乃彩が返事をしてすぐ、両親によって茶月男爵邸に連れていかれた。
い草の匂いが漂う趣のある和室に通された。外観は白い外壁の洋館であったから、少しだけ意外だった。
「このたびは、このような無理なお願いを聞いていただきありがとうございます」
茶月男爵は額が畳につくほど深く頭を下げた。年齢は二十代後半、小太りの男性。
「頭をあげてください。妹さんのことは、話を聞いております。特にお子様は、これからの術師界にとっては希望の子。母親を奪っていいはずがありません」
琳の言葉にやっと茶月男爵は頭を上げた。妹思いの兄なのだろう。
「ありがとうございます」
その表情には安堵と、そしてどことなく不安な様子が見え隠れする。
「こちらの力については事前に説明したとおりです」
琳はニコリともせずに、淡々と告げる。
「はい」
「では、乃彩と結婚していただきます」
すかさず、彩音が婚姻届を取り出した。
「その……乃彩さんは本当にそれでよろしいのでしょうか?」
不安そうに茶月男爵が尋ねてくる。
「えぇ。問題ありません。乃彩の結婚もこれが初めてではございませんので。そちら側もきちんと約束を守っていただければ」
答えたのは彩音だ。艶やかな髪を背中にたらしている姿は、乃彩の母親には見えないほどの若々しさを放っている。
茶月男爵は、チラリと乃彩に視線を向けてから婚姻届に名前を書き始めた。
その後、乃彩も同じように名前を書く。気を抜くと、手が震えてしまいそうだった。
――結婚、したくない。
その気持ちを心の奥底に閉じ込めておいたのに、油断するとその想いが浮上するのだ。
名前を書き終えた乃彩は、先ほどの気持ちに重しをつけて、心のずっとずっと奥に閉じ込めた。
証人の欄にはすでに琳と彩音の名前が入っている。これは、春那公爵によって仕組まれた結婚。
夫にも妻にも、愛など存在しない。あるとしたら、互いへの同情かもしれない。
「私は先にこれを出してきます。あなた、乃彩をお願いしますね」
彩音がこれを提出し、受理さえされてしまえば、乃彩は茶月男爵と「家族」になる。乃彩が力を使える家族は、春那家では両親の兄弟姉妹までであった。その子、つまり従兄弟らには使えない。ここから、三親等以内までであれば力が有効だと推測される。
今回の場合、力を使いたい相手は茶月男爵の妹。乃彩からみれば、姻族であっても三親等以内に入るから恐らく力は使えるはず。
「妹はまだ入院しているのです」
母体よりも強い霊力を持って生まれた赤ん坊によって、母体が霊力の枯渇状態に陥っており、さらに産後も重なって深い眠りについている。このまま目を覚まさなかったら、母体は衰弱してしまう。
なんとか医療術師によって霊力を注がれ、栄養剤を点滴されつつかろうじて生きている状態だが、母体に回復の兆しが見えない。
このまま延命行為を続けるかどうかの選択を迫られたところで、乃彩の治癒能力にすがろうとしたようだ。
「では、明後日。香織殿が入院している病院へと向かいます。こちらで段取りさせていただきますが、問題はありませんね?」
琳はニコリともせずに、事務的に伝えた。
香織のための結婚だから、彼女がいる場所に直接足を運ぶほうが効率はよい。
「はい。よろしくお願いします」
茶月男爵は、額がテーブルにつくくらいに頭を下げた。
こうして乃彩は、春那乃彩から茶月乃彩になった。二度目の結婚。
だがこの結婚にも「愛」というものは存在しない。
いや、あるとしたらそれは「家族愛」なのかもしれない。家族を救うための結婚。しかしその「家族愛」は乃彩に向けられたものではない。
茶月邸から帰る車の中で、乃彩は痛む胸を誤魔化すように眠った振りをした。
そんな乃彩に、琳はチラリと視線は向けてはみたものの、何も言わずただシートに身体を預けていただけ。
い草の匂いが漂う趣のある和室に通された。外観は白い外壁の洋館であったから、少しだけ意外だった。
「このたびは、このような無理なお願いを聞いていただきありがとうございます」
茶月男爵は額が畳につくほど深く頭を下げた。年齢は二十代後半、小太りの男性。
「頭をあげてください。妹さんのことは、話を聞いております。特にお子様は、これからの術師界にとっては希望の子。母親を奪っていいはずがありません」
琳の言葉にやっと茶月男爵は頭を上げた。妹思いの兄なのだろう。
「ありがとうございます」
その表情には安堵と、そしてどことなく不安な様子が見え隠れする。
「こちらの力については事前に説明したとおりです」
琳はニコリともせずに、淡々と告げる。
「はい」
「では、乃彩と結婚していただきます」
すかさず、彩音が婚姻届を取り出した。
「その……乃彩さんは本当にそれでよろしいのでしょうか?」
不安そうに茶月男爵が尋ねてくる。
「えぇ。問題ありません。乃彩の結婚もこれが初めてではございませんので。そちら側もきちんと約束を守っていただければ」
答えたのは彩音だ。艶やかな髪を背中にたらしている姿は、乃彩の母親には見えないほどの若々しさを放っている。
茶月男爵は、チラリと乃彩に視線を向けてから婚姻届に名前を書き始めた。
その後、乃彩も同じように名前を書く。気を抜くと、手が震えてしまいそうだった。
――結婚、したくない。
その気持ちを心の奥底に閉じ込めておいたのに、油断するとその想いが浮上するのだ。
名前を書き終えた乃彩は、先ほどの気持ちに重しをつけて、心のずっとずっと奥に閉じ込めた。
証人の欄にはすでに琳と彩音の名前が入っている。これは、春那公爵によって仕組まれた結婚。
夫にも妻にも、愛など存在しない。あるとしたら、互いへの同情かもしれない。
「私は先にこれを出してきます。あなた、乃彩をお願いしますね」
彩音がこれを提出し、受理さえされてしまえば、乃彩は茶月男爵と「家族」になる。乃彩が力を使える家族は、春那家では両親の兄弟姉妹までであった。その子、つまり従兄弟らには使えない。ここから、三親等以内までであれば力が有効だと推測される。
今回の場合、力を使いたい相手は茶月男爵の妹。乃彩からみれば、姻族であっても三親等以内に入るから恐らく力は使えるはず。
「妹はまだ入院しているのです」
母体よりも強い霊力を持って生まれた赤ん坊によって、母体が霊力の枯渇状態に陥っており、さらに産後も重なって深い眠りについている。このまま目を覚まさなかったら、母体は衰弱してしまう。
なんとか医療術師によって霊力を注がれ、栄養剤を点滴されつつかろうじて生きている状態だが、母体に回復の兆しが見えない。
このまま延命行為を続けるかどうかの選択を迫られたところで、乃彩の治癒能力にすがろうとしたようだ。
「では、明後日。香織殿が入院している病院へと向かいます。こちらで段取りさせていただきますが、問題はありませんね?」
琳はニコリともせずに、事務的に伝えた。
香織のための結婚だから、彼女がいる場所に直接足を運ぶほうが効率はよい。
「はい。よろしくお願いします」
茶月男爵は、額がテーブルにつくくらいに頭を下げた。
こうして乃彩は、春那乃彩から茶月乃彩になった。二度目の結婚。
だがこの結婚にも「愛」というものは存在しない。
いや、あるとしたらそれは「家族愛」なのかもしれない。家族を救うための結婚。しかしその「家族愛」は乃彩に向けられたものではない。
茶月邸から帰る車の中で、乃彩は痛む胸を誤魔化すように眠った振りをした。
そんな乃彩に、琳はチラリと視線は向けてはみたものの、何も言わずただシートに身体を預けていただけ。



