***
その女性客が来店したとき、未央はアトリエで上質紙の色を選んでいた。次の定休日には、朝晴に注文の品の確認をしてもらう手はずになっていて、その準備をしていたのだった。
「未央さーん、店長さんをお願いしますってお客さまが見えてますよー」
のれんの向こうから、ほんの少し面食らったようなしぐれの声がする。彼女はいつも明るく、どんな客でもあたりさわりなく接客しているのに珍しい。
苦情だろうか。未央が腰をあげたとき、のれんの下に車椅子が見えた。ますます近づいてきたしぐれが、声を低めて言う。
「左右田乃梨子さんって方です。ご用件うかがっても、名前を言ってもらえばわかるの一点張りで……」
「左右田……」
未央は息を飲み、のれんを押し上げる。
自分は今、どんな顔をしているだろう。困惑気味のしぐれより、不安を浮かべているだろうか。
「すぐ行きますね」
わざとらしい笑顔になったのは気づいたが、何か言いたげなしぐれを残して、店内へ向かう。
店内の客は、女性ひとりだった。作品を眺めるわけでもない。ただ入り口近くに立っている。
未央がカウンターに姿を現すと、彼女はゆっくりとあたまを下げる。
あの時は、絶対にあたまを下げなかったのに、と未央の中にいらだちが浮かぶ。まだ怒りを覚えるぐらいには許してないらしいと自覚して、未央は戸惑った。
左右田乃梨子は、文彦とともに未央を傷つけた張本人だ。彼女に婚約者を奪われたと話したら、誰もが何かの間違いだと驚くであろう、善人そうなあどけない顔立ちをしている。
今さら、何をしに来たのだろう。
未央は言葉が出ずに黙っていた。すると、乃梨子がためらいがちに口を開く。
「お久しぶりです。お店を出されたと聞いて、一度来てみたいとずっと思っていたんですけど、きっかけがなくて」
まるで、今日はきっかけができたから来たかのような口ぶりだ。
「何かご用でしたか?」
冷静に振る舞おうとしたが、声はかすれた。動揺をさとったのか、乃梨子はあわれむような目をする。
「私、結婚するんです」
「結婚……?」
思わぬ報告に、わずかに眉を寄せてしまう。
未央は裏切りによって結婚できなくなったのに、まだ文彦の3回忌も済まないうちに、彼女は新しい男と出会い、結婚するというのか。
「そうですよね。腹立たしい気分になりますよね」
悲しそうにまぶたを伏せる乃梨子の物腰は柔らかだった。
決して、未央には挑んでこない強かさがある。未央が怒れば、彼女は誰かにかばわれる。文彦がそうであったように、彼女は被害者になる立ち振る舞いを自然と身につけている。
文彦を失っても何も変わらない彼女を見せつけられて、未央はカウンターに手をついた。めまいがしそうだった。
「結婚が決まって、今ならあなたの気持ちがわかります。婚約者に裏切られたかもしれないと思ったら、どんな気持ちになるか……」
「かもしれない……ですか?」
思わず、尋ねた。
まだ、裏切りはなかったというのだろうか。文彦とホテルでふたりきりでいた事実は消せないのに。
未央の怒りに震える声を聞いた彼女の口もとには、うっすらと笑みが浮かんだ。その姿に確信する。文彦と間違いはあったのだ。しかし、それを認めることは決してないだろうと。
「文彦さんも結婚も失った私に、幸せになりますとおっしゃりに来たんですか?」
意地悪な言い方しかできなくて、未央の胸は痛んだ。なぜか、彼女と話すと傷つけているようになってしまう。傷つけられたのは、こちらなのに。
「そんなふうに責めたくなる気持ちもわかります。でも、違うんです。財前さんは破談になって悩んでいました。それはあなたを大切に思っていたからだと思います」
何をわかったようなことを、と、ふたたび怒りが湧いた。どれだけ傷ついたか、苦しんだか、何ひとつ乃梨子にわかることはないだろう。
「財前さん、あなたの作品をキャンセルしましたよね?」
無言の未央にかまわず、乃梨子は話を続ける。
「財前さんがおっしゃっていたんです。作品を買うのは、罪滅ぼしだって。だから私、言ったんです。裏切ってないんだから、償う罪はないですよって。罪滅ぼしで買うなんて不誠実だって」
「だから、文彦さんはキャンセルしたって言うんですか?」
未央は身体から力が抜けていくのを感じた。
浮気が発覚したあと、乃梨子はすぐに異動したが、ふたりはずっと連絡を取り合っていた。そして、未央が文彦のために心を込めて製作した作品は、乃梨子の助言によってキャンセルされた。
文彦を説得してまで、乃梨子は未央の作品が彼の手に渡るのを面白く思っていなかったのだろう。
文彦はいったい、何を信じていたのか。死の直前まで、分かりあうことはなかったのだと情けなくなる。
「キャンセルした事実は、私たちには何もなかったっていう証拠なんです。たしかに、浮気されたと思われても仕方ないですよね? 私も当時は悩みがあって、財前さんは優しく聞いてくれました。素敵な方だから、恋心だってありました。でもそれを口に出したことはありませんでした」
文彦に惹かれていたけど、裏切ってはいない。そう主張されても、都合よく真実を曲げていく乃梨子を、未央は信じる気にはなれなかった。
乃梨子がどう弁明しようと、恋心はきっと文彦に伝わっていたし、彼も言葉では愛してると言わなかったかもしれないが、慕ってくれる女性に悪い気持ちを抱くはずもなく、未央を裏切る行為をしたのだろう。
その女性客が来店したとき、未央はアトリエで上質紙の色を選んでいた。次の定休日には、朝晴に注文の品の確認をしてもらう手はずになっていて、その準備をしていたのだった。
「未央さーん、店長さんをお願いしますってお客さまが見えてますよー」
のれんの向こうから、ほんの少し面食らったようなしぐれの声がする。彼女はいつも明るく、どんな客でもあたりさわりなく接客しているのに珍しい。
苦情だろうか。未央が腰をあげたとき、のれんの下に車椅子が見えた。ますます近づいてきたしぐれが、声を低めて言う。
「左右田乃梨子さんって方です。ご用件うかがっても、名前を言ってもらえばわかるの一点張りで……」
「左右田……」
未央は息を飲み、のれんを押し上げる。
自分は今、どんな顔をしているだろう。困惑気味のしぐれより、不安を浮かべているだろうか。
「すぐ行きますね」
わざとらしい笑顔になったのは気づいたが、何か言いたげなしぐれを残して、店内へ向かう。
店内の客は、女性ひとりだった。作品を眺めるわけでもない。ただ入り口近くに立っている。
未央がカウンターに姿を現すと、彼女はゆっくりとあたまを下げる。
あの時は、絶対にあたまを下げなかったのに、と未央の中にいらだちが浮かぶ。まだ怒りを覚えるぐらいには許してないらしいと自覚して、未央は戸惑った。
左右田乃梨子は、文彦とともに未央を傷つけた張本人だ。彼女に婚約者を奪われたと話したら、誰もが何かの間違いだと驚くであろう、善人そうなあどけない顔立ちをしている。
今さら、何をしに来たのだろう。
未央は言葉が出ずに黙っていた。すると、乃梨子がためらいがちに口を開く。
「お久しぶりです。お店を出されたと聞いて、一度来てみたいとずっと思っていたんですけど、きっかけがなくて」
まるで、今日はきっかけができたから来たかのような口ぶりだ。
「何かご用でしたか?」
冷静に振る舞おうとしたが、声はかすれた。動揺をさとったのか、乃梨子はあわれむような目をする。
「私、結婚するんです」
「結婚……?」
思わぬ報告に、わずかに眉を寄せてしまう。
未央は裏切りによって結婚できなくなったのに、まだ文彦の3回忌も済まないうちに、彼女は新しい男と出会い、結婚するというのか。
「そうですよね。腹立たしい気分になりますよね」
悲しそうにまぶたを伏せる乃梨子の物腰は柔らかだった。
決して、未央には挑んでこない強かさがある。未央が怒れば、彼女は誰かにかばわれる。文彦がそうであったように、彼女は被害者になる立ち振る舞いを自然と身につけている。
文彦を失っても何も変わらない彼女を見せつけられて、未央はカウンターに手をついた。めまいがしそうだった。
「結婚が決まって、今ならあなたの気持ちがわかります。婚約者に裏切られたかもしれないと思ったら、どんな気持ちになるか……」
「かもしれない……ですか?」
思わず、尋ねた。
まだ、裏切りはなかったというのだろうか。文彦とホテルでふたりきりでいた事実は消せないのに。
未央の怒りに震える声を聞いた彼女の口もとには、うっすらと笑みが浮かんだ。その姿に確信する。文彦と間違いはあったのだ。しかし、それを認めることは決してないだろうと。
「文彦さんも結婚も失った私に、幸せになりますとおっしゃりに来たんですか?」
意地悪な言い方しかできなくて、未央の胸は痛んだ。なぜか、彼女と話すと傷つけているようになってしまう。傷つけられたのは、こちらなのに。
「そんなふうに責めたくなる気持ちもわかります。でも、違うんです。財前さんは破談になって悩んでいました。それはあなたを大切に思っていたからだと思います」
何をわかったようなことを、と、ふたたび怒りが湧いた。どれだけ傷ついたか、苦しんだか、何ひとつ乃梨子にわかることはないだろう。
「財前さん、あなたの作品をキャンセルしましたよね?」
無言の未央にかまわず、乃梨子は話を続ける。
「財前さんがおっしゃっていたんです。作品を買うのは、罪滅ぼしだって。だから私、言ったんです。裏切ってないんだから、償う罪はないですよって。罪滅ぼしで買うなんて不誠実だって」
「だから、文彦さんはキャンセルしたって言うんですか?」
未央は身体から力が抜けていくのを感じた。
浮気が発覚したあと、乃梨子はすぐに異動したが、ふたりはずっと連絡を取り合っていた。そして、未央が文彦のために心を込めて製作した作品は、乃梨子の助言によってキャンセルされた。
文彦を説得してまで、乃梨子は未央の作品が彼の手に渡るのを面白く思っていなかったのだろう。
文彦はいったい、何を信じていたのか。死の直前まで、分かりあうことはなかったのだと情けなくなる。
「キャンセルした事実は、私たちには何もなかったっていう証拠なんです。たしかに、浮気されたと思われても仕方ないですよね? 私も当時は悩みがあって、財前さんは優しく聞いてくれました。素敵な方だから、恋心だってありました。でもそれを口に出したことはありませんでした」
文彦に惹かれていたけど、裏切ってはいない。そう主張されても、都合よく真実を曲げていく乃梨子を、未央は信じる気にはなれなかった。
乃梨子がどう弁明しようと、恋心はきっと文彦に伝わっていたし、彼も言葉では愛してると言わなかったかもしれないが、慕ってくれる女性に悪い気持ちを抱くはずもなく、未央を裏切る行為をしたのだろう。