「もう無理……」
授業開始の一分前に樹は戻ってくるなり自分の席に座り、疲れた表情で顔を机につけた。
「何言ってるんだよ。まだ三分の一も運んでないんだぞ」
冷ややかな目で、青山は樹を見る。
「は、結構運んだけど!?」
樹は顔を上げて、前に座る青山を見た。
「俺、実行委員じゃないし、後はいいよな?」
「他の人空いてない」
「……まじか」
「大丈夫、樹なら運べるから! 男だし!」
笑みを浮かべる青山を見て、樹はがっくりと肩を落とす。そのやりとりが聞こえて、私は笑ってしまった。
「何運んできたんだか」
振り向くと小絵は机に頬杖をつき、私と同じようにそのやりとりを見て笑っていた。
そこへ担任の林原先生が柔らかな笑みを浮かべながら教室に入ってきた。
教室がざわめくなかで、クラスの子が樹に話しかける。
「聞いたけど、Civilization musicのオーディションあるんだって? いつ?」
「え、一週間後だよ」
「学校中の噂になってるよ。スカウトなんて格好いいな」
樹は少し笑って、黙ったまま首を振った。
「見て。二村の人気がまた上がってる」
ひそひそと小絵は私に話しかける。
「人気になるのはいいことだよ。損なことはない」
「またアンタは……」
冷ややかな目で見る小絵に、私は笑った。
ーー
英語の教科書を閉じてふと見上げると、樹が鞄を持って私の席の前に立っていた。
私はちらりと樹を見た。
「菜穂帰ろう?」
「う、うん……」
頷くと樹は笑った。帰りは自分の席から私を呼ぶので、いつもと違う感じに少し戸惑った。本当は一人で電車で帰ろうかと考えていたが、何だか断れなかった。
私は教科書をしまい、鞄を持った。
「じゃあね、小絵」
「うん。またね」
教室を出る前に、樹は青山に声をかけた。
「今日は教材室手伝うのパスしていいよな?」
青山は笑ってすぐ頷いた。
「休憩時間とか学校にいる合間に手伝ってくれたらそれでいい」
「そう。じゃあ明日な」
「うん。菜穂ちゃんもまたね」
「じゃあね、青山」
私は手を振って樹の後をついていった。
廊下を歩き樹の後をついていくと、前方から四人グループのクラスメートの女の子が歩いてきた。彼女たちは笑顔で樹に手を振る。
「バイバイ樹くん」
「またな」
樹も手を振る。その横を通り過ぎた後で、四人のクラスメートの子は何故か一斉に私を鋭く睨み付け、無言で通りすぎていった。
少し固まって我に返り、内心どきどきしながら振り返り、彼女たちの背中を見つめた。
「菜穂、どうした?」
樹が少し先で振り返った。
「いや……」
樹は不思議そうに私を見た。
私は何かしたでしょうか……? と思いながらも、その心の声をしまいつつ、樹を見つめた。
「どうした?」
樹は少し慌てた。怖いって気持ちが表に出たらしい。
「……何でもないよ」
「何か顔が変だぞ。顔のパーツが全部真ん中によったような……ちょっと面白いよ」
「は!? 失礼な!」
樹の体をグーパンチで軽く叩くと、樹は謝りながらも笑っていた。
ーー
学校の自転車置き場に着くと、樹ははっとして私を見た。
「なぁ菜穂。自転車の鍵持ってる?」
「え……あるけど? いつも鞄に入れっぱなしだから」
不思議そうに樹を見ると、樹は自分の隣に置いてある私の自転車を指差した。
「直しといたよ」
「……え?」
樹からそれを聞き、一瞬ぽかんとしたあとで私は自分の自転車に駆け寄る。タイヤを触ると抜けていたはずの空気が入っていて驚いた。鞄からすぐ鍵を出して、少し動かしてみた。
「凄い!」
私は地味ながらにも感動した。直すとは言っていたけど、こんなにすぐとは思っていなかった。
「樹、ありがとう!」
「いえいえ」
私は自転車を乗り、足で軽く地面を何度か蹴って進み、テンションが上がったまま樹の自転車の隣に戻った。
「でも樹。自転車いつ直したの?」
「昼休み。本当は朝直すつもりでいたんだけど林原先生に呼ばれて。世間話だったけど」
「そうなんだ……」
樹も自分の自転車を取りに行く。鍵を差し込み自転車を動かしていたところで私は気づいた。
樹の自転車のかごに空気のなくなったタイヤが入っていた。私は朝、樹を置いて学校に来たのに、樹は私の自転車を直すために朝早くに来てくれたり昼休みを使ってくれたんだなと。そう思ったら何だか申し訳ない気持ちになった。樹は不思議そうに私を見た後、少し笑った。
「何だよ。笑ったかと思えばしゅんとしたりして」
「……いや別に」
「行くか」
「……うん」
樹の後に続いて、私も自転車を漕ぎ出した。
自転車の速度に少し勢いがつくと、樹は言った。
「あのさ、菜穂」
「ん?」
「自転車のタイヤだけどさ……」
「うん」
前を走る樹に分かるはずもないのに頷くと、樹は少し黙り込んだ。黙り込んだあとで
「変えた時に改めて見て、パンクの仕方おかしい気がして……」
「おかしい?」
「……まぁ、いいや」
と言うので私は首をかしげた。樹の背中を見ていると
「じゃあ、問題な」
と樹は話を変えた。
「問題?」
「空は英語で何て言うでしょうか?」
「空? 簡単じゃん」
私は笑う。樹は一瞬振り向いた。
「じゃあ菜穂、答えをどうぞ!」
「そーら!」
「……だめじゃん」
「だめでした。強がりました」
こう考えてみると、英語がやばいってことを再認識した。