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「あら、雨が降りそう」

 どんよりと曇る空を見上げて、未央は紙袋をさげるふたりの客を振り返る。

「このあと、ホテルにお戻りになるんですよね。じきに降り出しそうですから、お気をつけて」
「ありがとう。濡れちゃうといけないから、このままホテルに帰ります」

 若いカップルの観光客は、お互いに顔を見合わせるとうなずき合い、購入したばかりの切り絵が入った紙袋を大事そうに抱えて帰っていく。その後ろ姿を見送っていると、商店街の通りの奥の方から朝晴が駆けてくるのが見えた。

 まっすぐこちらに向かってくるように見えて待っていると、朝晴は笑顔で手を振ってくる。やはり、切り雨を訪ねてきたようだ。

「八坂さん、先日はおつかれさまでした」

 清倉中学校で行われた祭りのことだろう。

「あっという間で、楽しかったです。こちらこそありがとうございました。今日はわざわざ、ごあいさつに?」
「ええ。ご協力いただいた店主さんに順番に。切り雨さんを最後にと考えていたので、ごあいさつが遅れました」
「それはおつかれさまでした。このあと、ご用事は?」
「ないです。八坂さんとゆっくり過ごしたくて最後にしたんですから」

 さわやかな笑顔で、朝晴は言う。

 話がしたくて来たのだろうか。商店街の店主たちに若い人がいないわけではないが、朝晴より年上の方ばかりだし、同世代として親しみを持たれているのかもしれない。

「中に入られますか?」
「ご迷惑でなければ」
「ちょうどお客さまが帰られたところですので、どうぞ」

 招き入れると、朝晴はいつものように店内を見回す。よほど気に入ってくれているのだろうか。ディスプレイは変えていないけれど、繁々と作品を眺めていく。

「気になるものがあれば、おっしゃってくださいね。手に取ってごらんいただけますから」
「どれも素晴らしいんですけどね、俺が出会う作品はまだここにない気がするんですよ」

 朝晴は面白いことを言う。

「これから先の未来に、井沢さんの気に入るものがつくれますでしょうか」
「出会える予感がします」

 きっぱりと答える彼の後ろに人影が見える。すりガラスの引き戸は、中古の店舗を改装した際、わざわざ遠方の建具屋から取り寄せたものだ。自動ドアではない引き戸に戸惑うような人影がゆらゆらと揺れている。

「お客さまかしら」

 近づこうとしたとき、引き戸をつかんだようで、ガタガタと音が鳴る。引き戸は片側しか開かないようになっている。内側から手伝うように戸を引くと、「あっ、そっちか」というつぶやきとともに、ハンチング帽をかぶった男の人が顔を出す。年のころは40代だろうか。どこかで会ったことがあるような顔だが、すぐには思い出せない。

「こちらって、切り雨さんで間違いないですよね?」
「はい、そうですよ。切り絵を扱っております」
「ずいぶんしゃれた店だな……」

 よく日焼けした肌に筋肉質の体つき。清潔感のあるシャツとチノパンには新品特有のしわが入り、精一杯のおしゃれをしてきたようにも見える。

 場違いなところへ来てしまったとばかりに、大きな体を縮こませた男の人は、ある切り絵に気づき、まばたきをした。どう見ても初めての来店客だが、まるで、その切り絵の存在を知っていたかのような驚きようだ。

 それは『七下の雨』だ。入り口近くの目立つところに飾られているから、一番最初に眺める客は少なくない。

 男の人は吸い寄せられるように足を踏み出すが、カウンター前に立つ朝晴に気づいて、彼を二度見した。

「もしかして……、井沢先生?」
「有村くんのお父さんじゃないですか」
「やっぱり、先生でしたか。まさか、いらっしゃるとは思いませんで」
「お祭りのお礼に来てまして」

 気さくに話しかける朝晴に驚いて、未央は窮屈そうに腰を曲げる男の人を眺める。よくよく見ると、有村くんに似ている。どおりで、会ったことがあるような気がしたわけだ。

「ああ、お祭りの。うちの息子も、こちらの店主さんにお世話になったみたいで」
「風鈴ですよね。すごく上手に作ってましたよ。ご覧になりましたか」
「先生もご存知でしたか。ずいぶん、誇らしげに帰ってきましてね。すぐに妻の部屋に飾ってましたよ」
「それじゃあ、お母さんも喜んだんじゃないですか?」

 朝晴がそう言うと、有村くんの父親の表情がほがらかになる。

「それはもううれしそうで。農家に嫁いだのに何にもできてないって悔やんでばかりの妻の笑顔を久しぶりに見ましたよ」
「有村くんのご実家はトマト農家でしたね」
「細々とやってます。ああ、そうだ。今朝、収穫したばかりのトマト、玄関に用意してそのままだ。あとで取りに行ってきますから、先生のお宅にもお届けしますよ」
「いいんですか? うれしいなぁ。妹は調理師なので、うまい料理作るんですよ。それはそうと、切り雨さんにご用事だったんじゃ?」