その行為が、乃彩の気持ちをほぐすためのものだとはわかっている。
「も、もう……やめてください……」
「怯えた顔をするな。他家に弱みを見せるな。足をすくわれるぞ。協会はそういう場所だ」
「は、はい……」
 ふっと息を吐いて気持ちを整えた。
 ラジオからはそれ以上の情報を得ることはできなかった。工場跡地で爆発事故が起こり、警察が捜査をしているという、それだけのこと。
 ここに鬼が絡んでいたら、術師捜査官が警察と協力する形になる。人間について調べるのは警察の仕事だが、鬼やら妖力やらそういったものは術師の縄張りだからだ。
 車が静かに停まる。左右対称で真っ白い外壁の建物が目に入った。学校の見学などで訪れたことのある議事堂だが、それ以外で足を運ぶのは初めてだ。
 議事堂の左側が会議などを行う部屋があり、右側が留置施設や捜査するための部屋が並んでいる。エントランスホールに足を踏み入れた途端「乃彩」と名を呼ばれた。
「お父様……?」
 遼真の話でもあったように、ここに呼び出されたのは公爵位を持つ者。となれば春那公爵の琳がここにいるのはなんら不思議ではないのだが、彼のほうから乃彩に声をかけたのが意外だった。
 琳は乃彩に向かって勘当を突きつけた。表面上は父娘に見えるかもしれないが、裏ではとっくに関係が切れているものだと思っている。もしかしてここが議事堂という特殊な場所であるが故、父娘に見えるように振る舞う必要があるのだろうか。
「婿殿はいつものところへ。乃彩は私と一緒に来なさい」
「え? 遼真様……?」
 不安になり遼真にすがろうとしたが、彼は顔を横に振る。ここは琳に従えと、そう言っている。
 このような場所で遼真と引き離されるのが心細かった。
「啓介。乃彩についてくれ」
 遼真は乃彩の気持ちを汲んだかのように、啓介にそう指示を出した。
「御意」
「婿殿、話が早くて助かります。乃彩、こちらに。これから向かう場所は、ここに併設されている医院になります」
 なんらかの事件に巻き込まれ、その事件の関係者になっている者が治療を受けるための施設が議事堂併設の医院だ。ということは誰かが妖力によって侵され、怪我をして治療を受けているのだろう。そこに乃彩が呼び出されたとなれば――。
「ですが、お父様。わたくしはすでに結婚しております」
「わかっています。いいから、黙って。あなたのその力を他の者には悟られないように」
 琳はチラリと乃彩の後方にいる啓介に視線を向けたが、啓介は無表情を貫き通している。
「さすが、日夏公爵家の者ですね。立場をわきまえている。乃彩、急いで」
 いつも人の話を柳のように受け流す琳が、これほどまで焦っているのも珍しい。
 エントランスを右に進み、そこから真っすぐ行き、渡り廊下を渡って隣の建物内に入る。 瞬間、空気がピンと張り詰めた。
 呪術医院には何度も足を運んだことがあるが、そことは異なる重々しい空気が漂っている。表現しがたい違和感。
 階段を上がり、二階の奥にある病室へ。
 扉を静かに開けた琳に続き、乃彩も中に入る。
「……え? 莉乃? と、先生……?」
 真っ白なベッドに横たわる莉乃。点滴や呼吸器の管に繋がれ、目を閉じた彼女は普段より幼く見えた。
 その傍らでモニターを確認していたのは俊介だった。
「おはようございます、春那公爵、日夏公爵夫人」
 理解が追いつかない。なぜ莉乃がベッドに寝ていて、俊介がここにいるのか。
「私は医療術師です。助けが必要な人がいれば、最善を尽くすだけです」
 怪我人や病人に一族は関係ない。俊介は日夏公爵家と懇意だが、患者には平等に接する。
「莉乃は鬼に襲われ、怪我をしました。今は橘先生のおかげで小康状態を保っています」
 琳の説明は必要最小限で、余計な情報はない。なぜ鬼に襲われたのか、俊介が呼ばれるほどの怪我とは何か。
 疑問が湧くが、口にする前に琳が言葉を重ねた。
「莉乃の治癒をお願いします……」
 喉の奥から絞り出すような悲痛な声。だが、この状況ならそうなるのも理解できた。
 琳は莉乃の治癒のために乃彩を呼び出したのだ。
「お父様……」
 乃彩の声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
 シュー、シューと莉乃の呼吸音が響く。
「残念ながら、私の力は莉乃には使えません……」
 乃彩が琳を真っすぐ見つめる。彼の瞳がはかなげに揺れた。
「使えない……?」
「はい……二か月前、莉乃に頼まれ、霊力の回復を試みましたが、癒しの霊に問いかけても反応がなく……」
「二か月前……何か、かわったことはありませんでしたか?」