「今日は何をしにいらっしゃったの?」

 これ以上は聞くに耐えなくて、未央はそう尋ねた。

 結婚の報告に来ただけじゃないだろう。もう文彦はいないのだ。きっぱりと文彦のことは忘れたと未央に言う必要もない。

 いつだって、乃梨子はそうだった。文彦と関係は何もないとはぐらかしつつ、公平と未央には何かあると彼を惑わした。そうして、じわじわと未央を苦しめる。

「伝えたかったんです」
「何をですか?」

 乃梨子の本心を知りたくて、つとめて冷静に尋ねると、彼女は苦しそうに胸に手をあてた。

「財前さんがずっと悩んでたこと、ご存知でしたか? あなたを失ったことで絶望していた財前さんは、死んでもかまわないと思ってあの日、車を走らせていたと思います」

 あの日の話をされるとは思わず、未央は息を飲んだ。

「文彦さんから何か聞いてるんですか?」
「財前さん、言ってました。結婚相手はあなた以外考えられないって。あなたが戻らないならもう、いつ死んでもいいんだって。私は彼が好きだったけど、別に婚約解消して欲しかったわけじゃないので、彼の失望に何もしてあげられなくて……」
「破談にした私を責めてるんですか?」

 裏切ったのは、文彦と乃梨子なのに。

「責めるなんてとんでもない。ただ……、財前さんを一番愛していたのは私だと思ってますけど」

 あわてて首をふる乃梨子だが、文彦への思いは確かなものだと話す。

「それを伝えにきたんですか?」

 未央は冷静になっていく。牽制してくるなんて、乃梨子は反省していない。

「こんな言い方はしたくないんですけど、財前さんがかわいそうで。ずっとあなたが好きだったのに、誤解されて破談になって、本当に落ち込んでいて……」
「誤解だったなんて思ってないです」
「ずいぶん、冷めていらっしゃるんですね」

 文彦の死は未央のせい。そう責めるような目で見ないでほしい。

 文彦が好きだった。でも、何もなかった。婚約破棄は未央が勝手にしたこと。文彦が傷ついたのも、自分には関係ない。そんな嘘で塗り固められた言い訳を主張して、彼の死の責任を取りたくない乃梨子の思惑が透けて見えるようで、未央は苦しくなる。

「そう見えますか?」

 婚約者に裏切られた気持ちは乃梨子には理解できないし、理解されたくない。これ以上、話したくないと思いながらも、そう尋ねた。

「財前さんを本当には愛してなかったように見えます。だから、あなたは捨てたんですよね、彼を。私だって愛した人に裏切られたら苦しむけど、それでも別れないです。やっぱり、あなたと私は決定的に違うんだと思います」

 じわじわと真綿で首を絞めるような言葉は未央を追い詰める。

 文彦が乃梨子を選ばなかった負け惜しみが、そう言わせたのだろうか。自分が愛されていたら、たとえ文彦が義務で未央と結婚すると言っても、別れなかったはずだと。

「結婚なさるんですから、婚約者のためにも、文彦さんのことはもう、思い出さないであげてください」

 たまらずにそう言った。言わずにはいられなかった。乃梨子の中から、文彦を追い出したかった。乃梨子にはわからない。文彦がどれだけ愛情をくれたか。お互いに大切に想いあっていたか。ふたりで築き上げてきた愛情まで踏みにじられたような気がして、未央は抵抗してしまった。

「もちろんです。婚約者の彼を本当に愛しているんです。悲しませることは絶対にしないです」

 その言葉は信じていいだろうか。

「こちらへ来たこと、お相手の方は?」
「知らないです」

 婚約者のことは探られたくないように、乃梨子は短く否定した。

「文彦さんのことはお話になってないんですね」

 責めるように言ったわけでもないのに、乃梨子は気まずそうな表情を見せた。婚約者とのやりとりを、未央には話したくないのだろう。

「財前さんとは何もなかったので、話す必要は感じてなくて。あの、今日は財前さんがあなたを大切に思っていたことを伝えたくておじゃましただけなんです。彼に誤解されたくないですから、もう二度とお目にかかることはないですけれど、どうぞ、お元気で」

 乃梨子は一気にそう言うと、足早に切り雨を出ていった。

 未央は息をつくと、カウンターに寄りかかった。疲労が一気に押し寄せてくる。

「何しに来たんですか? あの人。未央さんを責めてばっかりで、感じ悪かったです」

 車椅子を漕いで、けげんそうにしぐれがやってくる。

 文彦のことをきちんと話したことはないけれど、察しのいい子だから、乃梨子に不快な気持ちを抱いたようだ。

「結婚を邪魔されるかもって、不安で会いにきたのね」

 彼に誤解されたくない。その最後の一言で、確信した。

 文彦を愛していたのも本当で、未央よりも愛されていたと思いたかったのも本当で、文彦が望むなら結婚だってしたかったのだろう。しかし、彼は亡くなり、彼女は新しい恋をした。

 自分のあやまちは決して認めず、未央に対して優位に立ったまま、新しい人生を切り開いていくために、未央に復讐心がないか確認しに来たのだろう。

「自分が壊したから、未央さんも同じことするって思うんでしょうね」
「そうね、きっと」
「もう二度とこないように、塩まいておきましょうか?」

 しぐれは腕まくりのしぐさを見せる。明るい彼女に、未央は救われる思いがした。

「お願いできる?」

 冗談めかして笑おうとしたが、しぐれの顔が歪んでみえて、未央は手のひらで顔を覆った。

 ひどいめまいがする。そう気づいたときには、カウンターからくずれ落ち、「未央さんっ!」と叫ぶしぐれの声が遠のいた。