菜穂が動かない。
 さっきまであんなにるんるんだったのに、俺の部屋に来てから入り口の前で止まっている。
 どうやらそこで思い出したらしい。
 俺との約束を。
 俺はベッドに座ったまま、俯いている菜穂に声をかける。

「いつまでそこにいるの?」

「だってさ樹。何もしない?」

「それは保証できないな」

 菜穂はさらに固まった。いけないと分かっているが……面白い。

「菜穂そういえば俺、新しく曲を書いたの」

「え、そうなの!?」

「机の上に置いてあるから見ていいよ?」

菜穂は頷いて嬉しそうに部屋に入ってきて俺の勉強机に向かう。楽譜を見ている菜穂の背中を見てため息をつく。菜穂はもう俺の忠告を忘れてるらしい。
 昔は不安だった。俺が知らないまま、菜穂が知らない男の部屋にあっさり騙されて行ってしまう気がしてならなかった。だけど今は少しだけ余裕がある。菜穂の薬指の指輪を見れば、菜穂は俺のものなんだと安心できる。

「樹、これいい曲だね」

 笑顔を浮かべて振りかえる菜穂を愛しく思う。一方の菜穂は首をかしげる。

「どうしたの樹?」

「ううん」

「変なの」

「久々にゲームやらない?」

「あ、いいね。カートレースしよう」

「いいよ」

「今度は負けないからね」

「いつも言ってるけど……勝ったことあった?」

「今日は勝つ」

「どうかな」

「勝てるから!」

「じゃあセットするか」

「お願いします!」

 勝負はすぐについた。

「勝った」

「負けた……」

「菜穂は弱いな」

「樹が強すぎるんだよ。いつになったら勝てるのかな?」

「練習したら勝てるよ」

「はああ……休憩」

 菜穂は気力なくベッドに横倒れた。

「俺もう一回やる」

 菜穂はそのままテレビに目線を向け

「私は休憩。樹が一人で一回やったらまた参戦する」

と言うので俺は頷き、一レースを一人で挑むことにした。 
 ゲームが終了して、横を見た俺は焦った。菜穂は目を閉じて気持ち良さそうに寝ていた。

「おい、嘘だろ」

 部屋の入り口で警戒していた菜穂はどこいったんだ。
 俺はベッドから降りて、横になる菜穂と目の高さをあわす。

「菜穂、おい起きろ」

 俺は菜穂の体を揺らした。

「ん……」

「起きろって」

 すると菜穂はほんのり目を開けた。ほっとしたがそれもつかの間で、菜穂はすぐにまた寝た。

「菜穂、警戒心どこいった! おい!」

 俺は体を揺する。

「ん……分かった……っ」

 何が分かったのだろうか? 寝ぼけたまま適当な返事をする菜穂に、俺はため息をついた。

「もう……」

 どうすればいいのだろうか。疲れたのなら寝かせてあげればいいのだろうけど……。
 俺は菜穂の寝顔を見る。すやすやと寝息をたてている顔はずっと見ていられる。
 俺は菜穂に気づかれないように立ち上がり、そっとベッドの上に乗った。
 菜穂の隣で横になる。菜穂の背中をただ見ていると、心の底からほっとしている。
 今、菜穂が俺の側にいてくれることに。

「菜穂」

 呟くように声をかけた。

「ねえ」

 分かってる、声をかけても無駄なこと。
 菜穂は一度寝たらなかなか起きない。
 いけないとわかってる。でも、だんだんと気持ちが押さえられなくて、だから手を伸ばした。そっと菜穂を抱き締めて、ゆっくりと自分の方へと引き込む。ぎゅっとしたら、菜穂は俺の体に見事におさまって、安心して、嬉しくて……さらに自分だけのものにしたくなる。だから聞いてみたくなる。

「なぁ菜穂……襲っていい?」

 背中に顔を埋めて、返事の返ってこない菜穂に話しかける。菜穂は今確かにここにいる。一度離れた。菜穂はいなくなった。もう絶対に失いたくない。
 今は確実に菜穂を独り占めできている時間だ。だけど足りなくなる。欲しいと思えばいくらでも求めてしまう。全部自分だけのものにしたい。誰にも渡したくない。どこにもいってほしくない。本当はこのまま襲って……。
 俺は菜穂を抱き締めていた力を少し緩めた。

「なんてな」

 少し冷静になる。だってこの子は俺にとって大切な女の子なんだ。
 感情のままにどうにかしていい子じゃない。もちろん感情のままにどうにかしていい人なんていないけど、その中でもこの子は特別なんだ。菜穂は抱き締められた腕の中で寝返りを打った。菜穂は可愛い。髪もさらさらで、まつげも少し長くて、肌もきれいで。性格も素直じゃないけど優しくて、思いやりがあって……。

「樹……」

 可愛い声で寝言を言うのも、好き。

「ねえ……樹」

 菜穂はぼそっと呟く。目は閉じたままだ。寝言かななんて、菜穂の顔を見ていると

「ねえ、して?」

「え?」

「して……樹」

 俺は言葉の意味を読み取るのに時間がかかった。気のせいかと思ったけど、気のせいじゃない……と思ってる。

「して……?」

 自分の顔が暑くなるのを感じた。してという意味は……。そんなわけない。そんなわけと自分に言い聞かせた。すると菜穂は、俺の胸に頭をくっつけてうずくまる。

「樹……」

 寝ている、菜穂は寝ているんだ……でも、違う?  寝てる?  いや、本当に……本当に襲っていいってこと……?
 そんなことを言われたらいくら気をつけていたって、歯止めが聞かなくなる。

「菜穂……」

 何言ってんだよ。何言った? 考えれば考えるほど、顔が暑くなる。

「してよ、樹」

「菜穂……」

「もう一回して、カートレース」

 俺はそれを聞き黙りこむ。何だかいい夢から覚めた。

「やっぱ寝てるんだよな、菜穂」

 菜穂は気持ち良さそうに寝息をたてている。

「ゲーム、ね。なるほど……」

 状況を飲み込むと菜穂の目が緩やかに開いた。朧気な目付きで俺を間近に見ると、菜穂の目は急にぱっと開いた。そんな菜穂を見ていると菜穂はそろりと寝返りをうち、俺に背を向けベッドから降りようとしたので、手を伸ばして捕まえると一気に引き寄せた。 
 ちょっと意地悪したくなった。
 返せ、さっき俺が迷い悩んだ時間を。
 ぎゅっと腕に力をいれると菜穂はぴくっと一瞬動いた。

「菜穂どこ行くの?」

「え……」

「捕まえた」

「樹、何してるの……?」

「見てわからない? ぎゅっとしてる」

 菜穂は固まったあと、わざとらしくはっとした。

「そうだ、よ、用事あったんだった!  私は帰らなきゃ!」

「菜穂はさ、泣いて怒ってる時は帰らないのに、照れてる時はすぐ帰るんだな」

「……離してください」

「嫌です」

「何もしないっていったのに!」

 そう怒るから、背中越しに言い返す。

「だって菜穂がお願いしてきたから」

「え、何を? 」

「してって」

「して?」

「して、樹って」

「して……え!?」

 菜穂は言葉の意味を考え、意外にもすぐにピンときていた。

「して、お願いって」

 ちょっと話を盛った。菜穂は驚いていた。

「本当に私はそんなこと言ったの!?」

「うん、言ったよ」

 菜穂の顔が赤くなる。赤くなって目をそらしてから、ぎゅっと目をつぶる。

「……どうしよう!」

 それを聞いて俺は目を丸くする。どうしようなんだと思った。だめってはっきり断ればいいのに。嫌だけど断りづらいってやつだろうか。でも悩んでいるのは、きっと俺のためなんだろうと考える。何て可愛いんだろう。可愛いすぎて、顔が思わずにやけてしまう。

「大丈夫。何もしないから」

「……本当?」

「うん。ぎゅっとはしてるけど」

「それは何かをしてると思うよ」

「もうちょっとだけぎゅっとしてていいでしょ、お願い」

「ちょっとだけなら、いいよ」

「うん」

「ねえ樹」

「ん?」

 菜穂はまた寝返りして俺を見上げる。そして一度俯き、また俺を見た。

「ねえ樹、いつかね」

「え?」

「いつかなら……していいよ」

「いい……?」

「うん」

「いつかなら……してくれるの?」

「うん」

「それは……襲ってもいいってこと?」

「……うん。しつこく聞くけど、いつかだよいつか!」

「何それ、楽しみ」

 俺が思わずにやけてしまうと、菜穂は俯いた。
 俺は菜穂の頭を撫でる。

「もう、菜穂。無理しないの」

「え?」

「俺のために無理しないで」

「無理してないよ」

「……バーカ」

 俺は菜穂を抱きしめた。

「大事にするから、菜穂の側にずっといさせて」

「……うん」

「大好き、菜穂」

「私も樹が大好き」

 菜穂が抱きしめ返してくれる。
 他にどんな幸せがあると言うのだろう
 今流れ星に願いをかけた。
 君との日々が、永遠になりますようにと。


 ー完ー