思い出話をするように、しぐれは話し出す。

 未央はひざを折ってしゃがむと、名残の夕立へ目を移す彼女の横顔を黙って見つめる。

「切り絵のお店ができたって聞いて、オープンしたばっかりの頃にも来たことがあるんです。あのときには、この切り絵はなかったと思うんです」
「こちらが完成したのは春ごろで、比較的新しい作品なんですよ」
「じゃあ、はじめて見たのは今年の春だったのかな。初デートで見た暑い夏の光景とリンクして、目の前がパァッと明るくなったような衝撃があったんです」
「はじめてのデートはバイクで?」

 初々しい恋の話に耳を傾けると、しぐれもわずかに恥ずかしげな笑みを浮かべる。

「年上の彼氏で、ライダーだったんです。デートはだいたいバイクで出かけてました。細身の背中がたくましく見えて、しっかりしがみつくと、彼を独占したような気になって。すごく幸せだったなぁ」

 今は過去形の恋をなつかしそうに話すしぐれは、ふと、表情を曇らせる。

「もうずいぶん前の夏に、私の恋は終わったんです。私にとってあの夏の出来事はつらい記憶でしかないはずなのに、どうしてか、この切り絵を見てると、また夏が好きになれそうな気がするんです」
「それで、何度も見に来てくださってたんですね」
「見るだけで、ごめんなさい。今は働いてないから兄に迷惑かけてるのもあるし、なかなか買う勇気がなくて」

 名残の夕立はサイズが大きく、値段も高めだ。しかし、勇気が出ない理由はそれだけではないだろう。手放したはずの恋の記憶を、手もとに置いていいのか、迷っているのかもしれない。

「遠慮なく、何度でも見に来てくださいね」
「でも、売れちゃったらもう、同じものは見れないですよね?」
「額に入った作品に関しては、同じデザインではお作りしてなくて」
「ですよね。一点ものですよね」

 残念そうにするしぐれの視線はやはり、バイクに向いている。別れた彼の乗っていたバイクに類似しているのかもしれない。だからこそ、彼との幸せな記憶を思い出すのだろうか。

「バイクの切り絵を作るのは、これが最初で最後になると思います」
「やっぱり大変ですよね、作るの。だってこのバイク、本当に切り絵なのってぐらい、すごくリアルですもん」
「バイク好きなお客さまもそう言ってくださいます」
「そっかぁ。バイクで来る観光客もたくさんいますよね」

 悩むように眉をよせた彼女は、名残の夕立としばらくにらめっこしていたが、しゃがんだままのこちらに気づくと、ハッとする。

「あっ、ごめんなさい。もうちょっとだけ見てていいですか?」
「ええ、かまいませんよ」

 そっと立ち上がると、カウンターの中へ戻る。整頓途中の伝票を引き出しに戻し、代わりに取り出したスケッチブックにえんぴつを滑らせる。

 未央はいつも無意識に、心を惹きつける美しいもの、神々しく光ってみえるものをスケッチしてしまう。

 程なくして出来上がったのは、車椅子に乗ったロング髪の女の子の横顔。このスケッチを見たら、しぐれが気を悪くするかもしれない。未央はそう思って、スケッチブックを一枚めくる。

 今日は気分が乗って、何か書ける気がする。ふたたび、えんぴつを握ったとき、

「やっぱり、すぐ売れちゃうかなぁ」

 と、しぐれのひとりごとが聞こえた。