茹だるような暑さの中で、自転車を走らせていた。

この土手をしばらく進むとやがて大きな橋と交差する。その橋を渡れば街に出ることができる。街まで行けば、図書館も喫茶店もある。

そういった場所で本を読むのが、ここ最近の日課であり、娯楽だ。

夏休み。
健全な高校生ならその大半が部活動に費やすであろうその時間を、帰宅部の僕は贅沢に満喫していた。

真夏の日差しを全身に浴びながら、いつものように土手を駆け抜けていく。風を切るように自転車を走らせても、汗は噴き出すばかりだ。こういう時は涼しい場所を想像して、ひたすら堪える。

ようやく橋に近づいたところで、ふと橋梁下の日陰になっている空間が目についた。あの日陰で本を読むのもたまには良いかもしれない。

いち早く涼しい場所へ行きたかった僕は、すぐさま河川敷まで降りて橋の下に潜り込んだ。

辺りに人の気配は一切なく、本を読むには申し分ない静けさと涼しさが提供されていた。近くを流れる大きな川の水面が橋梁下に反射して、僕の頭上で幻想的に揺蕩っている。

我ながら素敵な場所を見つけてしまったと思った。本を読む前から自分の気持ちがすでに昂っているのが分かる。最高の気分のまま、優雅に鞄から本を取り出す。

本を読もうと、ページを捲る、その時だった。

見知らぬ女性が、僕の真横でこちらをじっと見つめていたのだ。

「うわぁあああああああああああああ!!」

僕は驚いた。急に現れた彼女の存在にも、そしてなぜかその彼女に叫ばれたことにも。僕は驚くあまり声も出なかった。

全身の硬直が解けると同時に、僕の口から声がこぼれる。

「死ぬほどびっくりしました……。ていうか、なんで貴方が驚いているんですか」

「もしかして君、私のこと……見えるの?」

「……はい?」


****

小山香澄と名乗るその彼女は、自らを幽霊だと主張した。
連日の猛暑に頭をやられたちょっとヤバい奴だと直感で思ったが、僕に触れようと彼女が手を伸ばすと、彼女の手は何の感覚もなく僕の腕を貫通してみせた。
漫画やアニメで描かれるような不可思議な光景をいざ現実で目の当たりにすると、人間は己の理解力の無力さにただ黙るしかなくなるのだと、僕はその時初めて知った。

「ほら、言ったでしょ?私、気付いたら幽霊になってたんだよね。それにしても、悠斗は霊感が強いね」

霊感があるという自覚はこれまでの人生で全く感じたことはなかったが、ここまではっきり見えているのなら、単に幽霊とそうでないものの区別が分からなかっただけなのかもしれない。

「小山さん……いや、香澄に言われて初めて霊感があるって気付いたよ」

やけにフレンドリーなこの幽霊は、初対面にも関わらず互いを下の名前で呼ぶことを強いた。それは僕と彼女の年齢が同じということと、偶然にも僕の苗字も小山であることを彼女に知られたからだ。

「私、自分の年齢と名前以外、何にも思い出せないんだよね」

そう語る彼女の顔は決して暗い表情ではなく、むしろどこか楽観的な雰囲気さえ醸し出していた。

「ところでさ、何読んでたの?」

彼女の言葉で、僕は本来ここに本を読みに来たのだと思い出した。
彼女は本に触れないので、ブックカバーを取り外して彼女に表紙を見せてあげる。

『河川敷の女の子』。そう題された小説は、主人公が思いを馳せていた女の子が物語の中盤で川に飛び込んで死んでしまう内容だった。途方に暮れた主人公は、喪失を抱えながら亡き彼女の気配を求めて河川敷を彷徨う生活を続ける。僕が読んだのはここまでだった。

「何それ。ひょっとして悠斗は私を探しにきたの?ウケる!」

物語の説明をしている途中で彼女ならそう言ってくるだろうと薄々思っていたが、僕は初対面の彼女に思いを馳せているわけでもないし、この河川敷でこの本を読もうと思ったのもただの気まぐれに過ぎないので、彼女の発言は華麗にスルーする。

「ところでさ、悠斗にお願いがあるんだけど」

急に彼女が顔色を変えて僕に尋ねる。

「な、なに……?」

いやな予感がした。
幽霊が見える僕、つまり人間と彼女の橋渡しができる僕という存在に何かをお願いをするということは、彼女の出自やこれまでの生活(その他諸々)を探らせられるのではないかと、反射的に身構えてしまった。彼女に全く興味がないというわけではなかったが、貴重な夏休みを費やしてまで初対面の人の人生探しを手伝うという壮大な人助けをする気には何となくなれなかった。

つい面倒くさそうな顔で反応してしまった僕に、彼女は笑いながらお願いごとをした。

「ここには何もないからさ、今日持ってきてる本みたいに、何かしらの娯楽を私に持ってきてほしい!本当に退屈すぎて死にそう。いや、死んでるけど」

予想外のお願いごとに思わず拍子抜けしてしまった僕は、彼女の自虐は華麗にスルーして、仕方なく答える。

「それくらいなら、いいけど。その代わり、僕が持ってくるものに文句とか言うなよ」

「さすが!持つべき友とは悠斗のことだね」

知ったような口を利く初対面の幽霊との夏休みが、この日から始まった。


◇◇◇◇


8月2日。
ジリリリとアラームを鳴らすスマートフォンを手に取ると、ロック画面の日付はただ黙ってそう告げていた。昨日が8月1日だったので、当たり前だけど昨日からきちんと一日が経っている。

昨日の河川敷での出来事はすべて夢だったのではないかと朝起きたときは思っていたが、僕の隣に座って夢中で漫画を読む彼女を前に、その考えは消え失せていた。

「あの、今更なんだけど、これだと僕も一緒に漫画読むしかないじゃん」

ページを捲るどころか漫画すら持てない彼女のために、僕は彼女に見えるように漫画を携え、そして同じペースで読まなくてはいけない煩わしさにようやく気付いた。

「仕方ないじゃん、文句言わないでよー。てか昨日のこと信じてちゃんと漫画持ってくるあたり、悠斗は本当に優しいんだね」

彼女の言うとおり、疑いながらも結局はこうして河川敷で漫画を一緒に読んでいる僕も僕だ。

「今まで、河川敷で香澄に気付く人はいなかったの?」

「それがさ、全くいなかったんだよね。だから昨日は本当にびっくりした!てかここ、つい最近までホームレスの人が寝泊まりしてて、それで誰も寄り付かなかったってのもあるけど」

彼女のいうホームレスは、何日か前に警察がやってきて、どこかへ連れていかれてしまったという。

「そこに僕が来てしまったわけか……」

「ん、今なんて言った?」

思わず愚痴をこぼしてしまった僕を鬼のような形相で睨む彼女の気配を感じ取ったので、咄嗟に「冗談だよ」と愛想笑いを浮かべ、手元にある漫画に視線を戻した。
彼女は怒ったような顔をしながらも、その内側では楽しそうにしているのが透けてみえるようだった。
豊かな表情を持つ人だなと、僕は思った。


****


8月9日。
彼女と初めて河川敷で漫画を読んだあの日から約一週間が経ったわけだが、自分でも驚くことに今日に至るまで毎日彼女と顔を合わせている。ここまでくると、もはや日課と言っても過言ではない。

僕が持ってきた一眼レフを見ながら、彼女は僕の撮った写真を随分と褒めてくれた。

「僕、こう見えて高校一年までは写真部だったんだよね」

「まあ、運動部には見えないよね。でも、どうりで写真がうまいわけだ」

派手で煌びやかな景色よりも、ありふれた日常の風景に潜む寂しさみたいなものを撮る方が性に合っていた僕は、誰もいない物静かな教室や、人がいないとどこまでも広く感じられる寂れた体育館の写真なんかを夢中で撮っていた。
そんな写真ばかり撮るものだから、周りにはまったく評価されず、次第に写真部に居づらさを感じて、一年足らずで辞めてしまった。

「僕の写真を褒めてくれたの、香澄が初めてだよ。周りからは、暗いとしか言われなかったからさ」

「暗いのは、確かにそうだけど。明るいだけが美しさじゃないよ」

彼女は、僕が見せた写真の中でも特に体育館の写真が好きだと言った。
「私、運動部だったのかもしれない!」と興奮気味に笑う彼女を見て、僕も笑った。


◇◇◇◇


8月16日。
夏休みが残り二週間ほどしかないことに絶望すると同時に、夏休みの半分近くを香澄と過ごしていることに自分でも不思議に思う。傍から見れば、ほぼ毎日河川敷に来て独り言ちている危ない少年だ。幸い、僕たちの河川敷には他に誰も来ることはなかった。

持ってきた一眼レフで香澄を撮ると、面白いくらい彼女だけが映らなくて思わず笑ってしまう。彼女もつられてうわっはっはと転がるように笑うので、いつしかこれが僕たちのルーティンになっていた。

「ねえ悠斗。今日の夜、花火しない?」

彼女がふいに提案する。

「急だね。まぁ、いいけど。てか突然花火なんて、何か思い出したの?」

「いや、何となく。でも不思議だよね。誰かと花火をしたとかは思い出せないけど、花火のことは覚えてるだもん」

その日の夜、彼女の要望どおり花火を買って河川敷に行くついでに、自宅から天体望遠鏡を持っていくことにした。香澄と夜に会うのが初めてだったので、夜らしい遊びをしたいと思ったのだ。

「おまたせ。花火買ってきたよ」

「ありがとー。って、なんか面白そうなやつも持ってきてるじゃん!それ、星見るやつ?」

「そう。“元”写真部の技術で綺麗な星空をお見せしましょう」

「頼もしいね“元”写真部さん!」

彼女は笑いながら、「でも最初は花火ね!」と意気揚々に花火の袋を開けようとするが、当然のことながら掴めるわけもなく、結局は僕が袋を開けて一人で花火をする格好となった。

「なんか、これだと香澄に申し訳ないな」

パチパチと火花を散らす線香花火を僕だけが持ちながら、香澄はただそれを見ていた。

「そんなこと思わなくていいよ。そもそも花火って見るものだからね」

流石に手持ち花火は持った方が楽しいよと言いかけたが、当の本人が満足そうだったので何も言わないことにした。持ってきた花火を香澄の前ですべて燃やし尽くした頃には夜も随分深まっていて、夜空を見上げると肉眼でも星が綺麗に見えた。

「そろそろ星みようよ!」

香澄に急かされながら天体望遠鏡のセッティングを済ませ、気が逸る彼女にレンズを覗かせる。

嬉々としてレンズに飛びついた彼女だったが、星がよく見えないのか、香澄はレンズを覗いたまましばらく黙っていた。

「どうした?もしかしてピント合ってない?」

しばらくの沈黙の後、香澄がぽつりと答える。

「んーん。なんか、肉眼だと見えないものが、望遠鏡だとこんなにも近くに見えるって、すごいことだなって思った」

心なしか、香澄の声はどこか暗い雰囲気を纏っていた。

「悠斗はさ、私にとっての望遠鏡だね。見えないはずの私を、悠斗は見つけてくれた」

そう呟く香澄は、レンズを覗いたままこちらに顔を一向に見せない。いつもの彼女なら冗談めかして言ってきそうな台詞なのに、その声はどこか沈んでいて、遠かった。

「どうしたの急に。そんなロマンチックなこと言っちゃって」

何となくいつもと違う空気に、うまく言葉が返せない。香澄が今どんな顔をしているのか。僕は漠然と、怖いと思った。

「人ってさ、死んだら星になれると思ってたよ。“あの日”も、こんな風に星が綺麗な夜だったな」

「あの日……?」

香澄の話しぶりは、何かを思い出しているようだった。

「好きだった人がいたの。同級生のサッカー部で、告白されて。最初はすごく優しくて、毎日が楽しかった」

名前と年齢以外の記憶が、香澄の口からこぼれるように出てくる。

「杉本蓮。なんで今まで彼の名前を忘れていたんだろう。私はずっと、怖かったんだ」

彼女の声が震えているのが分かる。僕はまだ、香澄の顔を見ることができない。

「最初は優しかったのに、付き合ってしばらく経つと彼の本性が現れた。彼は気に食わないことがあると、私に暴力を振るうようになった。殴られたり、蹴られたり、した」

予想外の言葉を前に、僕は相槌を打つのさえ忘れていた。

「何度も別れようと思ったけど、彼はきっと変わってくれるって、あの時は本気で信じてた」

今まで見てきた香澄と目の前にいる人物が別人のように思えたが、名前と年齢以外、僕は彼女の何を知っていたのだろう。

「彼が変わってくれるきっかけを、私はずっと探していた。そんなときに、彼の子供を妊娠しているのが分かったの。精一杯の勇気を振り絞って彼にそれを伝えたら、あっけなく捨てられちゃった。育てるわけないだろうって。本当に馬鹿だよね」

真っ黒くてどろっとした絵の具が僕の全身を染め上げていくような感覚に襲われた。あらゆる負の感情をカラーパレットでかき混ぜたら今の僕と同じ色をしていると思った。

「すべてがどうでもよくなって、星空を見上げながらこの河川敷を歩いてたんだ。この川を渡れば、私も星になれるかなって」

彼女はこちらに背中を向けたまま、おもむろに川へ入っていく。

「香澄!」

僕は咄嗟に走っていた。暗闇の中で足元がばしゃばしゃと音を立てる。夏の川がこんなにも冷たいとは知らなかった。

「香澄!戻れって!」

僕の声に彼女は止まる気配がない。まるで夢の中で走っているような感覚だった。全力で走っているつもりでも、なかなか前に進んでくれない。

ようやく彼女の背中に追いつきそうになったところで、随分と深い地点まで来てしまったことに気付いた。足が地面を捉えられずに、水中でもがくようにして必死に彼女を追いかける。

口を開こうとすれば絶えず水が入ってきて声を出すことができない。息継ぎの仕方さえ忘れて、僕の頭は彼女を引き止めることだけでいっぱいだった。

彼女の腕がすぐ近くに見える。もう一踏ん張りだ。
遠のいていく意識の中で、僕は力の限り手を伸ばす。

その時、僕の手が何かを掴む感覚が、確かにあった。





ジリリリリリリリリリリリリ―――――――――――――――――――――――――――




****



目を覚ますと、僕の手にはけたたましくアラームを鳴らすスマートフォンが握られていた。
辺りを見渡すまでもなく、僕は自分の部屋のベッドの上で目覚めたことが分かった。

ロック画面に表示されている日付を確認する。
8月17日。きちんと昨日から一日が経っていた。

いつもの河川敷に行くと、僕以外だれもいなかった。傍から見れば、いつもどおりの風景だ。

しばらく河川敷に座って香澄を待っていたが、いつまで経っても彼女は姿を現さなかった。やるせない気持ちが橋梁下に充満していく。

昨日の香澄の言葉をふと思い出した。
“杉本蓮”。この男が香澄を自殺まで追い込んだという話を思い出して、さっきまでのやるせなさは明確な怒りへと変わっていた。

インターネットの情報を駆使して「杉本蓮」という人物を探し回る。同じ年、サッカー部、そしておそらく同じ市内の高校。
血眼であらゆるSNSアカウントを探していると「@ren_sugimoto0602」というインスタグラムのアカウントにたどり着いた。
最終投稿がほぼ一年前なのでおそらくもう使っていないアカウントだと思うが、投稿数が多かったので念のため下の方までスクロールして過去の投稿を確認した。

すると、ある男女のツーショットが目に入った。男の方はおそらくこのアカウントの持ち主だろう。そして、その隣で笑っていたのは、紛れもなく小山香澄だった。
すぐさまプロフィールを再度確認する。「西条高校サッカー部2年」。ここからほど近い距離にある高校だった。

気付けば僕は西条高校のグラウンドまで来ていた。陸上部、野球部、テニス部、ラグビー部、様々な運動部が汗水流して一堂に会する青春箱のような空間に、当然のことながらサッカー部もいた。
僕は必死に杉本蓮を探す。彼を見つけるのに、そう時間はかからなかった。僕とは正反対の男らしい体格で、夏の日差しがよく似合ういけ好かない色をした男だった。

サッカー部の練習が終わるタイミングを狙って、杉本に近づく。杉本が部活仲間と別れて一人になったと同時に、僕は背後から彼の肩を力強く握りしめた。

「おい、あんた。杉本蓮だよな?」

こちらを振り向いた杉本は目を丸くしていた。このまま彼の目を潰してやりたかった。

「……は?誰お前。俺のこと知ってんの?」

「……香澄。小山香澄はな、お前のせいで自殺したんだよ!それなのに、なんでお前はこんなにのうのうと生きてんだ。香澄の苦しみを、お前は考えたことがあんのかよ!」

振り上げた僕の拳を、止めたのは杉本ではなかった。

背後から腕を掴まれたので咄嗟に後ろを振り返ろうとすると、聞き覚えのある声がした。

「私の彼氏に何してるんですか。ってか、なんで私の名前知ってるんですか」

何にも触れられないはずの小山香澄が、僕の腕を掴んでいた。

「香澄、こいつまじで何なの?めっちゃ怖いんだけど」

「いや、私も訳が分からないよ。急に私の名前叫んで蓮に殴りかかろうとするし」

訳が分からないとは僕が言うべき台詞だ。そう思った時にはすでに僕はその場から走り出していた。

何がどうなっている?死んでいるはずの香澄が普通に生きていて、僕のことはまったく覚えていなくて、あの中で僕だけが異分子であることが確かだった。

香澄を追いかけて川に溺れそうになったあの夜がきっかけで、別の世界線に来てしまった。そう考えるのが自然な気がした。思えば、香澄と僕の関係なんて端から説明不可能だった。

やるせない気持ちで、結局この河川敷に戻ってきてしまった。気持ちの整理がつかず、当方に暮れながらぼんやりと川を眺めていた。

どれくらいの時間が経ったのだろう。気付けば日は沈みかけていて、橋梁下の日陰はいつの間にか周りの地面とほぼ同じ暗さで溶け合っていた。

家に帰ろうと立ち上がると、土手から急に声が聞こえた。

「あー!さっきの!」

咄嗟に振り向いた視線の先には香澄がこちらを指さして立っていた。

「私の特等席に勝手に居座るなんて、君は本当に何なの?」

相変わらず僕を訝しがる口調だったが、怒っている様子ではなかった。

「あのあと蓮を説得するの大変だったんだからね!君がどこで私を知ったのか分からないけど、蓮に関わるのはやめといた方がいいよ」

ふいに吹いた風が、諭すような口調で話す香澄のスカートを少しだけ捲った。一瞬だったが、香澄の太ももにある小さな青あざを僕は見逃さなかった。

「あんた、男を見る目がないね」

「は!初対面のあんたにそんなこと言われる筋合いないから!てか、名前くらい名乗りなさいよ」

僕の名前を伝えても、香澄は何も思い出すことはなかった。ただ、同じ小山という苗字に親近感を持ってくれたのか、彼女の雰囲気が少しだけ優しくなったのが分かった。

「小山さんは、ここにいつも何しにきてるの?」

「香澄でいいよ、同じ苗字だし。私はね、ここで本を読むのが好きなんだ」

こんな暗い時間に本なんて読めるのかと思ったが、香澄は用意周到と言わんばかりに鞄からランタンを取り出し、読書をするには十分な明かりを放つそれを手際よく橋梁下に設置してみせた。

そもそも、香澄が本を読むなんて意外だった。“あの頃”は、読むとしても漫画ばかりだった。

「この本を夜の河川敷で読むのが好きで、もう何周も読んでるんだ」

そう話す香澄の手元には、『河川敷の女の子』と題された小説が携えられていた。

僕がまだ途中までしか読んでいなかった小説だ。

「途中でさ、主人公が好きだった女の子が死んじゃって」

知ってる。

「それで主人公が絶望して、途方に暮れてホームレスみたいになるんだけど」

そこまでは知ってる。

「その女の子が幽霊になってさ、天の川が見える七夕の日だけ二人は河川敷で会えるんだ」

七夕の日にしか会えない。そう思うと、“あの頃”の僕は恵まれ過ぎていた。
香澄と過ごしたあの日々は、楽しくて、美しくて、豊かで、いつしか僕にとってかけがえのない時間になっていた。僕はとっくに彼女のことを――――

「おい」

急に聞こえたその声は香澄のものではなかった。重く暗いその声が杉本蓮の声だと気付いた時には、僕の身体は地面を這いつくばっていた。時間差で背中に鈍痛が走って、背後から蹴り倒されたことを理解した。

「連絡がつかないと思ったら……。香澄、お前!散々否定してたくせに、やっぱりこいつと何かあるんだろ!」

「蓮!本当に違うの、たまたまここに彼もいただけで……。お願いだから暴力はやめて!」

「うるせえ!」

その瞬間、香澄に殴りかかろうとする杉本の背中に僕が勢いよく追突する。予想外の衝撃に、僕とはるかに体格差がある杉本でもあっさりと地面に崩れ落ちた。すかさずこちらを振り向く杉本の顔面を、僕は思いっきり殴った。殴る方もこんなに痛いなんて、この時初めて知った。

「ぐはぁっ」と声を漏らす杉本を見て、僕は少しだけ気が引けてしまった。そして、その一瞬の気後れを杉本は見逃さなかった。さっきよりもはるかに強い衝撃で今度は僕が顔面に拳をお見舞いされる。何かが弾けるような、そんな衝撃だった。
このまま地面に倒れたかったが、杉本は僕の胸ぐらを掴んでそのまま力いっぱい僕の身体を放り投げた。スローモーションのように流れる景色の中で、香澄の泣いている顔が見えた。あぁ、なんで彼女にこんな顔をさせてしまっているんだろう。情けない。結局何もできない自分が一番許せない。

ドボン。
宙を舞った僕の身体はどうやら川に落ちたようだった。意識がもう、定かではない。もっと早く香澄に思いを伝えておくべきだった。彼女はすでに死んでいるのだから、会えなくなることはないと思っていた僕は傲慢だった。生きてても死んでても、時間は有限なんだ。

最後にもう一度、香澄の笑う顔が見たかった。暗闇に溶け込んでいく意識の中で、誰かが僕の腕を掴んだ気がした。




****




「あ!やっと起きた!」

聞き覚えのある声。うっすらと瞼を開けると見慣れない天井の模様が視界に広がっていた。ほんのりと甘い匂いがするベッドの上で、僕は目を覚ましたようだった。

「香澄……?」

また別の世界線に来てしまったのかと咄嗟に思ったが、香澄の話でどうやらそうではないことを知る。

「覚えてる?君、蓮に投げ飛ばされて川に落ちたんだよ。私はどうしたらいいか分からなくて、気付いたら川に飛び込んであなたを必死に助けようとしてた」

香澄を危険に晒してしまった自分が、本当に情けない。

「それで、何とか君の腕を掴んだんだけど、私も一緒に流されちゃってさ。もうダメだって思ってたら、蓮が川に飛び込んで私たち二人を必死に掬い上げたの」

「あいつが……?」

「そう。蓮はそのまま君を背負って、私の家まで運んでくれて。流石に今回の件で、私も蓮に思っていること全部ぶちまけてやった。そしたら蓮も反省したのか、今までごめんって、ひたすら謝ってた。だから、君には本当に感謝してる」

香澄が杉本に本音を伝えることができて嬉しいと思う反面、このまま二人が仲睦まじく続いてく未来はどうしても受け入れ難かった。

「そうなんだ……。それで、君たちは結局どうなったの?」

僕は恐る恐る尋ねる。

「別れたよ。君に言われたとおり、私って本当に男見る目ないんだよねー。蓮が変わってくれるのを信じてたけど、ずっと待っていられるほど人生って長くないよなって。ほら、時間って有限でしょ?」

香澄が微かな笑みを浮かべる。その目には迷いは見当たらなかった。


◇◇◇◇


茹だるような暑さの中で、自転車を走らせていた。

この土手をしばらく進むと大きな橋と交差する。その橋を渡れば街に出ることができる。そこには喫茶店も図書館も、涼しいところはいくらでもある。

でも僕の目的地は、決まってその大きな橋の下だ。

河川敷まで降りて、橋梁下の日陰に潜り込む。辺りに誰もいないことを確認して、僕は腰を下ろす。

「わっ!」

「うわぁああああああああああああ!」

急に後ろから声をかけられて、僕は思わず叫んでしまった。

「そんなに驚くことないじゃん!人を幽霊みたいにさー。失礼なやつだね!」

いたずらっぽく笑う顔が、やはり香澄にはよく似合っていた。

香澄がいなくなってしまわぬように、僕は彼女の手を強く握った。