◇
律希にとっての神様は、ツミだけではない。
律希は、海を見に来ていた。日陰のベンチに腰かけて、空を仰ぐ。どこまでも澄みわたる青空に、無垢な白雲が気ままに浮かんでいる。
こんな風に空を見上げたのはいつぶりだろう。イヤホンを通した律希の頭の中で、ザ・パルスの新曲が鳴り響いていた。
落ち込んだときは、こうして音楽を聴くのが一番いい。そんなことも、もうずっと忘れていた。
はじめの神様、なんて言い方は罰当たりかもしれないが、とにかく律希にとって救いになった初めての存在は、ザ・パルスだった。
出会いは中学生の頃。部活や進路や親のこと、つきない悩みに加えて律希は思春期真っ只中で、とにかくいつだってすべてを投げ出してやりたい気持ちだった。
そんなときに偶然音楽配信サイトのランダム再生で出会ったのが、ザ・パルスの曲だった。
まず衝撃を受けたのは、すぐそばで歌われているかのような臨場感のある力強いボーカル。それから、耳から頭までつんざくような勢いのあるギター、波のようにうねるベース、すべてに負けないくらい激しいのにそれらをうまく調和させるドラムの演奏。綺麗に整えた言葉なんかではない、思うがままに書きなぐったようなありのままの歌詞。
本物だ、と思った。この人たちは本当のことだけで表現をしている。そこからはもう、ザ・パルスの虜だった。
初めてCDを買って、初めてバンドスコアを買って、初めてライブに行った。
けれどいつしか律希は様々な音楽を聴くようになって、ザ・パルスという神様への信仰は薄れていった。
最近はもうずっと、ザ・パルスの活動を追っていなかった。そもそも一年前から活動を休止していたし、律希自身はツミやTOMORIに傾倒していたということもある。
だから、つい三日前にザ・パルスが復帰して新曲まで出していたことを昨晩まで知らなかったのだ。
なんというタイミングだろう。運命的にすら感じるし、やはりザ・パルスは今でも自分にとって神様のような存在だと思った。
嫌なことを消し去りたい。体から毒を抜くように、すべてを忘れてしまいたい。そのためには、今だけ『憂-yu-』じゃなくなりたかった。
今の律希が完全に憂-yu-から離れるには、TOMORIのことを忘れるしかないだろう。ザ・パルスのことを考えると、昔の自分を思い出す。
たくさんの悩みがあって、どこか自暴自棄で、今より子どもだったと思う。実は今もそんなに変わっていないのかもしれないけれど。
目の前の堤防の先で海辺に佇む古い灯台を、スマホのフレームに収めた。シャッター音の後、写真をSNSで共有させる。
『実は大好きなバンド。MVの聖地巡礼中 #ザ・パルス』
ザ・パルスの新曲のMV撮影は、まさに今視線の先にある海辺で行われていたのだ。特徴的な灯台のおかげですぐに気がついた。
律希の家の最寄り駅から一駅のところにある、美しいがあまり知られていない穴場のビーチ。MVの中でザ・パルスのメンバーが演奏しているのがここだと気づいた瞬間は、驚いたと同時に気分が高揚した。
こんな身近に彼らの存在を感じられるのは、数年前にライブに足を運んだとき以来だ。ザ・パルスは神様のような存在なのに近くにいて嬉しいなんて、矛盾めいた感覚かもしれない。
閃火コンが始まってから、律希は意識的に憂-yu-のSNSの投稿頻度を上げることにしていた。少しでも名を広めたかったからだ。そのおかげかフォロワーの数も増えたし、少しは宣伝効果が出ただろうと思う。
投稿を終えてスマホを伏せた律希は、自嘲気味にわずかに口角を上げた。憂-yu-であることを忘れたくて来たはずなのに、結局また憂-yu-としてポストをしている自分に呆れてしまう。
思わずため息が漏れる。晴れ渡る空ときらめく海の青色が爽やかすぎて、憎たらしくさえ思えてくる。
憂-yu-がSNSの投稿を増やすと、KINGはまるでそれと連動しているかのように饒舌になっていった。次々と出てくる悪口には、もはや感心してしまいそうになる。
そんなに憂-yu-のことが嫌いなら見なければいいのに。そう思ったところで、それがブーメランのように自分にも刺さることに気づいて笑ってしまう。
憂-yu-が閃火コンの一次選考を通過しても、KINGの態度は変わらなかった。それどころかむしろKINGのSNSでは、調子に乗るなという旨の投稿が増えた。
もしかすると自分がどんなすごいことを成したとしてもKINGは憂-yu-のことを嫌いなままなのではないかとすら思う。アンチとはそういうものなのだろうか。
たとえそうだとしても、今さらそんなことを理由に閃火コンを辞退しようなんて考えはない。律希が最近悩んでいるのは、提出する二曲目の構想だ。
どれだけ忘れようとしても脳裏には天ノ啓示や蜂喪のことがちらつくが、それらに囚われていては進めない。無理やりにでも頭の中から消し去って、優勝だけを目指さなければいけないと思っていた。
イヤホンの中でザ・パルスが、自分の代わりに色々な感情を吐き出してくれる。かつては彼らがすべてありのままでいるかのように思っていたが、今ではきっとそんなわけはないのだろうと思う。
バンド演奏時以外では穏やかな振る舞いをする彼らは、普段はしっかりと社会に溶け込んで生活しているのだろう。
たくさんのことをのみ込んで、時には思ってもいないことを言ったりして、誰かの考えた理想の『普通の人』でいるのだろう。だからこそ、音楽だけは本音でやっている──のかもしれない。
律希はそんなふうに思ったところで、また思考の渦に飲み込まれる。
──次の曲を、どうするべきだろう。
一曲目は、怒りの感情をこめた。もちろんそれはKINGに対してだが、そのことがわかるような曲にはしていない。
婉曲した表現でごまかしながら、頭に残るフレーズを入れて、最終的には楽しげな曲に仕上げたつもりだ。
二曲目は、同じ路線ではいきたくない。ツミほど個性が確立しているマッチならばむしろ自分らしさという意味で似た曲を提出しても問題ないだろう。
しかし自分程度のマッチではそうはいかない。これしか能がないと呆れられて、リスナーからの票の獲得が難しくなってしまうと律希は思っていた。
画期的なアイデアなんて何一つ浮かばないまま、イヤホンの中で曲が終わった。次の曲を選ぶためスマホ画面に視線を落とす。
ちょうどそのとき、目の前を誰かが走り抜けて、同時に律希の足元に何かが転がった。
今通った人の落とし物だろうか。急いで拾い上げると、それは見覚えのあるラバーバンドだった。ザ・パルスが活動休止前に行ったツアーのグッズで、律希は入手こそしていないもののデザインは知っていた。
あの人はもしかして、ザ・パルスのファンなのだろうか。高揚感に似た気持ちが、心の中にふつふつと湧く。
「あのぅ……」
ラバーバンドを手に取ったまま立ち尽くしていた律希は、いつの間にか引き返して来ていた落とし主に声をかけられたことで我に返る。
「えっ、あっ、これ」
思わず、情けない返事をしてしまった。律希が慌ててラバーバンドを差し出した先にいたのは、見知らぬ女性だった。
見た目は律希と同じくらいの歳という印象で、どこかあどけなさが残る端正な顔立ちだ。綺麗な艶の黒髪が肩の辺りで跳ねていて、服装はよれたシャツに体操着のようなハーフパンツという、端的に表せば部屋着といえるような格好をしていた。
そんな彼女はラバーバンドごと律希の手を握りしめて、どこか恥ずかしそうに、しかし溢れる期待を隠しきれないかのように口を開く。
「あの、もしかして、ユウさんですか?」
目の前の麗しい顔に見とれていた律希は、彼女の言葉で一気に青ざめた。彼女は現実では誰も知りえないはずの名前を確かに呼んだ。聞き間違いなどではない。
「えっ、と……人違いだと思います」
どうして自分が憂-yu-だとバレたのだろう。律希はSNSの投稿を思い返すが、個人が特定できるような内容はなかったはずだ。
「あれ、そうですか……ごめんなさい。あっ、これ、拾ってくれてありがとうございました」
彼女は律希の手からそっとラバーバンドを受け取ると、しゅんと小さくなって落ち込んだ様子を見せる。いたたまれなくなった律希は、慌ててフォローを始めた。
「あの、どうして俺のこと、その──ユウさんだと思ったんですか」
「……聞いてくれるなら話しますけど、私、好きなバンドがいて」
そこまで言いかけたところで、彼女は目を丸くして言葉を止めた。
不思議に思いながら彼女の視線を追った律希は、その先に自分が下げたままにしていた左手があって、そこに握られたスマホの画面にザ・パルスの新曲のジャケット画像が表示されていることに気がついた。
「あっ、これは──」
「ザ・パルス! 知ってるんですか?」
彼女の声量にも、ころころ変わる表情にも、律希は驚かされっぱなしだった。
「あの、ユウさんじゃないんですよね? それなのに、こんな──こんなふうにザ・パルスのファンの方に会えるなんて運命みたいです!」
「ああ、いや──えっと……」
律希の頭はパンクしそうになっていた。まず憂-yu-のこと、それからザ・パルスのこと、そして何より彼女の行動や表情にいちいち惹かれずにはいられなくて、それが思考の邪魔をする。
「あっ、ごめんなさい。もしかしてザ・パルスのファンとかじゃなかったですか……?」
「いや、ファンです。めちゃくちゃ好きで」
唐突に我に返ったような彼女の不安げな質問に、律希は一息つく間もなく返す。それは本音でもあり、彼女を悲しませたくない気持ちの表れでもあり、下心がないと言えば嘘にもなる言葉だった。
ザ・パルスを好きだと言ってくれる人は今まで身近にいなかったから、この出会いは本当に嬉しい。それは紛れもない本心だ。ただそれに付け加えて、彼女はすごく律希の好みのタイプでもあった。
彼女は律希の言葉に安心したように笑った。それから、律希がさっきまで座っていたベンチの端の方に腰かけた。
「私、心海です」
「えっと、律希です」
それから心海は律希と同学年の高校二年生で、ここからすぐ近くのアパートに住んでいることを教えてくれた。先ほど憂-yu-が投稿した『#ザ・パルス』のハッシュタグが付いたポストをSNSで見かけて、部屋を飛び出してきたそうだ。
「ザ・パルスを好きな人が近くに来てるって思うと、会ってみたくなっちゃって」
「え、怖くなかったんですか? ネットで見ただけって……その、ユウって人、どんな奴かもわからないんですよね」
ここにいるのが律希だけだったから憂-yu-だと決めつけただけで、正体を見抜かれたわけではなかったらしい。本当は心海の読み通りではあるのだが、それを打ち明けるわけにはいかない。
どんな奴かもわからないなんて、自分で言っておいてその白々しさに笑ってしまいそうになる。
それにしても、SNSで投稿を見かけただけの男に衝動的に会いに行くなんて、危機管理能力が足りないのではないだろうか。それも心海は女性だし、容姿も優れているのに──なんて思いはしたが、律希はそれを口には出さなかった。
性別も容姿も、人を勝手にラベリングするなんてよくないことなのはわかっている。そもそも初対面で外見について口を出すなんて、好意的に思われるわけがない。
余計なことを言わずに済むのは、常日頃から鍛えている危機回避能力のおかげだと、律希は少しだけ自画自賛した。
「んー……まぁ、怖い人でも、別によかったかな」
彼女の答えが何を意味しているのか、律希にはわからなかった。どうなってもいいという自暴自棄な感情なのか、はたまたどんな人だとしてもザ・パルスのファンとして同志と会ってみたかったのか。後者ならば、律希も共感できる。
中学生のあの頃、どれほどザ・パルスのことを誰かと語り合いたかったことか。諦めてからもう数年が経ったけれど、いざ目の前に良さをわかってくれる相手がいると、心が疼いて仕方ない。
とはいえ、真意のわからない彼女の言葉への返事をどうするものか律希は悩んでいた。そうしているうちに、心海が遠くを指さして口を開く。
「ね、暑くない? あそこ、入りません?」
◇
ドアを開けると、カランと小気味のよいベルの音が鳴った。窓際の席では、太陽の光を透かして自身の淡い水色をカウンターに落とす風鈴が爽やかな音色を奏でている。
「ラズベリーソーダ、ひとつ」
「じゃあ、俺も──」
「本当に? これ、結構甘いですよ」
「……やっぱり、アイスティーでお願いします」
海辺の小さな喫茶店で、二人は窓際のカウンター席に並んで座った。注文を受けた店員が去ると、律希は心海にわざとらしく疑惑の目を向ける。
「エスパー?」
「ふふ、そんなところ」
まさか、注文を心海に合わせたことがバレたのだろうか。小手先のコミュニケーション術が見透かされたのだとしたらなんとなく恥ずかしい。
もしくは、律希は甘い飲み物が苦手だということをそれこそエスパーのように本当に見抜いたのだろうか。そうだとすれば少し悔しいような気もするが、なんとなく嬉しく思う自分が不思議だ。
「そういえば、敬語はナシにしよ。同い年だし。ね、律希」
「ああ、うん、賛成」
律希は平常心を気取っているが、照れやら期待やらで口元が微かに緩んでいる。対する心海はラバーバンドを指先でもてあそびながら、いたずらっ子のような表情を浮かべた。
「気づいてた? 実はこれ、わざと落としたの」
「え、なんで?」
「ユウさんかと思ったから。ザ・パルスに反応してくれるかなって」
「すごいね、賭けじゃん」
律希が言うと、心海は笑って頬の横でピースした。
「賭けは私の勝ち。ユウさんじゃなかったけど、律希には会えたから」
律希の心臓は、ばくばくと騒がしい音を立てる。しかし、頭は極めて冷静だった。
心海が言っているのは、ザ・パルスを好きな人に会えたという意味に違いない。きっとそれ以上の意味はない。勘違いするな、と律希は心の中で自分に言い聞かせる。
それにしても、心海が同志を求める気持ちは律希にも理解できるが、彼女の警戒心のなさにはさすがに心配になってくる。
「知らない人のことが怖くないなら、オフ会とかもするの?」
「しない。それはなんか、運命っぽくないでしょ」
「好きだね、『運命』」
「好きだよ。全部の言い訳に使えるからね」
心海はなんだか、掴みどころがない。そして、ありのままという感じがする。
律希は、彼女は自分とは違うと思った。嫌われないように、否定されないように、なるべく『普通』でいられるように──そんなふうに無理に取り繕っていたりはしないのだろう。
だからこそなのか、心海とは初対面なのに、話すときに息苦しさを感じなかった。誰かと接するときに必ず少しだけ張り詰める律希の心の糸が、不思議と今は緩んでいるままだ。
「ねえ、心海って名前、どう思う? かわいい?」
不意に心海から飛んできた質問は突拍子もない内容で、さらにどう答えるべきかも瞬時に判断することが難しかった。
──かわいいと思うよ。それが律希の本心であり言うべき答えでもあるとは思うが、恥や照れという感情が正解を声に出すまいと引き留める。
「……うちの犬の名前、ココっていうんだ」
「なにそれ、ふふっ……お揃いだね」
焦った律希の口から飛び出たのは、絶対に正解ではないだろうという答えだったが、心海が笑ったところを見ると、あながち間違いでもなかったようだ。
律希が安心したところで店員がドリンクを運んできて、丁寧に二人の前に置く。
心海の頼んだ看板メニューは、透き通る鮮やかな赤色の液体に炭酸の泡とラズベリーが浮かんでいる。心海はそれをひとくち味わうと、ストローでラズベリーを回し始めた。
「私、英語苦手なんだけどさ。ラズベリーのスペルって、びっくりするんだよね。読めなすぎて。Pってどこから来たんだろ」
律希が心海の視線を追うと、Raspberry Cafeという店名とロゴが描かれたメニュー表がある。
「まあ確かに、わかるかも。そういえば昔、この店って看板に名前書かれてなかったよね」
「そうそう。子どもの頃、何の店だろうって思ってた。しかもこのロゴもなんだかよくわからなかったなぁ。私はダイヤと王冠に見えてたんだけど」
店のロゴは、ホームベースのような五角形の右上の角に、三つの山があるバランに似た図形の長辺が斜めに接しているものだ。店名を知った今となればラズベリーを表していると理解できるが、当時は律希も別の形に見えていた。
「俺も小学生の頃、流れ星に見えてたな」
「流れ星? うーん……見えるかなぁ?」
「この店を初めて見た前の日、近くのキャンプ場に泊まったんだ。それで夜に流れ星を見たんだよ。だから連想したんだと思う」
この店からさほど離れていない崖上にあるキャンプ場は、今はもう廃業してさびれているが、律希にとって思い出の場所のひとつだった。
小学生の頃に家族で来たキャンプの晩に見たのは、まるで海に落ちていくような星の群れだった。律希は、その光景にひどく感激したのを覚えている。
翌日の帰路で見かけたラズベリーカフェの外壁に、例のロゴが描かれていた。その下には淡い水色の布製の庇があって、それらが流星と海に重なって見えたのだ。
その時家族と交わした言葉を、律希はふと思い出した。
「……そういえば、俺の家族も王冠に見えるって言ってたな。王冠がズレた王様の顔みたいだとか」
「私と気が合いそうだね」
「……合ってたまるか、あんなやつと」
ついこぼれてしまった本音を隠すかのように、律希は軽く口を押さえる。
心海は気を悪くしなかっただろうか。横目で心海の様子を窺うと、彼女は律希の心配をよそに微笑んでいた。
「私、そういうの好きだよ。人の本音。……ね、律希はザ・パルスの何が好き?」
ころころと変わる話題に、律希は心と頭が追いつかない。そのせいでまた考える間もなく、心海の言葉を借りて本心をこぼすことになる。
「本音、って感じのところ」
「おんなじ! 全部ぶちまけてくれるところがいいよね」
その言い方から察するに、心海もなにか抱えているものがあるのだろう。ありのままでいるかのように思っていたが、そうではないのかもしれないと律希は少し反省した。
「悩みとかなさそうって思ってたでしょ。私、これでも悩んでるんだよ」
たった今反省したところで心海がそう言うから、律希はまた心を読まれでもしたのかと思った。
それにしても、会って一時間も経っていないのに悩み相談を聞くことになるなんて。律希は普段、他人に必要以上に踏み込むようなことはしない。
けれど心海に限ってはいかにも聞いてほしそうに律希のことを見つめてくるから、律希はやむなく彼女の悩みの原因を訊ねることにした。もっとも、律希自身だって心海のことをもっと知りたいと思っていたのだから役得ではある。
「どんなことで悩んでるの?」
「かわいいこと。名前が」
もっと深刻な話かと思ったらここでまた名前の話に戻るなんて。律希は弄ばれたような気分だった。
しかしまだ詳しい内容も聞いていないのに深刻かどうかを判断するのは失礼かもしれない。律希は背筋を正して心海の言葉を待つ。
「ここみちゃん、なんて感じじゃないの、私は。本当はね? ザ・パルスみたいに、たまにはよろしくない言葉遣いで話してみたいし、女の子らしくとか、かわいくなんてしたくない……って思ったり思わなかったり──あ、これは悩み相談じゃないからね? 共感を求めた愚痴であって、アドバイスは不要だから」
バッサリと言い切る心海に、律希は前にネットの記事で見かけた男女の考え方の違いを思い出した。共感を求めることが多い女性に対して、男性は要不要に関わらずアドバイスをすることが多いという内容だった。
律希にも心当たりがあって、確かに誰かから悩みがあると言われたらその解決法を考えてしまいがちだ。だから、事前に求めている答えをリクエストしてくれる心海をありがたく思う。
「わかるよ、俺も」
それは、心海が求める答えのためについた嘘なんかじゃなかった。いつものように他人のために探した正解とは違う、律希の本音だ。
嫌なら、取り繕うのなんてやめればいい。誰かの望む通りになんてならなければいい。それでも、自分が選んでやっていることだから。自分がそうしたくてやっているのだから。律希がうまく生きていきたいのは、自分自身のためだから。いくら嫌になっても疲れても、悪いのは自分だ。
そんな気持ちでがんじがらめで言い訳すらもうまくできなくて、だから代わりに叫んでくれるザ・パルスに救われる。
「優しいね、律希」
「いや、今のは本気で、本音だから」
「……なんか、本当はさ、こうやって愚痴とか言ってもいいと思うんだけど。ていうか、いいに決まってるけどさ。たまにはね。けどやっぱり、言いづらいんだよね。近くの友だちとか、親とか、後は何も知らないネットの人とかには」
心海は一瞬表情を曇らせたが、それはすぐに晴れる。
「だからさ、今日、律希に会えてよかった。私たちは当然、全然違う他人同士だけど、二人ともザ・パルスが好きってことは、ちょっとおんなじってことだよね」
心海はそう言った後で、少し恥ずかしそうに俯いた。つられて律希も、自分の頬に赤みが差すのを感じる。
「……なんか、ごめんね。勝手に熱くなって。私、変だったね」
「全然そんなことない。俺も、その……心海に会えてよかったと思うし」
律希が普段なら絶対に言わないようなセリフを恥を忍んで言ったのは、どうしても伝えたくなったからだった。
似ていないようで似ている、不思議と本音で話せる相手に。今言わなければ、大切な本当のことが消えてしまうような気がした。
店を出た別れ際、律希は心海に連絡先を聞こうか迷ったが、彼女がポケットの小銭以外なにも手にしていないことに気がつき、やめた。
それでも、また会えるかもしれない。この縁が彼女の好きな言葉を借りて、運命だとするならば。
律希は、自分のアパートへ帰るという心海を見送る。すると彼女は遠くで手を振って、道の角を曲がる寸前に言った。
「またね! 成沢律希くん!」
◇
心海と一緒にいたときの清々しい気分が嘘だったかのように、律希の心には暗雲が立ち込めていた。
息抜きはできたものの、結局のところスマホを見れば天ノ啓示やKINGのことを思い起こしてしまうし、新曲の案だってまだ何一つ浮かんでいない。
新曲について真剣に考えようと目を閉じると、現実逃避のように心海のことを思い出してしまう。また会えるだろうか──なんて淡い期待が勝手に頭の中を支配しようとするのを、必死に振り払う。
閃火コン優勝を目指すなら他のことにうつつを抜かしている場合ではない。それを頭ではわかっているはずなのに、本気で音楽に向き合えていない自分に嫌気がさす。
しかし、律希はふと思いついた。心海のことを考えてしまうのなら、それをそのまま曲にしてしまえばいいのではないだろうか。
とはいえ心海が憂-yu-のアカウントを知っている以上、もちろん単純でわかりやすいラブソングにするわけにはいかないだろう。
元々、憂-yu-はまっすぐな歌は得意じゃない。ツミみたいに、本音を深く隠すような巧みな表現を多用している。そこはいつも通りやればうまくいくはずだ。
今回は海を感じられるような爽やかな曲調にして、出会いを予感させるような前向きな歌詞を書いてみよう。そこまで考えが至ると、急にアイデアが溢れ出てきた。
ノートにペンを走らせて、頭の中に広がっていく世界を取りこぼさないように出力していく。
こうなればもう、曲の完成までは時間の問題だ。律希は心海に一方的な感謝の気持ちを募らせながら、新曲の制作に取りかかった。
作業を始めて二時間ほどが経ち、一息つく。そんな隙間の時間にすら、心海と過ごしたときのことを自然と回想してしまう。出会ったときの驚きから、二人で喫茶店に行って色々な話をした喜び、別れたときの名残惜しさまで。
──その時、律希の脳裏にふと小さな疑問が浮かび上がった。
「……俺、苗字教えたっけ……」
別れ際に心海は、律希のフルネームを確かに呼んでいた。最初に律希が名乗ったのは下の名前だけのはずだし、その後で苗字を教えたような記憶はない。
もしかしたらなにかで知る機会があったのかもしれない。例えばスマホや財布を出したときとかに。
心海に聞けない以上、疑問は疑問のままではあるが、フルネームなんて知られていて困ることでもないだろう。もしまた会えたらそのときに聞けばいいだけだ。
律希は自分自身をそう納得させて、また作曲に熱中するのだった。