文化祭が終わっても、暑さはまだまだ現役だった。
文化祭の翌日、午前中に後片付けを終えて、昼から稽古場でちょっとした演劇部の打ち上げパーティが開かれたのだけど、僕は早々に抜け出して二日連続でいつもの橋の下に来ていた。
別に大した理由じゃない。昨日も今日も、雄太から結果を聞かされるのが怖くて逃げてきただけだ。特に今日の雄太は片付けの間なんだか吹っ切れたような笑顔だったし、双葉はどことなく僕に対してよそよそしかった。それで何となく結果を察してしまった。
そりゃあね、お似合いの二人だと思うよ。だいたい、アシストしたのは僕なんだし。
いつもの護岸に腰を下ろして、まだまだ暑いから途中で買ったペットボトルを傍らに置いて脚本を開く。
双葉や雄太が直してくれたというのも大きいけど、これまで書いてきた脚本の中で一番手ごたえがあった。だけど、その双葉や雄太を更に光らせられる脚本だったかというと、そこまでの自信はまだ持てなかった。
きっと、高校を卒業するその日までそんな自信が持てる日は来ないんだろう。なら、高校を卒業してからはどうだろう。双葉と雄太はきっと演劇の世界に残るんだろうけど、僕はそこまで続けられるだろうか。
「なーに読んでるの!」
「ふ、双葉!?」
バンッと背中を叩かれる。いつの間にか隣に双葉が座って僕の方を覗き込んでいた。文化祭の片付け日ではあるけど、休日だから双葉も僕も私服だ。双葉の格好は花火の日と同じ白いブラウスとクロームイエローのスカートという組み合わせ。そんな双葉の姿に、雨宿りしながらの二人きりの花火の思い出が胸の奥で小さく疼く。
双葉はニコニコと笑いながら右ひじを膝について僕を見ている。そんな双葉の傍らには、何が入っているのか白いトートバッグが横たわっていた。
「どうして、ここに」
「そりゃ、我らが拓真センセーが打ち上げの途中で抜け出すから……って、こんなやりとり前もあったね」
微妙に答えになってない。だって、稽古場の方には雄太だっているんだし。だけど、双葉は楽しそうに笑いながら、僕の読んでた脚本を手に取った。
前回は僕から渡したということを除けば、これもあの日と同じ構図。違っているのは双葉が中身を捲らずに脚本を愛おしそうに撫でていることと、雄太も含めた僕たち三人の間の関係。もう、全部終わったことだから。じりりと擦り切れる心に仮面を今は苦笑の仮面をつける。
「だから、センセーはやめてってば」
「あれれ。もしかして昨日の公演のあと、どうなったか知らないの?」
どこか怪訝そうな顔を浮かべて双葉が首を傾げる。昨日の公演の後、体育館を出た後はギリギリまでここで過ごしていたから何があったかは全然知らない。雄太の告白の結果を間接的にでも知ってしまうのが怖くて、今日の片付けだって極力一人でやったくらいだし。
僕が首を左右に振ると、双葉は呆れたように息をついてからスマホを操作し、画面を僕に突きつける。そこに映っているのは僕らの演劇部がSNSに開設しているアカウントだった。当然、昨日の文化祭での公演についても投稿してあるのだけど、そこにはこれまでの投稿と比べ物にならないくらいリアクションやコメントがついていた。
『凄い舞台だった! 最後の最後までハラハラドキドキした!』
『高校の文化祭だと思ってちょっと舐めてた。ストーリーもよくて、ちょっとした映画を観た気分』
『県予選の時から脚本が磨き上げらえていた印象。このままいけば来年は面白い存在になるかも』
総じて好意的なコメントが並んでいた。去年だって文化祭で公演はしていたけど、反応がまるで違う。不意打ちの温かい言葉の連なりに目の奥の方がじんと熱くなった。
「元々県予選で優秀賞とって、ちょっと注目されてたみたいなんだけど、プチバズ状態」
双葉の言葉に一つ頷く。脚本だって僕だけの力じゃないから褒められるのはくすぐったかったけど、これを否定したらみんなの頑張りまで否定することになってしまう。
「ストーリーがよかったってコメントも多かったし、拓真はうちの演劇部に必要なセンセーだよ」
「……ありがとう。双葉のおかげだよ」
「あー。また、演者とか演出のおかげっていうつもりでしょ。ストーリーが褒められてるんだから、これは拓真の――」
双葉の言葉の途中で僕は首を横に振る。
当然、僕の脚本だけではこれだけの評価を得られることはなかった。それはわかっていたけど、今感謝したいのは演者としての双葉ではなくて。
「あの花火の夜のおかげで脚本を直すことができたから。だから、ありがとう」
あの夜の出来事は、僕に脚本を直すアイデアを与えてくれた。狐のお面を使うという直接的な部分もそうだけど、あの日に抱いた感情を脚本に載せることができたから、観ている人たちの心を動かせた。それを演じきってくれた双葉の力には違いないんだけど。
「……ね、拓真。あの日、花火の前に言いかけたことなんだけど」
双葉が特別な場所だと語った古びた祠の寂れたベンチ。そういえば、僕の脚本について双葉が何か言いかけたところで雨が降ってきたんだっけ。その後の出来事のインパクトが強かったし、風邪をひいたり脚本を直したりですっかり記憶の彼方に飛んでしまっていた。
「拓真の脚本を演じてるとね、少しずつ拓真がどんな人かわかってくるんだ。優しくて、暖かくて、だけど少しだけ臆病で。だから、拓真は自分の脚本のことを不十分だと考えてたかもしれないけど、私は拓真の脚本を演じるのが好きだった」
双葉は僕を見ながらはにかんで、それから脚本を開いたまま僕に返した。開かれていたのはクライマックスのシーン。双葉が演じたヒロインが自分の胸の内側に潜んでいたものを吐き出す場面だった。
「だから、今回の脚本はちょっとだけ、演じるのが辛かった」
「……辛かった?」
「これまでの拓真の内側にあった感情が、全部剥き出しになってた感じがしたから」
双葉の言葉に、僕はゆっくりと頷く。
雄太から恋愛物の脚本を頼まれたとき、僕には何の手掛かりもなかった。だから、主役であるヒロインはこれまで以上に僕の内面を投影してつくり込んだ。キャラクターを創り上げる労力を減らしつつ、しっかりとした人物像を与えるためにやむを得なかった。
双葉に見抜かれるのは予想外だったし、自分を投影したせいで、ヒロインの抱く恋愛感情というものをずっと持て余してしまったのだけど。
「嫉妬も絶望も、全部拓真が抱えてきたものなんだって。その原因がもしかしたら私なんじゃないかって思ったら、私、拓真のことを知ってたふりして何も気づいてなかったんだなって」
意図して書いたわけではないけど雄太が演じた天才肌の主人公は、僕から見た双葉や雄太の現身だった。身近で、憧れて、でもどれだけ手を伸ばしたって決して届かない存在。今になって思えば、僕は脚本の中だけでも双葉の隣に並んでいたかったのかもしれない。だから、昨日、公演が終わった瞬間夢から覚めて、言いようのない喪失感が溢れだしてきたのかも。
「それで。一緒に花火とか行ったら、もっとちゃんと拓真のことが分かるんじゃないかなって」
「……え、脚本のためじゃなかったの?」
「それも、それもあるけどっ。それくらいしか誘う理由が思い浮かばなかったし!」
それまでの雰囲気から一転、双葉がワタワタと両手を振りながら答える。こうやって表情がよく変わるのは双葉の魅力で、演劇においては強みだと思う。だけど、そのあまりの変わり様に思わず吹き出してしまって、双葉は恥ずかしそうに手を胸の前に当てながらちょっとジトっとした目で僕を睨む。そして、それからふっと笑って目を伏せた。その変化にまた胸の奥がギュッと締め付けられる。
「でもね、あの日は色々ありすぎて。拓真のこと、わかったけど、わからなくなっちゃって」
花火の日の夜の思い出はほろ甘く、抜けていくような爽やかな酸味を含んでいて――そして、昨日からそこに苦みが混ざった。
双葉は胸の前に当てた左手を右手でギュッと握りしめる。その儚げな表情は初めて見る双葉の顔で、狐のお面をつけた双葉を見たときと同じように目が離せなくなる。
「隣に並ぶ拓真の存在が温かくて、優しくて。花火してる時も、二人乗りで帰ってるときも、雨に濡れてすごく寒かったはずなのに、いつまでもこの時間が続けばいいなって思って。いつも普通に話してるのに、何話せばいいかもわからなくなって……」
双葉の言葉に、否応なしに鼓動が早まる。濡れて冷たい服越しの双葉の体温と、小さく花咲く線香花火の光は思い出すまでもないくらいに脳に焼き付いている。二人乗りしてるときに感じた双葉の温もりだってはっきりと覚えてる。
でも、昨日を最後に全部胸の内に封印しなきゃいけないんだと思ってた。だってこんな記憶、双葉と雄太が付き合ってたら辛くて痛いだけだ。
その時、双葉の手がギュッと僕のTシャツの袖をつかむ。すぐ隣に見える双葉の瞳はなんだか熱っぽくて、その顔にドキリとしてしまって。一瞬、そのまま吸い込まれそうになって慌てて踏みとどまる。
「ま、待って。でも、雄太は?」
「雄太? なんでここで、雄太の話……」
怪訝そうにそこまで言いかけて、双葉がハッと顔を上げる。
「ふうん。拓真は前から雄太が告白するつもりだって知ってたんだ?」
「……知ったのは、最初の脚本書いた後だったけど」
ジトっとした双葉の目に見つめられて、もごもごと言い訳する。そんな僕の様子に双葉は小さくため息をついて、袖を握る手を放すとそのままぐいっと僕の頬をつねった。ついでにぐにぐにと引っ張られる。
「断ったよ」
「……え?」
「付き合えない理由伝えたら、『やっぱそうだよなあ』って吹っ切れてた。薄々気づいてたんじゃないかな、雄太は」
双葉は僕の頬を解放してくれたけど、まだ不服そうだった。
「それに比べて、いくら何でも鈍すぎると思うなー。あ、だから、昨日はどこ探してもいなかったんだ。公演が終わったら伝えたいことあったのに、ひどいなあ」
「ご、ごめん……」
頬を膨らませて双葉がずいっと詰め寄ってくる。
だって、昨日、公演後に雄太と双葉が二人で文化祭を巡っているシーンなんて見たら、精神的にダメになる自信があった。逃げ出したって先延ばしにしかならないことはわかっていたけど、どうしても文化祭の会場にいることができなかった。
ここまで言われれば流石に察するけど、それだって未だに信じられない。それくらい、双葉というのは僕にとって近くて遠い存在で。
「んー。本当はこれ、昨日やるつもりだったんだけどなあ」
ずっと傍に置かれていたトートバックから双葉が取り出したのは白い狐のお面だった。花火の時に双葉が買って、昨日の演劇ではクライマックスのシーンを彩ったお面を双葉は僕に差し出す。
「これ、つけて」
「僕が……?」
「ほら、早くー!」
双葉の圧に押されるようにして、僕は狐のお面を顔につける。これって昨日双葉がつけてたやつだよな、というのは意識の向こう側に追いやった。
少し狭まった視界の向こう側で双葉が僕の正面に移動する。今の今まで冗談めかしたような顔をしていたのに、僕を見る双葉の目は舞台の上にいるときのように真剣で底知れなかった。
その右手がぐっと僕の方に伸ばされて、狐のお面に当てられる。
もしかしなくても、この場面は。
「もし、それでも不安になるなら。いつでも私が傍に居るから。だから、これからも拓真の脚本を演じていたい」
昨日の演劇のクライマックスをアレンジした双葉の言葉。
双葉の手が狐のお面を横にずらす。視界が広がり、向かい合ってしゃがむ双葉と真っすぐ目が合った。いつになく緊張して不安そうな双葉の両肩にそっと手を添える。
今、僕が双葉に伝えるべき言葉は。
「いつか、双葉のことを輝かせることができるような脚本を書いてみせるから。だから、僕ももっと双葉のことを知りたい」
ずっと、自分でつけた仮面の内側に閉じ込めていた想いを告げる。手が届かないからと、手を伸ばすことも諦めていた。きっと雄太の方が双葉とお似合いだなんて自分に言い訳して、その気持ちに見ないふりをしていた。
小さく頷いて瞳を揺らす双葉の顔は、今まで見た中で一番眩しかった。この表情だけは舞台の上じゃなくて僕だけのものにしたいなんて、図々しいだろうか。
「いいけど、拓真に私の演技を見抜けるかな?」
「何年どころか、何十年もかかるかも」
「いいね。見抜かれそうになったら新しい演技身につけなきゃ」
そんなの、一生かかっても終わらない。そんな僕の呟きを聞いた双葉は満足げな笑みを浮かべた。
本当にかなわない。だけど、そんな双葉が見せる姿に僕は惹かれてきた。そんな双葉が新しい演技を身につけると言うなら、僕はいつまでだってそれを追いかけたい。
震えそうな手に少しだけ力を込めて、双葉を引き寄せる。
「それなら、新しい演技にふさわしい脚本を書かなきゃ」
「じゃあ、とびっきりのハッピーエンド」
昨日の舞台とは違い、引き寄せ合った僕たちの距離はそのままゼロになる。
だって、そう。これは幕切れではなく、僕らにとっての幕開けだから。
文化祭の翌日、午前中に後片付けを終えて、昼から稽古場でちょっとした演劇部の打ち上げパーティが開かれたのだけど、僕は早々に抜け出して二日連続でいつもの橋の下に来ていた。
別に大した理由じゃない。昨日も今日も、雄太から結果を聞かされるのが怖くて逃げてきただけだ。特に今日の雄太は片付けの間なんだか吹っ切れたような笑顔だったし、双葉はどことなく僕に対してよそよそしかった。それで何となく結果を察してしまった。
そりゃあね、お似合いの二人だと思うよ。だいたい、アシストしたのは僕なんだし。
いつもの護岸に腰を下ろして、まだまだ暑いから途中で買ったペットボトルを傍らに置いて脚本を開く。
双葉や雄太が直してくれたというのも大きいけど、これまで書いてきた脚本の中で一番手ごたえがあった。だけど、その双葉や雄太を更に光らせられる脚本だったかというと、そこまでの自信はまだ持てなかった。
きっと、高校を卒業するその日までそんな自信が持てる日は来ないんだろう。なら、高校を卒業してからはどうだろう。双葉と雄太はきっと演劇の世界に残るんだろうけど、僕はそこまで続けられるだろうか。
「なーに読んでるの!」
「ふ、双葉!?」
バンッと背中を叩かれる。いつの間にか隣に双葉が座って僕の方を覗き込んでいた。文化祭の片付け日ではあるけど、休日だから双葉も僕も私服だ。双葉の格好は花火の日と同じ白いブラウスとクロームイエローのスカートという組み合わせ。そんな双葉の姿に、雨宿りしながらの二人きりの花火の思い出が胸の奥で小さく疼く。
双葉はニコニコと笑いながら右ひじを膝について僕を見ている。そんな双葉の傍らには、何が入っているのか白いトートバッグが横たわっていた。
「どうして、ここに」
「そりゃ、我らが拓真センセーが打ち上げの途中で抜け出すから……って、こんなやりとり前もあったね」
微妙に答えになってない。だって、稽古場の方には雄太だっているんだし。だけど、双葉は楽しそうに笑いながら、僕の読んでた脚本を手に取った。
前回は僕から渡したということを除けば、これもあの日と同じ構図。違っているのは双葉が中身を捲らずに脚本を愛おしそうに撫でていることと、雄太も含めた僕たち三人の間の関係。もう、全部終わったことだから。じりりと擦り切れる心に仮面を今は苦笑の仮面をつける。
「だから、センセーはやめてってば」
「あれれ。もしかして昨日の公演のあと、どうなったか知らないの?」
どこか怪訝そうな顔を浮かべて双葉が首を傾げる。昨日の公演の後、体育館を出た後はギリギリまでここで過ごしていたから何があったかは全然知らない。雄太の告白の結果を間接的にでも知ってしまうのが怖くて、今日の片付けだって極力一人でやったくらいだし。
僕が首を左右に振ると、双葉は呆れたように息をついてからスマホを操作し、画面を僕に突きつける。そこに映っているのは僕らの演劇部がSNSに開設しているアカウントだった。当然、昨日の文化祭での公演についても投稿してあるのだけど、そこにはこれまでの投稿と比べ物にならないくらいリアクションやコメントがついていた。
『凄い舞台だった! 最後の最後までハラハラドキドキした!』
『高校の文化祭だと思ってちょっと舐めてた。ストーリーもよくて、ちょっとした映画を観た気分』
『県予選の時から脚本が磨き上げらえていた印象。このままいけば来年は面白い存在になるかも』
総じて好意的なコメントが並んでいた。去年だって文化祭で公演はしていたけど、反応がまるで違う。不意打ちの温かい言葉の連なりに目の奥の方がじんと熱くなった。
「元々県予選で優秀賞とって、ちょっと注目されてたみたいなんだけど、プチバズ状態」
双葉の言葉に一つ頷く。脚本だって僕だけの力じゃないから褒められるのはくすぐったかったけど、これを否定したらみんなの頑張りまで否定することになってしまう。
「ストーリーがよかったってコメントも多かったし、拓真はうちの演劇部に必要なセンセーだよ」
「……ありがとう。双葉のおかげだよ」
「あー。また、演者とか演出のおかげっていうつもりでしょ。ストーリーが褒められてるんだから、これは拓真の――」
双葉の言葉の途中で僕は首を横に振る。
当然、僕の脚本だけではこれだけの評価を得られることはなかった。それはわかっていたけど、今感謝したいのは演者としての双葉ではなくて。
「あの花火の夜のおかげで脚本を直すことができたから。だから、ありがとう」
あの夜の出来事は、僕に脚本を直すアイデアを与えてくれた。狐のお面を使うという直接的な部分もそうだけど、あの日に抱いた感情を脚本に載せることができたから、観ている人たちの心を動かせた。それを演じきってくれた双葉の力には違いないんだけど。
「……ね、拓真。あの日、花火の前に言いかけたことなんだけど」
双葉が特別な場所だと語った古びた祠の寂れたベンチ。そういえば、僕の脚本について双葉が何か言いかけたところで雨が降ってきたんだっけ。その後の出来事のインパクトが強かったし、風邪をひいたり脚本を直したりですっかり記憶の彼方に飛んでしまっていた。
「拓真の脚本を演じてるとね、少しずつ拓真がどんな人かわかってくるんだ。優しくて、暖かくて、だけど少しだけ臆病で。だから、拓真は自分の脚本のことを不十分だと考えてたかもしれないけど、私は拓真の脚本を演じるのが好きだった」
双葉は僕を見ながらはにかんで、それから脚本を開いたまま僕に返した。開かれていたのはクライマックスのシーン。双葉が演じたヒロインが自分の胸の内側に潜んでいたものを吐き出す場面だった。
「だから、今回の脚本はちょっとだけ、演じるのが辛かった」
「……辛かった?」
「これまでの拓真の内側にあった感情が、全部剥き出しになってた感じがしたから」
双葉の言葉に、僕はゆっくりと頷く。
雄太から恋愛物の脚本を頼まれたとき、僕には何の手掛かりもなかった。だから、主役であるヒロインはこれまで以上に僕の内面を投影してつくり込んだ。キャラクターを創り上げる労力を減らしつつ、しっかりとした人物像を与えるためにやむを得なかった。
双葉に見抜かれるのは予想外だったし、自分を投影したせいで、ヒロインの抱く恋愛感情というものをずっと持て余してしまったのだけど。
「嫉妬も絶望も、全部拓真が抱えてきたものなんだって。その原因がもしかしたら私なんじゃないかって思ったら、私、拓真のことを知ってたふりして何も気づいてなかったんだなって」
意図して書いたわけではないけど雄太が演じた天才肌の主人公は、僕から見た双葉や雄太の現身だった。身近で、憧れて、でもどれだけ手を伸ばしたって決して届かない存在。今になって思えば、僕は脚本の中だけでも双葉の隣に並んでいたかったのかもしれない。だから、昨日、公演が終わった瞬間夢から覚めて、言いようのない喪失感が溢れだしてきたのかも。
「それで。一緒に花火とか行ったら、もっとちゃんと拓真のことが分かるんじゃないかなって」
「……え、脚本のためじゃなかったの?」
「それも、それもあるけどっ。それくらいしか誘う理由が思い浮かばなかったし!」
それまでの雰囲気から一転、双葉がワタワタと両手を振りながら答える。こうやって表情がよく変わるのは双葉の魅力で、演劇においては強みだと思う。だけど、そのあまりの変わり様に思わず吹き出してしまって、双葉は恥ずかしそうに手を胸の前に当てながらちょっとジトっとした目で僕を睨む。そして、それからふっと笑って目を伏せた。その変化にまた胸の奥がギュッと締め付けられる。
「でもね、あの日は色々ありすぎて。拓真のこと、わかったけど、わからなくなっちゃって」
花火の日の夜の思い出はほろ甘く、抜けていくような爽やかな酸味を含んでいて――そして、昨日からそこに苦みが混ざった。
双葉は胸の前に当てた左手を右手でギュッと握りしめる。その儚げな表情は初めて見る双葉の顔で、狐のお面をつけた双葉を見たときと同じように目が離せなくなる。
「隣に並ぶ拓真の存在が温かくて、優しくて。花火してる時も、二人乗りで帰ってるときも、雨に濡れてすごく寒かったはずなのに、いつまでもこの時間が続けばいいなって思って。いつも普通に話してるのに、何話せばいいかもわからなくなって……」
双葉の言葉に、否応なしに鼓動が早まる。濡れて冷たい服越しの双葉の体温と、小さく花咲く線香花火の光は思い出すまでもないくらいに脳に焼き付いている。二人乗りしてるときに感じた双葉の温もりだってはっきりと覚えてる。
でも、昨日を最後に全部胸の内に封印しなきゃいけないんだと思ってた。だってこんな記憶、双葉と雄太が付き合ってたら辛くて痛いだけだ。
その時、双葉の手がギュッと僕のTシャツの袖をつかむ。すぐ隣に見える双葉の瞳はなんだか熱っぽくて、その顔にドキリとしてしまって。一瞬、そのまま吸い込まれそうになって慌てて踏みとどまる。
「ま、待って。でも、雄太は?」
「雄太? なんでここで、雄太の話……」
怪訝そうにそこまで言いかけて、双葉がハッと顔を上げる。
「ふうん。拓真は前から雄太が告白するつもりだって知ってたんだ?」
「……知ったのは、最初の脚本書いた後だったけど」
ジトっとした双葉の目に見つめられて、もごもごと言い訳する。そんな僕の様子に双葉は小さくため息をついて、袖を握る手を放すとそのままぐいっと僕の頬をつねった。ついでにぐにぐにと引っ張られる。
「断ったよ」
「……え?」
「付き合えない理由伝えたら、『やっぱそうだよなあ』って吹っ切れてた。薄々気づいてたんじゃないかな、雄太は」
双葉は僕の頬を解放してくれたけど、まだ不服そうだった。
「それに比べて、いくら何でも鈍すぎると思うなー。あ、だから、昨日はどこ探してもいなかったんだ。公演が終わったら伝えたいことあったのに、ひどいなあ」
「ご、ごめん……」
頬を膨らませて双葉がずいっと詰め寄ってくる。
だって、昨日、公演後に雄太と双葉が二人で文化祭を巡っているシーンなんて見たら、精神的にダメになる自信があった。逃げ出したって先延ばしにしかならないことはわかっていたけど、どうしても文化祭の会場にいることができなかった。
ここまで言われれば流石に察するけど、それだって未だに信じられない。それくらい、双葉というのは僕にとって近くて遠い存在で。
「んー。本当はこれ、昨日やるつもりだったんだけどなあ」
ずっと傍に置かれていたトートバックから双葉が取り出したのは白い狐のお面だった。花火の時に双葉が買って、昨日の演劇ではクライマックスのシーンを彩ったお面を双葉は僕に差し出す。
「これ、つけて」
「僕が……?」
「ほら、早くー!」
双葉の圧に押されるようにして、僕は狐のお面を顔につける。これって昨日双葉がつけてたやつだよな、というのは意識の向こう側に追いやった。
少し狭まった視界の向こう側で双葉が僕の正面に移動する。今の今まで冗談めかしたような顔をしていたのに、僕を見る双葉の目は舞台の上にいるときのように真剣で底知れなかった。
その右手がぐっと僕の方に伸ばされて、狐のお面に当てられる。
もしかしなくても、この場面は。
「もし、それでも不安になるなら。いつでも私が傍に居るから。だから、これからも拓真の脚本を演じていたい」
昨日の演劇のクライマックスをアレンジした双葉の言葉。
双葉の手が狐のお面を横にずらす。視界が広がり、向かい合ってしゃがむ双葉と真っすぐ目が合った。いつになく緊張して不安そうな双葉の両肩にそっと手を添える。
今、僕が双葉に伝えるべき言葉は。
「いつか、双葉のことを輝かせることができるような脚本を書いてみせるから。だから、僕ももっと双葉のことを知りたい」
ずっと、自分でつけた仮面の内側に閉じ込めていた想いを告げる。手が届かないからと、手を伸ばすことも諦めていた。きっと雄太の方が双葉とお似合いだなんて自分に言い訳して、その気持ちに見ないふりをしていた。
小さく頷いて瞳を揺らす双葉の顔は、今まで見た中で一番眩しかった。この表情だけは舞台の上じゃなくて僕だけのものにしたいなんて、図々しいだろうか。
「いいけど、拓真に私の演技を見抜けるかな?」
「何年どころか、何十年もかかるかも」
「いいね。見抜かれそうになったら新しい演技身につけなきゃ」
そんなの、一生かかっても終わらない。そんな僕の呟きを聞いた双葉は満足げな笑みを浮かべた。
本当にかなわない。だけど、そんな双葉が見せる姿に僕は惹かれてきた。そんな双葉が新しい演技を身につけると言うなら、僕はいつまでだってそれを追いかけたい。
震えそうな手に少しだけ力を込めて、双葉を引き寄せる。
「それなら、新しい演技にふさわしい脚本を書かなきゃ」
「じゃあ、とびっきりのハッピーエンド」
昨日の舞台とは違い、引き寄せ合った僕たちの距離はそのままゼロになる。
だって、そう。これは幕切れではなく、僕らにとっての幕開けだから。