それから三日後――。
 乃彩は茶月邸に琳に連れられて向かっていた。
「やっとアレが折れましたよ。いいですね、乃彩。アレに何を言われても返事をしてはなりません。無視しなさい」
「はい」
 琳がなぜそのようなことを言うのかはわからない。だけど、父親の言葉は絶対だ。
 茶月邸を訪れるのは、彼との婚姻届を書いたあの日以降、約一か月ぶりだった。総二階建て、真っ白い外壁の家は、以前と変わりはない。
 インターホンを押せば、使用人が出てきて中へと案内する。
 以前と同じ、和室に通された。
「お待ちしておりました。ご足労いただき、申し訳ありません」
 茶月男爵は、今日も畳に額がつくのではないかと思えるほど、深く頭を下げた。
「では、さっさとこちらにサインをしてもらいましょう。あなたが先にサインをして、こちらに送ってくれればよかったものを。あなたが渋るから、私たちがわざわざこちらまで足を運んだわけです」
 その言葉からは、どことなくチクチクと棘を感じる。
「申し訳ありません。別れる前にどうしても乃彩さんにお会いしたかったのです」
「はぁ」
 これみよがしに息を吐いた琳は、肩をすくめて首を振る。
「あなたと乃彩の関係は、赤の他人です。こんな紙切れで縁が結ばれたからといって、調子に乗らないように」
 トンと、琳がテーブルの上に置いたのは離婚届だ。乃彩も実物を見るのは二回目。
「こちらに名前を書いてください。これを断ったらどうなるか……おわかりですよね?」
「は、はい」
 茶月男爵はペンを取り、離婚届に名前を書いていく。だが、ペンを持つその手は、震えていた。
 文字によって空欄が埋められていく様子を、乃彩は黙って見ていた。
「終わりました」
 書き終えた茶月男爵は、離婚届をテーブルの上を滑らせた。それを手にした琳は、内容をざっと確認してから、乃彩に手渡す。
「書き方は……わかりますね?」
 コクリと頷く。
 一年前にもこれを書いた。今回は二回目。
 現在の名前を書き、離婚したら春那の姓を名乗る。あとは必要なところにチェックを入れて終わり。
 愛もなかった。顔を合わせることもなかった。本当に乃彩の力を利用するだけの結婚。
 あと何回、このようなことを繰り返すのだろう。
 そんな思いが、ぷつりと浮かんできた。
 静かにペンを置く。
 それを視線で追っていた茶月男爵は口を開く。
「乃彩さん。あなたはこんなことを繰り返して、本当にいいと思っているのですか? あなたが望むのならば、私はあなたを助けたい」
「そう言って、乃彩の力を独占するつもりでしょう? いや、乃彩の容姿であれば、妻として隣に侍らすだけでもあなたの評価はあがりますね。それに、たかだか男爵の男が、公爵家の令嬢を妻にしたとなれば、術師華族の中でも一目置かれるかもしれません。あなたも乃彩を利用したいのでしょう?」
「ち、違います。私は本当に乃彩さんを……」
「前にも言いましたよね? これ以上、乃彩との関係を望むのであれば……」
「短い間でしたが、お世話になりました。お父様、早く戻りましょう」
 琳たちの言い合いに乃彩が割って入り、静かに頭を下げた。
「私たちはこれで失礼します。約束通り、口座のほうにお願いしますね」
 琳は流れるように立ち上がり、乃彩も促されて部屋を出る。
 こうして、乃彩は二度目の結婚と離婚を終えた。
 三度目は、高等部三年に進級する春休みだった。
 雪月子爵家の徹が悪鬼討伐で負傷した。悪鬼は鬼の一種だが、力の弱い下等な存在。亡者を生み出さず、直接人間を襲う。悪鬼討伐も術師華族の務めだ。
 徹がクラスメートの令月茉依の婚約者だと知ったのは、雪月家を訪れた時だった。
 寝たきりの徹に代わり、春那公爵を待っていたのは茉依だった。
 琳は茉依にもいつも通り淡々と話す。
「乃彩の力を使うには代償が伴います。娘の戸籍にバツをつけるのだから、相応の覚悟はありますね?」
「はい。あの人を助けていただけるなら、どんな代償でも構いません」
 茉依の鋭い視線に、乃彩は耐えられない。
「わかりました。では、こちらをお願いします」
 茉依は徹の代筆者として手続きを済ませていた。琳の言葉に従い、婚姻届に徹の名前を書く。貴宏の時も弟が代筆していたことを思い出した。
 茉依が書いた徹の名の隣に、乃彩は自分の名前を記す。
 これで三度目の結婚だ。
 甘い結婚生活など期待していない。
 徹に治癒を施し、回復すれば離婚する。その繰り返し。