学園も休みとなる土曜日。
乃彩は琳と彩音につれられて、清和侯爵家の屋敷へと向かった。瓦屋根の平屋だが、ずいぶんと坪数はあるだろう。縁側や渡り廊下を、使用人たちが忙しそうに歩き回っている。
庭から玄関へと続く飛び石には風情があり、こういった昔ながらの庭園は、心が落ち着くものだ。それでも乃彩の気持ちはピリリと張り詰めていた。
これから、結婚をするのだ。名前しか聞いたことのない見知らぬ男性と。
それを考えただけで、心臓はドクドクと大きく音を立てている。
なぜ結婚するのか。なんのために結婚するのか。
そんなことをぐるぐると考えながらも、最終的にはこれは人助けであると、そう自分に言い聞かせて無理矢理、納得させることの繰り返し。
玄関脇には、和服姿の女性が立っていた。
乃彩たちの姿を見るとすぐに、深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました。春那公爵様。このたびは、お引き受けくださり誠にありがとうございます」
頭を下げ続ける女性に向かって、琳は頭を上げるようにと手で制す。
「それで、貴宏さんの具合は?」
「は、はい……もって、あと三日だと……」
毅然とした態度の彼女の瞳には、悲壮感が漂っている。
「なるほど。遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ、もったいなきお言葉でございます」
「このような時間も惜しいでしょうから、すぐに案内してください」
「はい」
和服姿の女性は聡美と名乗った。彼女こそ、清和貴宏の元妻なのだ。今はもう、二人の間には離婚が成立し、赤の他人となっている。その代わり、貴宏と乃彩に間に婚姻関係が成り立っていた。しかし寝たきりとなっている貴宏は字が書けない。そんな彼の代理人を務めるのは彼の弟だと聞いている。
たった一枚の紙切れで夫婦の関係があっけなくかわってしまう。そこに、貴宏の意志など関係ない。周囲が彼を助けたいがために、夫婦の関係を変えたのだ。
聡美に案内されたのは、平屋の奥にある部屋。ドアノブを下げて扉を開けると、そこは洋間だった。黒いヘッドボードのしっかりとしたダブルベッドの真ん中には、横になっている人物がいる。
「あなた。春那公爵様がいらっしゃいましたよ」
すでに赤の他人という関係の二人だというのに、そこには互いを想う気持ちが溢れていた。
しかし、貴宏は反応を示さない。横になっている彼の顔は青白く、唇もかさかさに乾いたまま。
あと三日……。その言葉の意味を、乃彩は噛みしめた。
「状況はわかっております。すぐに始めましょう」
琳もざっと貴宏の全身を見回し、いつもと変わらぬ口調で淡々と言葉を告げる。
「……乃彩」
名前を呼ばれただけだというのに、つつっと背中に緊張が走った。背筋を伸ばして頭をゆっくりと下げる。
「はい……お初にお目にかかります。春那乃彩と申します」
「あら、乃彩。あなたはすでに清和家の人間よ。貴宏さんと夫婦になったのだから」
彩音の言葉に間違いはない。婚姻届に署名をして、それが昨日のうちに受理されている。何も、婚姻届は本人が提出しなくてもいい。
乃彩が学校へ行っている間に、彩音が手続きを終えていた。
「乃彩、わかりますね?」
琳の言葉にゆっくりと頷く。部屋に入ったときから、まがまがしい空気を感じていた。
その中心にいるのが貴宏だ。間違いなく彼は妖力に犯されている。しかも根深く、あと数日のうちにそれは心臓へと達するだろう。
「すみませんが、手に触れさせていただきます」
聡美の前で貴宏の身体に触れることに躊躇いがあったが、霊力の回復のためには身体の一部と触れ合う必要がある。
「はい」
藁にもすがるようなか細い声で、聡美が返事をした。
乃彩は少しだけかけ布団をめくり、貴宏の左手をしっかりと両手で握りしめる。ほんのりと体温を感じるその手は脱力しており、重く感じた。
(恐れ多くも申し上げます。癒やしの霊よ……)
乃彩は心の中で自身の霊力に語りかける。すると触れた箇所がぱあぁっと銀色の光を放ち始めた。その光はゆっくりと広がっていき、貴宏の全身を包み込む。
それでも乃彩は目を閉じて、心の中で念じ続ける。
握りしめていた貴宏の手がピクリと反応した。はっと目を開けると、貴宏の顔に赤みが戻っている。ずっと閉じられたままの彼の瞼がピクピクと動いた。
「あなた!」
聡美の声に反応して瞼がゆっくりと開く。
「さとみ?」
「あなた」
意識が戻れば、最悪の状態から脱したはず。
乃彩は握りしめていた貴宏の手を離し、その場を聡美に譲る。
乃彩は琳と彩音につれられて、清和侯爵家の屋敷へと向かった。瓦屋根の平屋だが、ずいぶんと坪数はあるだろう。縁側や渡り廊下を、使用人たちが忙しそうに歩き回っている。
庭から玄関へと続く飛び石には風情があり、こういった昔ながらの庭園は、心が落ち着くものだ。それでも乃彩の気持ちはピリリと張り詰めていた。
これから、結婚をするのだ。名前しか聞いたことのない見知らぬ男性と。
それを考えただけで、心臓はドクドクと大きく音を立てている。
なぜ結婚するのか。なんのために結婚するのか。
そんなことをぐるぐると考えながらも、最終的にはこれは人助けであると、そう自分に言い聞かせて無理矢理、納得させることの繰り返し。
玄関脇には、和服姿の女性が立っていた。
乃彩たちの姿を見るとすぐに、深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました。春那公爵様。このたびは、お引き受けくださり誠にありがとうございます」
頭を下げ続ける女性に向かって、琳は頭を上げるようにと手で制す。
「それで、貴宏さんの具合は?」
「は、はい……もって、あと三日だと……」
毅然とした態度の彼女の瞳には、悲壮感が漂っている。
「なるほど。遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ、もったいなきお言葉でございます」
「このような時間も惜しいでしょうから、すぐに案内してください」
「はい」
和服姿の女性は聡美と名乗った。彼女こそ、清和貴宏の元妻なのだ。今はもう、二人の間には離婚が成立し、赤の他人となっている。その代わり、貴宏と乃彩に間に婚姻関係が成り立っていた。しかし寝たきりとなっている貴宏は字が書けない。そんな彼の代理人を務めるのは彼の弟だと聞いている。
たった一枚の紙切れで夫婦の関係があっけなくかわってしまう。そこに、貴宏の意志など関係ない。周囲が彼を助けたいがために、夫婦の関係を変えたのだ。
聡美に案内されたのは、平屋の奥にある部屋。ドアノブを下げて扉を開けると、そこは洋間だった。黒いヘッドボードのしっかりとしたダブルベッドの真ん中には、横になっている人物がいる。
「あなた。春那公爵様がいらっしゃいましたよ」
すでに赤の他人という関係の二人だというのに、そこには互いを想う気持ちが溢れていた。
しかし、貴宏は反応を示さない。横になっている彼の顔は青白く、唇もかさかさに乾いたまま。
あと三日……。その言葉の意味を、乃彩は噛みしめた。
「状況はわかっております。すぐに始めましょう」
琳もざっと貴宏の全身を見回し、いつもと変わらぬ口調で淡々と言葉を告げる。
「……乃彩」
名前を呼ばれただけだというのに、つつっと背中に緊張が走った。背筋を伸ばして頭をゆっくりと下げる。
「はい……お初にお目にかかります。春那乃彩と申します」
「あら、乃彩。あなたはすでに清和家の人間よ。貴宏さんと夫婦になったのだから」
彩音の言葉に間違いはない。婚姻届に署名をして、それが昨日のうちに受理されている。何も、婚姻届は本人が提出しなくてもいい。
乃彩が学校へ行っている間に、彩音が手続きを終えていた。
「乃彩、わかりますね?」
琳の言葉にゆっくりと頷く。部屋に入ったときから、まがまがしい空気を感じていた。
その中心にいるのが貴宏だ。間違いなく彼は妖力に犯されている。しかも根深く、あと数日のうちにそれは心臓へと達するだろう。
「すみませんが、手に触れさせていただきます」
聡美の前で貴宏の身体に触れることに躊躇いがあったが、霊力の回復のためには身体の一部と触れ合う必要がある。
「はい」
藁にもすがるようなか細い声で、聡美が返事をした。
乃彩は少しだけかけ布団をめくり、貴宏の左手をしっかりと両手で握りしめる。ほんのりと体温を感じるその手は脱力しており、重く感じた。
(恐れ多くも申し上げます。癒やしの霊よ……)
乃彩は心の中で自身の霊力に語りかける。すると触れた箇所がぱあぁっと銀色の光を放ち始めた。その光はゆっくりと広がっていき、貴宏の全身を包み込む。
それでも乃彩は目を閉じて、心の中で念じ続ける。
握りしめていた貴宏の手がピクリと反応した。はっと目を開けると、貴宏の顔に赤みが戻っている。ずっと閉じられたままの彼の瞼がピクピクと動いた。
「あなた!」
聡美の声に反応して瞼がゆっくりと開く。
「さとみ?」
「あなた」
意識が戻れば、最悪の状態から脱したはず。
乃彩は握りしめていた貴宏の手を離し、その場を聡美に譲る。