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律希にとっての神様は、ツミだけではない。
律希は、海を見に来ていた。日陰のベンチに腰かけて、空を仰ぐ。どこまでも澄みわたる青空に、無垢な白雲が気ままに浮かんでいる。こんな風に空を見上げたのはいつぶりだろう。律希の頭の中で、ザ・パルスの新曲が鳴り響いていた。
落ち込んだときは、こうして音楽を聴くのが一番いい。そんなことも、もうずっと忘れていた。
はじめの神様、なんて言い方は罰当たりかもしれないが、とにかく律希にとって救いになった初めての存在は、ザ・パルスだった。
出会いは中学生の頃。部活や進路や親のこと、つきない悩みに加えて律希は思春期真っ只中で、とにかくいつだってすべてを投げ出してやりたい気持ちだった。そんなときに偶然音楽配信サイトのランダム再生で出会ったのがザ・パルスの曲だった。
まず衝撃を受けたのは、すぐそばで歌っているかのような臨場感のある力強いボーカル。それから、耳から頭までつんざくギター、波のようにうねるベース、すべてに負けないくらい激しいのにそれらを調和させるドラムの演奏。綺麗に整えた言葉なんかではない、思うがままに書きなぐったような歌詞。
本物だ、と思った。この人たちは本当のことだけで表現をしている。そこからはもう、ザ・パルスの虜だった。初めてCDを買った。初めてバンドスコアを買った。初めてライブに行った。
けれどいつしか律希は様々な音楽を聴くようになって、ザ・パルスという神様への信仰は薄れていった。
最近はもうずっと、ザ・パルスの活動を追っていなかった。そもそも一年前から活動を休止していたし、律希自身はツミやTOMORIに傾倒していたということもある。だから、三日前にザ・パルスが復帰して新曲まで出していたことを昨晩まで知らなかったのだ。
なんというタイミングだろう。運命的にすら感じるし、やはりザ・パルスはずっと自分にとって神様のような存在だ。
今の律希が完全に憂-yu-から離れるには、TOMORIのことを忘れるしかない。とにかく今は少しだけ、マッチではない自分でいたかった。
目の前の海辺に佇む古い灯台を、スマホのフレームに収めた。シャッター音の後、写真をSNSで共有させる。
『実はザ・パルス、大好き。聖地巡礼中』
ザ・パルスの新曲のMV撮影は、まさに今視線の先にある海辺で行われていたのだ。特徴的な灯台のおかげですぐに気がついた。最寄りから一駅、美しいがあまり知られていない穴場のビーチ。気づいた瞬間は驚いたと同時に、気分が高揚した。こんな身近に彼らの存在を感じられるなんて、数年前にライブに足を運んだとき以来だ。
閃火コンが始まって以来、憂-yu-はSNSの投稿頻度を上げていた。少しでも名を広めたかったからだ。そのおかげかフォロワーの数も増えたし、少しは宣伝効果が出たはずだ。
投稿を終えてスマホを伏せた律希は、自嘲気味にわずかに口角を上げた。憂-yu-のことを忘れたくて来たはずなのに、結局また憂-yu-としてポストをしている自分に呆れてしまう。
思わずため息が漏れる。晴れ渡る空ときらめく海の青色が爽やかすぎて憎たらしく思えてくる。
憂-yu-がSNSの投稿を増やすと、KINGはまるでそれと連動しているかのように饒舌になっていった。次々と出てくる悪口には、もはや感心してしまいそうになる。
閃火コンの一次選考を通過しても、KINGの態度は変わらなかった。それどころかむしろ調子に乗るなという旨のポストをされて、もしかすると自分がどんなすごいことを成したとしてもKINGは憂-yu-のことを嫌いなままなのではないかと思う。
たとえそうだとしても、それを理由に閃火コンを辞退しようなんて考えはない。今悩んでいるのは、提出する二曲目の構想だ。
どれだけ忘れようとしても脳裏には天ノ啓示や蜂喪のことがちらつくが、それらに囚われていては進めない。無理やりにでも頭の中から消し去って、優勝だけを目指さなければいけないと思っていた。
イヤホンの中でザ・パルスが、自分の代わりに色々な感情を吐き出してくれる。彼らはすべてありのままでいるかのように思っていたが、きっとそんなわけはない。演奏中以外では穏やかな振る舞いをする彼らは、普段はしっかりと社会に溶け込んで生活しているのだろう。
たくさんのことを呑み込んで、時には思ってもいないことを言ったりして、誰かの考えた理想の『普通の人』でいるのだろう。だからこそ、音楽だけは本音でやっている──のかもしれない。律希はそんなふうに思ったところで、また思考の渦にハマる。
次の曲を、どうするべきか。
一曲目は、怒りの感情をこめた。もちろんKINGに対してだが、それがわかるような曲にはしていない。婉曲した表現でごまかしながら、頭に残るフレーズを入れて、最終的には楽しげな曲に仕上げたつもりだ。
同じ路線ではいきたくない。ツミほど個性が確立しているマッチならばむしろ自分らしさという意味で似た曲を提出しても問題ないだろう。しかし自分程度のマッチでは、きっと能がないと思われて人気がとれない。
画期的なアイデアなんて何一つ浮かばないまま、イヤホンの中で曲が終わった。次の曲を選ぶためスマホ画面に視線を落とす。ちょうどそのとき、目の前を誰かが走り抜けて、同時に律希の足元に何かが転がった。
落とし物だろうか。急いで拾い上げると、それは見覚えのあるラバーバンドだった。ザ・パルスが活動休止前に行ったツアーのグッズで、律希は入手こそしていないもののデザインは知っていた。
あの人はもしかして、ザ・パルスのファンなのだろうか。高揚感に似た気持ちが、心の中にふつふつと湧く。
「あのぅ……」
ラバーバンドを手に取ったまま立ち尽くしていた律希は、いつの間にか引き返して来ていた落とし主に声をかけられたことで我に返る。
「えっ、あっ、これ」
思わず、情けない返事をしてしまった。慌ててラバーバンドを差し出した先にいたのは、見知らぬ女性だった。見た目は律希と同じくらいの歳という印象で、どこかあどけなさが残る端正な顔立ちだ。綺麗な艶の黒髪が肩の辺りで跳ねていて、服装はよれたシャツに体操着のようなハーフパンツという、端的に表せば部屋着といえる格好をしていた。
そんな彼女はラバーバンドごと律希の手を握りしめて、どこか恥ずかしそうに、しかし溢れる期待を隠しきれないかのように口を開く。
「あの、もしかして、ユウさんですか?」
目の前の麗しい顔に見とれていた律希は、彼女の言葉で一気に青ざめた。彼女は現実では誰も知りえないはずの名前を確かに呼んだ。聞き間違いなどではない。
「えっ、と……人違いだと思います」
どうして自分が憂-yu-だとバレたのだろう。律希はSNSの投稿を思い返すが、個人が特定できるような内容はなかったはずだ。
「そうですか……あっ、これ、拾ってくれてありがとうございました」
彼女は律希の手からそっとラバーバンドを受け取ると、しゅんと小さくなって落ち込んだ様子を見せる。いたたまれなくなった律希は、慌ててフォローを始めた。
「あの、どうして俺のこと、その──ユウさんだと思ったんですか」
「……聞いてくれるなら話しますけど、私、好きなバンドがいて」
そこまで言いかけたところで、彼女は目を丸くして言葉を止めた。不思議に思いながら彼女の視線を追った律希は、その先に自分が下げたままにしていた左手があって、そこに握られたスマホの画面にザ・パルスの新曲のジャケット画像が表示されていることに気がついた。
「あっ、これは──」
「ザ・パルス! 知ってるんですか!」
彼女の声量にも、ころころ変わる表情にも、律希は驚かされっぱなしだった。
「ユウさんじゃないんですよね? それなのに、こんな──こんなふうにザ・パルスのファンの方に会えるなんて運命みたいです!」
「ああ、いや──えっと……」
律希の頭はパンクしそうになっていた。まず憂-yu-のこと、それからザ・パルスのこと、そして何より彼女の行動や表情にいちいち惹かれずにはいられなくて、それが思考の邪魔をする。
「あっ、ごめんなさい。もしかしてザ・パルスのファンとかじゃない……?」
「いや、ファンです。めちゃくちゃ好きで」
唐突に我に返ったような彼女の不安げな質問に、律希は一息つく間もなく返す。それは本音でもあり、彼女を悲しませたくない気持ちの表れでもあり、下心がないと言えば嘘にもなる言葉だった。ザ・パルスを好きだと言ってくれる人は今まで身近にいなかったから、この出会いは本当に嬉しい。それに彼女は──すごく、律希のタイプだった。
彼女は安心したように笑うと、ベンチに座る律希の隣に腰かけた。
「私、心海です」
「えっと、律希です」
心海は律希と同学年の高校二年生で、ここからすぐ近くのアパートに住んでいることを教えてくれた。先ほど律希が憂-yu-として投稿したポストをSNSで見かけて、部屋を飛び出してきたそうだ。
「ザ・パルスを好きな人が近くに来てるって思うと、会ってみたくなっちゃって」
「え、怖くなかったんですか? ネットで見ただけって……その、ユウって人、どんな奴かもわからないんですよね」
それに、君はかわいい女の子なんだから余計に危ない──と思いはしたが、律希はそれを口には出さなかった。ルッキズムは世間的によくないし、初対面で外見に口を出すなんて好意的に思われるわけがない。余計なことを言わずに済むのは、常日頃から鍛えている危機回避能力のおかげだ。
「んー……まぁ、怖い人でも、別によかったかな」
彼女の答えが何を意味しているのか、律希にはわからなかった。どうなってもいいという自暴自棄な感情なのか、はたまたどんな人だとしてもザ・パルスのファンとして同志と会ってみたかったのか。後者ならば、律希も共感できる。
中学生のあの頃、どれほどザ・パルスのことを誰かと語り合いたかったことか。諦めてからもう数年が経ったけれど、いざ目の前に良さをわかってくれる相手がいると、心が疼いて仕方ない。
とはいえ、真意のわからない彼女の言葉への返事をどうするものか律希は悩んでいた。そうしているうちに、続けて心海が口を開く。
「ね、暑くない? あそこ、入りません?」
◇
「ラズベリーソーダ、ひとつ」
「じゃあ、俺も」
「本当に? これ、結構甘いですよ」
「……やっぱり、アイスティーで」
海辺の小さな喫茶店で、二人は窓際のカウンター席に並んで座った。注文を受けた店員が去ると、律希は心海にわざとらしく疑惑の目を向ける。
「エスパー?」
「ふふ、そんなところ」
まさか、注文を心海に合わせたことがバレたのだろうか。もしくは、本当は甘い飲み物が苦手だということを見抜いたのだろうか。そうだとすれば少し悔しいような気もするが、なんとなく嬉しく思う自分が不思議だ。
「そういえば、敬語はナシにしよ。同い年だし。ね、律希」
「ああ、うん、賛成」
律希は平常心を気取っているが、照れやら期待やらで口元が少し緩んでいる。対する心海はラバーバンドを指先でもてあそびながら、いたずらっ子のような表情を浮かべた。
「気づいてた? 実はこれ、わざと落としたの」
「え、なんで?」
「ユウさんかと思ったから。ザ・パルスに反応してくれるかなって」
「すごいね、賭けじゃん」
律希が言うと、心海は笑って頬の横でピースした。
「私の勝ち。律希に会えたから」
律希の心臓はばくばくと騒がしくなるが、頭は極めて冷静だった。心海が言っているのは、ザ・パルスを好きな人に会えたという意味に違いない。勘違いするな、と律希は心の中で自分に言い聞かせる。それにしても心海が同志を求める気持ちはわかるが、彼女の警戒心のなさは心配だ。
「知らない人のこと怖くないなら、オフ会とかもするの?」
「しない。それはなんか、運命っぽくないでしょ」
「好きだね、『運命』」
「好きだよ。全部の言い訳に使えるからね」
心海はなんだか、掴みどころがない。そして、ありのままという感じがする。律希は、自分とは違うと思った。嫌われないように、否定されないように、なるべく普通でいられるように──そんなふうに取り繕っていたりはしないのだろう。
だからこそなのか、心海とは初対面なのに、話すときに息苦しさを感じなかった。誰かと接するときに必ず少しだけ張り詰める心の糸が、今は弛んでいるままだ。
「ねえ、心海って名前、どう思う? かわいい?」
不意に飛んできた質問は突拍子もない内容で、さらにどう答えるべきかも瞬時に判断することができなかった。かわいいと思うよ。それが本心でもあり言うべき答えでもあるとは思うが、恥や照れという感情が正解を声に出すまいと引き留める。
「……うちの犬の名前、ココっていうんだ」
「ふふ、お揃いじゃん」
焦った律希の口から飛び出たのは自分でも理解しがたい答えだったが、心海が笑ったところを見ると、あながち間違いでもなかったようだ。
店員が、注文のドリンクを丁寧に二人の前に置く。心海の頼んだ看板メニューは、透き通る鮮やかな赤色に炭酸の泡とラズベリーが浮かんでいる。心海はひとくち味わうと、ストローでラズベリーを回し始めた。
「私、英語苦手なんだけどさ。ラズベリーのスペルって、そんなわけなさすぎてびっくりしない? Pってどこから来たんだろ」
律希が心海の視線を追うと、Raspberry Cafeという店名とロゴが描かれたメニュー表がある。
「あー、わかるかも。そういえば昔、この店って看板に名前書かれてなかったよね」
「そうそう。何の店かわからなくて、しかもこのロゴもなんだかよくわからなかったなぁ。私はダイヤと王冠に見えたけど」
店のロゴは、ホームベースのような五角形の右上の角に、三つの山があるバランに似た図形の長辺が斜めに接しているものだ。店名を知った今となればラズベリーを表していると理解できるが、当時は律希も別の形に見えていた。
「俺も小学生の頃、流れ星に見えてたな」
「流れ星? ……見えるかなぁ?」
「この店を知る前の日、近くのキャンプ場に泊まって、夜に流れ星を見たんだよね。だから連想したんだと思う」
この店からさほど離れていない崖上にあるキャンプ場は、今はもう閉業して廃れているが、律希にとって思い出の場所のひとつだった。
小学生の頃に家族で来たキャンプの晩に見たのは、海に落ちていく星の群れ。律希は、その光景にひどく感激したのを覚えている。帰路で見かけたラズベリーカフェの外壁に描かれたロゴの下に、淡い水色の布製の庇があった。それが、流星と海に重なって見えたのだ。
「そういえば、俺の家族も王冠に見えるって言ってたな。王冠がズレた王様みたいだとか」
「私と気が合いそうだね」
「……合ってたまるか」
ついこぼれてしまった本音を隠すかのように、律希は軽く口を押さえる。心海は気を悪くしなかっただろうか。横目で窺うと、律希の心配をよそに心海は微笑んでいた。
「私、そういうの好き。ね、律希はザ・パルスの何が好き?」
ころころと変わる話題に、律希は心と頭が追いつかない。そのせいでまた考える間もなく、本心をこぼすことになる。
「本音って感じのところ」
「おんなじ! 全部ぶちまけてくれるところがいいよね」
その言い方から察するに、心海もなにか抱えているものがあるのだろう。ありのままでいるかのように思っていたが、そうではないのかもしれないと律希は少し反省した。
「悩みとかなさそうって思ってたでしょ。私、これでも悩んでるの」
たった今反省したところで心海がそう言うから、律希はまた心を読まれたのかと思った。それにしても、会って一時間も経っていないのに悩み相談を聞くことになるなんて。律希は普段、他人に必要以上に踏み込むようなことはしないが、心海に限っては聞いてほしそうにしているから問題ないと踏んだ。
「どんなことで悩んでるの?」
「かわいいこと。名前が」
もっと深刻な話かと思ったらここでまた名前の話に戻るとは、弄ばれたような気分だ。しかしまだ内容も聞いていないのに深刻かどうかを判断するのは失礼かもしれない。律希は背筋を正して心海の言葉を待つ。
「ここみちゃん、なんて感じじゃないの、私は。本当はザ・パルスみたいによろしくない言葉遣いで話したいし、女の子らしくとか、かわいくなんてしたくない……って、あ、これは悩み相談じゃないからね? 共感を求めた愚痴であって、アドバイスは不要だから」
ネットの記事で男女の考え方の違いなんかを見たことがある。共感を求める女性に対して、男性は不要なアドバイスをしがちだとか。律希も人に悩みがあると言われたらその解決法を考えてしまう。だから、事前に求めている答えをリクエストしてくれる心海はありがたい。
「わかるよ、俺も」
それは、心海が求める答えのための嘘なんかじゃなかった。嫌なら、取り繕うのなんてやめればいい。誰かの望む通りになんてならなければいい。それでも、自分が選んでやっていることだから。自分がそうしたくてやっているのだから。律希がうまく生きていきたいのは、自分自身のためだから。いくら嫌になっても疲れても、悪いのは自分だ。そんな気持ちでがんじがらめで言い訳すらもうまくできなくて、だから代わりに叫んでくれるザ・パルスに救われる。
「優しいね」
「いや、今のは本気で、本音だから」
「……なんか、本当はさ、こうやって愚痴とか言ってもいいと思うんだけど。たまにはね。けどやっぱり、言いづらいんだよね。近くの友だちとか、親とか、後は何も知らないネットの人とかには。だからさ、今日、律希に会えてよかった。全然違う他人同士だけど、二人ともザ・パルスが好きってことは、ちょっとおんなじってことだよね」
心海はそう言った後で、少し恥ずかしそうに俯いた。
「……なんか、ごめんね。勝手に熱くなって。私、変だったね」
「全然そんなことない。俺も、その……心海に会えてよかった」
律希が普段なら絶対に言わないようなセリフを恥を忍んで言ったのは、どうしても伝えたくなったからだった。似ていないようで似ている、不思議と本音で話せる相手に。今言わなければ、大切な本当のことが消えてしまうような気がした。
店を出た別れ際、律希は心海に連絡先を聞こうか迷ったが、彼女がポケットの小銭以外なにも手にしていないことに気がつき、やめた。それでも、また会えるかもしれない。この縁が彼女の好きな言葉を借りて、運命だとするならば。
律希は、遠くで手を振る心海を見送る。すると彼女は、角を曲がる寸前に言った。
「またね! 成沢律希くん!」
◇
心海と一緒にいたときの清々しい気分が嘘だったかのように、律希の心に暗雲が立ち込めはじめた。息抜きはできたものの、結局のところスマホを見れば天ノ啓示やKINGのことを思い起こしてしまうし、新曲の案もまだ浮かんでいない。
新曲について真剣に考えようと目を閉じると、現実逃避のように心海のことを思い出してしまう。また会えるだろうか──なんて淡い期待が勝手に頭の中を支配しようとするのを、必死に振り払う。
閃火コン優勝を目指すなら他のことにうつつを抜かしている場合ではない。それを頭ではわかっているはずなのに、本気で向き合えていない自分に嫌気がさす。
しかし、律希はふと思いついた。心海のことを考えてしまうのなら、それをそのまま曲にしてしまえばいい。心海が憂-yu-のアカウントを知っている以上、もちろん単純なラブソングにするわけにはいかないが、海を感じる爽やかな曲調にして、出会いを予感させるような前向きな歌詞を書いてみよう。
ノートにペンを走らせて、頭の中に広がっていく世界を取りこぼさないように出力していく。こうなればもう、曲の完成までは時間の問題だ。律希は心海に一方的な感謝の気持ちを募らせながら、新曲の制作に取りかかった。
作業を始めて二時間ほど経ち一息つく。そんな隙間時間にすら、心海と過ごしたときのことを自然と回想してしまう。すると、ふと小さな疑問が浮かび上がった。
「俺、苗字教えたっけ……」
確かに心海は別れ際に律希の苗字を呼んでいた。教えた記憶はないが、知られていたら困ることでもないし、次も会えたらそのときに聞けばいいと律希は自分自身を納得させたのだった。