あの日は、ゴールデンウィーク明け初日の登校日だった。

 越智賢太はそう切り出した。

 いつもは近所に住む5年生の男の子と一緒に帰宅するのに、あの日はその子が休みで、賢太はひとりだった。

 彼岸橋の交差点は危ないから気をつけるように。それは小学生になる前から大人たちに口酸っぱくして言われていたが、いくら気をつけていても、ヒヤッとする場面は何度か見かけたことがあった。

 だから、賢太はいつも慎重にしていたつもりだ。しかし、あの日はゴールデンウィーク明けで、多少疲れがあってぼんやりしていた。

 伏し目がちにとぼとぼと歩き、彼岸橋の交差点に差し掛かったとき、ランドセルを引っ張られるような感じがして、賢太はゆっくり振り返った。

『誰?』

 賢太は尋ねた。ランドセルにつけられた交通安全の御守りを、ひとりの女の子がしっかりつかんでいるからだ。

 おさげ髪の女の子は賢太よりも背が低く、赤いランドセルを背負っていた。水色やピンク、紫に茶色と、女の子たちはさまざまな色のランドセルを使っている。どちらかというと、賢太の周りでは赤は珍しい。どこの子だろう。記憶を辿るけれど、どうにも知らない子だ。

 女の子はにこにこしているだけで、何も言わない。しかし、ひもがちぎれそうなほどの強さで、御守りを引っ張っている。

『離してよ』

 賢太が言うと、女の子は交差点に向かって、パッと駆け出した。

『あっ、危ないっ』

 賢太は手を伸ばした。しかし、女の子の腕に触れようとしたのに空を切り、勢い余って地面に倒れ込んだ。同時に、目の前に車が飛び出してきて、女の子が跳ね飛ばされ……と思ったのに、気づくと、女の子は交差点の向こうで、賢太に向かって手を振っていた。その手には御守りが握られている。

 ハッと振り返ると、ランドセルの御守りがない。もう一度、交差点の向こうを見ると、もう女の子はいなかった。

『大丈夫っ? けがはないっ?』

 急ブレーキをかけて停まった車から、血相を変えたおばさんが飛び出してきた。おばさんは女の子に気づかなかったみたいで、賢太の心配ばかりしていた。

『足、けがしてるじゃないっ』

 見ると、ひざを少しすりむいていた。しかし、それ以外、けがはなかった。もし、女の子が御守りを引っ張ってくれていなかったら、車に轢かれていたかもしれないと思った。

「彼岸橋の交差点でものがなくなるうわさがあることは知ってました。小学生の間では有名な話だったから。女の子の幽霊が持っていっちゃうんだって」

 賢太は真面目な表情でそう言う。

「女の子の幽霊……」
「もうずいぶん前に、あの交差点で小学1年生の女の子が事故で亡くなったらしいです。もしかしたら、俺が見たのはその女の子で、ものがなくなるのは、交通事故から俺たちを守ってくれてるのかなって思ったんです。だから、あの日見たことは言わないでおこうって決めたんです」

 冗談でも嘘でもないのだろう。賢太は自分の目で見たことをただ信じていて、それを黙っていただけだ。

「だから、父から御守りを探してくれてる子がいるよって聞いたときは、どうしようって思ってたんだけど、何も言えなくてすみませんでした」

 賢太はスッと頭を下げる。

「そんな、謝らなくてもいいです。もしかしたら、遥希さんもうわさを知ってて、見つからないって思ってたかもしれないですから」

 もしかしたら、賢太の父だって、言わないだけで、うわさは知っていたかもしれない。

「猪川さんも、知ってたんですよね?」

 奈江は尋ねた。彼から言ったのだ、伯母に。彼岸橋でものがなくなるうわさを知らないか? と。

「俺はものがなくなるうわさがあるって聞いたことがあるだけなんだ。そうだな……、遥希から聞いたんだろう」
「遥希さんから?」
「中学のときに、俺は大野に引っ越してきたんだ。最初に話しかけてくれたのが遥希で、俺の面倒をよく見てくれたよ」

 意外だ。どちらかというと、面倒見がいいのははつらつとした秋也で、穏やかな遥希をリードしていたように思っていた。

「じゃあ、あの交差点のうわさを詳しくは知らなかったんですね」
「この間、早坂さんの伯母さんから聞いて知ったよ。中学になれば、ああいううわさをするやつはほとんどいないしな」

 それはそうかもしれない。小学生が面白半分に話すだけのうわさだ。康代も子どもたちの悪気ないうわさだと言っていた。

「たぶん、大野の人たちは知ってても言わないんじゃないかな。みんな、見守ってるんだ。そういう優しい町だと思う」

 悲しみの中に優しさを感じるようなまなざしをして賢太はそう言うと、手の中の御守りを見つめる。

 御守りをなくした賢太の心を救うために、父である越智正行は新しい御守りを授かった。では、正行の心を救うのは誰だろう。愛する妻と一生の愛を誓った証である指輪をなくした彼の心を。

 奈江は一生の愛なんて信じていない。父の愚痴ばかり言う母を見て育つうちに、愛は冷めるものだと知ってしまったからかもしれない。

 だけれど、そうじゃない愛があるかもしれない。そう信じたくなったのは、賢太が純粋でまっすぐな目をした青年だからかもしれない。

「まだお父さんは指輪を探してるのかな?」

 賢太はまぶたを伏せて、首をゆるりと振る。

「探してるかはわからないけど、仏壇に向かってよく『ごめんな』って言ってるから、心残りはあるかもしれない」