***
「もうすぐ来ると思うから、ちょっとだけごめん、待っててくれる?」
ニットに袖を通した秋也が、『本日、午後休業』と書かれた貼り紙を手に謝ってくる。
吉沢らんぷの休業日は、商店街が休みの月曜日だけ。しかし、修理しか受けていないから、自由がきくらしい。
営業時間はあってないようなものと豪語する彼に、大野の隣町に新しく出来たショッピングセンターへ遊びに行かないか、と奈江は誘いを受けて、日曜日の今日、吉沢らんぷにやってきていた。
午前の仕事を終え、閉店準備をする彼のもとへ一本の電話が入ったのは、ついさっきのことだ。
「社長、駅に着いたところで電話してきたみたいだよ。もう、近くにいるかな」
扉に貼り紙を貼り終えると、そのまま秋也は通りの方へ顔を出す。しかし、社長の姿は見えないのか、すぐに扉を閉めて店内へ戻ってくる。
「早坂さんが来るって聞いて、久しぶりにこっちへ来る気になったみたいだ」
どうやら、奈江に会いたくて、ジェンデの社長はここへやってくるらしい。
デートの邪魔がしたいんだろう、なんて冗談半分にこぼす秋也の言葉は受け流して、奈江は尋ねる。
「あんまり、大野には来られない方なんですか?」
「大野にっていうか、基本的に出かけるのが好きじゃないから、彼」
それなのに、社長業に就いているのか。いや、仕事となるとバリバリ働くが、休日は自宅で過ごす人なのかもしれない。
「あ、来たかな」
秋也が扉に近づく。扉にはめ込まれた四角形のすりガラス越しに人影が見えるから、奈江は背筋を伸ばす。社長が誰かわからないし、初対面の男の人に会うのは緊張する。
扉が開くと、真っ先に、若者向けブランドの真っ白なスニーカーが目に飛び込んでくる。出かけない人だからか、はたまた、購入したばかりなのか、新品のように綺麗なスニーカーだ。
ゆっくりと視線をあげていくと、薄手のジャケットから伸びる指に目が止まる。形のいい爪に、透明のネイル。指先まで手入れが行き届いているとわかる清潔感がある。
どんな人なんだろう。興味が湧いて、顔をあげた奈江は息を飲む。
遥希さん……っ?
爽やかな短髪に細面の整った顔立ち。吉沢遥希によく似ている。
奈江の心臓はバクバクと音を立てる。遥希は亡くなったのだ。ここにいるはずがない。
「こちらが、早坂さん?」
秋也に尋ねるように言った青年の声で、奈江は我にかえる。
秋也と目が合った。彼は奇妙な表情をして、こちらを見ている。興奮で、ほおが赤らんでしまったのだろうか。手をあてる。大丈夫。熱くない。
「そう、彼女が早坂さん」
秋也は奈江から目を離さずにそう言うと、パッと腰のあたりに手をあてる。すぐにスラックスの後ろポケットを探ってスマホを取り出すと、「もしもし、吉沢らんぷです」と言いながら、店の奥へ行ってしまう。客からの電話だろうか。
いきなり、青年と二人きりにされて、奈江はますます緊張したが、心を落ち着けて、改めて、背の高い青年を見上げる。
「初めまして、吉沢環生です。遥希の弟って言ったら、わかりますか?」
笑顔というには程遠いが、決して冷たいわけではない、沈着な面持ちで青年は言う。
「遥希さんの弟……?」
どおりで、似ているはずだ。緊張がほんの少しほどける。
「その様子だと、知らないみたいですね」
「あっ、ごめんなさい。遥希さんに弟さんがいらっしゃるなんて知らなくて」
そんな話、一度も聞いたことがなかった。打ち解けて話ができる相手のはずだった遥希は、実のところは兄弟がいることすら話さなかったのだ。彼にとっての奈江は、犬の散歩で出会った女の子でしかなかったのだと、まざまざと思い知らされる。
「高校時代の兄さんがどんな生活してたか、俺も秋也さんに聞くまで知らなかったですから、話さなかったとしても無理ないんです。気にしないでください」
兄弟なのに知らないって、何か事情があるのだろうか。しかし、あまり表情らしい表情を作らない、ミステリアスな青年に質問を投げかける勇気はない。
それにしても、環生はいくつなのだろう。大学院を卒業したばかりというぐらいだから、25歳前後だろうか。やけに落ち着いている。
「秋也さんからあなたのことはだいたい聞いています。ずっとお会いしてみたかったです」
いったい、会ってみたいほどの何を聞くのか。奈江は戸惑いながら、おずおずと言う。
「吉沢さんは社長をされてるってうかがってます。猪川さんと一緒に、アプリを学生時代に作られたとか」
「環生でいいです。そうですね。俺は高2でした。秋也さんが面白そうなもの作ってたから、参加させてもらったんです」
「高校生? ……本当に天才なんですね」
秋也が当時、はたちだったのだから、全然おかしくない話だけれど、やはり、驚きは隠せない。
「天才って、悪くない響きですよね」
環生は大人びた目で、くすりと笑う。そこは否定したり謙遜したりはしないのだ。自他ともに認める天才なのだろう。
「早坂さん、時間ができそうです。近くにカフェがあるので、行きませんか?」
「えっ? でも……」
唐突な誘いに驚いて、秋也へ目を移す。
彼はまだ、カウンターの奥で電話をしていた。困った顔をしながら、カレンダーを指差して話し込んでいる。
「秋也さん、きっとこれから仕事ですよ。俺、あまり兄さんのことをよく知らないので、懐かしい話を聞いてみたいんです」
電話する秋也を横目に、環生はそう言う。
「わかった、すぐ行くよ」
あきらめに似た秋也の声が聞こえてくる。環生の言う通り、急な仕事が入ったようだ。
「遥希さんのことはあまり知らないんです。仲がいいっていうほどではなかったので」
「じゃあ、今の話をしましょうか」
「今の話って?」
「秋也さんから聞いてる話だけでは、どんな方なのかわからないですから。俺、早坂さんに興味があるんです」
「探究心……ですか?」
そう尋ねると、環生はおかしそうに目尻を下げ、声を立てて笑う。何だかわからないが、彼の笑いのツボにはまったようだ。
「おもしろいこと言いますね。そうかもしれない。いや、きっとそうです。俺、秋也さんから聞くだけじゃ足りなくて、あなたのことがすごく知りたいんです」
やけにはっきりとした環生の声が店内に響き渡った途端、秋也が仏頂面でやってくる。
「環生くん、悪い」
「なんですか?」
「照明の調子が悪いから見てほしいってさ。今から行ってくるよ」
ごめん、と秋也は奈江に目だけで謝る。
「どこに?」
「アルテ」
「ああ、温美さんの美容院」
「すぐ来いってさ。なるべく早く戻るよ。それまで、早坂さんを頼むよ」
柔らかな黒髪をくしゃくしゃとかき混ぜると、作業着を羽織り、秋也は急いで店を出ていった。
「もうすぐ来ると思うから、ちょっとだけごめん、待っててくれる?」
ニットに袖を通した秋也が、『本日、午後休業』と書かれた貼り紙を手に謝ってくる。
吉沢らんぷの休業日は、商店街が休みの月曜日だけ。しかし、修理しか受けていないから、自由がきくらしい。
営業時間はあってないようなものと豪語する彼に、大野の隣町に新しく出来たショッピングセンターへ遊びに行かないか、と奈江は誘いを受けて、日曜日の今日、吉沢らんぷにやってきていた。
午前の仕事を終え、閉店準備をする彼のもとへ一本の電話が入ったのは、ついさっきのことだ。
「社長、駅に着いたところで電話してきたみたいだよ。もう、近くにいるかな」
扉に貼り紙を貼り終えると、そのまま秋也は通りの方へ顔を出す。しかし、社長の姿は見えないのか、すぐに扉を閉めて店内へ戻ってくる。
「早坂さんが来るって聞いて、久しぶりにこっちへ来る気になったみたいだ」
どうやら、奈江に会いたくて、ジェンデの社長はここへやってくるらしい。
デートの邪魔がしたいんだろう、なんて冗談半分にこぼす秋也の言葉は受け流して、奈江は尋ねる。
「あんまり、大野には来られない方なんですか?」
「大野にっていうか、基本的に出かけるのが好きじゃないから、彼」
それなのに、社長業に就いているのか。いや、仕事となるとバリバリ働くが、休日は自宅で過ごす人なのかもしれない。
「あ、来たかな」
秋也が扉に近づく。扉にはめ込まれた四角形のすりガラス越しに人影が見えるから、奈江は背筋を伸ばす。社長が誰かわからないし、初対面の男の人に会うのは緊張する。
扉が開くと、真っ先に、若者向けブランドの真っ白なスニーカーが目に飛び込んでくる。出かけない人だからか、はたまた、購入したばかりなのか、新品のように綺麗なスニーカーだ。
ゆっくりと視線をあげていくと、薄手のジャケットから伸びる指に目が止まる。形のいい爪に、透明のネイル。指先まで手入れが行き届いているとわかる清潔感がある。
どんな人なんだろう。興味が湧いて、顔をあげた奈江は息を飲む。
遥希さん……っ?
爽やかな短髪に細面の整った顔立ち。吉沢遥希によく似ている。
奈江の心臓はバクバクと音を立てる。遥希は亡くなったのだ。ここにいるはずがない。
「こちらが、早坂さん?」
秋也に尋ねるように言った青年の声で、奈江は我にかえる。
秋也と目が合った。彼は奇妙な表情をして、こちらを見ている。興奮で、ほおが赤らんでしまったのだろうか。手をあてる。大丈夫。熱くない。
「そう、彼女が早坂さん」
秋也は奈江から目を離さずにそう言うと、パッと腰のあたりに手をあてる。すぐにスラックスの後ろポケットを探ってスマホを取り出すと、「もしもし、吉沢らんぷです」と言いながら、店の奥へ行ってしまう。客からの電話だろうか。
いきなり、青年と二人きりにされて、奈江はますます緊張したが、心を落ち着けて、改めて、背の高い青年を見上げる。
「初めまして、吉沢環生です。遥希の弟って言ったら、わかりますか?」
笑顔というには程遠いが、決して冷たいわけではない、沈着な面持ちで青年は言う。
「遥希さんの弟……?」
どおりで、似ているはずだ。緊張がほんの少しほどける。
「その様子だと、知らないみたいですね」
「あっ、ごめんなさい。遥希さんに弟さんがいらっしゃるなんて知らなくて」
そんな話、一度も聞いたことがなかった。打ち解けて話ができる相手のはずだった遥希は、実のところは兄弟がいることすら話さなかったのだ。彼にとっての奈江は、犬の散歩で出会った女の子でしかなかったのだと、まざまざと思い知らされる。
「高校時代の兄さんがどんな生活してたか、俺も秋也さんに聞くまで知らなかったですから、話さなかったとしても無理ないんです。気にしないでください」
兄弟なのに知らないって、何か事情があるのだろうか。しかし、あまり表情らしい表情を作らない、ミステリアスな青年に質問を投げかける勇気はない。
それにしても、環生はいくつなのだろう。大学院を卒業したばかりというぐらいだから、25歳前後だろうか。やけに落ち着いている。
「秋也さんからあなたのことはだいたい聞いています。ずっとお会いしてみたかったです」
いったい、会ってみたいほどの何を聞くのか。奈江は戸惑いながら、おずおずと言う。
「吉沢さんは社長をされてるってうかがってます。猪川さんと一緒に、アプリを学生時代に作られたとか」
「環生でいいです。そうですね。俺は高2でした。秋也さんが面白そうなもの作ってたから、参加させてもらったんです」
「高校生? ……本当に天才なんですね」
秋也が当時、はたちだったのだから、全然おかしくない話だけれど、やはり、驚きは隠せない。
「天才って、悪くない響きですよね」
環生は大人びた目で、くすりと笑う。そこは否定したり謙遜したりはしないのだ。自他ともに認める天才なのだろう。
「早坂さん、時間ができそうです。近くにカフェがあるので、行きませんか?」
「えっ? でも……」
唐突な誘いに驚いて、秋也へ目を移す。
彼はまだ、カウンターの奥で電話をしていた。困った顔をしながら、カレンダーを指差して話し込んでいる。
「秋也さん、きっとこれから仕事ですよ。俺、あまり兄さんのことをよく知らないので、懐かしい話を聞いてみたいんです」
電話する秋也を横目に、環生はそう言う。
「わかった、すぐ行くよ」
あきらめに似た秋也の声が聞こえてくる。環生の言う通り、急な仕事が入ったようだ。
「遥希さんのことはあまり知らないんです。仲がいいっていうほどではなかったので」
「じゃあ、今の話をしましょうか」
「今の話って?」
「秋也さんから聞いてる話だけでは、どんな方なのかわからないですから。俺、早坂さんに興味があるんです」
「探究心……ですか?」
そう尋ねると、環生はおかしそうに目尻を下げ、声を立てて笑う。何だかわからないが、彼の笑いのツボにはまったようだ。
「おもしろいこと言いますね。そうかもしれない。いや、きっとそうです。俺、秋也さんから聞くだけじゃ足りなくて、あなたのことがすごく知りたいんです」
やけにはっきりとした環生の声が店内に響き渡った途端、秋也が仏頂面でやってくる。
「環生くん、悪い」
「なんですか?」
「照明の調子が悪いから見てほしいってさ。今から行ってくるよ」
ごめん、と秋也は奈江に目だけで謝る。
「どこに?」
「アルテ」
「ああ、温美さんの美容院」
「すぐ来いってさ。なるべく早く戻るよ。それまで、早坂さんを頼むよ」
柔らかな黒髪をくしゃくしゃとかき混ぜると、作業着を羽織り、秋也は急いで店を出ていった。