【依頼票】
名前: 酉井 認
職業: 高齢者
相談内容:
ワシの 妻 はど[ に 行 っ たのか、 連絡 が来Sない か?
ワシ は 心配 JSい る 。
ど[ に行 った の だ 。
[ の まま ゛J ゃ生 活゛Sき ない。
ワ シに ど うJεと いう のだ
財 布 はど[ だ ?
Jょ くひんは ど[ だ ?
早く帰 っ S きS作っS くれ。
メイド
丑尾 安未
【コメント】
字は綺麗だが字が散らばっていて変な雑さを感じる。
文字の羅列が特徴的なので、要確認。
もしかしたら想定と間違いがあるかもしれないので慎重に対応する。
メイドの名前が書いてあるのは依頼に関係があるのか?
珍しく裏紙を使用しているお客様だ。
――――― ❀ ―――――
「いやー。全く売れませんねぇ」
この屋敷の主は届いた手紙を読みながら満足げに言う。
わたくしにはどこがおもしろいのかわからない物語が、他の読者からしても比較的不評のようだ。
世間に発表する前に読ませてもらったが(読むように指示された)、途中で寝てた。
主は「そういう反応もありがたい」と責めなかった。
原稿が涎で汚れてしまったのがわかったときは空気がピリついた。
あの時の土下座は滑らかすぎて瞬間移動の様だったと言われた。
眼鏡越しに覗く赤い瞳を見つめながら、呟く。
「あの」
「うん? なんだい?」
「なんで、目を隠すんですか?」
「……前言わなかったっけ?」
「聞いた気はします」
少し笑って、「そっか」と。
これも怒らない。
けど、目は笑っていない。
「目から得られる情報は多大だからね」
「……先入観が邪魔をする?」
「正解。覚えてるじゃないか」
聞いてから思い出した。
そうそう。
「依頼主の外見から判断してしまわないようにするため」と言っていた。
世界を渡った先の生き物はどんな風体をしているかはわからない。
全く見えないわけではなく、少しぼやかしているのだという。
もしかしたらおどろおどろしいかもしれない。
もしかしたらファンシーかもしれない。
もしかしたらヒトガタでも肌が蛍光色かもしれないし、主には認識できないくて透明かもしれない。
それは『見えてしまうから』そういう感想が出るのだと。
恐怖するのだと。
好感を持つのだと。
怪訝に思うのだと。
主はそう言う。
だから、『はっきり見ない』という選択をした。
「では、わたくしのことはどう思ったのですか?」
紅茶の入ったティーカップを口に運ぶ主に、唐突に聞いてみた。
目を上に泳がせ、しばし黙る。
紅茶を飲み込んで、全く笑っていない目を眼鏡越しに見せつける。
「真面目そうなふりをしたクソやろうだなって思ったかな」
嗤った。
―――――……
とある屋敷。
鬱蒼とした森の中に広めの建物。
建物には蔓植物が這っている。
庭らしき場所はもはや雑木林。
ここの主人は薬草を育てるのが趣味なのかのかもしれない。
本で読んだ毒草や薬の材料になる植物は多く見受けられる。
石でも飛んだのか、ヒビが入ったままの窓ガラス。
手入れの行き届いていない様子は一目でわかる。
「ご依頼者様はご存命でしょうか……」
玄関の手前で、目隠しをした車椅子のお客様が呟く。
失礼な物言いであるが、例え主人とは言え、どうでもいいと思ってしまう。
そう、私はメイドとして失格なのだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「まーす!」
猿耳の猿轡をした子と、猿耳に耳あてをした子に車椅子を押され、御仁はするすると屋敷に入っていく。
どんよりと曇った景色を扉で仕切った。
御仁の前を歩き、依頼を出した主人の元へ案内する。
車椅子で来ると聞いていたので、主人は一階で待機してもらった。
はずだった。
「……すみません」
「はい?」
「どちらかへ行かれてしまったようです。少々お部屋でお待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「おやおや。一緒に探しましょうか?」
「いえ。お客様にそこまでしていただくわけには。こちらでお待ちください」
「承知しました」
御仁たちを部屋に残し、わたくしは二階へ行く。
主人が行く場所はたいてい自室か妻の部屋。
それらは二階にある。
階段だから車椅子ではいけないし、ほぼ確定だから人手はいらない。
ドアの横のベルを鳴らす。
光がちかちかと照る。
「失礼します」
「帰れ!!!」
扉に何かが当たった。
扉を開けて、ぶつけられたそれを見る。
子猫の死骸だった。
「お客様がお見えです。ご用意をお願いいたします」
「知らん! なぜワシが出向く! 向こうに来させろ!」
「この屋敷まで来てくださったのですよ。お食事もご一緒にご用意させていただくことになっています」
「ようやく飯か! いつぶりだと思っている!」
「今朝ぶりです」
大きい羽根をこれでもかと広げ、自分を大きく見せて威嚇してくる。
話すたびにこれだ。
何度もされればいい加減慣れる。
横幅は向こうの方が大きいが、縦はわたくしのほうが高い。
昔はこれでも迫力があったのだが。
羽の隙間も増え、艶も減り、随分老けてしまったものだ。
歩くときもふんわりと羽を広げ、爪を立てながら歩く。
食堂の場所はしっかり覚えているようで迷いがない。
主人を追って部屋を出て、振り向く。
カーテンはボロボロ。
糞はいたるところにある。
羽も散らばっている。
衛生的ではないその部屋を見て、扉を閉めた。
「……汚い……」
「誰だ貴様らは!」
食堂から主人の叫び声が聞こえる。
その一言で分かる。
自分からアクションをとった客人に叫んでいるんだ。
全く。しょうがない。
ああ、めんどくさい。
足取りは重い。
気持ち歩幅を小さくして。
気持ちスピードを落として。
一階にある食堂へ向かう。
「こんにちは。私はライターと申します」
「何をしに来た! ここを誰の家だと思っている!」
「私の認識に間違いがなければ、酉井 認様のご自宅かと」
「そうだ! ワシこそが酉井である!」
「御目にかかれて光栄です」
「うむ」
おや。と感心。
あの傲慢な主人を言いくるめている。
あのライターという御仁、見た目は怪しいことこの上ないのに。
「失礼します」
「遅いぞ! こちらのライター殿に茶を出さんか」
「はい」
誰が遅いんだ。
そう突っ込みたいが、内心に留める。
食堂に備え付けの棚の鍵を開け、人数分の食器を出す。
紅茶の用意をしていると、猿耳の子どもが寄ってきた。
「持ってくー!」
「ありがとうございます」
無邪気に両手を突き出す。二人。
少し心配な勢いだが、微笑ましさもある。
まあ、溢してもいいか。
自分たちで拭ける年ごろだろう。
一人一つのティーカップとソーサーを持たせ、見送る。
溢さないように慎重に運ぶ姿も微笑ましい。
前を見ていないが、直前で気付くだろう。
「前を見なさい」
「ぅわあ!」
ライター様が二人に言って、テーブルにぶつかる寸前で顔を上げた。
紅茶を零したり食器を割る事態にはならなかった。
大人二人分の紅茶はカートに乗せる。
椅子に座り「食事はまだか」と叫ぶ人の前に紅茶を。
鎮座し、表情を見せないまま「ありがとうございます」と穏やかな人にも紅茶を。
一礼して、続き部屋にある食事を乗せたカートを持ち込む。
ああ。めんどうくさい。
「お食事はビュッフェ形式です。様々なものをご用意させていただきました。お皿をお取りになり、お好きなものをどうぞ」
言って、わたくしは早速皿をとる。
小分けに仕切られたワンプレート。
そこに、決まった食事を決まった量で盛り付ける。
そして今か今かと忙しない主人の元に運ぶ。
「遅い!」
「申し訳ございません」
言い終わる前にがっついて食べ始める。
客人がいてもこの食べ方はお構いなしか。
飽きれるというか、引くというか。
ああ、ライター様はもしかしたら見えていないのか。
目隠ししているし。
ライター様も猿耳二人に食事を取りに行かせているようで、優雅に紅茶を飲んでいる。
「いいお茶ですね。どちらのですか?」
「あー……ええっと、確か東のものです。めったにないお客様ですので、上質なモノをご用意させていただきました」
「それはそれは。ありがとうございます」
お茶の出所なんて知らない。
適当に高そうな奴を買っただけ。
聞かれたことに答えていないのに気付いていないのか、またお茶を啜る。
猿耳二人が持ってきた食事にも手を付けた。
主人が食事に集中しすぎるせいで、ライター様が話しかけても反応しない。
次第に諦めたのか、全員が食事に集中するようになった。
食事の音と咀嚼の音だけなのに騒がしい。
「貴様ら、何をしに来た」
唐突に主人が声を上げる。
嚥下しきっていなかったのだろう。
口の中のものが飛び散った。
ライター様の方までは飛ばなかったようだが、猿耳たちは驚いて目を丸くしている。
「この度、酉井様からご依頼を頂き、参上いたしました次第です」
「何のことだ! ワシに心当たりはないぞ!」
「こちらになります」
「知らん!」
提示された紙を見ずにそっぽを向く。
「主人が書いたもので間違いありません」
代理で答えると、「そうですか」と満足そうに頷いた。
「こちらには……要約すると、奥様を探してほしいということですが」
「!? 貴様! 我が妻のことを知っているのか!? あいつはどこにいる!! 言え!!!」
椅子から飛び、テーブルの上に乗る。
食事の皿を床に落とし、なんならライター様のお皿を踏むのもお構いなし。
わたくしにしたように羽を広げて威嚇し、ライター様に詰め寄る。
「いいえ。残念ながら存じ上げません。ですが私どもの仕事はお悩み相談です。酉井様がご依頼されるのでしたら、奥様を探すことをお手伝いいたしましょう」
「ほう! そうか! ならばすぐやれ!」
「承知いたしました。患いによって暗く閉ざされた貴方の道、私が正しく灯して見せましょう」
あっという間に契約してしまった。
いいのか。
「ふーむ……これは……何でしょうね」
ライター様の声で眠気が飛んだ。
「何かございましたか?」
変なものは片付けたはず。
何かあるとしたら……。
「これはどなたの骨でしょう?」
ああ、それか。
「さあ……。四つ足動物ですね。換気中に迷い込んだ猫でしょうか」
「でしたらサイズ的にはまだ子猫ですね。迷い込んだ線はありそうです」
形が崩れかけているが、まごうことなき何かの動物の骨。
一式揃ったそれだが、何かを特定することは難しいだろう。
見つけてくれてよかった。
「どちらにございましたか?」
「本棚の裏です。ここで怯えてるうちに、でしょうか」
「そこは見ていませんでした。可哀想に。わたくしのほうで埋葬しておきます」
「あ、ちょっと待ってください」
亡骸を回収しようとして、止められた。
何をしようというのか。
怪訝な顔になりそうなとこ、必死に仮面を貼り付ける。
「……なにか?」
「一応、私どもの調査の一環として、このまま保存しておいてください」
「はあ。わかりました。用がお済になりましたら埋葬いたしますのでお声掛けください」
何なのだろう。
死骸に用があるとは到底思えないのだが。
『死者に口なし』。
何も語られないだろうに。
いつの間にか酔っていた猿耳二人が足元から覗き込んでいる。
死骸は確かに珍しいが、怖がりもせず、よく見れるものだ。
「さあ、もう少し見させていただきますね」
気を取り直して。
その場から車椅子を漕いで離れる。
あなた一人で移動できるのですね。
―――――……
ぱたん。
部屋の扉を閉める。
隅々まで見終わったということで、部屋を後にした。
人の部屋を見てメモを取るというのはいい気はしないが、今回ばかりは仕方ない。
依頼したのだから。
これであの人が落ち着いてくれればいいのだが。
「この後はどうされますか?」
正直、この屋敷で依頼に関係がありそうな場所は今見た私室ぐらいしかない。
「そうですね。適当に屋敷内を見て回りたいです」
「……わかりました」
指定しないということは、やはり手がかりを探しあぐねているのだろうか。
今の部屋でもこれと言ったヒントは得られなかったようだし。
唯一あった者は死骸。
それも関係があるのかはわかっていないし。
「センセー!」
「うん?」
「童たちお外行きたい!」
「よろしいですか?」
猿耳たちはきらきら輝いて……いない目を私に向ける。
ただ飽きて暇でしょうがないから外に行きたいと言っているような気がする。
「どうぞ。玄関からお出になれます」
「いってらっしゃい」
「わーい!」
仲良さげに手を繋いで、二人は駆けて行った。
まあ、確かに子どもには暇な時間か。
はて。なぜそんな二人がお供で付いてきたのだろう。
「では、よろしくお願いします」
「あ、はい」
まあ、そんなことはどうでもいいか。
とにかくこの人を案内しなければ。
一声かけ、車椅子のハンドルを握る。
二階の廊下をゆっくり移動。
扉ごとに何の部屋かを説明する。
無駄に広い家。
部屋の数も多い。
部屋には鍵がかかっているものが多い。
「なぜ鍵を?」
「主人が迷い込んでしまうんです」
「ご自分の家ですのに?」
「はい。方向音痴で。自分の部屋と食堂は帰巣本能でしょうか、迷うことはありません。ですが何も考えずに部屋を出てしまうと、よく空き部屋に迷い込んで「閉じ込められた」と叫んでいらっしゃいました。ですので鍵をかけて、そもそも入れないようにしているんです」
「おや。それはそれは……大変ですね」
鍵をかけるだけ。
鍵をかけてしまえばそのまま。
わざわざ入ることはしない。
なので言うほど大変ではない。
だが、ここはメイドらしく。
「掃除のたびに鍵を使うのは、確かに面倒ですね」
――――― ❀ ―――――
【調査票①】
名前: 酉井 認
職業: 高齢者
依頼主: 当人?
調査内容:
依頼主らしいが、本人は覚えていない。
館のメイドに確認したところ、「主人のものです」と。
気性が荒く、よく叫んでいる。
動作が粗暴。
傲慢な性格。
忘れやすいようで、自宅でも迷子になる。
「妻を探してほしい」とのことだが、妻についての詳細は聞いても回答得られず。
館に写真もなく、メイドも面識はないとのことで外見も内面も不明。
話していた内容:
「探せ! 某の妻はどこにいる!」
「どんな奴かだと? ………………」
「見つけ出したら褒美をやろう!」
―――――……
【調査票①】
名前: 依頼主の奥様
職業: 不明
依頼主: ●●様
調査内容:
依頼主の妻。
人物像は不明。
自室は特に特徴はなく、片付いていた。
本棚の裏で四足歩行動物の死骸があり。
白骨化していたため時間はそれなりに経っているだろう。
自室に鍵はかかっていなかった。
―――――……
名前: 依頼主のメイド
職業: メイド
依頼主: ●●様
調査内容:
依頼主の館に住み込みで働く唯一のメイド。
館に埃あり。
庭や外壁は草木が生い茂っている。
メイドという割には館のことは最低限で済ませている様子。
勤めてからそう日数は経っていない。
依頼主の奥様にも面識はないとのこと。
表情の変化は乏しい。
普段の働きぶりはどうなのだろうか。
話していた内容:
「わたくしもですか? ……わかりました」
「この広い館を一人では無理です。なので主人のお世話を中心に行っています」
「わたくしが務め始めたころからこの有様です。綺麗にしろとも言われてませんので」
――――― ❀ ―――――
車椅子を押す音だけが廊下に響く。
たったそれだけの音大きく聞こえるほど、他に音はなく、また外にも何もない。
強いて言えば草木が多すぎるほどにあるだけだが、それは特に問題ない。
なぜなら、別に生活には支障がないからだ。
わたくしと主人しかいない家。
どちらかが気に留めない限り、何かをしようとは思わない。
二階を一通り見て回りたい、と言った客人は鼻歌を奏でる。
本当に見ているだけ。
いや、見えてもいなさそうな眼帯に隠された眼。
これに意味はあるのだろうかと思う。
意味なんてなくてもいい。
それで今日が潰せるなら、それもそれで。
「この家で使われている部屋はいくつですか?」
唐突にライター様が誰かに尋ねる。
無論、わたくししかいない。
出かけた欠伸を噛み締めて、言葉を反芻する。
「三つ、いえ、四つです。主人の部屋、食堂、主人の奥様の部屋、わたくしの部屋」
「全て二階ですか?」
「いいえ。食堂とわたくしの部屋は一階です」
「普段から鍵をかけている部屋は?」
「主人の奥様の部屋だけです」
ふむ。と会話が終わる。
実るようで実っていない。
実は空っぽというか、甘みのない果実のような会話。
果たしてこれは意味があるのかないのか。
わたくしの顔は正直だったようで、隠された眼が笑っているように眉が持ち上がった。
「酉井様の元へ行きましょう」
「ということは、何かわかったのですか?」
「ええ。ですが、その前に確認したいことがございます」
「わたくしに?」
「いえ、酉井様にお伺いします」
はあ。
ため息と返事を同時に行い、踵を返す。
階段までの道のりはなぜか重い。
だが所詮は家の中。
早かれ遅かれ、階段はすぐそこだ。
「お連れの方々をお呼びしましょうか」
登り階段は車椅子を抱えて登った。
ひどい有様だったのは鮮明に思い出せる。
下りはどうするのかと直前で思い出した。
ライター様に問えば、「お構いなく」と足を乗せていたステップを避ける。
「んーっ」
「……立てたのですね」
朝起きたように。
しばらく伸ばしていなかった足と背をこれでもかと伸ばす。
長すぎる足と背が仰反る。
いったいなんで車椅子に乗っていたのかと思うのは不思議なことではないだろう。
「私は長くは歩けませんが、階段ぐらいなら降りれます」
車椅子を畳んで、両手で持つ。
そこは男性だからか、車椅子とはいえ両腕は特に異常はないからなのか、安易と持ち上げた。
足取りも重くもなく、むしろ軽い。
長く歩けないからと言って、そう簡単にいくほどなのか。
そうこうしているうちに、ライター様は一階へ到着。
思い出したように私も降り始めた瞬間、ライター様が振り返る。
「歩けないとは言ってませんからね」
悪戯な笑みに鳥肌がたった。
一言も聞いてもいない。
疑いの顔になっていても見えていないはず。
してやったり、と意地の悪そうな顔をしているのだろう。
半分程度の顔は見えているのに、見えているものは偽りのように感じる。
見えているものは真実かを疑問に思う。
裏には何かを潜ませていそうな、違和感というには安直なそれ。
今までのことすら疑いそうになる、怪しい感覚が全身を巡る。
「きゃっ」
足を踏み外した。
滑り落ちはせず、体が段差に身を委ねる。
「おやおや、大丈夫ですか?」
そう口にするわりに、心配しているように感じない。
今までこうだったか?
今だからこうなのか?
今となってはわからない。
今となってはどちらでもいい。
返事をするのも忘れて、立ち上がって身なりを整える。
平静を装って降りた先では、ライター様の声で「早く押せ」と幻聴が聞こえるように車椅子に座っていた。
とても優雅な姿に、また鳥肌が立った。
金属の音が廊下に木霊する。
木霊しているようで、実は自分の脳内にだけ響いているのかもしれない。
それだけ音を意識しているということか。
なぜそんなにも音に敏感、いや、過敏なのか。
その音を出している車椅子の持ち主のせいだろう。
手汗が滲む。
悟られてはいけない。
なぜ?
なんででもだ。
悟られると、何を言われるかわからない。
何を言われても後ろめたいことはないはずだが、何かを聞かれるのが嫌だ。
背中を撫でられているような。
耳の裏をなぞられるような。
内臓を擦られているような。
得も言えぬ不快感。
ありきたりだがそのような表現しかできない。
まさにその言葉があうというのに、胸部や腹部の不快感は増すばかりだ。
「食堂でよろしかったですか?」
「酉井様がいらっしゃるところに」
「では、食堂ですね」
ドアをノックする。
中からの返事はなかったが、少しばかりの間隔開けてから扉を開けた。
テーブルの上で食事を貪っていた。
食事を摂っているわけではなく、貪っている。
口周りは赤黒いソースが。
後頭部にまで飛び散った野菜類。
べたべたしてそうな汚れた羽。
「!? 誰だ貴様は! ワシの屋敷で何をしている!? おい! そいつを追い出せ!」
ぎこちなく翼を広げ、威嚇する。
この人は少し前のことでさえも忘れてしまう。
わたくしのことは辛うじて覚えているようだが、ライター様のことはすっかり抜けてしまっている。
「酉井様。ライターでございます」
「知らん! 知らん知らん知らん! ワシはそんなやつ知らんぞ!」
「おや、それは困りました。せっかく酉井様のご依頼の、奥様についての情報をお持ちしましたのに」
えっ。
「……なんだと? 妻? 我が妻について何か知っていると言うのか!?」
「はい」
「話せ! 白状しろ!」
鳥なのに駆け寄ってくる主人。
翼を大きくしたまま、車椅子のライター様に詰め寄る。
切迫、ではなく、憤怒の勢いで捲し立てる。
「白状というほど私に罪はないと思うのですが」
「ぬかせ! ワシの妻をどこへやった!!」
「おやおやおやおや……」
嘴から何かが飛んだ。
お客様も流石に引き気味の様子。
食堂の席に誘導し、距離をとって対面に位置するようセッティングした。
人の前だけテーブルを拭いて、わたくしも着座したところでライター様が「さて」と始める。
「酉井様」
「なんだ!?」
「確認がございます」
ここで焦らすのか、と、思わず見てしまう。
どこを見ているのかわからない目隠しの御仁は、顔は主人に向けたまま。
「いる!!! いるに決まっているだろう!! ワシを愚弄する気か!!?」
「いえいえ、全くそのようなことは。ですが、それなら安心いたしました」
「なんなのだ!! 何が言いたいのだ!!」
「いえね。以前私が関わった相談事でね」
……。
「『本当は出て行った妻を心配するふりをして居場所を突き止め、二度と出ていけないように拘束する』とか、『妻ではなく一方的に好いているだけで、実際は交際どころか嫌われており、ストーカー化している』ということがございまして。最終的にその方々は……」
……。
「ということがございまして。いえ、すみません。疑ってしまって。大変ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。謹んで謝罪させて戴きます」
「い、いや……」
……驚いた。
主人が勢いを殺されている。
まさか……、まさかまさか、本当はそういうつもりで……?
背中を何かが伝う。
テーブルの下で、掌に爪が食い込む。
慌てて開くと汗で濡れていた。
「それで、奥様のことですが……」
「あ、ああ」
「ご存命ではないかも知れません」
「……な」
え?
「奥様のお部屋を確認いたしましたところ、白骨が見つかりました」
「な……白骨……だと!?」
「ええ。四つ脚で、小柄で、おそらくは猫科かと思うのですが。いかがでしょう、奥様の様相と合いますでしょうか? 合わないようでしたらまた別の方と言うことになりますので、然るべきところに連絡しなければなりません」
「あわ、な……いや、ん?」
「もしや、覚えていらっしゃらない? 愛する奥方様を?」
「いや! いいやいやいや!! 合う! 合っている!! そやつで間違いない!! ああ、なんと、なんということだ……ああ、愛い妻が何故そのようなことに……」
「心中、ご察しいたします。大変お辛いことでしょう。そこでもう一つ、私から提案させて戴きたいのですが」
「なんだ、なんなのだ」
「一途に想い続けるのも素晴らしいことですが、乗り越えなければいけないことも確かです。一途と執着は別物です。そしてあなたは高貴なお方。よそ様にお披露目するには並大抵の方では貴方の隣も三歩後ろにも立てない。どうでしょう。私が良い女人を紹介しましょう」
……。
さて。
目が点になり、口は鳩の様になった。
私も、もちろん主人も。
この客人は突然何を言っているんだ。
私と主人の心情はおそらく一致しただろう。
顔が一致しているからそう思うだけで、もちろん示し合わせも答え合わせもしていない。
けれどそう思うだろう。
それだけインパクトがあることを言ってのけた。
「……は、っは、はは……ふははははははは!!!」
徐に、音量を上げながら笑いだす。
主人はみすぼらしい恰好のまま、いつぶりと言うほどに大きく笑った。
笑い声を聞きたくなると耳を塞ぎたくなる。
畏縮する。
止めてくれ。
「いかがでしょう?」
ライター様が笑い声をかき消した。
思わず耳に手を当てていた私は、天の助けかと思うほどに感謝の念を送った。
もちろん、私のことは見えていないのだろうからできる。
「よい! よいぞ! さっさと連れてこい!」
「では、すぐに」
手を叩いた。
え、と思ったのは言うまでもない。
そんなにすぐに。
何故用意している?
誰が来るのだ。
一応メイドのわたくしは、席から立って、扉に駆け寄る。
しかし扉に手をかける前に、外側からノックと、そして力が加わる。
部屋の空気が流れる。
「せんせー! お連れしましたー!」
「私の隣へご案内を」
「こっちだよー!」
耳当てをした子猿が、同じぐらいの背丈の女の子を連れてきた。
それはもう一人の子猿だ。
特徴的な猿轡をしていない。
そして変に、と言ったら失礼だが、確かに変な格好をしている。
黄色と黒の毛皮を全身に身に纏い、フードを被っている。
フードには耳がついていて、まるで猫……いや、虎。
子どもの虎だ。
「お連れしました」
「ほう……」
子どもの値踏みがされるという気持ち悪い空間が眼前に広がっている。
いやらしい目つきで子虎の格好をした子猿を見つめる主人。
気持ち悪い。
きもちわるい。
キモチワルイ。
ああ、あんな風に、白骨した子も連れて来られたのだろうか。
後悔にも似た黒い感情が胸を満たしかける。
わたくしが見つけた時にはもう弱っていた。
ご飯を持って行って、よく食べていた。
だから大丈夫と思った。
数日……十日経っていたかもしれない。
用があって部屋を訪れたら、死んでいた。
両手を擦る。
もう、生きて出ることなどできない程に弱っていたのだろう。
可哀想に。
でも、あの子がいてくれたから、わたくしは助かった。
だから丁重に弔わなければいけない。
弔っておかなければならなかった。
……これが終わったら。
「ふむ。ふむ。よいよい。良く育った子だな」
ぞわりとした。
私に向かったセリフではないのはわかっている。
意味を理解して、良い意味でとらえる人はどれだけいるでしょう。
主人と同類がどれほどいるとか。
考えたくもない。
「よいぞ! こ奴をワシの妻候補としよう!」
「それはよろしゅうございました」
「よい働きであった! 褒美をやらねばやらんな!」
「ありがたい申し出です。謹んで拝領いたします」
「うむうむ! ワシが死んだ暁には、この屋敷のすべてをやろう!」
は?
「それはそれは。随分と豪勢なものを頂いてしまってよろしいのでしょうか」
「良い! ワシが言うのだから良いのだ!」
「では、ありがたく」
「うむ!!」
待って。
ちょっと待ってほしい。
この屋敷のすべて?
つまり、住み込みで働いているわたくしは……?
「……旦那様、長生きしてください」
子虎の格好をした子猿が、どこからか紅茶を取り出す。
金色のティースプーンを添えたティーセット。
満更でもなく、主人は荒々しく受け取る。
「ふむ! ちょど喉が渇いていたところだ! 気が利くなぁ妻候補よ!」
あれだけ叫んで喋っていたらそうだろうと思う。
勢いよく。
顔にかかるんじゃないかと思う力強さで紅茶を飲み干した。
「……………………ぅぐ……」
突然。
羽で包まれた顔は力なく、だらしなく歪み。
床に突っ伏した。
「それでは」
耳あての子猿が、ライター様の車椅子を押す。
倒れ伏した主人に近寄り、見下し、見下ろして、冷たく言った。
「ありがたく、頂戴いたします」
ぞ り。
目隠しの下の目が光ったような気がした。
『見えた』と思った瞬間、そう思ったことを後悔した。
あれはダメだ。
見てはいけない。
わたくしたちとは異質な存在。
真っ当な動物を宿すわたくしたちとは違う、上位であることは間違いない。
上位、つまり、高貴。
下層の者たちでは姿を見ることすら能わない。
そう感じさせるほど、重く、強く、怖い。
脳天から顎先にかけて汗が伝う。
近くで慕う小猿たちでさえ、わたくしは目視してはいけないような気がして。
身を屈め、視線は自身の足先に向けた。
そうしないとこの空間にはいられなかった。
「ところで」
肩が震える。
汗が落ちる。
床にシミができる。
眼球が泳ぐ。
何か気に触ることをしただろうか。
わたくしは……不十分だ。
わたくしはメイドという立場でありながら、もてなすということについては不十分だと自身で理解している。
それが罪。
怠惰であるわたくしのあり様。
眷属であるからこそ、その本能には抗えない。
「あなた」
キィ。
決して大きくはない耳障りな音。
わたくしの方に寄ってきて、……お客様の靴先が視界に引っかかる。
足を組み直す動作でさえ恐怖で慄いてしまう。
「お名前は?」
「……………………は?」
「は?」
「っ、申し訳ございません」
思わぬ回答、いや、質問に間抜けな返答をしてしまった。
反射的に謝ったのは正しかっただろう。
さっきの様な嫌悪感を感じる隙もなく謝るのは、自己防衛本能からか。
草食である自分が、肉食に敵うはずがないという対応力か。
諦める前に謝るという、抗いか。
「……それで、お名前は?」
「……丑尾、と申します」
「そうですか、貴方が丑尾様」
ぺらり。
視界を白と黒の何かが遮る。
手に取ると、その質感は紙だった。
触り心地のある様なない様な、特に特徴もない紙。
真っさらな白い部分に、ポツポツと黒い部分がある。
それにはとてもとても目に馴染みのある文字が書いてあった。
「あなたのご依頼ですね」
「……はい。ありがとうございます」
『ころして』
わたくしは確かにそう書いた。
主人の依頼の紙に。
裏から。
筆記の違いはあったが、主人は気付かないだろう。
書いたことさえも覚えていないだろうから。
「回りくどいことをされましたね」
「ええ。まあ。本気ではなかったので」
「ほう」
「……失礼いたしました。言葉を改めます。正しくは、『殺しも請け負ってくださるとは思わなかったので』」
「殺したい気持ちは本物ということですね」
「はい」
「それは、貴方が妻の立場として受けた所業によるものですか」
「……はい」
わたくしは酉井の妻でした。
正しくは今も妻です。
離婚したかった。
けれどできていない。
酉井が……主人が拒否したから。
「離婚なんて世間体の悪いこと誰がするか」
といつもの様に叫び散らかしたのです。
ええ。あの人の叫び癖は昔からです。
今は……おそらくは病に犯されていますが、傍若無人で傲慢で王様気取りは変わりありません。
覚えていない、覚えられなくとも、あの人にとって他者は愚者で下民なのです。
それは妻であってもそう。
妻であっても対等でも三歩後ろでもなく、足元に這いつくばる存在なのです。
……なぜ結婚したか、ですか。
『楽』だったからです。
あの人は自分勝手な傲慢。
わたくしは他人任せな怠惰。
利害の一致。
それだけです。
ですが。
そんなわたくしでも長くは続きませんでした。
怠惰の眷属であるわたくしには、顎どころか足先で使われ続けることはできません。
存在に反します。
存在を否定する暴言や妄言にも耐えきれず。
猛禽の爪や嘴を受け続けることは苦痛以外の何者でもありませんでした。
この立場に甘んじる『怠惰』もありましたが、『怠惰』でいれないことに苦痛を感じ、放棄し、逃げ出しました。
「でも、戻ってきた」
その通りです。
逃げ出したわたくしは、なんでもしなければならなかった。
自分で家を探し、仕事をし、家事をやって、生活する。
ああ、なんてめんどくさい。
「怠惰らしいですね」
「お褒めにお預かり、感謝を申し上げます」
「褒めてません。認めただけです」
逃げ出した途端に面倒臭くなったわたくしは、どうしたものかと屋敷周辺を彷徨います。
どこへ行くにも面倒。
何をするにも面倒。
せめて全てが一つとなってしまえればまだいいのに。
主人の言動が収まればやりたい放題、怠惰に堕落できるのに。
「数ヶ月の間、悩みました」
「……どこで?」
「屋敷の庭です。その頃から生い茂っていたので。草があれば生きていけますし、身を隠すのにも十分でしたから」
「ああ……」
屋敷の周辺にいたからよくわかります。
屋敷の様子がおかしいと。
屋敷の中での活動が特定の場所に偏り。
夜になってはふらふらと出かける。
何か騒がしいものを連れ込んでは、朝を待つ。
ついに頭がおかしくなったと思いました。
嬉しかった。
わたくしは主人の様子を探るため、内部に忍び込みました。
自身の部屋に閉じこもる。
糞尿を撒き散らす。
料理はできないから狩りに出る。
捕まえた獲物は、食べるか、保存するか。
保存といっても食いかけを放置したり、生きたまま屋敷のどこかに置いて、忘れて、腐らせる。
まともな頭ならもう少し管理ができていたでしょう。
できなくなっている。
叫び癖は変わらないが、明らかにおかしい。
「忍び込んだついでに食料を漁りました」
「……貴方って人は」
「食べて、その場で寝てしまい、見つかってしまいました」
「何も言えませんね」
「主人は、わたくしのことがわからなくなっていました」
誰だ貴様は!!
ここで何をしている!!
久々に向けられた怒声に体が萎縮しました。
体が動かず、頭も回らず、黙っていました。
わたくしの様相を見た主人は、勝手に納得していました。
「白黒の服。メイドか、と」
牛柄がなぜそう見えたのかは聞いてもわからないでしょう。
妻もメイドも、『相手に尽くさなければならない』というのは変わらないのですが、妻という立場から逃れられる。
それだけでもよかった。
だからわたくしは、『メイドである』と名乗った。
「メイドの方がお仕事は多いのでは?」
「もう狂った頭の主人でしたから。メイドとしてのわたくしの存在もほぼ忘れ、何かを命じることは少なかったのです。何より『妻』ではなくなったことが手放しで喜べることでした。家を手に入れ、食材を手に入れ、金はないけれど安息できる場所がある。一緒に住んでいたとしてもそれで充分でした」
数ヶ月ぶりに自室を見た。
虎がいた。
弱りきった虎。
夜な夜な出掛けては捕まえてきたうちの一匹だろう。
猛禽類の捕食対象に似た肉食獣。
子猫の様な子虎。
不幸にも捕まって、放置された、生き地獄真っ只中の餌。
「生きていますか」と聞いてみた。
「ごはん」と呟いた。
わたしくしの食事を口元に置いてみた。
食べた。
食べ尽くした。
食べたからもう大丈夫だろうと思い、放置しました。
縋られても面倒くさい。
適当に出て行ってくれていい。
窓を開け、扉は閉めた。
次に見た時は死んでいました。
「虎。暴食の眷属ですね。本来の食事以外を食べるのは本能からでしょう」
「食べたからといって死ぬのですか?」
「消化不良にでもなったのではないでしょうか。衰弱し、さらには子どもです。不調に拍車がかかった。まずは水分が必要だったのでは?」
「勉強になります」
「思ってもないことを」
そのときは「ダメだったか」と思いました。
はてさて、どうしようかと。
ただ埋めてあげればいいものを、わたくしは本能のまま従った。
『めんどくさい』
ただそれだけ。
わたくしは隠す様にして箪笥の裏に体を放置した。
家はもともと異臭が立ち込めていたので今更という感じ。
わたくしはメイド用の部屋をもらっていたので普段は使わない。
そのまま放置して、肉は完全に腐り、先ほど見つけた時には見事に白骨化していた。
「虎が哀れですね」
ライター様は呟いた。
もうこの屋敷に連れてこられた時点で運は尽きていたのだ。
いや、正しくは、猛禽類に捕まった時から。
遅かれ早かれ尽きる命。
生きながらに食われるか、生きながら見捨てられるか。
後者だったというだけの話。
「貴方には虎の面倒を見る義理はありません」
「はい」
「私がとやかく言う義理もありません」
「はい」
「ですが一言だけ感想を述べさせていただくと」
「はい」
「素晴らしいバッドエンドですね」
貶し言葉だろう。
そうとしか思えない。
目隠しの裏の眼がどのような状態かはわからないが、口元は大きく笑っていた。
目は口ほどに言うはずなのに、その目が見えない。
その口から出る言葉には疑いしか持てないのに、じゃあなんなのかという答えが出ない。
他者から悟らせない。
そのための目隠しなのだろうか。
軽々しい物言いをするお客人に、苛立ちを覚える。
「あなたの、この裏面の依頼は完了でよろしいですか?」
手に持つ紙の裏を見る。
わたくしが書いた文字。
雑に書いた、文体の崩れた、一見落書きでしかない黒い綴り。
表から見たとして、ぱっと見はなんとか『3』『S』『J』『[』と見えるだろうか。
これはわたくしがなんとかそう見せようとして書いたもの。
裏から。
「手の込んだことをされましたね」
「面倒くさがりな癖に、手の込んだことが好きなのです」
「メイドをやれるのはそういうことですかね。料理とか」
「かもしれません」
裏から描いたものは線対称に描かれる。
そして文面から察していただければ、
『S』は『て』
『J』は『し』
『ε』は『ろ』
『[』は『コ』
雑に書いたのはそういうこと。
そして職業と依頼主の名前は下に書かれている。
つまり下から読んで欲しい。
それを汲み取られたら、あとは下から読んでもらえる。
『コろして』
わたくしの依頼は、達せられた。
「完了で構いません。ありがとうございます」
深々と、心より心を込めて、感謝を示した。
これで、わたくしは自由だ。
わたくしに命ずる者はいない。
この家はわたくしのもの。
残った財産もわたくしのもの。
堕落できる。
死ぬまで堕落し、怠惰に生きる。
怠惰の眷属としてなんて懸命で勤勉な行いだろう。
「では。よくお眠りの酉井様をお部屋にお連れしましょう」
「……え?」
ねむっている。
ん、え?
お眠り?
「ねむっている……」
「ご確認されますか?」
触れるのも嫌だった。はずだった。
耳を疑うことで嫌悪感が消えたのか、死んでいないことがさらに嫌悪だったのか。
わたくしは膝をつき、羽毛で隠れた鳥肌に触れる。
羽毛越しには疑うしかない、細い体。
濡れるのを嫌う乾燥肌。
……ほんのりと暖かく、微かに動く鶏肉。
「……」
「泣いているのですか」
「悲しいです。生きていて」
わたくしは、まだこの人から逃げられない。
「そうですか」
無慈悲な声が脳を貫通する。
同情も憐みも申し訳なさもない、無関心。
無関心はわたくしの十八番だと思っていた。
上には上がいた。
……どうでも良すぎて笑いが出る。
「なぜですか」
「なぜ、とは?」
「ライター様は仕事を完了されました。わたくしの『コろして』という依頼を。確認したはずなのに、なぜ死んでいないのですか」
これは『怒り』だ。
怠惰のわたくしが無駄な感情で振り回されているという滑稽な状況。
憤怒に対して怒るという憐れな状況。
彼らの餌を振りかざし、わたくしは怠惰であることを忘れていく。
「私の方こそ確認したじゃないですか。「完了でよろしいですか?」と」
平然と。
本当に憤怒なのかを疑うほど、冷静に。
わたくしの怒りなど、まだ下拵えも済んでいない粗末な食材だと言われているかの様に。
そそられない。
つまらない。
期待が持てない。
ため息が一つ、空気を揺らす。
「私は、殺しをするとは言っていないし、殺したとも言っていません」
…………それは。
そうだけど。
「というか、殺しに代理を立てるなんて迷惑極まりないことです。あなたは怠惰らしい行動をしましたが、それとこれとは話が別です。貴方の人生のために私が人生を賭けて殺しをする必要がどこにありますか。対価はなんですか? 貴方は貴方の人生を得る代わりに、私に何をくれるというのですか? 人生に相対するものなんて人生しかありませんよ? よろしいのですか?」
弾丸の様に繰り出される言葉が、わたくしを乱れ打ちにした。
最初から、この人はわたくしの依頼など話半分程度だったのだ。
気休めで、気まぐれで、キチガイな扱いをしているのだ。
受けられないなら受けられないと言って欲しかった。
受けるならば対価が必要だと言って欲しかった。
受けたふりして受けていないと、わたくしで遊んでいたのだ。
あ……ああ、なんか、疲れたな。
「殺しをしないので、永遠に眠ってもらうということで手を打ったつもりなのですが」
「…………え?」
えいえんに、ねむる……。
「玄関に生えていた草に、強い催眠作用があるものがありました。これを永遠に飲んでいただきます。飲むときは起きなければなりませんが、それ以外はほぼ眠っているでしょう。水分摂取は生きるために必要なことです。鳥居様の場合は……遠くない未来、本当に起きなくなるようですし」
どこか確信めいた言い方をしながら、ライター様は崩れたわたくしを見下ろす。
車椅子に座りながら長い脚を組み、目隠しの隙間から赤い瞳がわたくしを捉える。
本能が叫ぶ。
逃げようとしても無駄だ。
あれは捕食者の目だ。
そして怒っている。
無関心などではない。
冷静に、怒っている。
「ダブルブッキングだなんて、私のポリシーに反します。裏紙を使うなんて適当な扱いだと思わざるを得ない。ああ、忌々しい」
「申し訳……ありません……」
「あなたはこの屋敷の労働力として雇います。必要なことだけやってください。今までと変わりません。相手が変わるだけです。それが、この依頼の対価です」
拒否権はなかった。
もうすでに完了してしまった依頼。
逃げようとしても、どこに逃げろというのかと。
この屋敷から逃げたくなった。
一度目の失敗を思い出して、どうしたらいいかと考えた。
結果、戻ってくるぐらいなら、最初からここにいよう。
逃げるのも、面倒くさい。
――――― ❀ ―――――
ああ、懐かしい。
いまだにこうして囚われ……、いえ、雇われている。
それでも幾分はやりやすくなった。
暴言は吐かれず。
怒鳴り声を聞かず。
夜には物音で起きず。
食事は食い散らかされず。
糞尿を撒き散らかされず。
日々、怯えることがなくなった。
……いや、怯えることはたまにあるが、まあそれはいい。
「よく働いてくれています。怠惰なのに」
「ありがとうございます」
「褒めてないです。嫌味です」
飲み切った紅茶におかわりを注ぐ。
出涸らしのティーパックだった。
まあいいか。
…………睨まれた。
「最近の酉井様のご様子は?」
指が止まる。
すぐに動かした。
「変わりありません」
「説明不足です。最近起きたのはいつ頃ですか?」
ふう、と口から声が漏れる。
記憶をたどり、微かに思い出された光景。
これはいつだろうか。
日付なんてほとんど気にしないからわからない。
「……たぶん、二日前でしょうか。飲み込みが悪くなってきているので、とろみをつけてコップ一杯分介助して飲んでいます。十分ほど起きていたかと。点滴は変わらず続いています」
「そうですか。わかりました」
主人はもう、言葉を発することがない。
ほとんど寝ているせいもあるが、起きてもぼーっとしている。
スプーンを見せれば口を開けるから、飲食物だという認識はあるのだろう。
だが、わたくしへのリアクションはない。
もう完全忘れてしまったのだろう。
「嬉しそうですね」
「はい」
わたくしは嬉しい。
穏やかな気持ちで、十分間もの長い時間を共有している。
あの様な状態にならなければ、一瞬でも一緒にいたくなくてまた逃げていたかもしれない。
逃げて、庭に潜んで、今の様な状態になるのをずっと待っていたかもしれない。
「そういえば」
思い出語りの最中、気になったことを思い出した。
正しくは、気になったなという事柄を今思い出して、そして再度気になった。
「なぜ虎だとわかったのですか?」
猿轡をした子が虎に扮し、声を発した。
コップの中身を知っているはずの言葉とは思えない言葉を言っていた。
わたくしの私室にいたのが虎だと言ったのは、主人が眠ってからだ。
「ああ、知りませんでしたっけ?」
回転椅子が音を立てる。
向きをずらしたご主人様は、立ち上がり、わたくしに寄ってくる。
威圧しているつもりはないだろう。
けれど感じる威圧感。
これが、伝説の生き物の存在感。
消そうとしなければ消せない重圧。
「それは、私が耳当て授けた力です」
「え、耳当てに……?」
扮していたのは明らかに猿轡だった。
隣に耳当てがいたし、姉妹といえど見分けはつくほどの似てなさだ。
木が動転しすぎて間違っていたのだろうか。
だとしても。
耳当てがなぜ、虎だと気づいたのか。
力とはなんなのか。
「私は憤怒。猿は憤怒の眷属。主は眷属に異能を与えられる。聞いたことはありませんか?」
「全く」
「怠惰ですねぇ」
そうですとも。
「まあ、それが全てです。耳当ては「音を聞かない」という制限をして、本来は声のないモノから声を聞くことができるのです」
「声のないモノ?」
「たとえば、このティーカップ。または机。カーテン。そして、骨」
ああ、なるほど。
そんな普通では起こり得ないことを起こしていたのか。
そんなの聞いてない。
「では、猿轡も」
「あの子は本音を封じている代わりに、建前を言えます。言い方を変えれば嘘しか言えません」
だから催眠作用がある飲み物を出しながら、平然と「長生きしてください」なんて言えたのか。
心にもない建前を。
「……では」
「はい?」
「骨からは何を聞いたのですか?」
得体の知れない元客人、現雇い主の口元が歪む。
愉しそうに嗤う。
得体の知れない不気味さに身の毛がよだつ。
「こちらへ耳を」
なぜそんなことを。
とは思ったが、恐怖の前ではわたくしの意思などないに等しい。
体を横向きに、耳がご主人様の方へ向く。
耳にかかった髪をわざとらしくゆっくりと避け、息遣いを感じさせる。
「虎は」
「っ」
『次は、喰ってやる』
――――― ❀ ―――――
名前: 酉井 認
職業: 高齢者
相談内容:
ワシの 妻 はど[ に 行 っ たのか、 連絡 が来Sない か?
ワシ は 心配 JSい る 。
ど[ に行 った の だ 。
[ の まま ゛J ゃ生 活゛Sき ない。
ワ シに ど うJεと いう のだ
財 布 はど[ だ ?
Jょ くひんは ど[ だ ?
早く帰 っ S きS作っS くれ。
メイド
丑尾 安未
【コメント】
字は綺麗だが字が散らばっていて変な雑さを感じる。
文字の羅列が特徴的なので、要確認。
もしかしたら想定と間違いがあるかもしれないので慎重に対応する。
メイドの名前が書いてあるのは依頼に関係があるのか?
珍しく裏紙を使用しているお客様だ。
――――― ❀ ―――――
「いやー。全く売れませんねぇ」
この屋敷の主は届いた手紙を読みながら満足げに言う。
わたくしにはどこがおもしろいのかわからない物語が、他の読者からしても比較的不評のようだ。
世間に発表する前に読ませてもらったが(読むように指示された)、途中で寝てた。
主は「そういう反応もありがたい」と責めなかった。
原稿が涎で汚れてしまったのがわかったときは空気がピリついた。
あの時の土下座は滑らかすぎて瞬間移動の様だったと言われた。
眼鏡越しに覗く赤い瞳を見つめながら、呟く。
「あの」
「うん? なんだい?」
「なんで、目を隠すんですか?」
「……前言わなかったっけ?」
「聞いた気はします」
少し笑って、「そっか」と。
これも怒らない。
けど、目は笑っていない。
「目から得られる情報は多大だからね」
「……先入観が邪魔をする?」
「正解。覚えてるじゃないか」
聞いてから思い出した。
そうそう。
「依頼主の外見から判断してしまわないようにするため」と言っていた。
世界を渡った先の生き物はどんな風体をしているかはわからない。
全く見えないわけではなく、少しぼやかしているのだという。
もしかしたらおどろおどろしいかもしれない。
もしかしたらファンシーかもしれない。
もしかしたらヒトガタでも肌が蛍光色かもしれないし、主には認識できないくて透明かもしれない。
それは『見えてしまうから』そういう感想が出るのだと。
恐怖するのだと。
好感を持つのだと。
怪訝に思うのだと。
主はそう言う。
だから、『はっきり見ない』という選択をした。
「では、わたくしのことはどう思ったのですか?」
紅茶の入ったティーカップを口に運ぶ主に、唐突に聞いてみた。
目を上に泳がせ、しばし黙る。
紅茶を飲み込んで、全く笑っていない目を眼鏡越しに見せつける。
「真面目そうなふりをしたクソやろうだなって思ったかな」
嗤った。
―――――……
とある屋敷。
鬱蒼とした森の中に広めの建物。
建物には蔓植物が這っている。
庭らしき場所はもはや雑木林。
ここの主人は薬草を育てるのが趣味なのかのかもしれない。
本で読んだ毒草や薬の材料になる植物は多く見受けられる。
石でも飛んだのか、ヒビが入ったままの窓ガラス。
手入れの行き届いていない様子は一目でわかる。
「ご依頼者様はご存命でしょうか……」
玄関の手前で、目隠しをした車椅子のお客様が呟く。
失礼な物言いであるが、例え主人とは言え、どうでもいいと思ってしまう。
そう、私はメイドとして失格なのだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「まーす!」
猿耳の猿轡をした子と、猿耳に耳あてをした子に車椅子を押され、御仁はするすると屋敷に入っていく。
どんよりと曇った景色を扉で仕切った。
御仁の前を歩き、依頼を出した主人の元へ案内する。
車椅子で来ると聞いていたので、主人は一階で待機してもらった。
はずだった。
「……すみません」
「はい?」
「どちらかへ行かれてしまったようです。少々お部屋でお待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「おやおや。一緒に探しましょうか?」
「いえ。お客様にそこまでしていただくわけには。こちらでお待ちください」
「承知しました」
御仁たちを部屋に残し、わたくしは二階へ行く。
主人が行く場所はたいてい自室か妻の部屋。
それらは二階にある。
階段だから車椅子ではいけないし、ほぼ確定だから人手はいらない。
ドアの横のベルを鳴らす。
光がちかちかと照る。
「失礼します」
「帰れ!!!」
扉に何かが当たった。
扉を開けて、ぶつけられたそれを見る。
子猫の死骸だった。
「お客様がお見えです。ご用意をお願いいたします」
「知らん! なぜワシが出向く! 向こうに来させろ!」
「この屋敷まで来てくださったのですよ。お食事もご一緒にご用意させていただくことになっています」
「ようやく飯か! いつぶりだと思っている!」
「今朝ぶりです」
大きい羽根をこれでもかと広げ、自分を大きく見せて威嚇してくる。
話すたびにこれだ。
何度もされればいい加減慣れる。
横幅は向こうの方が大きいが、縦はわたくしのほうが高い。
昔はこれでも迫力があったのだが。
羽の隙間も増え、艶も減り、随分老けてしまったものだ。
歩くときもふんわりと羽を広げ、爪を立てながら歩く。
食堂の場所はしっかり覚えているようで迷いがない。
主人を追って部屋を出て、振り向く。
カーテンはボロボロ。
糞はいたるところにある。
羽も散らばっている。
衛生的ではないその部屋を見て、扉を閉めた。
「……汚い……」
「誰だ貴様らは!」
食堂から主人の叫び声が聞こえる。
その一言で分かる。
自分からアクションをとった客人に叫んでいるんだ。
全く。しょうがない。
ああ、めんどくさい。
足取りは重い。
気持ち歩幅を小さくして。
気持ちスピードを落として。
一階にある食堂へ向かう。
「こんにちは。私はライターと申します」
「何をしに来た! ここを誰の家だと思っている!」
「私の認識に間違いがなければ、酉井 認様のご自宅かと」
「そうだ! ワシこそが酉井である!」
「御目にかかれて光栄です」
「うむ」
おや。と感心。
あの傲慢な主人を言いくるめている。
あのライターという御仁、見た目は怪しいことこの上ないのに。
「失礼します」
「遅いぞ! こちらのライター殿に茶を出さんか」
「はい」
誰が遅いんだ。
そう突っ込みたいが、内心に留める。
食堂に備え付けの棚の鍵を開け、人数分の食器を出す。
紅茶の用意をしていると、猿耳の子どもが寄ってきた。
「持ってくー!」
「ありがとうございます」
無邪気に両手を突き出す。二人。
少し心配な勢いだが、微笑ましさもある。
まあ、溢してもいいか。
自分たちで拭ける年ごろだろう。
一人一つのティーカップとソーサーを持たせ、見送る。
溢さないように慎重に運ぶ姿も微笑ましい。
前を見ていないが、直前で気付くだろう。
「前を見なさい」
「ぅわあ!」
ライター様が二人に言って、テーブルにぶつかる寸前で顔を上げた。
紅茶を零したり食器を割る事態にはならなかった。
大人二人分の紅茶はカートに乗せる。
椅子に座り「食事はまだか」と叫ぶ人の前に紅茶を。
鎮座し、表情を見せないまま「ありがとうございます」と穏やかな人にも紅茶を。
一礼して、続き部屋にある食事を乗せたカートを持ち込む。
ああ。めんどうくさい。
「お食事はビュッフェ形式です。様々なものをご用意させていただきました。お皿をお取りになり、お好きなものをどうぞ」
言って、わたくしは早速皿をとる。
小分けに仕切られたワンプレート。
そこに、決まった食事を決まった量で盛り付ける。
そして今か今かと忙しない主人の元に運ぶ。
「遅い!」
「申し訳ございません」
言い終わる前にがっついて食べ始める。
客人がいてもこの食べ方はお構いなしか。
飽きれるというか、引くというか。
ああ、ライター様はもしかしたら見えていないのか。
目隠ししているし。
ライター様も猿耳二人に食事を取りに行かせているようで、優雅に紅茶を飲んでいる。
「いいお茶ですね。どちらのですか?」
「あー……ええっと、確か東のものです。めったにないお客様ですので、上質なモノをご用意させていただきました」
「それはそれは。ありがとうございます」
お茶の出所なんて知らない。
適当に高そうな奴を買っただけ。
聞かれたことに答えていないのに気付いていないのか、またお茶を啜る。
猿耳二人が持ってきた食事にも手を付けた。
主人が食事に集中しすぎるせいで、ライター様が話しかけても反応しない。
次第に諦めたのか、全員が食事に集中するようになった。
食事の音と咀嚼の音だけなのに騒がしい。
「貴様ら、何をしに来た」
唐突に主人が声を上げる。
嚥下しきっていなかったのだろう。
口の中のものが飛び散った。
ライター様の方までは飛ばなかったようだが、猿耳たちは驚いて目を丸くしている。
「この度、酉井様からご依頼を頂き、参上いたしました次第です」
「何のことだ! ワシに心当たりはないぞ!」
「こちらになります」
「知らん!」
提示された紙を見ずにそっぽを向く。
「主人が書いたもので間違いありません」
代理で答えると、「そうですか」と満足そうに頷いた。
「こちらには……要約すると、奥様を探してほしいということですが」
「!? 貴様! 我が妻のことを知っているのか!? あいつはどこにいる!! 言え!!!」
椅子から飛び、テーブルの上に乗る。
食事の皿を床に落とし、なんならライター様のお皿を踏むのもお構いなし。
わたくしにしたように羽を広げて威嚇し、ライター様に詰め寄る。
「いいえ。残念ながら存じ上げません。ですが私どもの仕事はお悩み相談です。酉井様がご依頼されるのでしたら、奥様を探すことをお手伝いいたしましょう」
「ほう! そうか! ならばすぐやれ!」
「承知いたしました。患いによって暗く閉ざされた貴方の道、私が正しく灯して見せましょう」
あっという間に契約してしまった。
いいのか。
「ふーむ……これは……何でしょうね」
ライター様の声で眠気が飛んだ。
「何かございましたか?」
変なものは片付けたはず。
何かあるとしたら……。
「これはどなたの骨でしょう?」
ああ、それか。
「さあ……。四つ足動物ですね。換気中に迷い込んだ猫でしょうか」
「でしたらサイズ的にはまだ子猫ですね。迷い込んだ線はありそうです」
形が崩れかけているが、まごうことなき何かの動物の骨。
一式揃ったそれだが、何かを特定することは難しいだろう。
見つけてくれてよかった。
「どちらにございましたか?」
「本棚の裏です。ここで怯えてるうちに、でしょうか」
「そこは見ていませんでした。可哀想に。わたくしのほうで埋葬しておきます」
「あ、ちょっと待ってください」
亡骸を回収しようとして、止められた。
何をしようというのか。
怪訝な顔になりそうなとこ、必死に仮面を貼り付ける。
「……なにか?」
「一応、私どもの調査の一環として、このまま保存しておいてください」
「はあ。わかりました。用がお済になりましたら埋葬いたしますのでお声掛けください」
何なのだろう。
死骸に用があるとは到底思えないのだが。
『死者に口なし』。
何も語られないだろうに。
いつの間にか酔っていた猿耳二人が足元から覗き込んでいる。
死骸は確かに珍しいが、怖がりもせず、よく見れるものだ。
「さあ、もう少し見させていただきますね」
気を取り直して。
その場から車椅子を漕いで離れる。
あなた一人で移動できるのですね。
―――――……
ぱたん。
部屋の扉を閉める。
隅々まで見終わったということで、部屋を後にした。
人の部屋を見てメモを取るというのはいい気はしないが、今回ばかりは仕方ない。
依頼したのだから。
これであの人が落ち着いてくれればいいのだが。
「この後はどうされますか?」
正直、この屋敷で依頼に関係がありそうな場所は今見た私室ぐらいしかない。
「そうですね。適当に屋敷内を見て回りたいです」
「……わかりました」
指定しないということは、やはり手がかりを探しあぐねているのだろうか。
今の部屋でもこれと言ったヒントは得られなかったようだし。
唯一あった者は死骸。
それも関係があるのかはわかっていないし。
「センセー!」
「うん?」
「童たちお外行きたい!」
「よろしいですか?」
猿耳たちはきらきら輝いて……いない目を私に向ける。
ただ飽きて暇でしょうがないから外に行きたいと言っているような気がする。
「どうぞ。玄関からお出になれます」
「いってらっしゃい」
「わーい!」
仲良さげに手を繋いで、二人は駆けて行った。
まあ、確かに子どもには暇な時間か。
はて。なぜそんな二人がお供で付いてきたのだろう。
「では、よろしくお願いします」
「あ、はい」
まあ、そんなことはどうでもいいか。
とにかくこの人を案内しなければ。
一声かけ、車椅子のハンドルを握る。
二階の廊下をゆっくり移動。
扉ごとに何の部屋かを説明する。
無駄に広い家。
部屋の数も多い。
部屋には鍵がかかっているものが多い。
「なぜ鍵を?」
「主人が迷い込んでしまうんです」
「ご自分の家ですのに?」
「はい。方向音痴で。自分の部屋と食堂は帰巣本能でしょうか、迷うことはありません。ですが何も考えずに部屋を出てしまうと、よく空き部屋に迷い込んで「閉じ込められた」と叫んでいらっしゃいました。ですので鍵をかけて、そもそも入れないようにしているんです」
「おや。それはそれは……大変ですね」
鍵をかけるだけ。
鍵をかけてしまえばそのまま。
わざわざ入ることはしない。
なので言うほど大変ではない。
だが、ここはメイドらしく。
「掃除のたびに鍵を使うのは、確かに面倒ですね」
――――― ❀ ―――――
【調査票①】
名前: 酉井 認
職業: 高齢者
依頼主: 当人?
調査内容:
依頼主らしいが、本人は覚えていない。
館のメイドに確認したところ、「主人のものです」と。
気性が荒く、よく叫んでいる。
動作が粗暴。
傲慢な性格。
忘れやすいようで、自宅でも迷子になる。
「妻を探してほしい」とのことだが、妻についての詳細は聞いても回答得られず。
館に写真もなく、メイドも面識はないとのことで外見も内面も不明。
話していた内容:
「探せ! 某の妻はどこにいる!」
「どんな奴かだと? ………………」
「見つけ出したら褒美をやろう!」
―――――……
【調査票①】
名前: 依頼主の奥様
職業: 不明
依頼主: ●●様
調査内容:
依頼主の妻。
人物像は不明。
自室は特に特徴はなく、片付いていた。
本棚の裏で四足歩行動物の死骸があり。
白骨化していたため時間はそれなりに経っているだろう。
自室に鍵はかかっていなかった。
―――――……
名前: 依頼主のメイド
職業: メイド
依頼主: ●●様
調査内容:
依頼主の館に住み込みで働く唯一のメイド。
館に埃あり。
庭や外壁は草木が生い茂っている。
メイドという割には館のことは最低限で済ませている様子。
勤めてからそう日数は経っていない。
依頼主の奥様にも面識はないとのこと。
表情の変化は乏しい。
普段の働きぶりはどうなのだろうか。
話していた内容:
「わたくしもですか? ……わかりました」
「この広い館を一人では無理です。なので主人のお世話を中心に行っています」
「わたくしが務め始めたころからこの有様です。綺麗にしろとも言われてませんので」
――――― ❀ ―――――
車椅子を押す音だけが廊下に響く。
たったそれだけの音大きく聞こえるほど、他に音はなく、また外にも何もない。
強いて言えば草木が多すぎるほどにあるだけだが、それは特に問題ない。
なぜなら、別に生活には支障がないからだ。
わたくしと主人しかいない家。
どちらかが気に留めない限り、何かをしようとは思わない。
二階を一通り見て回りたい、と言った客人は鼻歌を奏でる。
本当に見ているだけ。
いや、見えてもいなさそうな眼帯に隠された眼。
これに意味はあるのだろうかと思う。
意味なんてなくてもいい。
それで今日が潰せるなら、それもそれで。
「この家で使われている部屋はいくつですか?」
唐突にライター様が誰かに尋ねる。
無論、わたくししかいない。
出かけた欠伸を噛み締めて、言葉を反芻する。
「三つ、いえ、四つです。主人の部屋、食堂、主人の奥様の部屋、わたくしの部屋」
「全て二階ですか?」
「いいえ。食堂とわたくしの部屋は一階です」
「普段から鍵をかけている部屋は?」
「主人の奥様の部屋だけです」
ふむ。と会話が終わる。
実るようで実っていない。
実は空っぽというか、甘みのない果実のような会話。
果たしてこれは意味があるのかないのか。
わたくしの顔は正直だったようで、隠された眼が笑っているように眉が持ち上がった。
「酉井様の元へ行きましょう」
「ということは、何かわかったのですか?」
「ええ。ですが、その前に確認したいことがございます」
「わたくしに?」
「いえ、酉井様にお伺いします」
はあ。
ため息と返事を同時に行い、踵を返す。
階段までの道のりはなぜか重い。
だが所詮は家の中。
早かれ遅かれ、階段はすぐそこだ。
「お連れの方々をお呼びしましょうか」
登り階段は車椅子を抱えて登った。
ひどい有様だったのは鮮明に思い出せる。
下りはどうするのかと直前で思い出した。
ライター様に問えば、「お構いなく」と足を乗せていたステップを避ける。
「んーっ」
「……立てたのですね」
朝起きたように。
しばらく伸ばしていなかった足と背をこれでもかと伸ばす。
長すぎる足と背が仰反る。
いったいなんで車椅子に乗っていたのかと思うのは不思議なことではないだろう。
「私は長くは歩けませんが、階段ぐらいなら降りれます」
車椅子を畳んで、両手で持つ。
そこは男性だからか、車椅子とはいえ両腕は特に異常はないからなのか、安易と持ち上げた。
足取りも重くもなく、むしろ軽い。
長く歩けないからと言って、そう簡単にいくほどなのか。
そうこうしているうちに、ライター様は一階へ到着。
思い出したように私も降り始めた瞬間、ライター様が振り返る。
「歩けないとは言ってませんからね」
悪戯な笑みに鳥肌がたった。
一言も聞いてもいない。
疑いの顔になっていても見えていないはず。
してやったり、と意地の悪そうな顔をしているのだろう。
半分程度の顔は見えているのに、見えているものは偽りのように感じる。
見えているものは真実かを疑問に思う。
裏には何かを潜ませていそうな、違和感というには安直なそれ。
今までのことすら疑いそうになる、怪しい感覚が全身を巡る。
「きゃっ」
足を踏み外した。
滑り落ちはせず、体が段差に身を委ねる。
「おやおや、大丈夫ですか?」
そう口にするわりに、心配しているように感じない。
今までこうだったか?
今だからこうなのか?
今となってはわからない。
今となってはどちらでもいい。
返事をするのも忘れて、立ち上がって身なりを整える。
平静を装って降りた先では、ライター様の声で「早く押せ」と幻聴が聞こえるように車椅子に座っていた。
とても優雅な姿に、また鳥肌が立った。
金属の音が廊下に木霊する。
木霊しているようで、実は自分の脳内にだけ響いているのかもしれない。
それだけ音を意識しているということか。
なぜそんなにも音に敏感、いや、過敏なのか。
その音を出している車椅子の持ち主のせいだろう。
手汗が滲む。
悟られてはいけない。
なぜ?
なんででもだ。
悟られると、何を言われるかわからない。
何を言われても後ろめたいことはないはずだが、何かを聞かれるのが嫌だ。
背中を撫でられているような。
耳の裏をなぞられるような。
内臓を擦られているような。
得も言えぬ不快感。
ありきたりだがそのような表現しかできない。
まさにその言葉があうというのに、胸部や腹部の不快感は増すばかりだ。
「食堂でよろしかったですか?」
「酉井様がいらっしゃるところに」
「では、食堂ですね」
ドアをノックする。
中からの返事はなかったが、少しばかりの間隔開けてから扉を開けた。
テーブルの上で食事を貪っていた。
食事を摂っているわけではなく、貪っている。
口周りは赤黒いソースが。
後頭部にまで飛び散った野菜類。
べたべたしてそうな汚れた羽。
「!? 誰だ貴様は! ワシの屋敷で何をしている!? おい! そいつを追い出せ!」
ぎこちなく翼を広げ、威嚇する。
この人は少し前のことでさえも忘れてしまう。
わたくしのことは辛うじて覚えているようだが、ライター様のことはすっかり抜けてしまっている。
「酉井様。ライターでございます」
「知らん! 知らん知らん知らん! ワシはそんなやつ知らんぞ!」
「おや、それは困りました。せっかく酉井様のご依頼の、奥様についての情報をお持ちしましたのに」
えっ。
「……なんだと? 妻? 我が妻について何か知っていると言うのか!?」
「はい」
「話せ! 白状しろ!」
鳥なのに駆け寄ってくる主人。
翼を大きくしたまま、車椅子のライター様に詰め寄る。
切迫、ではなく、憤怒の勢いで捲し立てる。
「白状というほど私に罪はないと思うのですが」
「ぬかせ! ワシの妻をどこへやった!!」
「おやおやおやおや……」
嘴から何かが飛んだ。
お客様も流石に引き気味の様子。
食堂の席に誘導し、距離をとって対面に位置するようセッティングした。
人の前だけテーブルを拭いて、わたくしも着座したところでライター様が「さて」と始める。
「酉井様」
「なんだ!?」
「確認がございます」
ここで焦らすのか、と、思わず見てしまう。
どこを見ているのかわからない目隠しの御仁は、顔は主人に向けたまま。
「いる!!! いるに決まっているだろう!! ワシを愚弄する気か!!?」
「いえいえ、全くそのようなことは。ですが、それなら安心いたしました」
「なんなのだ!! 何が言いたいのだ!!」
「いえね。以前私が関わった相談事でね」
……。
「『本当は出て行った妻を心配するふりをして居場所を突き止め、二度と出ていけないように拘束する』とか、『妻ではなく一方的に好いているだけで、実際は交際どころか嫌われており、ストーカー化している』ということがございまして。最終的にその方々は……」
……。
「ということがございまして。いえ、すみません。疑ってしまって。大変ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。謹んで謝罪させて戴きます」
「い、いや……」
……驚いた。
主人が勢いを殺されている。
まさか……、まさかまさか、本当はそういうつもりで……?
背中を何かが伝う。
テーブルの下で、掌に爪が食い込む。
慌てて開くと汗で濡れていた。
「それで、奥様のことですが……」
「あ、ああ」
「ご存命ではないかも知れません」
「……な」
え?
「奥様のお部屋を確認いたしましたところ、白骨が見つかりました」
「な……白骨……だと!?」
「ええ。四つ脚で、小柄で、おそらくは猫科かと思うのですが。いかがでしょう、奥様の様相と合いますでしょうか? 合わないようでしたらまた別の方と言うことになりますので、然るべきところに連絡しなければなりません」
「あわ、な……いや、ん?」
「もしや、覚えていらっしゃらない? 愛する奥方様を?」
「いや! いいやいやいや!! 合う! 合っている!! そやつで間違いない!! ああ、なんと、なんということだ……ああ、愛い妻が何故そのようなことに……」
「心中、ご察しいたします。大変お辛いことでしょう。そこでもう一つ、私から提案させて戴きたいのですが」
「なんだ、なんなのだ」
「一途に想い続けるのも素晴らしいことですが、乗り越えなければいけないことも確かです。一途と執着は別物です。そしてあなたは高貴なお方。よそ様にお披露目するには並大抵の方では貴方の隣も三歩後ろにも立てない。どうでしょう。私が良い女人を紹介しましょう」
……。
さて。
目が点になり、口は鳩の様になった。
私も、もちろん主人も。
この客人は突然何を言っているんだ。
私と主人の心情はおそらく一致しただろう。
顔が一致しているからそう思うだけで、もちろん示し合わせも答え合わせもしていない。
けれどそう思うだろう。
それだけインパクトがあることを言ってのけた。
「……は、っは、はは……ふははははははは!!!」
徐に、音量を上げながら笑いだす。
主人はみすぼらしい恰好のまま、いつぶりと言うほどに大きく笑った。
笑い声を聞きたくなると耳を塞ぎたくなる。
畏縮する。
止めてくれ。
「いかがでしょう?」
ライター様が笑い声をかき消した。
思わず耳に手を当てていた私は、天の助けかと思うほどに感謝の念を送った。
もちろん、私のことは見えていないのだろうからできる。
「よい! よいぞ! さっさと連れてこい!」
「では、すぐに」
手を叩いた。
え、と思ったのは言うまでもない。
そんなにすぐに。
何故用意している?
誰が来るのだ。
一応メイドのわたくしは、席から立って、扉に駆け寄る。
しかし扉に手をかける前に、外側からノックと、そして力が加わる。
部屋の空気が流れる。
「せんせー! お連れしましたー!」
「私の隣へご案内を」
「こっちだよー!」
耳当てをした子猿が、同じぐらいの背丈の女の子を連れてきた。
それはもう一人の子猿だ。
特徴的な猿轡をしていない。
そして変に、と言ったら失礼だが、確かに変な格好をしている。
黄色と黒の毛皮を全身に身に纏い、フードを被っている。
フードには耳がついていて、まるで猫……いや、虎。
子どもの虎だ。
「お連れしました」
「ほう……」
子どもの値踏みがされるという気持ち悪い空間が眼前に広がっている。
いやらしい目つきで子虎の格好をした子猿を見つめる主人。
気持ち悪い。
きもちわるい。
キモチワルイ。
ああ、あんな風に、白骨した子も連れて来られたのだろうか。
後悔にも似た黒い感情が胸を満たしかける。
わたくしが見つけた時にはもう弱っていた。
ご飯を持って行って、よく食べていた。
だから大丈夫と思った。
数日……十日経っていたかもしれない。
用があって部屋を訪れたら、死んでいた。
両手を擦る。
もう、生きて出ることなどできない程に弱っていたのだろう。
可哀想に。
でも、あの子がいてくれたから、わたくしは助かった。
だから丁重に弔わなければいけない。
弔っておかなければならなかった。
……これが終わったら。
「ふむ。ふむ。よいよい。良く育った子だな」
ぞわりとした。
私に向かったセリフではないのはわかっている。
意味を理解して、良い意味でとらえる人はどれだけいるでしょう。
主人と同類がどれほどいるとか。
考えたくもない。
「よいぞ! こ奴をワシの妻候補としよう!」
「それはよろしゅうございました」
「よい働きであった! 褒美をやらねばやらんな!」
「ありがたい申し出です。謹んで拝領いたします」
「うむうむ! ワシが死んだ暁には、この屋敷のすべてをやろう!」
は?
「それはそれは。随分と豪勢なものを頂いてしまってよろしいのでしょうか」
「良い! ワシが言うのだから良いのだ!」
「では、ありがたく」
「うむ!!」
待って。
ちょっと待ってほしい。
この屋敷のすべて?
つまり、住み込みで働いているわたくしは……?
「……旦那様、長生きしてください」
子虎の格好をした子猿が、どこからか紅茶を取り出す。
金色のティースプーンを添えたティーセット。
満更でもなく、主人は荒々しく受け取る。
「ふむ! ちょど喉が渇いていたところだ! 気が利くなぁ妻候補よ!」
あれだけ叫んで喋っていたらそうだろうと思う。
勢いよく。
顔にかかるんじゃないかと思う力強さで紅茶を飲み干した。
「……………………ぅぐ……」
突然。
羽で包まれた顔は力なく、だらしなく歪み。
床に突っ伏した。
「それでは」
耳あての子猿が、ライター様の車椅子を押す。
倒れ伏した主人に近寄り、見下し、見下ろして、冷たく言った。
「ありがたく、頂戴いたします」
ぞ り。
目隠しの下の目が光ったような気がした。
『見えた』と思った瞬間、そう思ったことを後悔した。
あれはダメだ。
見てはいけない。
わたくしたちとは異質な存在。
真っ当な動物を宿すわたくしたちとは違う、上位であることは間違いない。
上位、つまり、高貴。
下層の者たちでは姿を見ることすら能わない。
そう感じさせるほど、重く、強く、怖い。
脳天から顎先にかけて汗が伝う。
近くで慕う小猿たちでさえ、わたくしは目視してはいけないような気がして。
身を屈め、視線は自身の足先に向けた。
そうしないとこの空間にはいられなかった。
「ところで」
肩が震える。
汗が落ちる。
床にシミができる。
眼球が泳ぐ。
何か気に触ることをしただろうか。
わたくしは……不十分だ。
わたくしはメイドという立場でありながら、もてなすということについては不十分だと自身で理解している。
それが罪。
怠惰であるわたくしのあり様。
眷属であるからこそ、その本能には抗えない。
「あなた」
キィ。
決して大きくはない耳障りな音。
わたくしの方に寄ってきて、……お客様の靴先が視界に引っかかる。
足を組み直す動作でさえ恐怖で慄いてしまう。
「お名前は?」
「……………………は?」
「は?」
「っ、申し訳ございません」
思わぬ回答、いや、質問に間抜けな返答をしてしまった。
反射的に謝ったのは正しかっただろう。
さっきの様な嫌悪感を感じる隙もなく謝るのは、自己防衛本能からか。
草食である自分が、肉食に敵うはずがないという対応力か。
諦める前に謝るという、抗いか。
「……それで、お名前は?」
「……丑尾、と申します」
「そうですか、貴方が丑尾様」
ぺらり。
視界を白と黒の何かが遮る。
手に取ると、その質感は紙だった。
触り心地のある様なない様な、特に特徴もない紙。
真っさらな白い部分に、ポツポツと黒い部分がある。
それにはとてもとても目に馴染みのある文字が書いてあった。
「あなたのご依頼ですね」
「……はい。ありがとうございます」
『ころして』
わたくしは確かにそう書いた。
主人の依頼の紙に。
裏から。
筆記の違いはあったが、主人は気付かないだろう。
書いたことさえも覚えていないだろうから。
「回りくどいことをされましたね」
「ええ。まあ。本気ではなかったので」
「ほう」
「……失礼いたしました。言葉を改めます。正しくは、『殺しも請け負ってくださるとは思わなかったので』」
「殺したい気持ちは本物ということですね」
「はい」
「それは、貴方が妻の立場として受けた所業によるものですか」
「……はい」
わたくしは酉井の妻でした。
正しくは今も妻です。
離婚したかった。
けれどできていない。
酉井が……主人が拒否したから。
「離婚なんて世間体の悪いこと誰がするか」
といつもの様に叫び散らかしたのです。
ええ。あの人の叫び癖は昔からです。
今は……おそらくは病に犯されていますが、傍若無人で傲慢で王様気取りは変わりありません。
覚えていない、覚えられなくとも、あの人にとって他者は愚者で下民なのです。
それは妻であってもそう。
妻であっても対等でも三歩後ろでもなく、足元に這いつくばる存在なのです。
……なぜ結婚したか、ですか。
『楽』だったからです。
あの人は自分勝手な傲慢。
わたくしは他人任せな怠惰。
利害の一致。
それだけです。
ですが。
そんなわたくしでも長くは続きませんでした。
怠惰の眷属であるわたくしには、顎どころか足先で使われ続けることはできません。
存在に反します。
存在を否定する暴言や妄言にも耐えきれず。
猛禽の爪や嘴を受け続けることは苦痛以外の何者でもありませんでした。
この立場に甘んじる『怠惰』もありましたが、『怠惰』でいれないことに苦痛を感じ、放棄し、逃げ出しました。
「でも、戻ってきた」
その通りです。
逃げ出したわたくしは、なんでもしなければならなかった。
自分で家を探し、仕事をし、家事をやって、生活する。
ああ、なんてめんどくさい。
「怠惰らしいですね」
「お褒めにお預かり、感謝を申し上げます」
「褒めてません。認めただけです」
逃げ出した途端に面倒臭くなったわたくしは、どうしたものかと屋敷周辺を彷徨います。
どこへ行くにも面倒。
何をするにも面倒。
せめて全てが一つとなってしまえればまだいいのに。
主人の言動が収まればやりたい放題、怠惰に堕落できるのに。
「数ヶ月の間、悩みました」
「……どこで?」
「屋敷の庭です。その頃から生い茂っていたので。草があれば生きていけますし、身を隠すのにも十分でしたから」
「ああ……」
屋敷の周辺にいたからよくわかります。
屋敷の様子がおかしいと。
屋敷の中での活動が特定の場所に偏り。
夜になってはふらふらと出かける。
何か騒がしいものを連れ込んでは、朝を待つ。
ついに頭がおかしくなったと思いました。
嬉しかった。
わたくしは主人の様子を探るため、内部に忍び込みました。
自身の部屋に閉じこもる。
糞尿を撒き散らす。
料理はできないから狩りに出る。
捕まえた獲物は、食べるか、保存するか。
保存といっても食いかけを放置したり、生きたまま屋敷のどこかに置いて、忘れて、腐らせる。
まともな頭ならもう少し管理ができていたでしょう。
できなくなっている。
叫び癖は変わらないが、明らかにおかしい。
「忍び込んだついでに食料を漁りました」
「……貴方って人は」
「食べて、その場で寝てしまい、見つかってしまいました」
「何も言えませんね」
「主人は、わたくしのことがわからなくなっていました」
誰だ貴様は!!
ここで何をしている!!
久々に向けられた怒声に体が萎縮しました。
体が動かず、頭も回らず、黙っていました。
わたくしの様相を見た主人は、勝手に納得していました。
「白黒の服。メイドか、と」
牛柄がなぜそう見えたのかは聞いてもわからないでしょう。
妻もメイドも、『相手に尽くさなければならない』というのは変わらないのですが、妻という立場から逃れられる。
それだけでもよかった。
だからわたくしは、『メイドである』と名乗った。
「メイドの方がお仕事は多いのでは?」
「もう狂った頭の主人でしたから。メイドとしてのわたくしの存在もほぼ忘れ、何かを命じることは少なかったのです。何より『妻』ではなくなったことが手放しで喜べることでした。家を手に入れ、食材を手に入れ、金はないけれど安息できる場所がある。一緒に住んでいたとしてもそれで充分でした」
数ヶ月ぶりに自室を見た。
虎がいた。
弱りきった虎。
夜な夜な出掛けては捕まえてきたうちの一匹だろう。
猛禽類の捕食対象に似た肉食獣。
子猫の様な子虎。
不幸にも捕まって、放置された、生き地獄真っ只中の餌。
「生きていますか」と聞いてみた。
「ごはん」と呟いた。
わたしくしの食事を口元に置いてみた。
食べた。
食べ尽くした。
食べたからもう大丈夫だろうと思い、放置しました。
縋られても面倒くさい。
適当に出て行ってくれていい。
窓を開け、扉は閉めた。
次に見た時は死んでいました。
「虎。暴食の眷属ですね。本来の食事以外を食べるのは本能からでしょう」
「食べたからといって死ぬのですか?」
「消化不良にでもなったのではないでしょうか。衰弱し、さらには子どもです。不調に拍車がかかった。まずは水分が必要だったのでは?」
「勉強になります」
「思ってもないことを」
そのときは「ダメだったか」と思いました。
はてさて、どうしようかと。
ただ埋めてあげればいいものを、わたくしは本能のまま従った。
『めんどくさい』
ただそれだけ。
わたくしは隠す様にして箪笥の裏に体を放置した。
家はもともと異臭が立ち込めていたので今更という感じ。
わたくしはメイド用の部屋をもらっていたので普段は使わない。
そのまま放置して、肉は完全に腐り、先ほど見つけた時には見事に白骨化していた。
「虎が哀れですね」
ライター様は呟いた。
もうこの屋敷に連れてこられた時点で運は尽きていたのだ。
いや、正しくは、猛禽類に捕まった時から。
遅かれ早かれ尽きる命。
生きながらに食われるか、生きながら見捨てられるか。
後者だったというだけの話。
「貴方には虎の面倒を見る義理はありません」
「はい」
「私がとやかく言う義理もありません」
「はい」
「ですが一言だけ感想を述べさせていただくと」
「はい」
「素晴らしいバッドエンドですね」
貶し言葉だろう。
そうとしか思えない。
目隠しの裏の眼がどのような状態かはわからないが、口元は大きく笑っていた。
目は口ほどに言うはずなのに、その目が見えない。
その口から出る言葉には疑いしか持てないのに、じゃあなんなのかという答えが出ない。
他者から悟らせない。
そのための目隠しなのだろうか。
軽々しい物言いをするお客人に、苛立ちを覚える。
「あなたの、この裏面の依頼は完了でよろしいですか?」
手に持つ紙の裏を見る。
わたくしが書いた文字。
雑に書いた、文体の崩れた、一見落書きでしかない黒い綴り。
表から見たとして、ぱっと見はなんとか『3』『S』『J』『[』と見えるだろうか。
これはわたくしがなんとかそう見せようとして書いたもの。
裏から。
「手の込んだことをされましたね」
「面倒くさがりな癖に、手の込んだことが好きなのです」
「メイドをやれるのはそういうことですかね。料理とか」
「かもしれません」
裏から描いたものは線対称に描かれる。
そして文面から察していただければ、
『S』は『て』
『J』は『し』
『ε』は『ろ』
『[』は『コ』
雑に書いたのはそういうこと。
そして職業と依頼主の名前は下に書かれている。
つまり下から読んで欲しい。
それを汲み取られたら、あとは下から読んでもらえる。
『コろして』
わたくしの依頼は、達せられた。
「完了で構いません。ありがとうございます」
深々と、心より心を込めて、感謝を示した。
これで、わたくしは自由だ。
わたくしに命ずる者はいない。
この家はわたくしのもの。
残った財産もわたくしのもの。
堕落できる。
死ぬまで堕落し、怠惰に生きる。
怠惰の眷属としてなんて懸命で勤勉な行いだろう。
「では。よくお眠りの酉井様をお部屋にお連れしましょう」
「……え?」
ねむっている。
ん、え?
お眠り?
「ねむっている……」
「ご確認されますか?」
触れるのも嫌だった。はずだった。
耳を疑うことで嫌悪感が消えたのか、死んでいないことがさらに嫌悪だったのか。
わたくしは膝をつき、羽毛で隠れた鳥肌に触れる。
羽毛越しには疑うしかない、細い体。
濡れるのを嫌う乾燥肌。
……ほんのりと暖かく、微かに動く鶏肉。
「……」
「泣いているのですか」
「悲しいです。生きていて」
わたくしは、まだこの人から逃げられない。
「そうですか」
無慈悲な声が脳を貫通する。
同情も憐みも申し訳なさもない、無関心。
無関心はわたくしの十八番だと思っていた。
上には上がいた。
……どうでも良すぎて笑いが出る。
「なぜですか」
「なぜ、とは?」
「ライター様は仕事を完了されました。わたくしの『コろして』という依頼を。確認したはずなのに、なぜ死んでいないのですか」
これは『怒り』だ。
怠惰のわたくしが無駄な感情で振り回されているという滑稽な状況。
憤怒に対して怒るという憐れな状況。
彼らの餌を振りかざし、わたくしは怠惰であることを忘れていく。
「私の方こそ確認したじゃないですか。「完了でよろしいですか?」と」
平然と。
本当に憤怒なのかを疑うほど、冷静に。
わたくしの怒りなど、まだ下拵えも済んでいない粗末な食材だと言われているかの様に。
そそられない。
つまらない。
期待が持てない。
ため息が一つ、空気を揺らす。
「私は、殺しをするとは言っていないし、殺したとも言っていません」
…………それは。
そうだけど。
「というか、殺しに代理を立てるなんて迷惑極まりないことです。あなたは怠惰らしい行動をしましたが、それとこれとは話が別です。貴方の人生のために私が人生を賭けて殺しをする必要がどこにありますか。対価はなんですか? 貴方は貴方の人生を得る代わりに、私に何をくれるというのですか? 人生に相対するものなんて人生しかありませんよ? よろしいのですか?」
弾丸の様に繰り出される言葉が、わたくしを乱れ打ちにした。
最初から、この人はわたくしの依頼など話半分程度だったのだ。
気休めで、気まぐれで、キチガイな扱いをしているのだ。
受けられないなら受けられないと言って欲しかった。
受けるならば対価が必要だと言って欲しかった。
受けたふりして受けていないと、わたくしで遊んでいたのだ。
あ……ああ、なんか、疲れたな。
「殺しをしないので、永遠に眠ってもらうということで手を打ったつもりなのですが」
「…………え?」
えいえんに、ねむる……。
「玄関に生えていた草に、強い催眠作用があるものがありました。これを永遠に飲んでいただきます。飲むときは起きなければなりませんが、それ以外はほぼ眠っているでしょう。水分摂取は生きるために必要なことです。鳥居様の場合は……遠くない未来、本当に起きなくなるようですし」
どこか確信めいた言い方をしながら、ライター様は崩れたわたくしを見下ろす。
車椅子に座りながら長い脚を組み、目隠しの隙間から赤い瞳がわたくしを捉える。
本能が叫ぶ。
逃げようとしても無駄だ。
あれは捕食者の目だ。
そして怒っている。
無関心などではない。
冷静に、怒っている。
「ダブルブッキングだなんて、私のポリシーに反します。裏紙を使うなんて適当な扱いだと思わざるを得ない。ああ、忌々しい」
「申し訳……ありません……」
「あなたはこの屋敷の労働力として雇います。必要なことだけやってください。今までと変わりません。相手が変わるだけです。それが、この依頼の対価です」
拒否権はなかった。
もうすでに完了してしまった依頼。
逃げようとしても、どこに逃げろというのかと。
この屋敷から逃げたくなった。
一度目の失敗を思い出して、どうしたらいいかと考えた。
結果、戻ってくるぐらいなら、最初からここにいよう。
逃げるのも、面倒くさい。
――――― ❀ ―――――
ああ、懐かしい。
いまだにこうして囚われ……、いえ、雇われている。
それでも幾分はやりやすくなった。
暴言は吐かれず。
怒鳴り声を聞かず。
夜には物音で起きず。
食事は食い散らかされず。
糞尿を撒き散らかされず。
日々、怯えることがなくなった。
……いや、怯えることはたまにあるが、まあそれはいい。
「よく働いてくれています。怠惰なのに」
「ありがとうございます」
「褒めてないです。嫌味です」
飲み切った紅茶におかわりを注ぐ。
出涸らしのティーパックだった。
まあいいか。
…………睨まれた。
「最近の酉井様のご様子は?」
指が止まる。
すぐに動かした。
「変わりありません」
「説明不足です。最近起きたのはいつ頃ですか?」
ふう、と口から声が漏れる。
記憶をたどり、微かに思い出された光景。
これはいつだろうか。
日付なんてほとんど気にしないからわからない。
「……たぶん、二日前でしょうか。飲み込みが悪くなってきているので、とろみをつけてコップ一杯分介助して飲んでいます。十分ほど起きていたかと。点滴は変わらず続いています」
「そうですか。わかりました」
主人はもう、言葉を発することがない。
ほとんど寝ているせいもあるが、起きてもぼーっとしている。
スプーンを見せれば口を開けるから、飲食物だという認識はあるのだろう。
だが、わたくしへのリアクションはない。
もう完全忘れてしまったのだろう。
「嬉しそうですね」
「はい」
わたくしは嬉しい。
穏やかな気持ちで、十分間もの長い時間を共有している。
あの様な状態にならなければ、一瞬でも一緒にいたくなくてまた逃げていたかもしれない。
逃げて、庭に潜んで、今の様な状態になるのをずっと待っていたかもしれない。
「そういえば」
思い出語りの最中、気になったことを思い出した。
正しくは、気になったなという事柄を今思い出して、そして再度気になった。
「なぜ虎だとわかったのですか?」
猿轡をした子が虎に扮し、声を発した。
コップの中身を知っているはずの言葉とは思えない言葉を言っていた。
わたくしの私室にいたのが虎だと言ったのは、主人が眠ってからだ。
「ああ、知りませんでしたっけ?」
回転椅子が音を立てる。
向きをずらしたご主人様は、立ち上がり、わたくしに寄ってくる。
威圧しているつもりはないだろう。
けれど感じる威圧感。
これが、伝説の生き物の存在感。
消そうとしなければ消せない重圧。
「それは、私が耳当て授けた力です」
「え、耳当てに……?」
扮していたのは明らかに猿轡だった。
隣に耳当てがいたし、姉妹といえど見分けはつくほどの似てなさだ。
木が動転しすぎて間違っていたのだろうか。
だとしても。
耳当てがなぜ、虎だと気づいたのか。
力とはなんなのか。
「私は憤怒。猿は憤怒の眷属。主は眷属に異能を与えられる。聞いたことはありませんか?」
「全く」
「怠惰ですねぇ」
そうですとも。
「まあ、それが全てです。耳当ては「音を聞かない」という制限をして、本来は声のないモノから声を聞くことができるのです」
「声のないモノ?」
「たとえば、このティーカップ。または机。カーテン。そして、骨」
ああ、なるほど。
そんな普通では起こり得ないことを起こしていたのか。
そんなの聞いてない。
「では、猿轡も」
「あの子は本音を封じている代わりに、建前を言えます。言い方を変えれば嘘しか言えません」
だから催眠作用がある飲み物を出しながら、平然と「長生きしてください」なんて言えたのか。
心にもない建前を。
「……では」
「はい?」
「骨からは何を聞いたのですか?」
得体の知れない元客人、現雇い主の口元が歪む。
愉しそうに嗤う。
得体の知れない不気味さに身の毛がよだつ。
「こちらへ耳を」
なぜそんなことを。
とは思ったが、恐怖の前ではわたくしの意思などないに等しい。
体を横向きに、耳がご主人様の方へ向く。
耳にかかった髪をわざとらしくゆっくりと避け、息遣いを感じさせる。
「虎は」
「っ」
『次は、喰ってやる』
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