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体育祭の代休の今日、清倉展望台の入り口には、中学生の姿がちらほらとあった。朝晴を見つけて元気よくあいさつする子もいれば、こちらをちらちら見ながらうわさ話しているグループもいる。
中には、「先生の彼女?」と大胆に話しかけてくる女の子もいて、未央は微笑ましいような恥ずかしいような気分になってしまう。
「井沢先生は人気がありますね」
「比較的、若い先生が少ないですからね。話しかけやすいんでしょう」
「こんなにも生徒たちがいるって思わなかったので、ほかの場所でもかまいませんよ」
「いえ。未央さんと展望台に来たかったんです」
きっぱりと答えた朝晴は、思春期の学生たちの好奇心など気にせず、平然と遊歩道を登っていく。
まだまだ暑い日が続いているが、展望台に近づくにつれて、秋を予感させる涼しい風が吹き、季節の変わり目を感じさせる。
常に季節は形を変えながら過ぎ去っていく。もう、文彦にこだわる必要はない。文彦を失わなければ、朝晴とは出会わなかった。朝晴と一緒にいると、新しい季節を受け入れていいのだと思える。
「つきましたね。思ったより、展望台は人がいないんだなぁ」
学生たちも、入り口にある売店や、途中の公園で遊ぶだけで、展望台までは登らないのかもしれない。平日でもあるし、朝晴の言う通り、見晴らしのいい場所に数組のカップルの姿があるだけだった。
「あそこのベンチ、空いてますね」
朝晴は未央をベンチに座らせると、売店でコーヒーを買ってくるといって立ち去った。
売店では、アイスクリームやフランクフルトが買えるらしい。朝晴はそれらのメニューを指差しながら店員と親しげに話していたが、結局、ホットコーヒーを二つ買って戻ってきた。
「ここ、好きなんですよ。清倉の絶景が見えるので」
ベンチに腰かける朝晴が、清々しい表情で前を向く。
開発が進んでいるのは駅周辺だけで、清倉にはまだたくさんの自然が残っている。色づいた山々の奥に望む海や、おもむきのある日本家屋。絵本の中に入り込んだような風景は、どこか心を穏やかにしてくれる。
「あの日、ここでお会いしたこと覚えてますか?」
コーヒーをひと口飲むと、朝晴はそっと切り出す。
「ええ、はい」
清倉の展望台に行きたいと言われたときから、予感はあった。
朝晴があの日のことを言わないなら、未央も心の中にしまっておくつもりだった。しかし、やはり彼は、あの日の出会いをうやむやにしておけなかったのだろう。
「切り雨で未央さんを見つけたとき、本当はすぐにあの日の方だって気づいたんですよ」
「なんで黙ってらしたんですか?」
「まあ、ご様子がご様子だったので、俺は何も覚えてないふりをした方がいいかなって思ったんです」
だから、自分よりしぐれの方が先に出会っていたと、わざとらしく嘘をついたのだろう。本当は、先に出会っていたのに。
「泣いてましたものね、私」
未央は恥ずかしいと、照れ笑いを浮かべる。
「正直言うと、見慣れない女性が泣いてるのに気づいて、心配で声をかけたんです。あわてて涙をふく仕草をして、笑顔を見せてくれたとき、ああ、大丈夫だろうとは思ったんですが」
「もう陽が落ちる前の夕方だったので、誰もいないと思っていたんです」
「ここから見える夕日は美しいですからね。時々、仕事終わりに来ていたんですよ。だから、見慣れないあなたにすぐに気づいた。ずっと、どうして泣いていたのか気になっていたんです。でもようやく、わかりました」
朝晴は生真面目な表情をして、こちらへと目を移す。
「文彦さんの婚約者は、未央さんですよね?」
「お気づきになりますよね」
未央はため息を吐くように笑う。
「だからあの日、泣いていたんですか?」
文彦との婚約を解消し、どこでもいいから出かけようと家を飛び出した。たまたま電車の吊り革広告で目にした清倉へ来て、清倉駅で見つけた展望台のポスターを頼りにここへやってきた。
美しい景色とともに、木の柵の下には目がくらむような崖が見えて、人生をここで終えるのも悪くないだろうと思った。
「どうして商店街に店を出したのか……」
「え?」
「昨日の質問にまだ答えてませんでしたね」
そう言うと、朝晴は昨日の会話に戻るように尋ねる。
「どうして、清倉へ?」
「清倉は暮らしやすいいい場所ですよって言ってくれましたよね? 引っ越すつもりがあるなんて話もしてないのにそうおっしゃるから、驚いたんです」
「驚くって?」
「本当は、死ぬつもりでここへ来たんです」
ぽつりと吐き出すと、朝晴が向き合ってくれるようにひざを寄せてくる。また泣いても大丈夫なように。受け止めようとしてくれるかのように。
「そのことに気づいてましたよね? 清倉の良さを延々と語る井沢さんに、私は救われました。気持ちをまぎらわそうとしてくださる姿を見て、井沢さんが愛するこの場所を私の死に場所にしたらいけない。ここでならやり直せる。そう思ったんです」
「俺がいるとわかっていて、清倉へ引っ越してきたんですか?」
「もう一度、お会いできたら……とは思ってました。あのときはありがとうございました」
未央は深々と頭を下げる。
清倉へ導いてくれたのは、朝晴。初めて出会ったときから、初対面とは思えないような気づかいで接してくれた彼に、未央は救われてきた。
「未央さん……」
なぜか、朝晴が感極まる表情で手を伸ばしてくる。驚いて、身を引きながら触れ合いそうになる手を見下ろしたとき、展望台へ登ってくる数人の中学生の姿が見えた。
「あー、井沢先生、デートしてるー」
元気のいい声に朝晴はがっくりと肩を落とすと、「大人をからかうなよー」と笑った。
【第三話 ほろほろ雨 完】
体育祭の代休の今日、清倉展望台の入り口には、中学生の姿がちらほらとあった。朝晴を見つけて元気よくあいさつする子もいれば、こちらをちらちら見ながらうわさ話しているグループもいる。
中には、「先生の彼女?」と大胆に話しかけてくる女の子もいて、未央は微笑ましいような恥ずかしいような気分になってしまう。
「井沢先生は人気がありますね」
「比較的、若い先生が少ないですからね。話しかけやすいんでしょう」
「こんなにも生徒たちがいるって思わなかったので、ほかの場所でもかまいませんよ」
「いえ。未央さんと展望台に来たかったんです」
きっぱりと答えた朝晴は、思春期の学生たちの好奇心など気にせず、平然と遊歩道を登っていく。
まだまだ暑い日が続いているが、展望台に近づくにつれて、秋を予感させる涼しい風が吹き、季節の変わり目を感じさせる。
常に季節は形を変えながら過ぎ去っていく。もう、文彦にこだわる必要はない。文彦を失わなければ、朝晴とは出会わなかった。朝晴と一緒にいると、新しい季節を受け入れていいのだと思える。
「つきましたね。思ったより、展望台は人がいないんだなぁ」
学生たちも、入り口にある売店や、途中の公園で遊ぶだけで、展望台までは登らないのかもしれない。平日でもあるし、朝晴の言う通り、見晴らしのいい場所に数組のカップルの姿があるだけだった。
「あそこのベンチ、空いてますね」
朝晴は未央をベンチに座らせると、売店でコーヒーを買ってくるといって立ち去った。
売店では、アイスクリームやフランクフルトが買えるらしい。朝晴はそれらのメニューを指差しながら店員と親しげに話していたが、結局、ホットコーヒーを二つ買って戻ってきた。
「ここ、好きなんですよ。清倉の絶景が見えるので」
ベンチに腰かける朝晴が、清々しい表情で前を向く。
開発が進んでいるのは駅周辺だけで、清倉にはまだたくさんの自然が残っている。色づいた山々の奥に望む海や、おもむきのある日本家屋。絵本の中に入り込んだような風景は、どこか心を穏やかにしてくれる。
「あの日、ここでお会いしたこと覚えてますか?」
コーヒーをひと口飲むと、朝晴はそっと切り出す。
「ええ、はい」
清倉の展望台に行きたいと言われたときから、予感はあった。
朝晴があの日のことを言わないなら、未央も心の中にしまっておくつもりだった。しかし、やはり彼は、あの日の出会いをうやむやにしておけなかったのだろう。
「切り雨で未央さんを見つけたとき、本当はすぐにあの日の方だって気づいたんですよ」
「なんで黙ってらしたんですか?」
「まあ、ご様子がご様子だったので、俺は何も覚えてないふりをした方がいいかなって思ったんです」
だから、自分よりしぐれの方が先に出会っていたと、わざとらしく嘘をついたのだろう。本当は、先に出会っていたのに。
「泣いてましたものね、私」
未央は恥ずかしいと、照れ笑いを浮かべる。
「正直言うと、見慣れない女性が泣いてるのに気づいて、心配で声をかけたんです。あわてて涙をふく仕草をして、笑顔を見せてくれたとき、ああ、大丈夫だろうとは思ったんですが」
「もう陽が落ちる前の夕方だったので、誰もいないと思っていたんです」
「ここから見える夕日は美しいですからね。時々、仕事終わりに来ていたんですよ。だから、見慣れないあなたにすぐに気づいた。ずっと、どうして泣いていたのか気になっていたんです。でもようやく、わかりました」
朝晴は生真面目な表情をして、こちらへと目を移す。
「文彦さんの婚約者は、未央さんですよね?」
「お気づきになりますよね」
未央はため息を吐くように笑う。
「だからあの日、泣いていたんですか?」
文彦との婚約を解消し、どこでもいいから出かけようと家を飛び出した。たまたま電車の吊り革広告で目にした清倉へ来て、清倉駅で見つけた展望台のポスターを頼りにここへやってきた。
美しい景色とともに、木の柵の下には目がくらむような崖が見えて、人生をここで終えるのも悪くないだろうと思った。
「どうして商店街に店を出したのか……」
「え?」
「昨日の質問にまだ答えてませんでしたね」
そう言うと、朝晴は昨日の会話に戻るように尋ねる。
「どうして、清倉へ?」
「清倉は暮らしやすいいい場所ですよって言ってくれましたよね? 引っ越すつもりがあるなんて話もしてないのにそうおっしゃるから、驚いたんです」
「驚くって?」
「本当は、死ぬつもりでここへ来たんです」
ぽつりと吐き出すと、朝晴が向き合ってくれるようにひざを寄せてくる。また泣いても大丈夫なように。受け止めようとしてくれるかのように。
「そのことに気づいてましたよね? 清倉の良さを延々と語る井沢さんに、私は救われました。気持ちをまぎらわそうとしてくださる姿を見て、井沢さんが愛するこの場所を私の死に場所にしたらいけない。ここでならやり直せる。そう思ったんです」
「俺がいるとわかっていて、清倉へ引っ越してきたんですか?」
「もう一度、お会いできたら……とは思ってました。あのときはありがとうございました」
未央は深々と頭を下げる。
清倉へ導いてくれたのは、朝晴。初めて出会ったときから、初対面とは思えないような気づかいで接してくれた彼に、未央は救われてきた。
「未央さん……」
なぜか、朝晴が感極まる表情で手を伸ばしてくる。驚いて、身を引きながら触れ合いそうになる手を見下ろしたとき、展望台へ登ってくる数人の中学生の姿が見えた。
「あー、井沢先生、デートしてるー」
元気のいい声に朝晴はがっくりと肩を落とすと、「大人をからかうなよー」と笑った。
【第三話 ほろほろ雨 完】