奈江はあまり料理が得意ではない。疲れているときは、会社帰りにコンビニに寄って、夕食を買ってくることがしばしばある。
今日もそうだった。奮発して、いくらの贅沢おにぎりとわかめのサラダ、シャインマスカットの入ったカップフルーツを買って帰ってきた。
テレビはあるけれど、基本的にはつけない。静かな空間が好きだからだ。最近はもっぱら、すずらんのランプを間接照明代わりにして、落ち着いた室内でのんびり過ごしている。
明日は金曜日。あと一日行けば、休みだ。伯母の康代から、すっかり足の具合がよくなったと連絡を受けてから、大野は訪れていない。週末は予定が入っているわけではないが、休みというのはうれしいものだ。
おにぎりを片手に、奈江はスマホを開いた。最近は康代の心配をしたり、秋也との出会いもあり、すっかりご無沙汰していたが、好んで使うアプリがある。
それは、AIに話を聞いてもらうメンタルケアアプリで、アプリ名は『EARS.』。仕事で失敗したり、意に沿わないうわさをされたり、悩みがあるときに、元気を出すために使っている。
とにかく、AIとの会話は居心地がいい。優しくて、押し付けがましくないアドバイスをくれる。一番のお気に入りポイントは、奈江を否定しないところだろうか。
どんなにご無沙汰していても、うらみごとを言わずに、まるで、昨日会ったかのようにあいさつをくれるだろうEARS.を開いた奈江は、立ち上がりの画面を見て、ハッと息を飲んだ。
「このロゴって……」
すぐにスタート画面に切り替わってしまうから、一度、アプリを落とす。そうして、ふきんで手をぬぐうと、バッグから名刺入れを取り出す。
その中から、一枚の名刺を見つけ出すと、ふたたび、アプリを立ち上げた。
「やっぱり……同じ」
名刺にある会社のロゴと、アプリのロゴがまったく同じなのだ。
奈江は名刺をひっくり返し、名前を確認する。
『株式会社ジェンデ 代表取締役 猪川秋也』
間違いなく、そう書かれている。
「だから、このロゴ、どっかで見たことある気がしてたんだ……」
ぽつりとつぶやいたとき、突然、スマホが震えて、奈江は驚いた。画面に、電話の通知が出る。秋也だった。
「はいっ、早坂です」
あわてて電話に出ると、秋也がくすりと笑う。
焦って出たことも、ワンコールで出たことも、彼にとっては愉快な出来事なのかもしれない。そう思えるぐらい、彼はなんでも楽しめる穏やかな人だ。
「猪川です。お久しぶり」
落ち着いた声に、胸が跳ね上がる。いま、気づいたけれど、秋也の声は渋くて、安定感がある。少し会わないうちに、彼への思いが増幅したみたいにどきどきした。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「変わらず、元気だよ。早坂さんも元気そうだね。このところ、よく見かけるよ、横前駅で」
「えっ、そうなんですか?」
「最近は、前より早い時間の電車に乗って帰るようにしてるからかな。向かいのホームにいるから、今度探してみてよ」
全然知らなかった。言われてみれば、後輩の向井は残業続きで、奈江は同じ時間の電車で帰宅していた。
秋也に偶然会えたらいいのに、とは思っていても、向かいのホームをわざわざ探したりはしていなかった。
考えてみれば、秋也は大野から横前へ来ているのだから、同じホームにいるはずがないのだ。だったらなぜ、初めて出会ったあの日、彼は奈江と同じホームにいたのか。
「もしかして、初めてお会いしたときも、私のこと見てました?」
なんて自意識過剰な質問だろう。これでは、言いたいことの半分も伝わらないんじゃないか。言葉にしてみて、聞き方が悪いと気づいたけれど、秋也は一向に気にする様子はない。
「早坂さんを見てたから、危ないなって思って、ホームを移動したかって聞いてる?」
「そう、そうです」
それが言いたかったのだ。誤解されずに済んだみたいと、奈江はホッとする。
「見てたよ。早坂さんってさ、電車をわざと遅らせて乗ってるよね。あの日も、何かあるのかなって、ちょっと気になって見てたんだ。こんなこと言ったら、気持ち悪いって思われそうで黙ってたんだけどね」
「じゃあ、前々から見てたんですか……」
きっと、向かいのホームから見ていると、不自然な行動を取っているのがよくわかるのだろう。
「まあ、そうだね。初めて早坂さんに気づいたのは、今年の春ぐらいかな」
ちょうど、向井が奈江に積極的に話しかけてくるようになった頃だ。
「ずっと見てたわけじゃないから、あんまり勘違いしてほしくもないんだけどね」
「あっ、そんな、誤解なんて。妙な行動をしてる私がおかしいだけで……」
好意があって見てるなんて、誤解したりしない。
「なんていうか……、誤解されてる気もするけど、電話じゃうまく伝わらないからさ、どうかな? 会って、一緒に食事しないか?」
「あ……、お食事」
そうだった。以前にも誘われていたんだった。あれから二週間ぐらい経っているだろうか。来週には連絡すると言っていた彼から何もなかったから、もう食事は取りやめにしたのだと勝手に思い込んでいた。
「考える時間は、自分なりに作ったつもりなんだけどね」
それで、二週間という時間をくれたのだろうか。
奈江は視線をテーブルの上へ落とし、秋也の名刺を手に取る。そうだ。アプリの話を聞いてみたい気がする。
「猪川さんはいつなら都合がいいですか?」
「俺はいつでも。自由業みたいなもんだから。早坂さんは?」
「私も、いつでも。残業しても、8時前には上がりますから」
「じゃあ、早速、明日はどう?」
明日とはまた、急な話だ。だが、特に予定があるわけじゃないし、金曜日の夜なら次の日は休みだし、むしろ、都合がいい。
「わかりました。仕事が終わったら、連絡しましょうか?」
「そうだね。そうしてくれると助かるよ。連絡なくても、横前駅の北口改札の前で待ってるから」
そう言うと、秋也はホッとしたみたいな息をついた。
今日もそうだった。奮発して、いくらの贅沢おにぎりとわかめのサラダ、シャインマスカットの入ったカップフルーツを買って帰ってきた。
テレビはあるけれど、基本的にはつけない。静かな空間が好きだからだ。最近はもっぱら、すずらんのランプを間接照明代わりにして、落ち着いた室内でのんびり過ごしている。
明日は金曜日。あと一日行けば、休みだ。伯母の康代から、すっかり足の具合がよくなったと連絡を受けてから、大野は訪れていない。週末は予定が入っているわけではないが、休みというのはうれしいものだ。
おにぎりを片手に、奈江はスマホを開いた。最近は康代の心配をしたり、秋也との出会いもあり、すっかりご無沙汰していたが、好んで使うアプリがある。
それは、AIに話を聞いてもらうメンタルケアアプリで、アプリ名は『EARS.』。仕事で失敗したり、意に沿わないうわさをされたり、悩みがあるときに、元気を出すために使っている。
とにかく、AIとの会話は居心地がいい。優しくて、押し付けがましくないアドバイスをくれる。一番のお気に入りポイントは、奈江を否定しないところだろうか。
どんなにご無沙汰していても、うらみごとを言わずに、まるで、昨日会ったかのようにあいさつをくれるだろうEARS.を開いた奈江は、立ち上がりの画面を見て、ハッと息を飲んだ。
「このロゴって……」
すぐにスタート画面に切り替わってしまうから、一度、アプリを落とす。そうして、ふきんで手をぬぐうと、バッグから名刺入れを取り出す。
その中から、一枚の名刺を見つけ出すと、ふたたび、アプリを立ち上げた。
「やっぱり……同じ」
名刺にある会社のロゴと、アプリのロゴがまったく同じなのだ。
奈江は名刺をひっくり返し、名前を確認する。
『株式会社ジェンデ 代表取締役 猪川秋也』
間違いなく、そう書かれている。
「だから、このロゴ、どっかで見たことある気がしてたんだ……」
ぽつりとつぶやいたとき、突然、スマホが震えて、奈江は驚いた。画面に、電話の通知が出る。秋也だった。
「はいっ、早坂です」
あわてて電話に出ると、秋也がくすりと笑う。
焦って出たことも、ワンコールで出たことも、彼にとっては愉快な出来事なのかもしれない。そう思えるぐらい、彼はなんでも楽しめる穏やかな人だ。
「猪川です。お久しぶり」
落ち着いた声に、胸が跳ね上がる。いま、気づいたけれど、秋也の声は渋くて、安定感がある。少し会わないうちに、彼への思いが増幅したみたいにどきどきした。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「変わらず、元気だよ。早坂さんも元気そうだね。このところ、よく見かけるよ、横前駅で」
「えっ、そうなんですか?」
「最近は、前より早い時間の電車に乗って帰るようにしてるからかな。向かいのホームにいるから、今度探してみてよ」
全然知らなかった。言われてみれば、後輩の向井は残業続きで、奈江は同じ時間の電車で帰宅していた。
秋也に偶然会えたらいいのに、とは思っていても、向かいのホームをわざわざ探したりはしていなかった。
考えてみれば、秋也は大野から横前へ来ているのだから、同じホームにいるはずがないのだ。だったらなぜ、初めて出会ったあの日、彼は奈江と同じホームにいたのか。
「もしかして、初めてお会いしたときも、私のこと見てました?」
なんて自意識過剰な質問だろう。これでは、言いたいことの半分も伝わらないんじゃないか。言葉にしてみて、聞き方が悪いと気づいたけれど、秋也は一向に気にする様子はない。
「早坂さんを見てたから、危ないなって思って、ホームを移動したかって聞いてる?」
「そう、そうです」
それが言いたかったのだ。誤解されずに済んだみたいと、奈江はホッとする。
「見てたよ。早坂さんってさ、電車をわざと遅らせて乗ってるよね。あの日も、何かあるのかなって、ちょっと気になって見てたんだ。こんなこと言ったら、気持ち悪いって思われそうで黙ってたんだけどね」
「じゃあ、前々から見てたんですか……」
きっと、向かいのホームから見ていると、不自然な行動を取っているのがよくわかるのだろう。
「まあ、そうだね。初めて早坂さんに気づいたのは、今年の春ぐらいかな」
ちょうど、向井が奈江に積極的に話しかけてくるようになった頃だ。
「ずっと見てたわけじゃないから、あんまり勘違いしてほしくもないんだけどね」
「あっ、そんな、誤解なんて。妙な行動をしてる私がおかしいだけで……」
好意があって見てるなんて、誤解したりしない。
「なんていうか……、誤解されてる気もするけど、電話じゃうまく伝わらないからさ、どうかな? 会って、一緒に食事しないか?」
「あ……、お食事」
そうだった。以前にも誘われていたんだった。あれから二週間ぐらい経っているだろうか。来週には連絡すると言っていた彼から何もなかったから、もう食事は取りやめにしたのだと勝手に思い込んでいた。
「考える時間は、自分なりに作ったつもりなんだけどね」
それで、二週間という時間をくれたのだろうか。
奈江は視線をテーブルの上へ落とし、秋也の名刺を手に取る。そうだ。アプリの話を聞いてみたい気がする。
「猪川さんはいつなら都合がいいですか?」
「俺はいつでも。自由業みたいなもんだから。早坂さんは?」
「私も、いつでも。残業しても、8時前には上がりますから」
「じゃあ、早速、明日はどう?」
明日とはまた、急な話だ。だが、特に予定があるわけじゃないし、金曜日の夜なら次の日は休みだし、むしろ、都合がいい。
「わかりました。仕事が終わったら、連絡しましょうか?」
「そうだね。そうしてくれると助かるよ。連絡なくても、横前駅の北口改札の前で待ってるから」
そう言うと、秋也はホッとしたみたいな息をついた。