「ああ、あの腹黒狐か」
「はい。わたくしが雪月子爵と結婚した際、離婚時に父が慰謝料としてかなりの額を請求したはずです」
 遼真は思わず顔をしかめた。乃彩は実の父親に利用され、さらには学友から逆恨みされている。
「その額を払うために結婚資金を、という噂も耳にしたことがありますが……」
「まさか、それが原因で最近破談になったとか?」
「詳しくはわかりません。わたくしも断片的な噂しか知りませんし、クラスの人とはあまり話しませんので……」
 だが、これで状況は理解できた。茉依は婚約がうまくいっていない怒りを乃彩にぶつけてきたのだろう。
「もう一人の男は? あいつも冬賀一族だったな」
「はい。祐二さんというクラスメートです。わたくしとの接点はあまりありません。ただ……」
 乃彩の視線が斜め上に向いた。
「わたくしが雪月子爵と離婚した際、汚い噂が一時的に広まりまして……」
「汚い噂?」
 遼真のこめかみがひくりと震えた。
「はい。わたくそが男好きだとか、遊んでいるとか……そんな噂です」
 乃彩を傷つけ、優越感を得て安心するような愚かな行為だ。
「愚かな人間が考えそうなことだな」
「そのとき、わたくしを誘おうとしたのが祐二さんです」
 遼真の胸にイラッとした感情が湧いた。
「で、どうした?」
 先ほどより低い声で尋ねると、乃彩は淡々と続けた。
「適当に言い返し、場合によっては冬賀公爵に抗議すると言ったら、それ以上は何もありませんでした」
「おまえらしいな」
 乃彩の話から、彼女に恨みを持つ者によって連れ去られたと考えてよさそうだ。
「とにかく、おまえが無事でよかった」
「わたくしも……遼真様が来てくれて助かりました。わたくしだけでは悪鬼を封じるなんてできませんでしたから……」
 乃彩が顔を背けた。頬が赤らみ、どこか恥ずかしそうな様子に、遼真の情欲が刺激されるが、理性で抑え込む。
「悪鬼……あれだけの数を啓介の霊力だけでは無理だな。おまえも封じたのか?」
 乃彩は霊玉すら扱えないと聞いていた。だからこそ連日の補習だった。
「は、はい……」
 やはり遼真と目を合わせようとはしない。
「霊力が使えるようになったのか? 家族以外にも……」
「いえ。わたくしの霊力は家族にしか使えません。ですから、先ほどの悪鬼は……その……遼真様のことを助けると……そう思って……」
 語尾が消えていくが、言いたいことは伝わった。遼真の胸に喜びが湧く。
「おまえが悪鬼を封じられたのは、俺を助けようとしたから霊力を使えた、ということか?」
 乃彩は小さく首を二回振った。
「悪鬼は遼真様の妖力に影響されていました。わたくしを狙っていたはずなのに、遼真様が来たことで標的が変わったのです。だから……」
 遼真の妖力が悪鬼を惹きつけると乃彩は言った。だから遼真はあの二人を拘束する側に回ったのだ。
「そうか。おまえのとっさの判断、助かった」
「いえ……遼真様はわたくしの家族ですから……」
 うつむく乃彩をそっと抱き寄せる。無意識の行動だった。
「そうか。俺も同じだ。おまえは俺にとって大切な存在だ……」
 彼女が無事でいることに心から安堵し、その温もりを確かめたかったのかもしれない。
「それは、わたくしが遼真様の妖力を浄化できるから……ですよね?」
 もの悲しげな声に、遼真は腕を緩め、彼女の顔を覗き込んだ。
「乃彩?」
「いえ、変なことを言いました。わたくしたちの結婚は最初からお互いを利用するための関係です。わたくしが遼真様のために動くのは当然で……」
 控えめだった先ほどとは違い、彼女の瞳は力強く揺れていた。
「乃彩?」
「すみませんでした……クラスメートにあんな仕打ちをされて、少し動揺しているようです」
 乃彩は遼真から距離を取り、立ち上がった。
「おやすみなさい、遼真様」
「あ、あぁ……おやすみ……」
 部屋を出ていく彼女の背中を見送りながら、腕から逃げた温もりが恋しく感じられた。