鬼は人を惑わし、魅了する。人の悪意は鬼に利用され、人を人ならざるものへと堕とす。それが鬼のやり方だ。
 遥か昔、人と鬼が手を結んだ時代もあった。しかし、時が流れ、両者の考えが異なるにつれ、いつの間にか敵対関係が生まれた。
 種族も文化も生き方も異なるのだから、仕方あるまい。
 鬼は人の悪意を好み、それを糧として生きる。
 だからこそ、人間は鬼に対抗する力――霊力を身につけた。修練で霊力を磨き上げた者を術師と呼び、その中でも古くから国と皇帝を支えてきた名門の術師一族を、術師華族と呼ぶ。
 カコーン、カコーン……。
 規則正しいししおどしの音が、静かな和室に響く。本来は鳥獣を追い払うためのものだが、この屋敷では庭の装飾として置かれている。その単調な音は、時の流れを刻むように、部屋の静寂を際立たせていた。
 い草の香りが漂う和室で、黒檀の一枚板のテーブルを挟んで、男女二組が向かい合って座っていた。
 その一人、雪月(ゆきづき)乃彩(のあ)は、ふかふかの座布団の上で背筋を伸ばしていた。腰まで届く黒髪は、結わえず背中に流れるように広がっている。
 目の前にいる夫、雪月徹が柔らかな笑みを浮かべ、テーブルの上に一枚の紙を滑らせた。
「乃彩さん。こちらの離婚届にサインをお願いします」
 テーブルの上には離婚届。乃彩はこれから、目の前の夫と縁を切る。その夫の隣には、すでに別の女性が座っている。彼女は令月(れいげつ)茉依(まい)。乃彩と同じ学校に通う女子高校生だ。
「ありがとう、乃彩。この人を助けてくれて……」
 茉依がぽつりと呟いた。
 乃彩は小さく頷き、離婚届にペンを走らせる。
『氏名、妻:雪月乃彩』
 離婚の種別は『協議離婚』、戸籍は『元の戸籍に戻る』。そこに結婚前の名前――春那(はるな)乃彩と記した。ペン先が紙に触れるたび、かすかな音が和室の静寂に溶け込む。
「乃彩さん。約二か月、ありがとう」
 徹は背筋を伸ばし、額がテーブルに触れるほど深く頭を下げた。
 カコーン、カコーン……。ししおどしの音が、再び部屋に響く。まるで過ぎゆく時間を冷たく告げるかのように。
「乃彩のおかげよ。私たちの結婚式には招待するわ。友人の特別席を用意しておくから」
 仲睦まじい二人の様子に、乃彩の顔も自然と綻んだ。
「では、雪月さん。こちらが雪月家から春那家に依頼した内容の内訳です。金額はここに記載の通りです」
 そう割って入ったのは、乃彩の父親であり春那家当主の春那(りん)。若くして父親となった彼は三十代で、働き盛りの肉体と当主の威厳を併せ持つ。
「え?」
 二人の明るい表情が一気に曇った。
 乃彩も、琳が差し出した書類の金額を見て息を呑んだ。
「一、十、百、千、万……そんな大金……これから結婚式を控えているのに……」
 茉依がしどろもどろに答えた。
 彼女が卒業後すぐに結婚することは、乃彩も知っていた。その夢のような未来が、今、目の前の金額で揺らいでいる。
 だが、琳は動じない。能面のような表情で茉依の言葉を遮った。
「乃彩の友人ですから、これでも安くしたつもりです。一人の女性に離婚歴をつけたのですから、このくらいは妥当でしょう?」
 琳の声は低く鋭い。家一軒分もの金額が書かれた請求書が、黒檀のテーブルに叩きつけられた。
「だって……そうしないと乃彩の力が使えないって聞いたから……」
 カコーン、カコーン……。
 茉依の悲痛な声が、ししおどしの音に交じる。