ランプを購入した奈江は、自宅アパートへ戻るとすぐ、丁寧に梱包された箱からランプを取り出した。
早速、目覚まし時計しか乗っていない、ベッドのサイドテーブルにランプを乗せ、スイッチを入れる。
淡い黄昏色の光が、ほんのりと優しく室内に灯る。ベッドに上半身を横たえ、奈江はぼんやりと光を見つめた。
秋也と出会ってから、淡々とした毎日に変化が生まれたように思う。しかし、その変化は奈江を疲れさせる。
心地よい疲れを感じながら、そっとまぶたを閉じる。目を閉じていても感じる黄昏色の光が、秋也の優しさのように感じられる。
このランプがあれば、秋也がずっとそばにいてくれるような安心感と同等のものを感じて、毎晩疲れた心を癒すことができるだろう。
秋也に惹かれている。それはもう、迷いのない気持ちとわかっているけれど、この思いを叶えたいとまでは思わない。好きでいられるなら、それでいい。心を傷つけないためには、胸に秘めているだけでいい。
いつだって奈江は、楽しむことよりも傷つかないことを優先してきた。だから、もう二度と秋也に会えなくてもかまわない。大野で秋也と過ごした思い出は、優しい思い出になればいいのだから。遥希との思い出のように。
うとうとしかけた奈江は、まぶたをパッと開いた。遠くで、スマホの鳴る音が聞こえたからだ。上体を起こし、バッグを探す。ローテーブルの上に置いたままだ。
急いでバッグからスマホを取り出す。秋也からの電話だ。ランプのことで何かあったのだろうか。とっさにそう思って、電話に出る。
「もしもし、猪川さん?」
「ああ、早坂さん。いま、大丈夫?」
「はい。さっき、帰ってきたので。何かありましたか?」
「早坂さんが帰ったあとにすぐ、賢太が来てくれてさ。指輪、渡しておいたよ」
どうやら、報告の電話のようだ。
「そうだったんですか。驚いてました?」
「驚くってより、やっぱり、あの女の子が助けてくれたんだって喜んでたよ。確証が得られてよかったんだろうな。早坂さんのおかげだって、お礼伝えてくれって」
「そんな、私は何も」
賢太も律儀な青年だ。恐縮してしまう。
「何も……、か。でもさ、そうやって言うけど、早坂さんが生きてるだけで誰かの助けになってることもあるんだと思うよ」
優しい秋也が奈江をさとす。
「そう……でしょうか」
「そうだよ。少なくとも、俺はそう思うよ」
あまり、そんなふうに考えたことはなかった。何もしてないと嘆く日々の中で、大した努力もしてこれなかった。そんな自分を認めてくれる人がいるんだと思うと、そわそわしてしまう。
「あの、ありがとうございます」
「お礼を言うのは、こっちだから。ああ、そうだ。早坂さんって、いつもあの電車で帰ってるの?」
急に話題を変えて、秋也がそう尋ねてくる。
「あの電車……?」
「ほら、前に横前駅で会ったときの」
「あっ、そうですね……。猪川さんにお会いしたときはいつもより少し遅い電車でしたけど、その前後でまちまちなんです」
後輩に会わないように時間を変えてるなんて言えないが、うそではない。
「そっか。じゃあ、8時ぐらいなら横前駅で会える? 今度、会社帰りに食事でも行かないか?」
「えっ、食事?」
「俺、いつも仕事が終わって帰ると、横前に着くのは8時ぐらいになるんだよ」
そうなのか。毎日のように同じ時間帯に横前駅にいるのに会えないのは、少しの時間ですれ違っているのかもしれない。
「いい?」
「あ……、どうしようかな」
男の人から食事の誘いを受けるなんて、記憶する限り、初めてじゃないだろうか。いつも、自宅アパートと会社を往復するだけの生活で、おいしいお店も知らないし、急な誘いに困惑してしまう。
「俺は、また早坂さんに会いたいなって思ってるんだけど」
そう言われたら、自分だって秋也に会いたい。だけれど、同じ温度で会いたいと思っているわけではない。
会えば、ますます秋也に心惹かれるかもしれない。でも、彼には恋心なんてないのだし、友情を育むのは難しいように思う。
「迷惑?」
「迷惑ではないんですけど……」
「嫌じゃないなら、食事だけでも」
迷惑でも嫌でもない。ただちょっと戸惑っているだけだ。
「少し……」
「ん?」
「考えさせてください」
情けない。好きな人からのお誘いなんだから、喜んで受けたらいいのに、消極的になってしまうなんて。
ほんの少しの沈黙のあと、秋也は快活に笑った。
「早坂さんらしいね。わかった。来週、また連絡するよ。秋になる頃には会えると嬉しいよ」
気長に待つ、と言ってくれたのだろう。そんな気遣いを感じながら、奈江はそっと電話を切る。
秋はもうすぐそこまで来ている。季節が変わっても、秋也の心が変わらなければ、連絡があるだろう。そのときまでに、心を固めることができているだろうか。
本当に、優柔不断で臆病で、情けないよね。
心の中でつぶやいて、目をあげる。すずらんのランプが、奈江の心を労わるように、優しく室内を照らしていた。
【第一話 完】