話を弾ませる朝晴が、こちらへと顔を向ける。すっかり話し込んでしまって、とハンチング帽を丸めて謝る父親が、へこへこと頭を下げてくる。

「息子がずいぶん親切にしてもらったみたいで」
「いえいえ、あたりまえのことをしただけですから」
「あいつ、祭りから帰ってきてから、好きなゲームそっちのけで、切り絵ばっかりやってるんですよ」

 少々、あきれ顔だが、父親はうれしそうにそう言う。

「どんな作品をつくってるんですか?」
「風鈴です。来年はもっとすごいのを自作するんだって」
「そうでしたか。有村さんならできそうです。お母さんを喜ばせたくて仕方ないんですね」
「お恥ずかしい話、うちのばあさんが妻の風鈴をどこかへやってしまったみたいで、息子は気をつかってるんだと思います」

 有村くんが切り雨を訪ねてきたいきさつを知っているのかいないのか、父親は情けなさそうに眉を下げる。

 父親として、ふがいないとでも思ってるんだろうか。息子の気づかいに気づく優しい父親だからこそ、有村くんのような思いやりのある子に育ったように思えるけれど。

「お母さん想いの方だと思います」
「それはもう本当に。妻もお礼を言いたいと言っていたんですが、何分、身体の具合が悪くて。今日も一緒に来られたらよかったんですが、できなくてすみません」
「お気になさらず」
「いや、本当に。妻は上手に絵を描くので、昔は美術館めぐりが好きでしてね。息子が切り雨さんの作品はめちゃくちゃすごいと騒ぐものですから、妻も見たいそうなんです。そこで、今日はお礼とは別に、ひとつ見たい作品があって来たんですよ」
「ありがとうございます。どんな作品をお探しでしたか?」
「タイトルは忘れたんですが、風鈴の……」

 父親は気になるように、入り口近くの切り絵へ目を移す。

「七下の雨ですね? 先日、有村さんが熱心にごらんになってました」
「ああ、そうですそうです、七下の雨です。七下の雨がすごいんだって、息子が妻に話してましてね」
「そんなにお話に?」

 ほほえましくてそっと笑うと、父親は大真面目な顔をする。

「大興奮ですよ。なんでも、つらいことがあっても自分の代わりに泣いてくれるから、悲しみを預けておけるすごいものなんだとかなんとか。一風変わった話を息子がするものですから、妻もどんな作品なのか興味があるようで」
「へえ、面白い話ですね」

 朝晴も興味深そうに身を乗り出す。

「七下の雨はそちらですよ。近くでごらんになりますか?」

 壁にかけた額縁に両手を添えて外し、ガラスケースの上へとそっと置く。父親と朝晴が同時にのぞき込む。

「やっぱり、これですか。息子はこの風鈴を見たんですね。あんまりこういうのは詳しくないですが、たしかにすごい。なんていうか、めちゃくちゃ緻密なデザインなんだなぁ」
「風鈴の模様はアサガオですか。本物のような描写もさることながら、雨の細かさも素晴らしいですね」

 驚嘆する父親の横で、朝晴も感心するように言う。

「ありがとうございます。雨は涙を模していて、いつだって誰かの代わりに泣いていてくれるんですよって、有村さんにはお話したんです」
「ふしぎと感謝したい気持ちになるのも、それでなのかなぁ」

 父親は感慨深そうにつぶやいて、じっと七下の雨を見つめる。有村くんがそうしていたように。

 朝晴とともに無言で見守っていると、程なくして、父親が顔をあげる。

「これ、いただけますか」
「奥さまへのプレゼントですか?」
「ええ。あいつもなかなか泣けないんじゃないかって思うんですよ。仕事も家族も思うようにならなくて。これを見たら、少しは元気になってくれるような気がするんですよ」
「私の作品が少しでもお役に立てるのでしたら幸いです」

 有村くんの父親は不器用そうに口もとをゆるめてほほえむ。

 きっと、絵画や芸術品に興味などないのだろう。身支度だってあまり気をつかわない人かもしれない。だけれど、妻のためにとおしゃれをしてやってきた。その優しさはどんなにか妻の励みになっているだろう。

 結婚するなら、パートナーを思いやれる人がいい。そう思って、文彦との結婚を決めたことをふと思い出す。

 どうして文彦は、簡単に婚約者を裏切れたのだろう。自分は優しさを向けるに値する恋人ではなかったのだろうか、と未央は過去の恋に蓋をするように、七下の雨をおさめたかぶせ箱を閉じる。

 また一つ、未央は悲しみを手放す。悲しみは誰かの喜びになり、そして誰かの悲しみを癒すのだろうと信じている。

「大切にしますよ」

 有村くんの父親はそっと紙袋を受け取ると、ハッとして、「いけない。トマト、取りに行かなきゃ」と、あわただしく帰っていく。「お気をつけて」と大きな背中を見送ると、

「切り雨さんの作品には必ず、雨が描かれてますね。さっきの話が本当なら、全部、泣いてるんですよね」

 と、七下の雨が外された壁を眺めて、朝晴がそう言う。

「物悲しいと思われます?」
「いや、全然。いやしの雨っていうのかな。穏やかな感じがするのは、八坂さんのお人柄かな」
「どのように受け取ってもらってもかまわないんですけど、井沢さんがそう思われるならうれしいです」
「俺、本当のことしか言わないんですよ」
「そうなんですね」

 くすりと笑うと、彼も目を細めて笑む。

「次は何を飾るんですか?」
「一番目立つ場所ですから、なるべく人目を引く作品を」
「どんな作品を飾るのか興味あります。また来るのが楽しみだな」
「いつでもいらっしゃってくださいね。妹さんも」
「ありがとう。……もう四時過ぎか。有村くんのお父さんがうちにも寄ってくれるって言ってたし、そろそろ帰ります」
「はい。雨が降りそうだから、お早めに」

 そう言ったとき、窓の方からパタパタと雨音が聞こえてくる。

「降り出しましたね」

 朝晴が引き戸を開けると、商店街の通りがあっという間に濡れていく。

「傘ありますか?」
「残念ながら」
「この様子だと、なかなか降りやみませんよ」

 曇天の空を見上げていた朝晴が、後ろ頭をかき、こちらへ目を移す。

「やまなくてもいいかもしれないな。八坂さんとしばらくこうして一緒にいられるなら」

 



【第一話 七下の雨 完】