バツ印令嬢の癒し婚

 なめらかに車が滑り込み、廃工場の建物の前で啓介は車を停めた。工場の向かいにはコンクリートで整備された駐車場が広がっている。
 この広さから推測すると、かつて何百人もの人間がここで働いていたのだろう。だが今は、虚無な空間が残されているだけ。
 工場と思われる平屋の建物と、隣に事務棟のような建物が建っている。
 昼過ぎだというのに、人の気配が一切しないのがどこか不気味だった。
「どっちでしょう?」
 啓介の「どっち」は、工場か事務棟のどちらに乃彩がいるのかという意味だろう。
「……こっちだな」
 もう少し近づけば、スマートフォンで同期して正確な位置を把握できる。離れているときは測位システムを使い、百メートル圏内に入るとスマートフォン同士の通信に切り替わる。それが開発中のアプリの特徴だ。
「それ、完全に奥様を監視してますよね」
 啓介の言葉に遼真は答えず、工場の建物に向かって歩き、頑丈な鉄製の扉を開けた。
 ここ数年使われていないはずなのに、鍵はかかっていなかった。
 鬼はこのような廃れた場所を好む。人の目が届かず、もの悲しい歴史が漂う場所だ。この工場は、まさに栄枯盛衰の舞台だろう。
 中に入ると、天井は高く、平屋の造りながら三階建てほどの高さがある。
 がらんとした広い空間で、製造設備はすべて処分されたようだ。何もない。
 上階へ続く鉄製の階段は、二階、三階のギャラリーに通じている。
 その奥に扉があり、別の部屋に繋がっているようだ。
「二階が怪しいな」
その呟きは、広い空間に飲み込まれそうだった。
 スマートフォンで乃彩の位置を確認しようとした瞬間、バンと乱暴な音が響いた。ギャラリーの奥の扉が開き、数人の人間が飛び出してきた。
「待ちやがれ、この女!」
 柄の悪い男たちが一人の女性を追う。彼らは人間の姿をしているが、人間ではない。
 黒い髪をなびかせ、ギャラリーを走る彼女は間違いなく乃彩だった。
 遼真が見間違えるはずがない。
「乃彩!」
 遼真の声に反応した乃彩は、突然ギャラリーの柵に足をかけ、そこから身を投げた。
「乃彩!」
 誰もがその動きに気を取られた瞬間、啓介が追っ手に霊力を放つ。
 状況に応じて素早く判断できる。それが啓介を側に置く理由だ。
 その場を啓介にまかせ、遼真は落ちてくる乃彩へと駆け寄った。
 ――ドサッ!
 乃彩を抱えたまま、尻餅をついた。
「ナイスキャッチです、遼真様」
 満面の笑みでそう言われ、遼真は脱力する。
 緊迫した空気の中、なぜか彼女の周囲だけ時間がおっとりと流れている。普通の人間なら、あの高さから落ちて無事では済まない。
「遼真様、奥様が無事なら力を貸してください」
 啓介の前には、十体ほどの悪鬼が群がっている。一人で相手にする数ではない。
「遼真様。遼真様のその妖力(ちから)は、この状況下においては悪鬼を寄せ付けます。ですので、あちらをお願いします。悪鬼はわたくしたちにお任せください」
 乃彩の視線の先には、階段を駆け下りて逃げようとする()()がいる。
 悪鬼も気になるが、ここは乃彩を信じよう。
 逃げる二人の中で足の遅い女を狙い、射程圏内に入ったところで霊力を足元に放つ。
「あっ!」
 足がもつれて転んだ女に、男も駆け寄る。そこを霊力で捕縛した。
「おまえたちが乃彩を連れ去った犯人か?」
 身動きできず、尻餅をついている男女は、宝暦学園の制服姿である。
「どこの一族の者だ」
 身動きできない男の胸ポケットをあさった遼真は、お目当ての生徒手帳を奪った。
「まさか……冬賀の分家とはな……」
 やはり術師華族の者だった。あきれてものが言えない。
「遼真様」
 けろりとした乃彩の声で、遼真は振り返る。
「その二人を捕まえてくださったのですね」
 今まで囚われの身だったとは思えないほどの落ち着いた笑みを、乃彩は浮かべている。
 ゆっくりと男女に近づく彼女の所作は、まるで女王のように威厳に満ちたものに見えた。
「どうしてこのようなことを?」
 乃彩は、座り込んでいる女子生徒に向かった声をかけた。
「茉依……なぜ……?」