バツ印令嬢の癒し婚

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 宝暦学園は夏休みに入った。だが、乃彩は毎日のように学校に足を運んでいる。それは実技の補習のためだ。
 七月いっぱいは補習があるとのことで、八月に新婚旅行(仮)という名の旅行の計画を立てている。(仮)は乃彩が勝手につけていた。
 行き先も決まり、旅館の予約も済ませたが、最近、乃彩の様子がおかしい。
 きっかけは、彼女が雨水修一と会った日からだ。
 その日、啓介から「奥様が友達と寄り道して帰るからと迎えを断ってきたんですが、大丈夫ですか?」と電話があった。
 大丈夫とは、何をもって大丈夫とするのか。
 先日のパーティーでは、日夏公爵家が襲撃された。犯人もその意図も不明のままなのに、「友達との寄り道」を理由に乃彩を一人にするのは危険だ。そもそも、乃彩に学園内で親しい友達はいないはずだ。となれば、彼女の言葉は嘘だ。
 そう考えた遼真はすぐさま乃彩を見つけ出した。
 彼女は修一と会っていた。修一はパーティーで遼真の結婚発表を聞きながら、乃彩に好意を示すような言葉を口にしていた男だ。
 見過ごすわけにはいかない。
 遼真は彼らがいたコーヒーショップに飛び込み、乃彩の元へ向かった。
 修一は乃彩に遼真との離婚を迫り、さらには自分との結婚を望むとまで言っていた。
 その言葉を耳にした瞬間、遼真の胸に苛立ちが沸き上がった。その感情の理由はわからない。
 乃彩との結婚は離婚前提で、いつか別れると決まっていたはずなのに、別れたくないという思いが芽生えている。
 制御できない感情と苛立ちが交錯し、遼真は思わず口を挟み、乃彩をその場から連れ帰った。
 だが、それ以来、彼女の様子がおかしい。
 遼真への治癒行為は毎日続いているが、彼女は何か言いたそうに唇を震わせるだけで、言葉にはならない。
 彼女は何を言いたいのか。
 抑圧された家庭環境で育ったせいか、乃彩は本音を口にしない。出会ってまだ三か月も経っていないのだから、遼真に心を開かなくても無理はない。
 それでも、彼女を悩ませる何かがあるなら、それを取り除きたい。
 この気持ちに名前をつけるとすれば、どんな言葉が適切なのか、遼真にはわからない。
家族だから、夫婦だから――そして、乃彩がいなければ遼真は生きられないから。
 互いを利用するだけの結婚だとわかっていても、乃彩のことが気になって仕方ない。
 少しでも彼女の気が晴れればと、慣れないパーティーの準備をやり遂げた感謝も込めて、旅行を提案した。
 高校三年の夏休みは受験勉強に励むべき時期だが、内部進学なら成績と授業態度で合否が決まるため、受験勉強は不要だ。
 そこで遼真は気づいた。
 乃彩の卒業後の進路を、彼女の口から直接聞いていない。
 内部進学か、外部進学か、それとも進学しないのか。あるいは就職か。
 術師華族の女性は、高等部卒業後、婚約者の家で花嫁修業をするか、短期大学部に進む者が多い。他の道を選ぶ女性はごくわずかだ。
 世の中は男女平等や女性活躍を叫ぶが、術師華族はいまだ古い慣習に縛られている。それを壊したいと思いつつ、遼真一人では力不足だ。
 だが、乃彩がそばにいれば、変えられるかもしれない。そんな淡い期待すら抱いてしまう。彼女は他の術師華族の女性とはどこか違う。
 そんな考えを脇に置き、パーティーの会計報告やお礼状のリストに目を通していると、プライベート用のスマートフォンが鳴った。
 画面には啓介の名前。この時間なら、補習を終えた乃彩を迎えに行っているはずだ。
「どうした?」
『あ、遼真様。奥様、帰ってきてませんよね?』
「帰ってきてない。何かあったのか?」
『いつもの場所に車を停めて待ってるんですが、約束の時間になっても奥様が来なくて……』
「補習がまだ終わってないんじゃないか? 今日が最終日と言ってたからな」
 遼真はそう言って、自分の嫌な予感を振り払おうとした。
 乃彩は時間をきっちり守る。約束の時間に現れないなら、彼女に原因があるのではなく、予定が変更されたと考えるのが自然だ。
 だが、補習が勝手に延長されることも考えにくい。
「砥部に連絡は取れるか?」
『はい、連絡先はわかってます』
「砥部に確認してくれ。乃彩の補習が終わったかどうか。もしくは、おまえが学園に乗り込んでもいい」
 そう言いながら、遼真は空調が効いた部屋で背中に嫌な汗が流れるのを感じた。