仕方ないと思った。病気になってしまったのだから。

「心房中損欠損症?」

「それが菜穂の病気の名前だよ」

 心房中損欠損症は右心房と左心房の間に穴があいている生まれつきの病気で、血液の一部が通常の経路ではなく右心室に流れるため肺に負担がかかり、高血圧を起こすことがある。また、心室のサイズが大きくなることがあり、重大な合併症になる可能性が高い。
 命の危険性がある。

『寂しがっているから、しばらくおばあちゃんの家に行く』

 樹は私の嘘を信じた。
 だから安堵して、頑張って病気を治したらまた笑って樹に会えると言い聞かせた。
 入院中辛くて痛くて寂しい日が思っていた以上にあったが、愚痴をこぼさずにいた。
 退院して家に帰ってきて樹に会えて、私はほっとしていた。
 本来は一度の入院で症状も回復して、正常な生活を取り戻せるはずだった。でも一年後、再度病院に入院しなきゃいけないと聞かされた日、私は状況を受け入れられずに駄々をこねた。

「絶対病院に行かない!」

「だめ! 行かなきゃならないの!」

 お母さんはきっと怒鳴る気なんてなかったと思うが、嫌がる私を何とか病院に行かせなきゃならなくて必死だったに違いない。でも

「私は絶対に嫌!」

 私は家を飛び出して隣の樹の家に行き、すぐ鍵を閉めた。そうしたらさらに涙が溢れてきた。

「うぅ……っ」

「……菜穂?」

 玄関に樹がいて、心配して私に近づく。

「菜穂、どうした?」

 驚いていても冷静で優しいその落ち着いた声を聞くと、泣きながらもほっとして口を開く。

「あのね……」

「うん」

「あの、ね……家飛び出してきた……」

「飛び出してきた? 何で?」

「だってさ……」

 樹の家のチャイムが鳴って、私はびくっとした。

「菜穂!」

 お母さんの怒鳴り声が扉の向こうから聞こえて、私は樹の後ろに隠れた。樹の服をぎゅっと掴んだ。
 樹は戸惑っている様子で目をぱちぱちさせていた。

「菜穂……おばさんと何があったの?」

「私は帰りたくない!」

 理由は話さずに泣きながら首を振ると、樹は状況を飲み込めないながらも何かを考え込む。そして樹は、ゆっくり玄関の鍵をカチャリと開けた。

 私は怯えたが、

「大丈夫。菜穂は俺の後ろにいて」

と樹は私に微笑み扉を開ける。
 扉の向こう側に憤慨した様子でお母さんは立っていたが、樹を見てその表情が少し緩む。

「あ……樹くん迷惑かけてごめんね。ほら菜穂、帰るよ」

 私は樹の後ろで、溢れる涙をこらえて首を振る。お母さんはため息をつく。その後で表情をまた曇らせて私を連れ戻そうと一歩踏み出す。そうした所で、樹は慌てて口を開く。

「あ、あのね、おばさん。見ての通り、菜穂帰りたくないんだって」

 樹が話すと、お母さんはため息をつく。

「もう……ごめんね樹くん」

 お母さんは立ち止まり、申し訳なさそうに樹を見た。樹はまっすぐお母さんを見ている。

「おばさん、俺、このまま菜穂預かるからさ。落ち着いたら菜穂も自分から家に帰ると思うし、おばさんも家を飛び出してきた菜穂が、俺の家にいるなら安心でしょ? ……気持ちが落ち着くまで、菜穂をそっとしといてあげて」

 樹が冷静に言うと、お母さんの顔はさらに曇った。

「でも、樹くん」

「おばさんの気持ちはわかるよ。でも何があったか知らないけど、菜穂がこんな泣いてたら俺、心配すぎておばさんの言うこと聞けないよ。落ち着いたら、ちゃんと菜穂を家に送っていくから、ね? 今だけ」

 樹が落ち着いてそう言うと、お母さんは何か言いたそうだったが、息を吐いて

「……そうね。菜穂、早く帰ってくるのよ」

と言ったので、私は泣くのをこらえながらすぐに何度も頷く。お母さんが背を向けて門を出ていく。樹はゆっくりと扉を閉めた。

「樹……」

「もう泣かないの」

 樹は服の袖で私の涙を拭いてくれた。拭いてからまた私の頭を撫でてくれた。

「……うわぁぁん」

 また泣きはじめた私を見て、樹は再度驚いて少し慌てたが、私の手を取る。

「とりあえず、俺の部屋に行こう」

 私は樹に手をひかれて二階へと上がった。
 部屋に入ると、樹は私の涙を優しくティッシュで拭ってくれた。少し時間はかかったけど、樹の側にいることで心が落ち着いた。

「俺、下行って何か飲み物持ってくるね」

 樹はそう言って立ち上がる。階段の方に一歩歩き始めたところで、樹はすぐに振り返って私を見た。

「……何、菜穂」

 樹の服を慌ててひっぱった私は、まっすぐ見る樹から、顔を背ける。

「えーと……あのさ、樹」

「うん」

「ここにいて」

「俺すぐ戻ってくるよ」

「……ここにいて」

 目線だけ樹に合わせると、樹は不思議そうに私を見ていた。不思議そうにしていたけれど

「……いいよ」

と言って、また私の隣に座った。樹は行かないでくれた……けれど、何を喋ろうかと考える。何も言葉が出てこない。

「菜穂、ゲームする? 羊、育てる?」

 沈黙の中、樹なりに考えて気を使って話してくれたのに

「しない」

と私は即答する。だってゲームするとなれば、樹はテレビのところにコントローラーを取りに行ってしまう。コントローラーの場所はすぐそこだけど、少しでも樹が離れていくのが嫌だった。

「じゃあ菜穂、何する?」

「何、しよう……?」

 私は考える。そうだ、このままでは何もできない樹にかなり暇な時間が流れる。……何かしなきゃ。

「えっと……」

 樹はベッドの上で体育座りをして、こっちを見ている。

「えっと……」

「うん」

「えっとね……」

「うん」

 どうしよう。やっぱりゲームしようかな……。何にも案が浮かばずに困っていると、樹は少し笑みを浮かべていた。

「何で笑ってるの?」

「菜穂が困ってる」

「私が困ってると笑うの?」

「うん」

「ちょっと!」

 樹にグーパンチをすると、ごめんなって謝りながらもやっぱり笑っている。

「そうやって、バカにしてるんだ……」

「してないよ。可愛いなって思って」

「本当かな……」

 樹は笑って私を見ている。私は少しむっとして、顔を背ける。

「あれ、菜穂? こっち向いてよ」

「……嫌だ」

「菜穂ー」

「嫌」

 樹を見ないようにしていると、隣でふと樹は鼻歌を歌い始める。ゆっくりめに歌い出したそれに、私は反応した。メロディーは、あのCM曲だ。

「あ、こっち向いた」

 その時に私ははっとする。視線を自分の方へ向ける樹の作戦に、私はまんまとはまったのだ。樹は笑ったままで悔しい。でもふと流れたメロディーはやけに私の心に残っていた。

「ねえ樹。それ、もう少し歌ってよ」

 それを聞いたとたん、樹は鼻歌で歌い始める。樹の綺麗な鼻歌が終わると、とても心が癒された。

「ねえ、樹はどうしてシンガーソングライターになりたいと思ったの?」

 唐突に言った言葉に樹は一瞬驚いたが、少し遠くを見て、何かを思い出しながら

「単純に、音楽ってすごいなと思って。だってさ、国境越えられるんだよ」

と言った。

「国境?」

「うん。例え遠く離れてても思いを音に乗せて人に言葉を伝えられるんだ。素敵なことだなって」

 夢を語る樹の横顔を見ていると、心が温かくなる。

「やっぱり樹は凄いな」

「そう?」

「うん」

「菜穂の涙も止めることができてよかった」

 樹はまだ少し濡れていた私の顔を、ティッシュを一枚とって、軽く拭いてくれた。そして、そっと立ち上がって私を見た。

「菜穂、一緒に下に飲み物取りに行こう。俺、本当は喉からからで……」

 樹は少し気まずそうに答える。

「ごめんね。飲み物取りに行くなとか、その状態で歌ってとか言って……」

 樹は私の手をとって

「一緒に行けば寂しくないよ」

 と言って笑った。
 樹と階段を降りて一階のキッチンに行ってオレンジジュースをコップ注ぎ、リビングでテレビを見ながら話をしていた。
 三十分ほどすると、樹のお母さんが買い物の袋を持って帰宅した。

「こんにちは、おばさん」

「あれ、菜穂ちゃん?」

「お邪魔してます」

 少しきょとんとしながら、おばさんは私を見た。そして視線をずらしたところで樹が振り返り、おばさんと目が合うと、おばさんは驚いた顔をして

「あれ……樹、ピアノどうしたの……今日発表会あったでしょ?」

と言った。それを聞き、私も驚いて樹を見る。

「ピアノはちょっとお休み」

 樹は特に慌てる様子もなく冷静に答えた。

「え!?」

 おばさんはさらに驚いて、少し黙った。けれど

「お休み? ……まあ樹がそうしたいなら、たまにはいっか。でもたまにだからね!」

 おばさんは少し笑って、樹にそう言った。

「うん」

「でも樹、今日楽しみにしてなかったっけ?」

「うーんと……」

 そのやりとりを聞き、私は不安になる。

「ね、ねえ樹。私のせいだよね?」

「え? 何で?」

「だって……私がお母さんと喧嘩してここに泣いて来なかったら、発表会行ってたよね?」

 不安そうな私を見て、樹は首を振る。

「菜穂のせいじゃないよ? 俺が行かないって決めたし」

「でも……」

 おばさんは樹と私のやりとりを見て、はっとして何度か頷く。

「そういう理由か。大丈夫よ菜穂ちゃん。樹は次の発表会で頑張るから、今回のがなくなっても平気。ね?」

「うん」

 樹は頷く。なんて優しいんだろう。樹も、おばさんも。
 でも樹はいつも私のことを優先している。
 だから心配かけないようにしなくちゃと思った。
 樹の夢を壊してしまったらいけないと頑張ってきた。
 でも結局、私は……。