「こんばんはー。まだやって……あれっ? お兄ちゃん」

 そろそろと開いた引き戸から顔を出したのは、しぐれだった。

 しぐれはいつも、閉店間際にやってくる。その時間が一番、客がおらず、迷惑をかけないと知っているからだ。未央がそれに気づいたのは、何回目かの来店の時。ほかの客の足が車椅子にぶつかり、彼女がひどく申し訳なさそうにしていることがあった。あのあとから、彼女は客のいない時間を見計らってくるようになった。心根が優しいのは朝晴だけでなく、彼女も同じだ。だから、彼らには信頼感がある。

「なんだ、しぐれ、来たのか。雨が降りそうだから家にいるって言ってただろう」
「おばあちゃん、しょうゆがないって言うから」
「買ってきたのか?」
「うん。ばっちり」

 しぐれはくるりと車椅子を回転させる。後ろには、花柄のマイバッグが引っかかっている。

「俺も自転車だしな。雨降る前に帰るか」

 空の様子を気にするように、朝晴は店の外へ出ていく。

「しぐれさん、いらっしゃい。お元気そうですね」

 そう声をかけると、しぐれは気恥ずかしそうにする。

「この間はごめんなさい。すっごく反省したんです。許してくださいっ」

 ぺこりと頭をさげると、ポニーテールがぴょこんと揺れる。

「私の方こそ。遠慮なく、いつでも来てくださいね」
「あのー、兄って、よく来てます?」

 おずおずと尋ねてくる。

「休みの日はいつも来てくださってますよ」
「いっつもいないと思ってたけど、そんなに? ご迷惑かけてます」

 まるで、保護者みたいでおかしい。

「学校も始まったので、日曜日ぐらいしか来られないっておっしゃってましたよ。剣道部の顧問もされてるそうですね」
「剣道はやったことないのに引き受けたみたいです。なんでもやれちゃう人だから、大丈夫なんだろうけど」
「素晴らしいお兄さんですね」

 にっこりすると、しぐれが困り顔をするから、未央はそのまま首をかしげる。

「どうかされました?」
「切り雨さんって、恋人いるの?」
「いいえ。どうして?」
「うーんと、……兄は人間的にはすごい人だと思うけど、男としてはやめた方がいいかなぁって」

 きょとんとすると、しぐれはあわてて付け足す。

「切り雨さんがお姉さんになってくれたらうれしいなぁって思ってるんですよ。でも、私みたいな妹がいたらダメですよね? って、なんかいろいろ矛盾してるな……」

 どうやら、しぐれは何か誤解しているようだ。たしかに、朝晴は切り雨へ頻繁に来すぎてはいるけれど。

 なんと答えたらいいのかわからなくて戸惑っていると、店内へ朝晴が戻ってくる。

「雨、降ってきましたよ」
「やむまで、どうぞ、いてください」
「いつもすみません」

 頭をさげる彼の横から、空を見上げる。

「夕立ですよね。向こうの空は明るいですから、すぐにやむと思いますよ」
「もう夏が終わりますね」

 隣に並んで、朝晴がしみじみと言う。

 季節の変わり目が、未央はわりと好きだ。季節終わりの雨や日差しの傾き、風の匂いに変化を感じるとき、生きていることを実感できるからかもしれない。

「新しい未来が始まる気がするね」

 しぐれも、ひょっこりと顔を出し、空を見上げて明るい声をあげる。

「しぐれの新しい未来のための第一歩はもう始まってるよ」
「そうだといいなぁ」

 しぐれは嬉々として足もとへ視線を落とす。歩けるようになっている未来を想像しているのだろうか。

「大丈夫さ」

 朝晴の言葉に同調して、未央は言う。

「そうですよ、しぐれさん。もしよろしければ、私にそのお力添えをさせてくれませんか?」

 顔を見合わせる彼らに提案する。

「切り雨で、働いてみませんか?」




【第二話 名残の夕立 完】