『僕はあなたを傷つけた。あなたの作品を側に置けば、この罪から少しだけでも逃れられるような気がしていたけれど、注文した作品はキャンセルさせてほしい。あなたの作品はあなたの代わりにはならないから』
八坂未央は久しぶりに、別れた婚約者から届いたキャンセルメールを開いていた。
何気ない日常の中で、時折、彼を思い出す。彼はどんな気持ちでこのメールを送ってきたのだろう。罪悪感と向き合うことをやめ、関係回復をあきらめたのだろうか。それとも、やり直したいと思っていただろうか。
そして、当時に思いを巡らすことで、裏切りに傷つけられてもなお、彼への思いが残っているかどうかを、自分もまた、こうして確認しているのかもしれない。
店先に現れた人影に気づいて、未央はパソコンの画面に表示されたメールボックスを閉じた。
カウンターから立ち上がると同時に、引き戸が開いて、見知った青年が店内へ入ってくる。
「井沢さん、こんにちは」
にこやかに声をかけると、井沢朝晴はどういうわけか、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「また来たのかって顔してますね」
「そんなこと」
勘違いだと首を振ってみるものの、迷惑に感じていたのを隠しきれていなかったのだろうとバツの悪い気分になる。
「いいんですよ。無理を承知で何度もうかがってるんですから」
苦笑まじりにそう言うのだから、今日も例の件で来たのだろう。このところ、彼は頻繁に店を訪ねてきている。
「何度来ても落ち着く、素敵なお店ですね。いやぁ、幸運だな、俺は」
朝晴はほれぼれと店内を見回す。
婚約者だった財前文彦と別れた二年前、未央は都心から1時間ほどにある小さな町へ引っ越してきた。
古い街並みを残す商店街で、雨をモチーフにした切り絵を扱う『切り雨』を開いたのは、ちょうど一年前の暑い夏の日だった。
婚約が決まる前から、未央は切り絵作家として活動していた。いつかはひとり立ちしたいと考えていたが、文彦との婚約によって、自身の店を持つ夢はあきらめた。
作家として活躍する未央を応援すると彼は言ってくれていたが、大手不動産業を営む財前家の一員になれば、芸術家としての道を続けるのが難しいだろうことはわかっていた。
夢をあきらめてまで、文彦の妻になると決めた未央に対し、彼の決意は軽かったのだろうか。だから、未央を粗末に扱い、裏切ることができたのだろう。
文彦と別れた傷が癒えぬまま、見知らぬ土地へ引っ越す決意をした未央に両親は猛反対したが、常日頃お世話になっているギャラリーオーナーの協力を得て、出店までこぎつけた。
苦労して開業した店を認めてもらえるのは、未央にとってこれ以上ない賛美だった。しかしながら、どれだけ持ち上げられようとも、朝晴のお願いを叶えるつもりはない。
「何度来ていただいても、気は変わりませんよ」
「どうしても? 八坂先生の作品は町中の評判ですからね。先生に参加してもらえたら、イベントは必ず大成功します」
太鼓判を押してくれるが、どうにも乗り気になれない。
「お気持ちはありがたく思っていますけど、イベントに出す作品を今からご用意するのは難しいと思います」
月末、近所にある中学校の校内で、毎年恒例の夏祭りが行われる。商店街の活性化と学生たちの知見を広げることを目的としたイベントで、商店街に店を出す店主が各々自慢の商品を持ち寄って、中学生とその保護者に販売するというもの。
イベントの企画運営に携わる朝晴が、未央にも出店してほしいと、初めて頼みに来たのはひと月ほど前になる。
企画の趣旨には賛同できるものの、未央が普段販売している切り絵は高額なものが多く、学生相手の売り物となると、別で用意しなければならない。材料の準備は間に合ったとしても、製作時間が足りないというのが本音だ。
「先日、見せていただいたポストカードも素晴らしいデザインばかりですし、なんとかなりませんか?」
「申し訳ありません。ご期待に添えなくて」
「そうですか……。残念です」
朝晴は悲しそうに肩を落とす。ひどくがっかりしたように見せるのも手だろう。泣き落としのようにして、未央の心を動かそうとしているのだ。
初めて会ったときは笑顔が素敵な好青年という印象だったけれど、結構、しつこい熱血漢のようでもある。だからといって、無礼な感じもなくて憎めない、不思議な人だ。
「また明日、出直し……」
「何度来ていただいてもお返事は変わりませんよ。どうぞ、気をつけてお帰りください」
彼の言葉を遮って釘をさし、帰るように促したそのとき、「あのぅ……」と、開いた引き戸の奥から、男の子がひょっこりと顔を出した。
八坂未央は久しぶりに、別れた婚約者から届いたキャンセルメールを開いていた。
何気ない日常の中で、時折、彼を思い出す。彼はどんな気持ちでこのメールを送ってきたのだろう。罪悪感と向き合うことをやめ、関係回復をあきらめたのだろうか。それとも、やり直したいと思っていただろうか。
そして、当時に思いを巡らすことで、裏切りに傷つけられてもなお、彼への思いが残っているかどうかを、自分もまた、こうして確認しているのかもしれない。
店先に現れた人影に気づいて、未央はパソコンの画面に表示されたメールボックスを閉じた。
カウンターから立ち上がると同時に、引き戸が開いて、見知った青年が店内へ入ってくる。
「井沢さん、こんにちは」
にこやかに声をかけると、井沢朝晴はどういうわけか、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「また来たのかって顔してますね」
「そんなこと」
勘違いだと首を振ってみるものの、迷惑に感じていたのを隠しきれていなかったのだろうとバツの悪い気分になる。
「いいんですよ。無理を承知で何度もうかがってるんですから」
苦笑まじりにそう言うのだから、今日も例の件で来たのだろう。このところ、彼は頻繁に店を訪ねてきている。
「何度来ても落ち着く、素敵なお店ですね。いやぁ、幸運だな、俺は」
朝晴はほれぼれと店内を見回す。
婚約者だった財前文彦と別れた二年前、未央は都心から1時間ほどにある小さな町へ引っ越してきた。
古い街並みを残す商店街で、雨をモチーフにした切り絵を扱う『切り雨』を開いたのは、ちょうど一年前の暑い夏の日だった。
婚約が決まる前から、未央は切り絵作家として活動していた。いつかはひとり立ちしたいと考えていたが、文彦との婚約によって、自身の店を持つ夢はあきらめた。
作家として活躍する未央を応援すると彼は言ってくれていたが、大手不動産業を営む財前家の一員になれば、芸術家としての道を続けるのが難しいだろうことはわかっていた。
夢をあきらめてまで、文彦の妻になると決めた未央に対し、彼の決意は軽かったのだろうか。だから、未央を粗末に扱い、裏切ることができたのだろう。
文彦と別れた傷が癒えぬまま、見知らぬ土地へ引っ越す決意をした未央に両親は猛反対したが、常日頃お世話になっているギャラリーオーナーの協力を得て、出店までこぎつけた。
苦労して開業した店を認めてもらえるのは、未央にとってこれ以上ない賛美だった。しかしながら、どれだけ持ち上げられようとも、朝晴のお願いを叶えるつもりはない。
「何度来ていただいても、気は変わりませんよ」
「どうしても? 八坂先生の作品は町中の評判ですからね。先生に参加してもらえたら、イベントは必ず大成功します」
太鼓判を押してくれるが、どうにも乗り気になれない。
「お気持ちはありがたく思っていますけど、イベントに出す作品を今からご用意するのは難しいと思います」
月末、近所にある中学校の校内で、毎年恒例の夏祭りが行われる。商店街の活性化と学生たちの知見を広げることを目的としたイベントで、商店街に店を出す店主が各々自慢の商品を持ち寄って、中学生とその保護者に販売するというもの。
イベントの企画運営に携わる朝晴が、未央にも出店してほしいと、初めて頼みに来たのはひと月ほど前になる。
企画の趣旨には賛同できるものの、未央が普段販売している切り絵は高額なものが多く、学生相手の売り物となると、別で用意しなければならない。材料の準備は間に合ったとしても、製作時間が足りないというのが本音だ。
「先日、見せていただいたポストカードも素晴らしいデザインばかりですし、なんとかなりませんか?」
「申し訳ありません。ご期待に添えなくて」
「そうですか……。残念です」
朝晴は悲しそうに肩を落とす。ひどくがっかりしたように見せるのも手だろう。泣き落としのようにして、未央の心を動かそうとしているのだ。
初めて会ったときは笑顔が素敵な好青年という印象だったけれど、結構、しつこい熱血漢のようでもある。だからといって、無礼な感じもなくて憎めない、不思議な人だ。
「また明日、出直し……」
「何度来ていただいてもお返事は変わりませんよ。どうぞ、気をつけてお帰りください」
彼の言葉を遮って釘をさし、帰るように促したそのとき、「あのぅ……」と、開いた引き戸の奥から、男の子がひょっこりと顔を出した。