宿に戻ると、談話スペースの明かりも既に落ちていた。
「ああ、もう消灯の時間過ぎちゃったね」
奈々さんの言葉は僕を寂しい気分にさせた。夜が終わるのがあまりにも惜しかった。そんなことを思っていた時、僕は庭に漂う甘い香りに気づいた。
「なんか良い香りがしますね」
つぶやいた僕の言葉に奈々さんが答えてくれた。
「ああ、これね。ヤコウボクの香りよ」
ヤコウボク、聞いたことのない単語だった。
「ヤコウボクって何ですか?」
「『夜香る木』って書いて夜香木。純君、こっちに来てごらん」
奈々さんは手招きして僕を談話スペースとは反対側の壁の方に連れて行った。奈々さんと肩を並べて木の前に立つと甘い香りが強くなったような気がした。
「これが夜香木。小さな白い花がついてるでしょ。これが香りの元。でも、花は一夜限りで、明日になったらみんな散ってるわ。なんか儚いよね」
夜香木の香りに包まれた奈々さんの横顔を僕は見つめた。一夜限りの花の香りは僕の心をざわつかせた。奈々さんの肩を抱き寄せたいという強い衝動に駆られた。そして、乳飲み子のように奈々さんの胸にすがりたいという欲望が頭をもたげた。しかし、僕は心を惑わせる花の香りにかろうじて耐え切った。そして僕は当たり障りのない台詞を口にした。
「今日は奈々さんと、沢山お話ができて楽しかったです。今日が終わっちゃうのって、なんか寂しいですね」
そう言うと奈々さんに名前を呼ばれた。