「あ、いけない。僕は仕事に行ってくるね」
腕時計を見た風見さんははっとする。
「遊園地のお仕事だよね。いってらっしゃい」
恵太くんが手を振る。
「いってきます」
風見さんはばたばたとプレイルームを出ていった。
「私ちょっと病室戻る」
私が一歩下がると、恵太くんが近づいてきた。
「どうしたんだ、菜穂」
「だめ」
フランくんは近づく恵太くんの襟元をつかんだ。
恵太くんはばっと振り返る。
「何で!?」
「菜穂さんは気持ちを落ち着かせたくて今一人になりたいの」
「フランくん」
見抜かれている。
フランくんの言葉を理解して、恵太くんは笑った。
「そうか。菜穂、早く戻ってきてね」
「うん」
エレベーターに乗り、自分の病室に戻る。
あたたかい気持ちを噛み締めた。
私自身は何もしていないのに、
胸の中のつっかえが少し溶けた気がした。
樹はどう思ってるだろう。
あの手紙は……何だろう。
何だか疲れてしまって
少し横になろうとベッドに向かった。その時。
いきなり誰かが抱きついてきた。
嫌な予感がして、あわてて振り返る。
「竹川先生!?」
「本当、可愛いよね」
寒気がして引きはなそうとするが、相手の力が強かった。
「やめてください!」
「大丈夫、怖くないよ」
「十分怖いです!」
「そんなこと言わないで。俺、菜穂ちゃんのことが好き」
「私は好きじゃありません!」
「まだ好きな人をひきずってるわけ?」
「離してください」
「会えないんでしょ、その人。もう終わった恋なんだよ」
「でも……!」
「菜穂ちゃんの一番側にいたのは俺だよ。その病気も俺しか治せない」
「……それはっ」
「まだ自分で分かっていないようだけど、菜穂ちゃんもきっとすぐに俺のことが好きになるよ」
迫ってくる。逃げ場を失ってしまった。
竹川先生がにやりと笑ったその時、扉が開いた。
足音は真っ直ぐこっちにやってきた。
誰かが竹川先生の襟をつかみ、勢いよくひっぱる。竹川先生が後ろに倒れそうになったところで、その人物は私の前に立ちはだかった。カーキ色のロングコートを来たその人物の背中を見つめ、どくりと自分の心臓が鳴った。
「あなたが……竹川先生ですね」
「……誰?」
「さっき、眼鏡の男性に会ってあなたのこと聞きましたよ。随分患者さんに手を出されているそうですね」
優しくて芯の強い声を聞く。頭の中のパズルのピースを合わせるようにその人物が背中越しでも分かっていく。
「この子は俺のです。あなたの好きにはさせない」
背中ごしにちらりとこちらを見た顔、
私は信じられなかった。
胸の鼓動がおさまらない。
ねえ、本当に?
私の目の前にいるのは本当に……樹なの?
「は、何言ってるんだ? その子は僕の」
「彼女はあなたに興味がないようですが?」
「その子の病気は俺にしか治せない。その子は俺を頼って病院に移ったんだ。彼女はお前にふさわしくない」
竹川先生が怒鳴ったとき、樹はコートのポケットから三折りされた紙を竹川先生に差し出す。
竹川先生は差し出された紙を乱暴に受け取り、中を見て、表情を変えた。
何か恐ろしいものでも見たかのように。
樹は冷静に話す。
「この子の病気はあなたじゃなくても直せます」
「何……?」
「担当を変えてもらいます。田中坂先生ご存じですよね」
「田中……!」
竹川先生が動揺する。
私ははっとする。
その名前は確か恵太くんとフランくんとテレビを見ていたときに出演していたお医者の名前だ。
「病気を治す技術を教えた、あなたの恩師ですね。あなたの恩師は音楽が好きで、音楽に携わる僕と親友でいてくれています」
「な……」
「報告しますね、あなたのこと。どういう処分になるか、分かりますね?」
「ひっ……」
竹川先生は慌てて行ってしまった。
静まり返った病室。
「……樹?」
樹は振り向いた。私を見ている。
私は夢でも見ているような気持ちになる、そしてじわじわと不安が込み上げてくる。
樹が一歩踏み出したときに、私はとっさに手を少し上げる。樹を押し退けようとするように。瞬時に出した手をゆっくりと自分の胸にしまいこむようにした。樹は私を見ていた。
笑顔を浮かべるわけでも悲しい表情をしているわけでもなくて、そっとそこに立っていた。
私は何も言えない。
「ねえ、俺、菜穂に会いに来たんだけど、何で目をそらすの?」
樹が一歩、静かに踏み出す。
「菜穂、体調大丈夫なの?」
私は何も言えずに、樹は静かに口を開く。
「菜穂、何で……泣いてるの?」
樹のことを手を離した方がいいなんてことはとっくに気づいている。
側にいたら、私は樹の荷物になってしまって、優しい樹は夢よりも迷わず私を選んでしまうから。
強く押し退けるように今手を離したい。
でも今きっと手を離したら、私は一生後悔すると思う。
会いにきてくれた樹に私はゆっくりと手を伸ばした。気がつくと樹のコートのすそを掴んでいた。
でもすぐにいけないと手を離す。すると、樹はすぐに私の手をつかんで、自分の方へ引っ張った。
「菜穂」
ふわりとあたたかい感覚に包まれて声がする。気づかないようにしていたけど、ずっとほしかったぬくもり。
「行ってほしくないなら、ちゃんと掴んでて」
樹が優しい声で言うせいか、心の中にあった何かが込み上げてきて、ただ涙が溢れた。
「菜穂。体調、大丈夫なの?」
樹の声を聞いて顔をあげて、顔を見る。
「もう……顔がぐしゃぐしゃだ」
私の涙をぬぐい、ふふと笑う樹の顔に、
なんといっていいか分からずに、頭の中の考えを巡らせてから口を開く。
「メッセージ、ありがとう」
お礼を言うと、樹は私の頭にぽんと手を置き、少し俯く私の顔を覗く。
「菜穂、会いたいって書いたってことは俺に言いたいことあったんでしょ?」
「話したい……こと」
「話して。ちゃんと聞くから」
私は口を閉ざす。何も言えない。
だって、私は……私は樹を裏切った。
「菜穂」
樹は私の頭から手を離しても、優しくて柔らかくてあたたかい雰囲気を作ってくれている。
言わなくちゃ……と思った。
「ごめん。嫌いなんて言って……急にいなくなったりして、ごめん」
樹はすぐに首を振る。
「いいよ、別に怒ってない」
「え……?」
「でも菜穂。言いたいのはそれじゃないだろ?」
私は目を見開く。
沈黙が続き、私は心の中に問いかける。
迷っていたものは、何?
遠回りしていたものは、何?
「樹……ここに、いて」
「うん、俺も……菜穂の側にいたい」
樹は私のことをぎゅっと抱き締めてくれた。
「どうしてここに来れたの?」
十分に抱き締めたくれた後、私は樹に聞いてみた。
「CDの申し込みしただろ。あの住所を辿って。きっと、あの曲をデビュー曲で出せば菜穂を見つけられるって思って。会社も菜穂を探してること話したら理解してくれて、CD販売は範囲を狭くするためにOFFICIAL SITE 限定に発売した。メッセージに会いたいって書いてあったし、菜穂のお母さんの許可もとったし、個人情報ちょっと使ってしまったのは許してくれる?」
「うん」
悪用されたなんて思わない。
お母さんの許可も会社の許可もとったというのは何とも樹らしい。
私の許可をとらなかったのは、それでいいと思っている。
多分許可をとろうとしたら、私は樹から逃げた。
話も聞かずに会おうとしなかった。
またふわっと抱き締められる。
「見つかると思ったよ」
樹の言葉がじわりとしみる。
「時間がかかっても必ず見つかると思った。だって俺はそのために菜穂にかけておいたから。たった一つのおまじないを」
わたしは目を見開く。
お母さんが言っていたことを思い出す。
『……それでも、もし見つけられなかった時は、一つだけ菜穂にかけたおまじないがあるから大丈夫って』
「おまじないって、流れ星行進曲のことだったの?」
「菜穂は忘れなかったはずだ。俺のこと。この歌を俺はずっと歌い続けたから。菜穂がいなくなった時のために」
「樹……」
樹は私を優しく抱き締めた。
「もう、探したよ。本当にいなくなるなんて、酷い」
また涙が溢れそうになる。
「俺、ちゃんと夢叶えたよ」
「うん」
「菜穂はすぐ迷子になるからな」
「私は……迷子になったことないよ?」
「菜穂はいつか俺の側からいなくなる気がしてた。理由は分からなかったけど小学生の時からそんな予感があった。だから俺は曲を作って、それを菜穂に伝えた。初めから俺の曲だって言うと菜穂にとって特別な時におまじないがかからなくなる。CM曲だと嘘をついた」
「いざという時に私を探すための歌だったってこと?」
「言わなかったからこそ、喧嘩してもちゃんと繋がっていられただろ? 俺たちは」
「え……」
「おまじない、効いた?」
照れくさそうに笑う樹に、私も恥ずかしげに答えた。
「うん」
「俺は菜穂が応援してくれた夢を叶えた。でも菜穂がいなくなって、夢を追いかけるの嫌になったこともあった。でも考えると離れていたって菜穂はいつも俺のことを考えてくれて、俺のためにいつも戦ってくれたんでしょ? 小さい頃から病気を隠してたのも全部俺のため。そのことを菜穂のお母さんと、風見さんって人に聞いたよ」
「風見さん?」
「菜穂の病室探しにロビーを歩いてたら、向こうから声をかけてくれて。あなたが菜穂ちゃんの一番の力になるからと事情を説明してくれた。菜穂はいつも俺のために何かを我慢してたんだな。……ありがとな」
樹は私から離れて頭を撫でてくれた。
さっきから泣いてばかりで懸命に涙を止めようとするのに、どうしてもうまくいかない。
「もう、何か菜穂が泣いててくれた方が安心する。だって、菜穂は泣き虫なんだから」
「泣き虫じゃ、ない」
「菜穂、一人で我慢しないで。お願い、もっと俺を頼って」
「樹……」
私には少し気になることがある。
きっと尋ねたら樹のことを困らせてしまうことだって分かっている。
でもどうしても聞かずにはいられない。
「……じゃあなっていう?」
「え……?」
樹はやはり何のことか分からずに戸惑った。
私は小さく口を開く。
「夢を見たの。今までは夢の中の樹は『菜穂』って笑ってたんだけど、最近出てきた夢の中の樹は、『もう会いに来ないって』『じゃあな』って言って……行っちゃう」
「俺が?」
「うん」
頷くと、樹は呆れたような顔をした。
「え、もう帰らなきゃならないの? ひどいな菜穂。俺、八時間以上かけて菜穂に会いに来たんだけど……」
「……私に?」
「そうだよ。だから素直に言って。菜穂の本当の気持ち」
どくどくと鼓動がなる。
離れた期間も私のことを一切忘れずに、
怒鳴り散らすこともしないで、
ただ必死に探してくれた。
思いを口にしてみたくなる。
長年、ずっと願っていたこと。
「側にいて。私はずっと、樹の側にいたい」
口にするのがとても怖かった。
言ったあともすぐ後悔した。
でも樹は。
「……じゃあ離れないで。俺のことを黙って置いていかないでちゃんと俺に話して。分かった?」
後悔をすぐに溶かしてくれる。
昔から変わらない、優しい笑顔で。
「うん」
素直に頷けた。でも素直に頷いた自分が何だか急に恥ずかしくなって私は俯く。顔があげられない。樹は私の顔を覗く。
「菜穂顔赤い。……可愛いなぁ」
「……やっぱり帰る」
「え、どこに帰る気だよ。菜穂の病室なのに」
「帰るの! ……そこのベッドまで」
むっとすると、樹は意地悪そうに言う。
「ねえ菜穂、俺をベッドに誘ってるの?」
「ベッドに……え!?」
「捕まえた!」
後ろからぎゅっと抱き締められた。
私は振り向けない。
「菜穂ーこっち見て。大丈夫。襲ったりしないから」
「あ、当たり前だよ!」
少し俯いたままむっとすると、樹は微笑む。
後ろから私の顔を覗こうとする。
「何怒ってるの? 早くこっち向いてよー」
「嫌だ」
「菜穂、耳真っ赤だよ」
呆然とすると、樹は先ほどよりも強く私のことを抱き締めてくれた。
「ねえ大好き。俺、菜穂のこと大好き」
優しい声が嫌というほどに浸透する。
柔らかで安らぎのある空気に包まれる。
「うんっ……」
また涙をこぼすと、樹が頭を撫でてくれる。
「泣くなよ」
嫌というほどにあたたかい。
私はずっと待っていた。この空気を望んでいた。
だから私は大きく声をあげて泣いてしまった。