啓介が運転する車で春那の屋敷に向かう。
 今になって緊張してきた。指先が冷たく感じる。
 何よりも結婚してしまった。たった紙切れ一枚だというのに、結婚してしまった。
 後悔はしていないが、大胆なことをやってしまったという自覚はある。まして、両親に黙って結婚したのだ。
 幼い頃は大好きになった人と結婚するものだと思っていた。それは祖父母を見ても両親を見ても、そこには言葉では表現できないようなあたたかな感情が見え隠れしたから。
 だけど、現実は違った。力を利用するための形だけの結婚。術師華族として生まれた以上、政略的に結婚をすることもある。それでもそういった関係を通して、少しずつ愛情は生まれてくるものだろう。
 乃彩の今までの結婚には、そういった感情など、いっさい存在しなかった。
 ふわりと温かなものが乃彩の手を包んだ。
「日夏公爵様……?」
 膝の上で握りしめていた手に、遼真が自身の手を重ねてきた。
「おい、奥さん。おまえも日夏だと言ったはずだ」
「あっ……遼真様?」
「ぎこちないが、まぁ、とりあえずはそれでいいだろう。それよりも、緊張しているのか?」
「そうですね。これから両親と会うわけですから……勝手に結婚してしまいましたし。間違いなくあの人たちは怒るでしょうね」
 両親がどのような顔でどんなことを言ってくるのか、それが怖かった。
「今さら怖じ気づいたのか? 俺に結婚を迫ったあのときの勢いはどうした」
「あ。あのときは、夢中でしたので……」
「冷静になった途端、怖くなったと。そういうことか?」
「そうかもしれません」
「だから言っているだろう? 両親の前では、おまえは黙って俺の側にいればいい。あとは、俺がやる。おまえが俺を信じるかどうか、それだけの問題だ」
 乃彩を握りしめる遼真の手に、きゅっと力が込められた。こうやって誰かのぬくもりを感じるのは、いつ以来だろうか。
 治癒能力を使うときもその対象者と触れ合うけれど、それともまた違うあたたかさ。
 遼真であれば信じられる。心の奥に決意の炎が宿る。
 しかし、両親との対面はあっけないものだった。
 乃彩の背後に立つ遼真の姿に少し驚いた様子を見せた琳だったが、遼真が淡々と事実だけを口にすれば「そうですか」と諦めとも侮蔑ともとれるような口調で呟いたきり。
 ――あなたはもう春那の人間ではありませんので、好きにしなさい。二度とこの家には戻ってこないでください。顔も見たくありません。
 家を出るときにかけられた琳からの言葉は、家族に向けられたものではない。嫌悪する相手に放たれたもの。
 ――ここまで育ててくれたことに感謝申し上げます。わたくしも、二度とあなたのことを父、母とは呼びませんし、家族とも思いません。
 乃彩の口からも、決別の言葉がつらつらと出てきた。売り言葉に買い言葉。負け惜しみ。そういった類いの言葉なのかもしれない。だが、言われっぱなしは嫌だった。
 その間、遼真が優しく寄り添ってくれたことだけが支えだった。彼がいたから、今までため込んだ思いが爆発したのだろう。
 脳裏には彩音の真っ赤な唇が焼き付いている。何か言いたそうに震わせていた唇だった。
「おい、大丈夫か?」
 帰りの車の中で、遼真が声をかけてきた。
「はい。お見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした」
「だが、おまえが言っていたことは事実だったな。あれは、家族を見る目じゃない。……まるで便利な道具を一つ失った、そんな感じがした」
「そうですね。彼らにとってわたくしは金の成る木でしたからね。わたくしの力を利用して金儲けをしていたようですし」
「そうだな。落ち着いたら、その辺の話を詳しく聞きたい」
「はい」
 静かな車内には、先ほどから管弦楽が流れている。いったい、誰の趣味なのか。不協和音のような旋律は現代音楽の特徴の一つでもある。合っているようでいないような、ずれているような音であっても、一つ一つの音が複雑に絡みつき、繊細な旋律を奏でる。
 それを聞いていると、なぜか心の奥がざわざわし始める。
 ギュルルルゥ――
「あっ……」
 乃彩は慌ててお腹をおさえた。なぜこのタイミングでお腹が鳴るのか。
 チラリと横目で遼真の様子を確認すれば、お腹の音はしっかりと彼の耳にも届いていたようで、笑いをかみ殺している。
「腹、減ったな」
 恥ずかしくて答えられない。
「啓介。帰ったらすぐに食事だ」
「はいはい」
 車は日夏の屋敷に静かに向う。