乃彩は遼真の部屋を逃げ出すように出て、自室に戻るとベッドに倒れ込んだ。
 彼に抱きしめられ「大切な人」と言われたとき、心臓が痛いほど高鳴った。だが、遼真が「大切な人」と呼ぶのは、乃彩だけが彼の妖力を取り除けるからだ。彼が生きるためには乃彩が必要なのだ。
 その事実を突きつけられるたび、胸が締め付けられる。それは茉依から憎しみを向けられたときよりも強い痛みだった。
 はじめからわかっていたことなのに、なぜ遼真に期待してしまうのか。
 きっと、彼らが乃彩に寄り添ってくれるからだろう。
 ずっと家族に利用され、搾取され続けた乃彩は、日夏公爵家に来て初めて家族のぬくもりを知った。
 それが一時的な関係だと頭では理解しているのに、一度知った温かさを手放すことに躊躇が生まれる。
 その日が来ることを考えると、胸がぎしぎしと軋む。
 切なく疼く胸に手を当て、乃彩はごろりと寝返りを打つ。
 雨風をしのげる快適な部屋に住み、三食が用意され、時には美味しいデザートまで出される。昼寝さえできるこの生活。
 その先を失うことなど、考えられない。
 ふと、補習を担当してくれた女性教師の言葉が蘇る。
 ――あなたは生きたいように生きればいいのよ。
 何気ない一言だったが、あの時の乃彩には呪縛を解く魔法の言葉だった。
 今もその言葉は胸に刻まれている。
 そうやってぐるぐると悩んでいるうちに、眠ってしまったらしい。
 気がつけば、カーテンの隙間から差し込む日差しが部屋に光の道を作っていた。
 何時だろうと、ヘッドボードの目覚まし時計に手を伸ばす。まだ朝の五時前。
 喉が渇いた乃彩はベッドから下り、机の上で光を点滅させるスマートフォンを手にテーブルに向かう。そこには加代子が寝る前に用意してくれた飲み物がある。
 ペットボトルからグラスにお茶を注ぎ、一口飲む。グラスをテーブルに戻し、スマートフォンをスライドする。
 メッセージが一件。
 莉乃かと思ったが、知らないアドレスだった。ゴミ箱に放り込もうとした瞬間、修一の名前が目に入る。
『修一です。おじさんから連絡先を聞きました』
 彼と会ったのは十日以上前。その時、乃彩の連絡先は琳から聞いたと言っていたが、実際に連絡が来たのはこれが初めてだ。
『会って話がしたい。おじさんから許可はもらっています。都合のよいときに』
 内容は簡潔だった。
 画面を見つめながら、どうすべきか考える。補習は終わったので、時間はある程度自由だ。
 だが、遼真との旅行が控えており、修一と会えるのは明日か明後日くらいだろう。
 こんな時間に返信するのは避け、昼間にしようとスマートフォンをテーブルに置く。乃彩はソファに深く座り直し、背もたれに寄りかかって目を閉じた。
 修一は何を思ってこんなメッセージを送ってきたのだろう。結婚のことだろうか。
 莉乃のこと。
 茉依のこと。
 修一のこと。
 そして遼真のこと。
 考えれば考えるほど頭が痛くなる。いや、遼真を思うときだけは胸が痛む。
 小さく息を吐き、乃彩は立ち上がって着替え始めた。
 五時になれば、百合江は庭に出ている。夏の暑さを避けるように、彼女は花に水をやる。 使用人の仕事かもしれないが、百合江にとって庭いじりは趣味だ。
 彼女にまとわりついていた妖気を祓って以来、すっかり元気になり、朝早くから動き回っている。
 時折付き合う啓介が「元気すぎる」とぼやいていたのを思い出す。
 花柄のワンピースに着替えた乃彩は、百合江がいる庭へ向かった。
「おはようございます、おばあさま」
 つばの大きな麦わら帽子をかぶり、じょうろを手にした百合江が振り返る。
「おはよう、乃彩さん。今日は早いのね」
「はい。今日から学校に行かなくていいので」
 乃彩は肩をすくめた。
 百合江と他愛のない話をしながら花木を愛でていると、母屋が慌ただしくなる。
「奥様! ここにいらしたのですか? 遼真様がお探しです」
 啓介が慌てて駆け寄ってきた。母屋の騒ぎは、乃彩を捜していたかららしい。
「遼真様が? こんな朝早くから?」
 百合江と顔を見合わせるが、彼女もわからないと首を傾げる。
「では、大奥様、奥様をお借りします」
 啓介は乃彩の手を引き、その場から連れ出した。