バツ印令嬢の癒し婚

 乃彩はとぼとぼと歩き始める。青い空がどこまでも続く。だが、この場所から抜け出せない。いつもと同じ空の下にいるだけ。
 乃彩が治癒能力に気づいたのは十歳の時だった。学園の授業では力を発揮できなかったが、突然治癒能力が開花した。
 きっかけは、琳が亡者鎮魂を行った時の事件だ。琳は鬼の囮に気づかず亡者を追っていた。鬼の作戦は、術師を孤立させ、襲うことだった。
 複数の術師がいれば同時に術を発動でき、鬼に反撃の隙を与えない。だが、分散させれば術の威力は弱まる。
 琳はその罠にはまった。正確には、采配ミスをした上位の術師の指示に従った結果だ。当時、立場の弱かった琳は命令に従うしかなかった。
 その結果、鬼の妖力に侵された。
 琳が呪術医院に運ばれたのは、凍てつく早朝だった。乃彩たちが呼び出されると、琳は生死の境を彷徨っていた。真っ白な病室で、管に繋がれた父親が横たわっていた。
「お父さん……」
当時の琳は、乃彩に霊力がないと知りながら優しく導いてくれた。
「力がないなりにできることがある」と教えてくれたのは彼だ。
「お父さん、死なないで!」
 琳の手を握ると、まばゆい光が放たれ、徐々に彼の全身を包んだ。
 そばにいた祖父母は驚き、母親の彩音は目を見開いて見つめた。莉乃は何が起きたかわからず、母親にしがみついていた。
「お父さん……?」
 閉じていた琳の瞼がゆっくり開き、顔を乃彩に向けた。
「おはようございます。今日は何かのお祝いですか?」
 のんきな言葉に、家族の涙は引っ込んだ。
 祖父母はすぐ乃彩の能力に気づいた。他人の霊力を回復する危険な力だと、他人に知られないよう口止めした。
 乃彩の力さえ用いれば、こんこんと湧く泉のように霊力は尽きることがない。
 乃彩は力を使える喜びに浸ったが、学園の実技では霊玉すら作れなかった。
 祖父母は乃彩の能力を密かに調べ、家族にしか発動しないことを突き止めた。だから乃彩は、家族を守るために力を使った。
 祖父母は無理に使うなと言ってくれたが、誰かのために力を使えるのが嬉しかった。学園の授業は相変わらずだったが。
 だが、十五歳の時、祖父母が亡くなり、すべてが変わった。術師協会の総会からの帰り、土砂崩れに巻き込まれたのだ。
 滝のような雨の中、春那公爵夫妻を乗せた車だけが事故に遭った。他の三家は無事だったのに。
 それ以来、琳は変わった。優しかった彼は、乃彩を蔑むようになった。実技で成績を残せない乃彩に、侮蔑の視線を向ける。
 春那公爵の地位を得た琳に逆らう者はなく、莉乃も彩音もそれに同調した。
 家族である母や妹にすら、救いの手を差し伸べられなくなった。
 そして十六歳になると、琳は「結婚」を口にした。
  そんな過去を振り返りながら、乃彩はぽつぽつと歩く。
 行き交う人々は、早足だったり、のんびりだったり、それぞれの時間を生きている。
 できれば、この空が途切れる場所まで行きたい。
 そんな思いを抱え、ぼんやり歩いていると、一人の男性とすれ違った瞬間、背筋に悪寒が走った。
 亡者に憑依された人間かと思ったが、違う。普通に生きている人間だ。
「あ、あの……」
 この男性を放っておいてはいけない。
 本能が叫び、心臓が痛いほど訴える。
 無意識に男性の手首を掴んでいた。
「わたくしと結婚していただけませんか?」