「環生さんもお店の鍵、持ってるんですね」

 秋也が出ていったあと、奈江は環生とともに店を出て、商店街の中にある昔ながらの喫茶店へと移動した。

 店を留守にして大丈夫かと心配だったが、環生は持っていたキーホルダーについている鍵の中から一本を選び取り、店の入り口を施錠すると、奈江を喫茶店に案内したのだった。

「俺がオーナーですから」

 コーヒーカップを口もとに運びながら、環生はすまし顔で答える。

「そうなんですか?」

 驚いてはみるが、吉沢の店なのだから、なんらふしぎな話ではないかとも思う。

「秋也さんは昔からうちでアルバイトしてたので、お店のことはすべてお任せしてるんです」
「じゃあ、環生さんはらんぷやさんにはあんまり来られないんですか?」
「興味ないですね。父が死んで、潰せばよかったんですけど」

 潰せばいいなんて、やけに淡白だ。あんまりどころか、全然ランプに興味がないのだろう。

「猪川さんは吉沢さんに頼まれて、店長をされてるんですよね?」
「母が頼んだみたいですね。それで、修理だけでもやろうかって言ってくれたんです。今は修理だけですが、秋也さんがらんぷやをやりたいなら、それはそれでいいと思ってるんです」

 環生はわずかに表情を和らげて、そう言う。

 秋也はらんぷやをやりたいのだろうか。奈江はそれを聞いたことがない。

「でも、猪川さんはアプリ開発もされてますよね」
「従業員が少ないので、戦力ですよ。秋也さんに抜けられたら大変ですが、まあ、俺がいるので」

 うっすら、環生は笑む。

 ずいぶんと自分に自信のある青年だ。奈江とは大違いだ。才能に溢れた人というのはうらやましいが、やはり、自分にはなれないし、なりたいとは思えない高慢さを感じてしまう。

「環生さんが社長になられたのは、猪川さんがらんぷやをやりたいからなんでしょうか?」
「大学卒業したら会社を譲るって、前々から言われてたんですよ。でも、らんぷやをやりたいからって感じではなかったですね。まあ、らんぷやの仕事は好きそうですし、違う仕事を視野に入れてるなら、それはそれでいいと思ってます」
「猪川さんはチャレンジするのが好きみたい」
「否定はしません。自分探しがしたいんですよ、きっと」
「自分探し?」

 奈江が首をかしげると、環生がほんの少し身を乗り出して尋ねてくる。

「社名の由来、ご存知ですか?」
「社名って、ジェンデの?」

 環生はただうなずく。

「聞いたことないです。どんな由来があるんですか?」
「秋也さんはね、悪魔なんだよ」
「悪魔……?」

 愉快そうに目を細める環生の方が、よほど悪魔に見える。そんなふうに思ってしまうほど、彼は冷淡に笑う。

「そう、悪魔。優しい悪魔なんだ、彼は。そうは思わないですか?」

 同意を求められても困る。奈江が知る秋也はほんのわずかだ。そのわずかに心惹かれた。もし、自分の知らない部分に悪魔の要素があると知ってしまったら、この心はどうなってしまうのだろう。

 考えたくない。だから、恋愛は面倒だ。心が不必要に揺さぶられて、疲労してしまう。やはり、秋也とは友人未満の関係でいい。そう逃げたくなる。

 しかし、奈江は反発せずにはいられなかった。惹かれてしまったものは仕方ない。引き返せないから、恋なのだとも思う。

「思わないです。優しい猪川さんしか知らないから」

 秋也を信じている。なぜか、そんな気持ちになる。何も知らないくせに、知ったような気になって。だけど、どうしようもない。自分では制御しきれない感情が、秋也を信じてる、彼は悪魔なんかじゃない、そう叫んでいる。

「へぇ、意外と情熱的なんですね」

 奈江はほおがカッと熱くなるのを感じた。からかわれた。わざと感情を揺さぶられた。それに気づいたから。

 面倒なのは、秋也じゃない。いま、目の前にいる環生という青年だ。

「俺は幸せになってもらいたいんです、秋也さんに」

 まぶたを伏せて、静かにそう言った環生は、たったいま、挑発的な態度を見せた彼とは別人のようだ。

 試されたのは、奈江の方。環生は今日、秋也は悪魔だから気をつけろと奈江に忠告するためではなく、彼に近づく女を監視するためにやってきた。だから、奈江のことを不必要に知りたがる。

 半端な気持ちで秋也に近づくな。環生の冷静な目はそう言っている。

「ジェントルデビル。それが、社名の由来です」
「それで、優しい悪魔……」
「秋也さんが、社名をデビルにしようとしたから、直球すぎるってからかって、ジェントルデビルを縮めて、ジェンデにしたんです」

 つまり、秋也は自分が悪魔であるという自覚があるのか。

「どうして、悪魔だなんて……」
「本当に何も知らないんですね。彼岸橋で一緒に御守りを探したのに」
「それが、何か……?」
「秋也さんはね」

 なんだろう。不安で胸が高鳴る。環生とぶつかり合う視線から逃げられない。いや、逃げちゃいけないんだ。そう思ったとき、喫茶店の入り口でカランカランと鈴が鳴る。

 奈江は環生と同時に、入り口に目を向ける。きょろきょろと辺りを見回す秋也がこちらに気づくと、不穏な空気を振り払う、優しい笑顔を見せて足早に近づいてくる。彼が悪魔だなんて信じられない。

「お待たせ。遅くなるから行こうか、早坂さん」

 環生はくすりと笑うと立ち上がる。

「まだ全然、早坂さんと話せてないんだけど」
「時間はたっぷりあったはずだけどね。近いうちに、改めて3人で食事しようか」
「絶対ですよ」

 念を押す環生に苦笑して、秋也は伝票を手に取る。そうして、「先に外出て待ってて」と、帰り支度をする奈江に告げると、ひとりでレジへと行ってしまう。

「あ、待って」

 あわてて財布を取り出して追いかけようとするが、環生にそっと腕をつかまれて引き止められる。

「また大野へ来るときに会いましょう。完成されてない作品は、見てると落ち着かないんです」

 そう言って、環生はうっすら笑む。

 まったく意味がわからない。奈江が完成されてないというのだろうか。しかし、それは否定できない。

 容姿は遥希に似ているのに、性格はまったく違う環生に、奈江は途方にくれるしかなかった。