***
「賢太がさ、明日、吉沢らんぷに来てくれることになったから、早坂さんもおいでよ」
そう秋也から電話があったのは、金曜日の夜だった。
仕事に疲れて帰宅したばかりだった奈江は、電話に出るのも億劫だったのに、秋也の声を聞いたら、ふしぎと胸が高鳴るのを感じていた。しかし、それ以上に彼の声は優しくて、癒される。
どういうわけか、らんぷやで見たビンテージランプの光が思い出された。彼はまるで、黄昏だ。穏やかで優しい黄昏色のぬくもりを持った人。そばにいると感じるだけで癒されるって、本当にあるのだと思う。
初めて秋也に出会ったあの日以降、横前駅で彼を見かけた日はない。あの日はたまたま横前駅にいたのだろうか。もう一度会えたらいいのに、と日々を過ごしていることも、胸の内だけの出来事だ。
「早坂さん、聞こえてる? 来られそう?」
返事をしないから、秋也が困ったように尋ねてくる。
「あっ、はい。行けますっ」
あわてて言うと、彼はくすくす笑った。
ぼんやりしてたって気づかれたのだろう。至らないところを見ても、あきれたりしないで楽しんでくれる彼は、奈江にとって貴重な存在だ。
「じゃあ、午後2時に吉沢らんぷで」
翌日も、前日の最高気温を更新しそうなほど暑かった。残暑だというのに、暑い日が続いている。
来月には、秋の風が吹くだろうか。その頃には康代の足も治るだろう。困りごとがないのに頻繁に訪ねれば、彼女も気をつかう。気をつかわせるのが苦手な奈江も、足が遠のくだろう。
次に大野の駅を降りるのは、いつになるだろう。秋也に会うのも、今日が最後かもしれない。彼に対して、どんなに好印象を持とうとも、奈江は自分の魅力をわかっていた。
友人も恋人も、その存在を継続させるのは、自分には無理だろう。一人がいい。心を平静に保ち、楽しいことがない代わりに、つらいこともない日常が自分にはお似合いだ。
約束の時間より少し早く、吉沢らんぷを訪ねると、店内では、作業着姿の秋也と、爽やかな印象の青年が作業台を挟んで立ち話をしていた。
奈江はすぐに、青年が越智賢太だとわかった。御守りを探していたおじさんによく似ていたからだ。
「早坂さん、いらっしゃい。こいつが、賢太。やっぱり、彼岸橋で御守りなくしたの、賢太だったよ。で、当時、御守りを探してた遥希と、もう一人の高校生が、彼女」
秋也に紹介されて、お互いに頭を下げ合うと、賢太がにこやかな笑顔を見せる。10年前に小学3年生だった彼は今、大学生だろうか。上品なサマーニットがよく似合う、落ち着いた雰囲気の男の子だ。
「はじめまして、越智です。父から話は聞いてたんですけど、まさか、本当にお会いできるなんて思ってなかったです」
「あ、早坂です。私も、あの御守りを探してたのが市長さんだなんて知らなくて」
「あのときは市長じゃなかったんですよ。むしろ、遥希さんとあなたに出会って、市長になろうと思ったみたいです」
物怖じしない、はっきりと話す聡明な子で、奈江は気後れしてしまうが、あまりにも優しい雰囲気のある子だから、思ったよりも話しやすくて警戒心はすぐにとける。
「遥希さんと私?」
「なくした御守りを、あんなに真面目に必死に探してくれる子が大野にいるんだって感動したらしいです。この子たちの暮らしやすい街づくりするんだって、一般企業勤めの父が立候補するって言ったときは驚いたって、今でも祖母が話すんですよ」
「へえ。すごい影響力だな、早坂さん」
秋也がにやにやする。
「すごくはないです」
御守り探しをあきらめなかったのは、遥希の方だ。奈江は彼に合わせていただけで。あわてて首を振るが、賢太も朗らかに笑む。
「そんなことないですよ。俺、ずっと謝らないとと思ってて」
「謝らないとって、何を?」
尋ねると、彼は途端に申し訳なさそうに眉をさげる。
「御守り、見つかるはずがないんです。彼岸橋で落としたわけじゃないから」
「どういう……?」
「話したって誰も信じないと思ったし、言っちゃいけないと思って、ずっと黙ってました」
「彼岸橋でなくしたんじゃないのか?」
秋也も驚いた様子で言う。賢太は複雑そうな表情でうなずき、ポケットに手を突っ込む。そうして取り出したのは、紺色の御守りだ。
「なくした後、父が宮原神社でもう一度、もらってきてくれた御守りです」
「当時、おじ……越智さんが見せてくれました」
「これがあるから、俺も父が御守りを探してるなんて知らなかった」
「じゃあ……、もしかして、指輪のことは?」
「今、秋也さんから聞いて、初めて知りました。当時は母の結婚指輪が入ってたなんて知らなかった。だから、なくした御守りのことは黙ってれば大丈夫だって思ってた」
「黙ってれば大丈夫?」
賢太は髪をかきあげると、わずかにまぶたを伏せたが、すぐにまっすぐな目で奈江を見つめた。
「あの日に見た女の子のことは、これから先もずっと誰にも話すつもりはなかったんですけど、秋也さんからあなたがまだ御守りを探してるって聞いて、今日は話すつもりで来ました」
「女の子……」
「はい。あの女の子がいたから、俺は事故に遭わずにすんだんです。信じてもらえるかはわからないけど」
「賢太がさ、明日、吉沢らんぷに来てくれることになったから、早坂さんもおいでよ」
そう秋也から電話があったのは、金曜日の夜だった。
仕事に疲れて帰宅したばかりだった奈江は、電話に出るのも億劫だったのに、秋也の声を聞いたら、ふしぎと胸が高鳴るのを感じていた。しかし、それ以上に彼の声は優しくて、癒される。
どういうわけか、らんぷやで見たビンテージランプの光が思い出された。彼はまるで、黄昏だ。穏やかで優しい黄昏色のぬくもりを持った人。そばにいると感じるだけで癒されるって、本当にあるのだと思う。
初めて秋也に出会ったあの日以降、横前駅で彼を見かけた日はない。あの日はたまたま横前駅にいたのだろうか。もう一度会えたらいいのに、と日々を過ごしていることも、胸の内だけの出来事だ。
「早坂さん、聞こえてる? 来られそう?」
返事をしないから、秋也が困ったように尋ねてくる。
「あっ、はい。行けますっ」
あわてて言うと、彼はくすくす笑った。
ぼんやりしてたって気づかれたのだろう。至らないところを見ても、あきれたりしないで楽しんでくれる彼は、奈江にとって貴重な存在だ。
「じゃあ、午後2時に吉沢らんぷで」
翌日も、前日の最高気温を更新しそうなほど暑かった。残暑だというのに、暑い日が続いている。
来月には、秋の風が吹くだろうか。その頃には康代の足も治るだろう。困りごとがないのに頻繁に訪ねれば、彼女も気をつかう。気をつかわせるのが苦手な奈江も、足が遠のくだろう。
次に大野の駅を降りるのは、いつになるだろう。秋也に会うのも、今日が最後かもしれない。彼に対して、どんなに好印象を持とうとも、奈江は自分の魅力をわかっていた。
友人も恋人も、その存在を継続させるのは、自分には無理だろう。一人がいい。心を平静に保ち、楽しいことがない代わりに、つらいこともない日常が自分にはお似合いだ。
約束の時間より少し早く、吉沢らんぷを訪ねると、店内では、作業着姿の秋也と、爽やかな印象の青年が作業台を挟んで立ち話をしていた。
奈江はすぐに、青年が越智賢太だとわかった。御守りを探していたおじさんによく似ていたからだ。
「早坂さん、いらっしゃい。こいつが、賢太。やっぱり、彼岸橋で御守りなくしたの、賢太だったよ。で、当時、御守りを探してた遥希と、もう一人の高校生が、彼女」
秋也に紹介されて、お互いに頭を下げ合うと、賢太がにこやかな笑顔を見せる。10年前に小学3年生だった彼は今、大学生だろうか。上品なサマーニットがよく似合う、落ち着いた雰囲気の男の子だ。
「はじめまして、越智です。父から話は聞いてたんですけど、まさか、本当にお会いできるなんて思ってなかったです」
「あ、早坂です。私も、あの御守りを探してたのが市長さんだなんて知らなくて」
「あのときは市長じゃなかったんですよ。むしろ、遥希さんとあなたに出会って、市長になろうと思ったみたいです」
物怖じしない、はっきりと話す聡明な子で、奈江は気後れしてしまうが、あまりにも優しい雰囲気のある子だから、思ったよりも話しやすくて警戒心はすぐにとける。
「遥希さんと私?」
「なくした御守りを、あんなに真面目に必死に探してくれる子が大野にいるんだって感動したらしいです。この子たちの暮らしやすい街づくりするんだって、一般企業勤めの父が立候補するって言ったときは驚いたって、今でも祖母が話すんですよ」
「へえ。すごい影響力だな、早坂さん」
秋也がにやにやする。
「すごくはないです」
御守り探しをあきらめなかったのは、遥希の方だ。奈江は彼に合わせていただけで。あわてて首を振るが、賢太も朗らかに笑む。
「そんなことないですよ。俺、ずっと謝らないとと思ってて」
「謝らないとって、何を?」
尋ねると、彼は途端に申し訳なさそうに眉をさげる。
「御守り、見つかるはずがないんです。彼岸橋で落としたわけじゃないから」
「どういう……?」
「話したって誰も信じないと思ったし、言っちゃいけないと思って、ずっと黙ってました」
「彼岸橋でなくしたんじゃないのか?」
秋也も驚いた様子で言う。賢太は複雑そうな表情でうなずき、ポケットに手を突っ込む。そうして取り出したのは、紺色の御守りだ。
「なくした後、父が宮原神社でもう一度、もらってきてくれた御守りです」
「当時、おじ……越智さんが見せてくれました」
「これがあるから、俺も父が御守りを探してるなんて知らなかった」
「じゃあ……、もしかして、指輪のことは?」
「今、秋也さんから聞いて、初めて知りました。当時は母の結婚指輪が入ってたなんて知らなかった。だから、なくした御守りのことは黙ってれば大丈夫だって思ってた」
「黙ってれば大丈夫?」
賢太は髪をかきあげると、わずかにまぶたを伏せたが、すぐにまっすぐな目で奈江を見つめた。
「あの日に見た女の子のことは、これから先もずっと誰にも話すつもりはなかったんですけど、秋也さんからあなたがまだ御守りを探してるって聞いて、今日は話すつもりで来ました」
「女の子……」
「はい。あの女の子がいたから、俺は事故に遭わずにすんだんです。信じてもらえるかはわからないけど」