「聡美さん」
乃彩が声をかけたところ、娘の愛美を抱っこしていた聡美が慌てて立ち上がろうとした。乃彩はそれを制止する。
「乃彩さん。このような格好で申し訳ありません」
「お気になさらないでください。もしかして、疲れてしまったのかしら?」
聡美の腕の中でぐったりとしている愛美の顔を、乃彩がのぞき込んだ。
「愛美さんのお食事はいかがでしたか?」
愛美のために、幼児用の食事を用意していたのだが。
「とても美味しかったみたいで、一人でスプーンをもって食べていました。乃彩さんが選んでくださったのでしょう?」
嬉しい言葉ではあるが、やはりぐったりとしている愛美の様子が気になった。
乃彩は円卓の上の料理をさっと見回す。
「こちらの飲み物は?」
幼児用マグカップにストローが刺してある。
「えぇ。食事が運ばれてきた後、麦茶をいただきました」
「麦茶……」
だが、乃彩は麦茶を出すように指示していない。子どもには水かジュース類を用意していたはず。
「この麦茶。どなたが持ってきたか、覚えていますか?」
そう言いながら、乃彩はマグカップを手にして、においを嗅いだ。
「男性の方でした。みんな、同じような服を着ておりますので、覚えているのは性別くらいです」
「スカーフの色は覚えておりませんか?」
「えぇ、青いスカーフでした。スカーフは目立ちますから、印象に残っています」
給仕にはスカーフの着用を義務づけた。スカーフの色でどういった飲み物を運んでいるかを把握するためだ。子どももいるし、アルコールを受け付けない者だっている。そういった者に間違えて酒類を出さないようにという配慮のためだ。日夏の関係者がそれとなく目を光らせている。
だから青いスカーフは、アルコール類を担当する給仕がつけるもの。ソフトドリンクやお茶などのノンアルコールドリンクは、赤いスカーフの給仕が担当となる。
これは、各自にスカーフを渡しているが、スカーフを着けている彼らは、スカーフの色にそういった意味があることを知らない。
「聡美さん。ごめんなさい。これ、麦茶ではありません」
「え?」
「たいへん申し訳ありません。別室を案内します。そちらで愛美さんを休ませましょう」
「え、えぇ……」
聡美は困惑した様子を見せながらも、乃彩の言葉に素直に従う。
「貴宏さんは?」
「他に挨拶に行っておりますので、連絡をいれておきます」
「よろしくお願いします」
乃彩は近くにいた給仕に、啓介を別室に呼ぶようにと依頼した。
入り口に向かって歩いている途中、遠くにいる遼真と目が合った。だが、彼は何かを察してくれたようだ。
さすがに遼真と乃彩の二人とも、会場から姿を消すのはまずいだろう。
大広間から少し離れた場所に用意してある別室は、休憩室のような部屋だ。集まっている人も多いため、気分のすぐれない者が休むために準備した。
「奥様、どうされました?」
この部屋には俊介にいるようにとお願いした。彼のような人間が常駐しているのは心強い。
「この子ですが。おそらく、甘茶による中毒症状です。飲んでから、さほど時間は経っていないようですが」
「甘茶?」
乃彩の言葉に俊介は眉をひそめるものの、すぐに洗面器やタオルなどを用意する。
「聡美さん。背中をさすってあげてください。気持ち悪いようなら、こちらに。水も用意しましたので」
乃彩が穏やかに声をかけると、聡美は愛美の背中をゆっくりとさすり始めた。
「愛美さんは気持ちが悪いのだと思います。飲んだ量も少ないですから、命にかかわることはないとは思うのですが。念のため、先生に診てもらってください」
「ありがとうございます」
「いえ。こちらの落ち度です……」
そこへ、啓介が慌てて部屋に入ってきた。
「奥様、お呼びですか? 何かございましたか?」
「啓介さん。侵入者がいます。給仕に扮して、子どもたちに麦茶と偽って甘茶を飲ませようとしている人がいるようです。まずは子どもたちの甘茶の回収をお願いします」
「甘茶ですか?」
「はい。詳しいことは後でお話しますが。この子が麦茶だと思って飲んだがお茶が甘茶でした。濃いお茶を飲むと中毒症状を引き起こす恐れがあります。特に、このように幼い子の場合は、中毒を起こしやすいのです。お茶は幼児用のマグカップに入れられているようです。子どもたちがいるテーブルは……」
そこで乃彩は、テーブル番号を口にする。
「全部で十人ですので、万が一、飲んだ子がいるようでした、こちらに連れてきてください」
「わかりました」
啓介が急ぎ部屋を出ていく。彼であれば、いろいろ根回しをしつつ迅速に動いてくれるだろう。
「先生。愛美さんの様子はどうですか?」
「まだ気分が優れないのでしょう。甘茶による中毒だとすれば、特効薬などがないので、落ち着くまで様子をみるしかないのです」
「……みじゅ、みじゅ」
喉が渇いたのか、愛美が聡美に向かって手を伸ばしている。
「お水ね。はい、どうぞ」
ごくごくと水を飲む愛美の姿を診れば、少しずつ回復している様子がわかる。
「聡美さん。このようなことになってしまって申し訳ありません。後日、正式に謝罪させてください」
聡美は首を横に振る。
「正式な謝罪など不要です。乃彩さんに気づいていただけて助かりました。あの場でこのような失態を見せていたら……」
清和侯爵の印象はぐっと下がるだろう。そして原因を突き止められてしまえば、主催者である日夏侯爵家の手腕も問われる。
侵入者の狙いは、まさしくそれだったのではないだろうか。
乃彩が声をかけたところ、娘の愛美を抱っこしていた聡美が慌てて立ち上がろうとした。乃彩はそれを制止する。
「乃彩さん。このような格好で申し訳ありません」
「お気になさらないでください。もしかして、疲れてしまったのかしら?」
聡美の腕の中でぐったりとしている愛美の顔を、乃彩がのぞき込んだ。
「愛美さんのお食事はいかがでしたか?」
愛美のために、幼児用の食事を用意していたのだが。
「とても美味しかったみたいで、一人でスプーンをもって食べていました。乃彩さんが選んでくださったのでしょう?」
嬉しい言葉ではあるが、やはりぐったりとしている愛美の様子が気になった。
乃彩は円卓の上の料理をさっと見回す。
「こちらの飲み物は?」
幼児用マグカップにストローが刺してある。
「えぇ。食事が運ばれてきた後、麦茶をいただきました」
「麦茶……」
だが、乃彩は麦茶を出すように指示していない。子どもには水かジュース類を用意していたはず。
「この麦茶。どなたが持ってきたか、覚えていますか?」
そう言いながら、乃彩はマグカップを手にして、においを嗅いだ。
「男性の方でした。みんな、同じような服を着ておりますので、覚えているのは性別くらいです」
「スカーフの色は覚えておりませんか?」
「えぇ、青いスカーフでした。スカーフは目立ちますから、印象に残っています」
給仕にはスカーフの着用を義務づけた。スカーフの色でどういった飲み物を運んでいるかを把握するためだ。子どももいるし、アルコールを受け付けない者だっている。そういった者に間違えて酒類を出さないようにという配慮のためだ。日夏の関係者がそれとなく目を光らせている。
だから青いスカーフは、アルコール類を担当する給仕がつけるもの。ソフトドリンクやお茶などのノンアルコールドリンクは、赤いスカーフの給仕が担当となる。
これは、各自にスカーフを渡しているが、スカーフを着けている彼らは、スカーフの色にそういった意味があることを知らない。
「聡美さん。ごめんなさい。これ、麦茶ではありません」
「え?」
「たいへん申し訳ありません。別室を案内します。そちらで愛美さんを休ませましょう」
「え、えぇ……」
聡美は困惑した様子を見せながらも、乃彩の言葉に素直に従う。
「貴宏さんは?」
「他に挨拶に行っておりますので、連絡をいれておきます」
「よろしくお願いします」
乃彩は近くにいた給仕に、啓介を別室に呼ぶようにと依頼した。
入り口に向かって歩いている途中、遠くにいる遼真と目が合った。だが、彼は何かを察してくれたようだ。
さすがに遼真と乃彩の二人とも、会場から姿を消すのはまずいだろう。
大広間から少し離れた場所に用意してある別室は、休憩室のような部屋だ。集まっている人も多いため、気分のすぐれない者が休むために準備した。
「奥様、どうされました?」
この部屋には俊介にいるようにとお願いした。彼のような人間が常駐しているのは心強い。
「この子ですが。おそらく、甘茶による中毒症状です。飲んでから、さほど時間は経っていないようですが」
「甘茶?」
乃彩の言葉に俊介は眉をひそめるものの、すぐに洗面器やタオルなどを用意する。
「聡美さん。背中をさすってあげてください。気持ち悪いようなら、こちらに。水も用意しましたので」
乃彩が穏やかに声をかけると、聡美は愛美の背中をゆっくりとさすり始めた。
「愛美さんは気持ちが悪いのだと思います。飲んだ量も少ないですから、命にかかわることはないとは思うのですが。念のため、先生に診てもらってください」
「ありがとうございます」
「いえ。こちらの落ち度です……」
そこへ、啓介が慌てて部屋に入ってきた。
「奥様、お呼びですか? 何かございましたか?」
「啓介さん。侵入者がいます。給仕に扮して、子どもたちに麦茶と偽って甘茶を飲ませようとしている人がいるようです。まずは子どもたちの甘茶の回収をお願いします」
「甘茶ですか?」
「はい。詳しいことは後でお話しますが。この子が麦茶だと思って飲んだがお茶が甘茶でした。濃いお茶を飲むと中毒症状を引き起こす恐れがあります。特に、このように幼い子の場合は、中毒を起こしやすいのです。お茶は幼児用のマグカップに入れられているようです。子どもたちがいるテーブルは……」
そこで乃彩は、テーブル番号を口にする。
「全部で十人ですので、万が一、飲んだ子がいるようでした、こちらに連れてきてください」
「わかりました」
啓介が急ぎ部屋を出ていく。彼であれば、いろいろ根回しをしつつ迅速に動いてくれるだろう。
「先生。愛美さんの様子はどうですか?」
「まだ気分が優れないのでしょう。甘茶による中毒だとすれば、特効薬などがないので、落ち着くまで様子をみるしかないのです」
「……みじゅ、みじゅ」
喉が渇いたのか、愛美が聡美に向かって手を伸ばしている。
「お水ね。はい、どうぞ」
ごくごくと水を飲む愛美の姿を診れば、少しずつ回復している様子がわかる。
「聡美さん。このようなことになってしまって申し訳ありません。後日、正式に謝罪させてください」
聡美は首を横に振る。
「正式な謝罪など不要です。乃彩さんに気づいていただけて助かりました。あの場でこのような失態を見せていたら……」
清和侯爵の印象はぐっと下がるだろう。そして原因を突き止められてしまえば、主催者である日夏侯爵家の手腕も問われる。
侵入者の狙いは、まさしくそれだったのではないだろうか。



