「あの子猿たちとはどういうご関係なのですか?」


 紅茶を淹れながら、そういえば前に疑問を持ったなと思い出した。
 思い出しながら、ついつい口から出てしまった。
 聞く気はなかった。
 別にそこまでの興味はないから。
 たまたま出てしまった。
 口を閉じる筋肉がだらけている。
 そういうことにしよう。


「気になりますか?」
「まぁ……」


 微妙な反応をしてしまった。
 だがそれもいつも通り。
 わたくしは正直どうでもいいのだから仕方がない。
 それをお見通しのご主人様は、紅茶の香りを堪能する鼻で笑う。


「特に隠すことはないですし、気になる様でしたらお話ししましょうか」
「はぁ」


 興味が湧いたのだろうか。
 自問自答。
 そう思うこと自体が興味ならばそうだろう。
 口に出てしまう程と言われると否定のしようがない。
 しようとは思わないが。
 面倒くさい。

 紅茶を一口飲んで、いつになく機嫌の良さそうなご主人様は唇を舐める。
 今日は快晴。
 そよ風が窓の隙間から入る。
 この部屋のたった一つしかない小さな窓が、外の気配を匂わせる。


「紅茶のお供に思い出話としましょう。貴方もどうぞ」


 ご主人様の向かいの椅子を勧められた。
「失礼します」と腰を押し付ける。
 立っているのは嫌い。
 疲れるから。
 二本の足で全体重を支えるなんて非効率。
 座って、あわよくば寝っ転がってしまえば一番いいのに。


「あれは私が小説を読むことが習慣化していた時の頃です」


 ずいぶん幅が広そうな始まり言葉だ。





 ―――――……





 あの頃、私は手ぶらで、足の赴くまま、各地の景色と空気の味を楽しみながら旅をしていました。
 疲れと言うものはほとんど感じない私は、気の向くままにふらついて、お気に入りになりそうな場所を見つけたら立ち止まりました。
 そして本を取り出し、キリのいいところまで読み進めるのです。
 そしてストレッチして、また歩き出す。
 その繰り返しです。
 それだけで五千年は過ごしたでしょうか。
 本という枯れようのない素晴らしいものがなければ暇で暇でしょうがなかった。
 それでも、さすがの五千年。
 毎日毎月毎年、誰かしら画何かしらの物語を作っていたとしても、需要と供給のペースは一定ではない。
 どちらからが追い付いて、待ち時間ができる。
 待ち時間を別の小説で埋めるのも醍醐味でしたが、生憎、何十回も読んでしまえばそれがなくとも語れてしまうほどのもの。
 どこかに私の知らない面白い小説はないものかと。
 さてどうしようかと思った時です。
 泣き声が聞こえた。


「ぅあああああーーーっ! やだぁ! やだよう……! おきてぇえええ!!!」


 子どもの声がした。
 そこは紅葉が見ごろで、紅葉狩りも兼ねていました。
 大きい岩に腰掛け本にのめりこんでいたのに、子どもの声で現世に引き戻されたような気分でした。
 どうでもよかった。
 子どものことなんて気にする義務はない。
 だが、声が気になって本に集中できない。
 腹の底に燻る篝火を感じながら、本を閉じて声のする方に向かった。

 ああ、うるさい。
 素直な感想がそれ。
 何を叫んでいようが何があったとしようが、私には関係なく。
 ただ。
 ただ私の読書と散歩の時間を邪魔する音が許せない。


「はぁ……どこだよクソが」


 おぉっといけない。
 何か事情があるかもしれない。
 冷静に。
 冷静に。

 声のする方に重い足を進める。
 赤や黄色や緑や茶色。
 空の青と白。
 とても目が楽しい。
 本来ならば空気の味。
 枯葉を踏む音や風の音で耳も楽しい……はずなのに。
 いつもと違って耳に障る。
 私の時間を邪魔するのはどのような理由でしょうか。
 話しを聞いたうえでしかるべき対処を取らせていただきましょう。

 遠からず近からず。
 石に囲まれた大きな木の下で。
 三匹の猿がいた。


「いやあーっ! いやいやあ! おきてよぉおおおっ」
「……っ、うぅ……ひくっ」


 二匹は泣き、一匹は頭から血を流して動きもしない。
 離れたところで様子を窺っていると、猿の近くの岩にも血がついている。
 察するに石に頭をぶつけたんだろう。

 それだけ。
 ただそれだけのこと。
 そんなことで、私の大事な時間を奪われたのかと。
 もちろんそちらは自由に過ごしていいだろう。
 そちらの時間を侵害する権利は私は持っていない。
 けれど同時に、そちらも私の時間を邪魔する権利は持っていないはずだ。
 これは侵害行為である。

 私は、私の邪魔をするものを許さない。


「どうされました?」


 四つの瞳が私を見つめる。
 びくりともしない警戒心のなさ。
 子どもと言えど、随分と無防備な。
 もちろん私に何かしてやろうという邪な考えはない。
 けれどどこの世界でも、自分の考える範疇以外のことをしでかす輩はいるもので。
 そういう悪いものをしらないほど、山奥で育ったのだろうか。
 山奥だからこそ警戒心は高くてもいいだろうとも思うけれど。
 一人の子猿が、大きな目から涙をあふれさせて、叫ぶ。


「ミナをたすけて!」


 誰だよ。
 そいつか。

 真に迫る必死な様相は置いといて、寝転がる血まみれの子猿を見る。
 遠くから見た時も思ったけれど、出血が多い。
 頭を打っている。
 血は止まったとしても後遺症はあるかもしれない。

 そもそも私が助ける義理はない。
 声を止めさせ、私の時間の邪魔をしなければそれでいい。
 それだけでよかった。
 だから助けなくてもいいのだ。
 けれど。
 助けないと、こいつは泣き叫ぶことをやめないだろう。

 そして一つ問題がある。
 治療なんてものは私にはできない。
 応急処置と言うのも止血ぐらい。
 もしかしたらそれでいいかもしれない。
 それでも一先ずは助けたことになるのなら。
 全く関係ないことに、今読んでいる小説のテーマを思い出す。

『異世界』……。


「私に助ける術はありません」
「ふえ」
「けれど、私と契約するのなら、どうにかしてあげましょう」
「……ほんと?」


 意味は理解できているようで、会話はままなるし、泣き止んだ。
 もう一匹の静かに泣いている方も、私を黙ってみている。
 無言は肯定とは言うが、明確な同意がないと私は行動に移さない主義。


「私の種族は龍。『憤怒』です。貴方方は猿。つまり眷属です。私は貴方方に力を与えることができる」


 その子を救う代わりに、貴方方に授けた力を私のために使いなさい。


「おねがいします! たすけてください!」


 泣き声以上の声で懇願される。
 もう一匹を見れば、深々と頭を下げ、前髪に土がついている。
 明らかな同意を貰った。
 これで契約成立。


「その子をこちらへ」


 「ミナ」と呼ばれた子猿。
 一見死んでいるようにも見えるが、微かに胸の動きがある。
 大きい傷は頭だけ。
 全身も服が破れたり肌が切れたり詰めが剥がれたりしているが、それらは大したことはない。
 死にそうな原因である頭を自己治癒力で治している間、死なないようにすればいい。

 私は私の指に傷をつけた。
 体液が外気に触れる。
 紅をさすように「ミナ」の唇に垂れた。
 表面から内側に滑り落ちる。
 「ミナ」の手を取って、取れかけの爪を剥がす。


「っ」


 小さな反応があった。
 爪を剥がされてこの程度の反応とは、もうすぐ死んでしまうのかもしれない。
 今行わなければ数分で。
 ……それならば。
 私が助けなくとも、この二人も遅かれ早かれ静かになっていただろうか。
 もう契約してしまったので、無い未来は考えないことにしよう。
 考えを取り払うように、噛み応えのある爪を齧る。


「なおるの?」


 無口な方が口を開いた。


「治るまでの時間稼ぎをします」


 頭も、爪も。
 この子自身の力で治すまでの間、私はこの子を生かす。
 例え治らなくとも。
 例え死ぬほど痛くとも。
 例え死ぬほど苦しくとも。
 例え、「死にたい」と願っても。

 この子の周りが、「生かしたい」と願った。
 ただ、それだけ。


「【契約(rule)】」


 死にかけの子の額に指を添えて唱える。
 地面に落ちた紅葉が舞う。
 空には灰色の雲が立ち込めてくる。
 不穏。
 そんな雰囲気の中、私は一言。


「【生死共有】」


 黒い光が、指と額の境目から発せられる。
 滲むようにして子の体に染み込んだ。

 雨が降ってきた。


「この子はこれで大丈夫でしょう」
「……なにしたの?」
「私の命とこの子の命を繋ぎました。私が生きている限りこの子は死にません」


 同時に、どちらかが死んだらもう片方も死ぬけれど。
 私がいる限りはこの子は死なないので、まあ大丈夫でしょう。
 感覚の共有はしていないので、私は生活スタイルは変わらない。
 私への支障はない。
 むしろ楽しみが待っている。


「そもそも、なぜこのようなことになったのですか?」


 契約する前に問うても良かった気がする。
 タイミングがなかったのでしょうがないということにしよう。
 すでに泣き止んだ二人が目を見合わせ、そして同時に私を見上げる。


「木から落ちたの」


 ……。
 はあ。


「落ちどころが悪かったんですね」


 それしか言えなかった。

 小雨と霧雨を繰り返し、水気が体に張り付く。
 辺りに溜まっていた血が流れ、色とりどりだった紅葉が赤一色になる。
 ついていた膝を伸ばす。
 貼りついていた葉を払う。


「さて」


 二人の眼を見ている。


「次は貴方たちの番です」


 しゃがみこんでいた二人も、意を決した顔で私を見上げる。
 両手の指を噛み、血が出たのを確認して二人に突き出す。
 意図を察した二人は同時に指を舐め、血を取り込む。
 爪を剝ごうとしたのを止め、血が流れる指を額に押し付ける。


「【能力(able)】」


 良く喋るうるさい方は、聴力を制限した。
 その代わりに言葉にされなかった心の声、無機物の声を聞き代弁する。
 あまり喋らない方には、言葉を制限した。
 本当のことを言えない代わりに誰かへの建前、誰かの本音は言える。
 自分に関しては嘘しか言えない。

 指と額の間で、青い光が滲む。
 二人に染み込んでいったその時から、二人はそれぞれの制限を受けただろう。
 片方――フキの耳には何も聞こえず。
 片方――ユズの喉からは何も出ない。


「貴方方には、これから私のために働いてもらいます」


 その場の三人(・・)に、そう告げた。





 ―――――……





「以上です。……起きなさい」
「はっ」


 語り終えたらしいご主人様に頭をはたかれる。
 起きてます。起きてますよ。
 口元の冷たい何かを拭い、瞬きをいつもより多めに行う。
 掠れた視界がはっきりしてくると、ため息を吐くご主人様がティーカップを差し出した。


「おかわり」
「おかわり……ああ、おかわりですね」


 少し冷めているポットを持って、開いたカップに注ぐ。
 気持ちばかりの湯気が立っている。
 飛びかけの香りを鋭い嗅覚が捕らえ、喉に一気に流し込んだ。


「三人目にも能力を?」
「……聞いていたんですね」
「最後だけ」


 ぱき。

 ティーカップの持ち手が壊れた。
 怖い怖い。


「まあ、そうです」
「どんな能力ですか?」
「気になります?」
「ええ。まあ」
「当ててみてください。聞いていたのでしょう?」


 すん、と顔を背けられる。
 あー、怒ってる。というか拗ねてる。
 自分の話をほとんど聞いていなかったから。
 これは困った。
 聞くんじゃなかった。
 めんどうくさい。
 けれど、答えないともっとめんどくさい。
 溜息を噛み殺しながら、ガラスの向こうで横たわる猿の一匹を見る。


「……能力はわかりませんが」
「うん」
「全身拘束されているのが、関係しているのでしょうか」


 灰色の、縫い目すらないつまらない全身服。
 いたるところにベルトが付属していて、腹の前で両手を固定されている。
 足の先か指の先、鼻先まですっぽりと覆われていて。
 服とは別に目も布で覆われている。
 どこかの囚人のようと思ってしまってもしょうがないのではないか。
 外界の情報をほとんど遮断され。
 身を捩ることさえも許されない。
 一体何をしでかした重罪人なのかと。


「微妙に違います」


 違った。
 今日一の深いため息を吐かれる。
 モウシワケナイ。


「正しくは視界です」


『自分の視界を遮断する代わりに、他の誰かの視界を見ている』、らしい。


「つまりは今も?」
「ええ。私の視界を見ていると思いますよ」
「切り替えはできるのですか?」
「さあ、どうでしょうか」


 赤い目がぐにゃりと歪む。
 それはご主人様にしては珍しい表情ではあるが、この眼の奥にもう一人、話したこともない存在がいるというのは。
 なぜだがとっても不気味だ。


「さて」


 身を震わしているわたくしを気にも留めず、ご主人様は立ち上がった。
 鏡越しの二人(・・)を視界に入れる。


「酉井様とミナのことは引き続き任せます」
「承知いたしました」
「私は兼業の方に行きます。夜には帰ります。夕飯はいりません」
「お気をつけて」


 窓際の扉のノブを捻る。
 開かれた扉の先は、こちらとは様相が全く違う世界。
 やたらと背の高い建物。
 太陽で熱せられたのか、熱い上に固い地面。
 私たちの様に動物の特徴を持たない、弱そうな生き物が行き交っている。
 そこは、以前、ご主人様に聞いた。

『ここではない世界に転移する小説が流行っている』世界らしい。

 転移。
 つまり、使用者がどこにでも移動できる能力。
 拘束されている少女がいる目の前で使うとは、なんて性格の悪いご主人様だろう。





――――― ❀ ―――――