亡者を野放しにしておくと、生きている人間の肉体すら奪うこともある。つまり、憑依と呼ばれる現象だ。憑依された人間は亡者の意思によって、つまり鬼によって操られた状態で行動を起こす。
 そのため術師たちは、鬼に主導権をとられてしまった魂――亡者を鎮め、強制的にあの世へと送る。その一連の流れを鎮魂と呼んでいた。
 鬼によって操られている人は、意味もなく他人を襲い、物を奪い取る。そうやって鬼は、各所に争いの種を植え付けていくのだ。
 だから術師も亡者が現れたという報告を受けると、その魂をすぐに鎮めるために足を向けた。しかし亡者を生み出すのは鬼であるため、場合によっては亡者の近くに鬼がいることもある。
 琳の話によると、亡者の鎮魂を行っていた清和侯爵の清和貴宏が、鬼の力によって負傷したとのこと。
「貴宏さんには、まだ幼い子がおりましてね」
 貴宏は二年前に結婚し、二ヶ月前に奥方との間に第一子となる長女が生まれた。
「鬼の力による怪我がどのようなものか。乃彩もわかっておりますね?」
 はい、と乃彩はゆっくりと頷いた。
 鬼は妖力を持つ。この妖力は術師の霊力と反する力だ。霊力は妖力を打ち消し、妖力は霊力を打ち消す。霊力は妖力を飲み込み、妖力は霊力を飲み込む。
 貴宏の場合、自らの霊力が鬼の妖力に負けたのだ。だからその妖力に飲み込まれ、妖力に侵され続けている。
 妖力を含む怪我は治りが遅い。通常の治療行為では治せないため、医療術師が治療を施す。妖力を取り除き、そこからは通常の怪我と同じような治療を始める。
 しかし、その医療術師ですらお手上げの状態らしい。貴宏を蝕んでいる妖力を取り除くことができないとのこと。だから、貴宏はじわりじわりと霊力を失っている。
「貴宏さんの残りの霊力では、このまま妖力に負けて、命を奪われるでしょう」
 乃彩は、味噌汁の油揚げを食べたはずなのに、まったく味がしなかった。まるでスポンジを噛んでいるかのよう。
 妖力によって怪我をした場合は、先に妖力を取り除かねばならない。
 また、妖力に侵され霊力を奪われることを「呪い」とも呼んでおり、霊力をすべて失われた術師は、最悪、死に至る。
「ですから、あなたの力が必要なのですよ。乃彩。医療術師ですら匙を投げていますからね」
 乃彩の力――それは治癒能力と呼ばれる力。治癒能力とはその人が本来持つ回復力、免疫力を増幅させる力のこと。
 医療術師は医師免許を持ち、妖力を弱めたうえで自己回復力を高める治癒を施すこともできるが、さらに医療行為もできる術師だ。
 しかし乃彩には、彼女にしか使えない特別な力があった。それは、霊力を回復させること。奪われた霊力を元に戻すことができるのが、乃彩の治癒能力の大きな特徴なのだ。
 そのうえで、妖力を取り除く解呪すら行うこともできる。
 霊力の回復をしたうえでの解呪。これらが、乃彩にしか使えない特別な治癒能力であった。
 つまり、他の治癒能力を持つ術者は、他人の霊力を回復させることができないし、完璧に妖力を取り除くこともできない。
 しかし、妖力を弱める力は持っているため、妖力を弱めたところで霊力の自己回復力に頼るのだ。そこで、霊力が妖力を上回れば何も問題はない。
 また、霊力は少し消費した程度であるなら自己回復するものの、枯渇と呼ばれる状態となればそれもできない。個人の霊力にはある一定のボーダーがあって、それを下回ると自己回復できない。そのまま術師家族という地位から転落するか、妖力に侵されているとなれば、死んでしまうこともある。
「乃彩、貴宏さんを治癒しなさい。できますね?」
「それは……」
 話を聞いた限り、乃彩の能力であれば貴宏を助けることができるだろう。妖力を取り除き、霊力を回復させればいいだけ。
 なによりも貴宏は、医療術師の霊力よりも高い妖力によって侵されている。そんな彼を救うためには、乃彩の力が必要なのだ。
「これは、当主からの命令です。貴宏さんを助けなさい」
「……はい」
 医療術師以上の治癒能力を持つ乃彩だが、彼女の力には一つだけ欠点があった。それは「家族」にしか力を使えないこと。
 だから琳は、乃彩に貴宏との「結婚」をすすめようとしているのだ。そうすれば、貴宏は乃彩の夫となり「家族」になる。