいたのは自分かもしれない。
律希がやったことは稲葉のためというよりはひとりよがりな罪滅ぼしだった。けれどそんなことを打ち明けられるはずもない。
律希は気まずい気持ちを押し殺して、それを稲葉に悟られないように曖昧に笑うことしかできなかった。
◇
『蜂喪とぶの活動を無期限休止とさせていただきます』
律希がSNSでそのポストを見たのは学校からの帰り道だった。投稿日の欄には昨日の日付が書かれている。
これでは夏休みが過ぎても稲葉の元気が戻っていなかったのも当然のことだ。稲葉は律希が薦めた曲を喜んでくれたように思えたが、本当はまだ蜂喪のことで落ち込んでいたのに無理をしたのかもしれない。
後悔の気持ちが湧きあがると、それと共に出てくるのは言い訳だった。
ランキングのせいで焦っていたから。どうしても優勝したいから。KINGを見返したいから。だから、天ノ啓示からのメッセージに返事をしてしまったのは仕方のないことだったんだ。そもそも優勝したいという意思を伝えただけなのだから、何も悪いことなんてないじゃないか。
指先は無意識にスマホの画面をスクロールする。保身に必死な自分に嫌気がさした頃、気づけば天ノ啓示とのDM画面を開いていた。
『蜂喪とぶを炎上させたのは、俺のためですか』
入力したあと、送信ボタンの上で指先が泳ぐ。自分の心臓の鼓動がいつもよりも大きく聞こえる。
天ノ啓示にそんなことを訊いてどうするつもりなんだ。そうではないという答えをもらって安心したいのか。そうだという答えをもらったら、それからどうしようというのか。
律希は決意したようにSNSを閉じて、スマホをポケットに差し込む。頭の中からもやを振り払うように早足で自宅に向かう。
そうして送れなかったメッセージと共に、自分の弱さを飲み込んだ。
◇
──自分のやり方は、間違っていないだろうか。
律希がよく考えることだ。そしてまさに今も、自室のベッドに転がりながら頭の中で自問自答を繰り返していた。
閃火コンで優勝してやる。はじめにそう思ったのは、KINGのせいだった。けれど作曲をしているうちにKINGなんかどうでもよくなって、純粋に頑張ってみようと思った。
しかし今はまたKINGや天ノ啓示のことを考えて、自分が本当は何のために優勝を目指しているのかわからなくなってくる。
自分が本当はどうしたいのか、その答えを探すことが一番難しい。けれど唯一わかっているのは、自分はああはなりなくないということだ。
どうせKINGも天ノ啓示も、正体はあいつみたいな奴なのだろう。律希は、自分の兄のことを思い浮かべる。
律希の兄──正臣は、律希の四つ上の二十一歳だ。今もこの家に住んでいる。それどころか、ずっと自分の部屋にいる。
学校にも行かず、仕事にも行かない。正臣はいわゆる引きこもりだった。実家の自室という小さな城から出てこないのだ。律希が最後に正臣の顔を見たのは、二年近く前になる。
正臣はおとなしく真面目な性格だった。それでも昔は明るく優しかったのだ。それがいつからか段々と人との関わりを拒むようになり、今ではこの有り様だ。
本格的におかしくなったのは、大学受験がうまくいかずに浪人を決めてからだ。その頃から引きこもりがちになり、気がつけば部屋から出てこなくなった。
その頃から母親は正臣に向けていた分の期待やプレッシャーを律希に背負わせるようになり、父親は見切りをつけたかのように色々なことに無関心になった。二人とも元からそういう性質はあったが、より顕著になったように感じる。
最初は律希だって正臣のことを気にかけていたが、そのうちすっかり諦めた。聞く気のない人間に、何かを響かせるなんて不可能だと思ったからだ。
今となっては、律希は正臣のことが嫌いだった。
他人を受け入れる器もなく、他人に受け入れてもらう努力もせず、家族とすら関わりを断ち、ただ自分の殻にこもって出てこない。
自分はああはなりたくない。絶対に、正臣のように下手な生き方をしたくない。
何も成さずに引きこもっているだけの正臣の自室が防音室であることも気にくわない理由の一つだ。父が趣味で作ったというその部屋は、子どもの頃からの律希の憧れだったのに。
律希は、正臣に対して醜い感情を抱いているという自覚は持っていた。だから正臣のことは誰にも話したりしないし、正臣に対して何かをしたりはしない。
ただ、自分の行く先が同じ道でないように願いながら、正臣に背を向けて進んで行こうと決めているだけだ。
けれどその先がどんな道なのかも、自分がどんな道を目指すべきなのかも、律希にはまだわからない。
もし閃火コンで優勝できたら、もちろん嬉しいだろう。けれどそれから自分はどうするのだろうか。
KINGが手のひらを返せば本望だろうか。優勝したという喜びを一人で噛みしめて、いい思い出にして満足するのだろうか。
今の律希にそれらの答えはわからない。けれど今さらやめようだなんて一ミリたりとも思わなかった。
蜂喪の件は、もしかしたら自分のせいかもしれない。しかしそうであれば、なおさら辞退なんて考えられない。もう、戻ることはできないのだから。
そうであれば余計なことなんて頭の中から切り捨てて、とにかく今は優勝を目指さないといけない。何をしてでも勝ち取りたかったからこそ、あの日、律希は天ノ啓示にメッセージを送ってしまったのではないか。
逃げることは簡単だ。答えが出ないから突き進むなんていうのは、もしかすると逃げることと変わらないのかもしれない。
しかし、逃避が楽だと言うのなら、律希の歩みはそれとは違う。逃げるのも進むのも向き合うのも、楽な道なんかもうどこにも残されていないのだから。
◇
憂-yu-が閃火コンに提出した二曲目は、ランキングで以前の曲よりいい順位を保っていた。
それでも律希が素直に喜べないのは、実力ではない可能性が脳裏にちらつくからだ。
天ノ啓示が、なにか裏工作をしたのかもしれない。自分の知らないところで別のマッチが何かによって引きずり下ろされたのかもしれない。
いくらでも浮かぶ悪い可能性を頭から排除させようと、優勝という二文字をひたすらに唱えながら、律希はノートパソコンに向かう。
提出期限までまだ余裕はあるが、今のうちから三曲目のことを考えておかなくてはいけない。自分が注げる最大の熱量で、最終審査へ臨めるように。
それなのに作りたい音楽も書きたい歌詞も、理想も夢も浮かばない。はじめは楽しかった音楽制作だが、いつからかもう楽しむための手段ではなくなってしまったようだ。
こんなことは望んでいなかったはずなのに。音楽というものが自分にとってどういう存在だったのか。ハッキリとした答えが出せない自分に、律希は心が揺らぐのを感じていた。
律希はおもむろに閃火コンのランキングのてっぺんに居座るツミの名前をクリックする。表示されるのはツミが閃火コンに提出した二曲目のタイトルだ。
あんなに熱心に追いかけていたツミの新曲だというのに、律希はまだ聴いていないどころかそのタイトルすらたった今初めて知った。
律希はツミの新曲を、上の空のまま聞いた。以前までの律希が今の自分を見たら信じられないと思うだろう。
今の律希には、ツミとはいえ他人の音楽を深く味わう余裕がなかった。それでも、いくらいいかげんに聞いたって、ツミの曲がいいということだけはわかる。
やっぱりツミは律希にとって、どうしようもなく神様たる存在なのだ。
そもそも律希がTOMORIで曲を作り始めたのは、ツミに出会ったのがきっかけだった。
音楽の趣味が合う仲間がいない。音痴な自分の声で歌うわけにもいかない。自分が音楽で表現をすることは、環境が許してくれないかもしれない。
八方塞がりだと落ち込んでいた時にツミの曲を聴いて、世界が変わった。
TOMORIというツールがあれば作詞も作曲も入力も出力も、ぜんぶ自分一人の手でできる。ツミみたいになりたい。ツミみたいに本音を上手に繕って、キャッチーに仕上げて、そんなふうにうまくやりたいと思った。自分が目指す生き方と同じように。
きっと今はそれなりにできているはずだ。律希はうまく生きられているし、憂-yu-だって結果を出せている。ほんの少しだけかもしれないが、自分はツミに近づけていると思っていた。
今回の曲で、憂-yu-が閃火コンのランキングでいい順位を取れていることは事実だ。裏で何かが起こっているとしても、事実だけは揺らがない。だから心配することなんて何もないじゃないか。
しかし自分にいくら言い聞かせたって、すぐに頭の中が不安に侵食されてしまう。
──こんなんじゃダメだ。まだ足りない。
蜂喪の時のように、また何かがあればすぐにランキングは変動するだろう。次は自分が下がる番かもしれない。
だから、もっと上を目指さなければいけない。しかし自分でできる宣伝なんてたかが知れている。
SNSを開けば、KINGが嘲る声が聞こえる。宣伝方法を工夫したところで劇的な変化が訪れるような気はしない。変えるなら、もっと根本的な部分だ。
律希は自分が投稿した二曲目の曲を聴き直す。心海のことを想いながら作ったこの曲は、爽やかさを意識したコード進行は王道だが悪くいえばありきたりで、メロディラインもどこかで聞いたことがあるような気さえしてくる。
曲を完成させた瞬間は達成感に満ちていたせいで自覚できなかったが、歌詞にはそこはかとなく気色悪さを感じる。陳腐な響きの、大衆向けのインスタントなフレーズの羅列にしか思えなかった。
──ダメだ。もっと、もっともっともっと、いい曲を作らないといけない。
このままで優勝なんかできるわけがない。そもそもランキングがいいからって安心していたのが間違っていた。
目指すのは優勝だ。望むのは頂点だけだ。そのためにはツミさえも超えて一番に上がらなければいけない。
ありきたりや王道では、自分程度のマッチは注目なんかしてもらえない。もっと、みんなが聞いたことのないような、しかしみんなが望んでいるようなものを作らないといけない。
律希はそれから、狂ったようにTOMORIの曲を聴き込んだ。
こういうのではない。こうしてはいけない。似てはいけない。ツミみたいなんて言われても喜ぶべきではない。誰らしくもないオリジナルで且つ、みんなに響かなくてはいけない。
律希はひたすらに、研究して、作って、確かめて、『一番いい曲』を作ろうとしていた。
◇
「最近、顔色が悪いんじゃないか」
父親はテレビ画面から視線を移さないまま、律希に言った。さして興味もないくせに、そういうところに気づきはするのだ。
「そう? ちょっと遅くまで勉強してるからかな」
「ほどほどにした方がいいぞ。誰にだって、限界はある」
きっとそれは、律希を心配しての言葉なのだろう。頭では理解できたものの、今の律希には違う意味に聞こえてならない。
『だからお前には無理だ。諦めろ』
頭の中で勝手に父親のセリフの続きを読み上げるのは、想像上のKINGの声だ。
うるさい、やってやるから今に見てろ。律希はKINGのイメージ像を頭の中で切り裂いた。
そうして律希が自分でもわけがわからないほどに熱意を注いでできた新たな曲は、今までに作った作品とはまったく違った雰囲気に仕上がった。
それも当然だ。どこにもないような曲を目指したのだから、過去の自分なんて一番超えるべきところに似ていたら困る。
律希は、すでに閃火コンへ投稿済みだった二曲目を差し替える。今までに得たリスナーからの票はリセットされてしまうが、それでも以前の曲を超えられるという自信はあった。
それから数日が経ち、新たな曲へリスナーからの反応が寄せられる。肝心の内容は、賛否両論といったところだった。
『なんか憂-yu-っぽくないね』
『こういうのも作れるなんてすごい』
『前の方がよかった』
とはいえ、こうなることは予想の範囲内だ。
律希自身も、以前にザ・パルスが今までの作風を覆すようなバラードの新曲を発表したときは、なかなか受け入れ難かった。しかしそれも今は大好きな曲のひとつになっている。
きっと少しの時間が経てばみんな受け入れてくれるし、この曲のよさに気づくだろう。現に今だって、MVの投稿サイト上でリスナーたちが好評価を選ぶ頻度は上がっている。
律希はどこかで聞いたことのある曲にならないよう意識したし、今のところ何かに似ているというようなコメントは来ていない。
しかし実のところ、律希にはある狙いがあった。表面的に似せようとしたつもりはないが、一滴だけ他人の曲のエッセンスを淹れたことを認めるのならば、それは蜂喪だと答えるだろう。
蜂喪のファンたちの中には、稲葉のように応援するマッチを失って宙ぶらりんな気持ちを抱えている人も多いだろう。
律希にとってのツミのように、誰かにとっての蜂喪は『神様』だったかもしれない。それがいなくなってしまう悲しみは耐え難いものに違いない。そして、新しい神様を探しているかもしれない。
だから律希は、そこを狙った。
本当に少しだけ、ほんのわずかに、蜂喪っぽさを感じられるように。けれど少し聞いたくらいで似ているとまでは思われないよう、慎重に、狡猾に、蜂喪のファンたちの票を集められそうな曲にしたのだ。
うまくやるというのはこういうことだ。大丈夫、自分はできている。票が入るペースは前よりも早い。律希はわずかに肩の力が抜けるのを感じた。
久々に休息をとることにした律希は、ツミの最新曲を改めて聴こうと思った。前は余裕がなかったとはいえ、ツミの曲をちゃんと聴こうとしなかったのが自分でも信じられない。
『メサイア』というタイトルのその曲はツミにしては遅めのテンポで、穏やかな雰囲気が漂っていた。しかし絶え間なく鳴る不規則な電子音がバラードらしさを薄め、ポップな音楽に仕上げている。
音はツミらしさを感じるが、歌詞はそうではなかった。いつものようなリズムを重視した言葉選びではなく、詩的な表現を意識しているように思える。
ツミもまた、自分らしさを削って新しい音楽を生み出そうと思ったのだろうか。
律希はメサイアを何度も聴いた後で、特に印象に残った歌詞をメロディに合わせて口ずさむ。
『一番星を目指した 海底に落ちてゆく星よ』
『ヒトデの傍で眠り 太陽が昇れば風に乗れ』
『行き先なんて どこへでも』
『姿かたちが変わっても 灯るかがやきは消えないから』
歌詞の情景を思い浮かべて、律希は自分の記憶と重ね合わせる。キャンプの晩に見た流れ星。ラズベリーカフェのロゴの勘違い。こんな偶然があるだろうか。
ツミっぽさで喜ぶのは卒業したはずだったのに。感性が似ているのかもしれないと思うと、くすぐったい気持ちが湧いてくる。やはり律希はどうしようもなく、ツミのことが好きだった。
◇
稲葉はいつからか、元気を取り戻していたようだ。教室に入った律希に気がつくと、明るい表情を浮かべて近づいてきた。
律希は内心ほっとしながら、稲葉に軽く手を挙げて挨拶をする。それから稲葉が口を開いて、とんでもないことを言い出した。
「成沢、閃火コンって知ってる?」
「えっ、ああ、うん、知ってるけど……」
稲葉は律希がツミを好きだと知っている。ツミがエントリーしている閃火コンのことを隠すのは不自然だと判断して、律希は正直に告げた。
「じゃあこの曲も知ってるかな? 僕、ユウってマッチの『空中分解ノスタルジア』がすごい好きなんだよね」
稲葉が、律希の目の前で憂-yu-の曲を再生する。まさか学校で、目の前で、他人から自分の曲を聞かされる日が来るなんて思いもしなかった。
なんとか平静を装いながら、律希は口を開く。
「……あー、うん、聞いたことはあるよ」
「これよくない? なんとなく蜂喪とぶっぽいところもあってさ、まあ蜂喪とぶと比べればちょっと爽やかというか、なんかこう同じモチーフを違う画材で描いたみたいな……あ、ごめん、話しすぎた。なんか嬉しくて」
照れ臭そうにはにかむ稲葉の前で、内心もっと照れているのが律希だった。
自分の曲の感想を他人の口から聞くのは初めてだ。話しすぎなんて言わずにもっと聞かせてほしいとは思ったが、憂-yu-であることを隠している以上そう言うわけにもいかない。
「そんなに好きなんだ? よかったじゃん、いいの見つけて」
「うん、よかったよ。もう蜂喪の新曲ってのは少なくともしばらくは聞けないと思うし」
稲葉の嬉しそうな顔に、律希の胸がちくりと痛む。
蜂喪のファンであった稲葉がこの曲を好んでくれたのは、まさに律希の狙いどおりだ。それなのに今さら良心が痛むのは何故だろう。
けれどそこに目を向けちゃいけない。その直感は、律希がこのまま突き進むために必要なものだった。
律希はわざと考えることを放棄して、何事もなかったかのように稲葉と話を合わせ続けた。
◇
「ただいま」
「おかえりなさい」
帰宅した際の義務的なやり取りをすると、母親は満足そうに微笑んだ。ここまではいつも通りなのだが、今日はなんだか何かが少し違う気がする。
キッチンに立つ母親は上機嫌で鼻歌混じりに料理をしている。その様子を少し観察してみると、普段より華やかな化粧をしていることに気がついた。
「どっか行くの?」
「大学時代の友だちと会うのよ。それで、そのまま実家に泊まってくるの。夕飯は作っておくから──よろしくね」
よろしくね、という一言にどんな意味があるのかを察した律希は、わずかではあるが顔を歪ませる。母親が作った夕飯が三人分であることはわかっている。
母親はそんな律希を見ると、お父さんにも言っておいたから、と付け足した。これで責任の所在は父親に移るだろう。律希は内心ほっとした。
自室に行って、椅子を引く。腰を下ろしながらノートパソコンに手をかけたところで、律希は違和感を覚えた。
昨晩、ノートパソコンの上にメモ帳を置きっぱなしにしたような記憶があるが、今はメモ帳がデスク横の棚の上に置かれている。律希は普段そんなところにメモ帳を置いたりはしない。もしかすると誰かが動かしたのかもしれない。
やったとすれば、母親だろうか。とはいえ母親は機械に疎く、自らノートパソコンに触るとは思えない。
しかし、律希が音楽にかまけていないかをチェックしようとしたと思えば疑う余地はある。もしくは勝手に部屋を掃除しようとした、というのもあり得る話だ。
とにかくパソコン周りを勝手に触らないでほしいと後で母親に伝えておこう──律希はそんなことを考えながら、ようやくノートパソコンを開く。
余裕のあるうちに閃火コン最終提出作品となる三曲目のことを考えておかなくてはいけない。
TOMORIのソフトを立ち上げ、学校でメモした歌詞のアイデアを見ようとスマホを見る。するとSNSの通知が今までに見たことのない数になっていた。
憂-yu-のなにかがバズったのだろうか。しかし特に話題になるような投稿をした心当たりはない。期待半分、疑問半分でSNSを開いて律希は思う。
──どうして自分は、そのことを忘れていたのだろう。
『最低。見損なった』
『これ本当? コラ画像?』
『待って、蜂喪とぶの炎上ってこの人のせいじゃないの』
『どういうことですか。説明してください』
『まぁ、そういうことやる奴、出てくると思った』
『このスクショっておかしいですよね?』
『卑怯すぎ。こいつの曲聞いて同類と思われたくない』
憂-yu-に届く投稿の数々は、批判的な内容ばかりだった。
考えなくてもわかる。──炎上している。
律希が震える指先で人々のポストをたどっていくと、火元はすぐに見つかった。
『憂-yu-は閃火コン参加者を陥れようとしている』
投稿者はKINGだった。早く通報でも何でもして対処しておくべきだった。後悔の念が頭の中にそのかたちを作り上げる前に、KINGのポストに添付された画像が目に飛び込んでくる。
「は……?」
思わず、目を疑った。その画像は、DMのスクリーンショットだった。憂-yu-と天ノ啓示がたった一度だけ交わしたやり取りだ。
『閃火コンで優勝したいですか』
『はい』
天ノ啓示とKINGが結託していたのか。思い浮かんだ瞬間、すぐにその仮説は間違いだと気がついた。スクリーンショットは、憂-yu-のアカウント側の画面だったからだ。
どうして律希自身が撮ってもいないスクリーンショットをKINGが持っているのだろうか。そんなのありえない。
あまりの衝撃に思考停止しそうな脳を必死に働かせると、もしかしたら不正アクセスされたのかもしれないという答えに行き着いた。しかし憂-yu-のアカウントのログイン履歴を慌てて確認しても、自分以外がログインしたような形跡はない。
律希が撮ったスクリーンショットでもない。不正アクセスもされていない。頭の中が疑問符で埋めつくされる。
できることといえばKINGを通報することくらいだが、そうしたところでこの炎上騒動が収まるはずもない。
憂-yu-に届くポストの数々に片っ端から説明をするとしても、そうしている間にまた新しい批判が飛んできてキリがない。
『誤解です』
『信じないでください』
『理由があるんです』
書いては消し、書いては消し、それでも憂-yu-が投稿すべき弁解の正解は見つからない。
正解なんて存在しないことはわかっていた。スクリーンショットは嘘でも誤解でもなくて、ただひたすらに真実なのだから。いくら理由を述べたって、それは言い訳としか思われないだろう。
──なす術なく、律希は項垂れることしかできなかった。