バツ印令嬢の癒し婚

「莉乃にまとわりつく妖力は、私が狭間に送り返します」
 琳がパチンと指を鳴らすと、淀んだ空気が一瞬で消えた。
 モニターを見ていた俊介が振り返り、莉乃の顔をのぞき込む。
「春那公爵……お嬢様が!」
 その声に、琳も莉乃に視線を向けた。
「莉乃」
「……お父……さん?」
「気がついてよかった……今はゆっくり休みなさい」
 琳が莉乃の頭を優しく撫でると、彼女はかすかに頷いた。
「橘先生、あとはお願いします。乃彩、行きましょう」
「え、どこに?」
「あなたの婿殿のところです。少々ややこしいことになっています」
 すでにややこしい。
 乃彩を突き放したはずの琳が、何事もなかったようにここにいる。莉乃が鬼に襲われ治療を受けている。わけがわからない。
 それでも琳は莉乃を俊介に任せ、乃彩を連れて真っ白な病室から静かな廊下へ出た。数歩遅れて啓介がついてくるが、琳は特に何も言わない。まるで啓介が存在しないかのように。
「茶月男爵と雪月子爵、覚えていますね?」
「はい」
 忘れようがない。乃彩の二番目と三番目の夫だ。
 だが琳は、乃彩の返事にもかかわらず、それ以上語らなかった。ただ二人が関係しているかのような思わせぶりな言葉を残すだけ。
 議事堂本棟のエントランスに向かう。遼真がいる部屋へは、エントランスを抜けて反対側に進む必要があった。
 琳に聞きたいことは山ほどある。教えてもらえるかどうかはわからないが、乃彩の心はもやもやしていた。
「お父様」
「しっ」
 吹き抜けの壁が見えた瞬間、琳は右手で乃彩を制した。エントランスが騒がしい。
「橘先生の息子、乃彩を頼みます」
 琳は乃彩をその場に残し、早足でエントランスへ向かう。
「お父様」
 後を追おうとした乃彩を、啓介が止めた。
「奥様、なりません。春那公爵がそうおっしゃった以上、私は奥様を守らなければなりません。ここに留まってください」
「ですが、何がなんだか……啓介さんは何かご存知なのですか?」
 琳は何も大事なことを言わない。だから不安が募り、疑いたくもなる。
「いいえ、まったくわかりません。ただ……」
「ただ?」
「微かに妖力、感じませんか?」
 啓介の指摘に、乃彩は霊力を張り巡らす。といっても大した霊力ではないため、集中して感じ取ろうとする。
 遼真にまとわりつく妖力はすぐにわかったが、他の妖力は「家族」が絡まないと気づきにくい。相変わらず不便な力だ。
「わかりました。もしかして、悪鬼が……?」
「術師の総本山である議事堂にまで入り込むとは、腕の立つ悪鬼ですね」
 啓介の言う通りだ。乃彩がここに来るまでにも、身分確認と霊力確認を何度も受けた。
「啓介さん、私たちも」
「うーん、でも私は春那公爵に頼まれたんです。奥様を危険に晒すわけにはいきません」
「私だって術師の端くれです。近くで鬼が皆を襲っているなら、助けたいと思うのは当然でしょう? それが術師というものでは?」
 乃彩がはっきり訴えると、啓介は困ったように唸った。
「わかりました。では、奥様。あの柱まで行き、様子を見ましょう。私も妖力を感じる程度で、鬼の数や規模はわかりません」
 自信に満ちた啓介の口調は、妖力に気づかなかった乃彩への気遣いだろうか。
「私の力は近接型なんです。遠くの妖力は感じにくいし、攻撃も近づかないとできません」
 昨日の廃工場でのことを言っているのだろう。啓介は瞬時に悪鬼を倒したが、彼の霊力は短刀のようだ。敵の懐に飛び込み、倒す。
 対して乃彩の攻撃は遠隔型。霊玉を遠くから投げるが、心理状態で威力が左右され、確実に当たるとは限らない。それでも昨日は、啓介を援護して何体かの悪鬼に霊玉を当てられた。
「いいですか、奥様。あの柱までです。それ以上は近づけません。私が怒られます」
 琳に怒られる啓介を想像すると、彼はいつも通り受け流すかもしれない。不謹慎だが、乃彩はくすりと笑った。
 その笑みが、心をふっと軽くした。