「たいした歌じゃないけどね」
 奈々さんは言いながら三線の糸を巻き始めた。僕は奈々さんが歌い出すのを固唾飲んで見守った。
 やがて、夏のような日差しが作った木陰に静かに三線の音が響き始めた。それは沖縄風の曲ではなかった。そして、どこか悲しげなメロディーだった。イントロが終わりに近づき、歌が始まろうとする頃になると、奈々さんの瞳は遠くを見つめていた。手前の海よりも、対岸の西表よりも、その向こうの雲よりも、奈々さんは遠くを見ていた。奈々さんが歌い始めた途端、僕はその美しい声に引き込まれた。僕を絡め取っていた穢れた世界は姿を消して、僕は歌の中の美しい世界に何処までも深く落ちていった。奈々さんは歌の中で猫になりたいと願っていた。

 もし、もう一度生まれ変わるなら
 私はカイジ浜の猫になりたい
 あなたの好きなこの場所にずっと
 一日中、一年中、たたずんでいたい
 白く輝く砂にまみれて
 青く煌く海を見ていたい
 都会の暮らしも胸の痛みも
 みんな忘れ、カイジ浜の
 猫になりたい

 もし、この浜の猫になれたら
 今は遠いあなたの傍に行きたい
 あなたと気づかず、私と気づかれず
 指でそっと耳の後ろ撫でられてみたい
 浜に寝転ぶあなたの横で
 小さく丸くなって眠りたい
 あの日の笑顔も、昨日の涙も
 みんな忘れ、カイジ浜の
 猫になりたい

 奈々さんが歌い終わっても、僕はすぐに元の世界に帰って来ることができなかった。何も言葉が見つからなかった。これは実話なのか?などとは決して聞けなかった。そして、僕は実在するのかさえも分からない歌詞の中の「あなた」に嫉妬していた。