神田川。彼は僕の告発のせいで、カラー運輸を退職することになった。まさか管理職たちは、「城谷から聞いたぞ」とは言わなかっただろうが、神田川に楯突いたこともある僕が、奴の中で告発者の候補にあがることは容易く想像が出来る。その想像を胸に秘めたまま、機会を伺い、自分がしでかしたことを棚にあげて、人生を狂わされた憂さ晴らしのために僕をこんな目に遭わせた、と考えることもできる。仕事はきちんとこなしていたようだから、相良へのパワハラをしなければ、今も現場の第一線で活躍しているだろうから、奴にとってこの展開は想定外だったにちがいない。
 自分の感情のままに、相良を精神的に追い詰めた過去があるなら、神田川がこのような凶行にはしることも充分に考えられる。

 暑い。頭のてっぺんが熱を帯びていて、そこから汗が噴き出している。顔を伝って流れ落ちた汗が、首筋を通り、制服のポロシャツに染みこんでいった。
 僕はおもむろにポロシャツと、その下に着ていたタンクトップをおもむろに脱ぎ捨てた。暑いのを少しでも紛らわせようと、上半身裸になった。衣類はぐっしょりと濡れていて、この短時間であっという間に体内から水分が抜けていったのだとわかった。無駄な行動だと薄々感じつつも、もう一度扉に突進し、そのまま崩れ落ちるようにへたり込む。ずるずると体が滑った痕跡のように、扉にはびっしょりと汗のあとがついたのがみえた。

 里菜。心情的には考えたくもないが、彼女が凶行に及んだとも考えられる。仕事で仕方がなかったとはいえ、ちゃんと話をしようと約束をしたのに、未だに成し遂げられていない。違うんだ。僕は里菜を困らせようと思って直前に予定をキャンセルしたわけじゃない。田曽井から頼まれて、どうしても断ることができなかったんだ。ちゃんと近いうちに埋め合わせはするから。ここから出してくれよ……。
 いくら心の中で叫んでも、僕の想いが里菜に届くことはない。言葉を伝える手段がない。物理的にも心理的にも、彼女との距離はどんどん離れていくばかりだ。空気の流れもない蒸し風呂のような空間で、どうすることもできず体を投げ出していた。荷台の鉄板は直射日光に焼かれ、荷台の気温はどんどんと高くなっているような気がする。ああ、こんなことをしているあいだに、荷物を何個配達できるだろう。時間指定の荷物もいくつかあったはずだ。すべての予定が狂った。分刻みで集配に追われる僕たち配達員に起こる一分一秒の狂いは、そのあとの業務に大きな影響を及ぼすというのに。
 頭がぼーっとしてきた。体中が火照っている。口の中がからからになっていく。息をしても酸素が充分に吸い込めないような心地がして、余計に苦しい。
 眉間のあたりに湧き出てきた汗が目の中に入りそうになって、思わず瞼を閉じる。視界が暗くなる。このまま眠ってしまえば、少なくともいまの状況からは逃れられるだろうか。そのまま目を覚まさなかったとしても、苦しむことはないかもしれない。
熱がこもらないように服を脱ぎ捨てたというのに、ちっとも体は冷えない。たぶんこれまでの人生の中でいまが一番大量に汗をかいているなと感じた。
 人間は体内の水分の二割を失えば、死に至ると聞いたことがある。二割とはどれくらいの量なんだろう。まだ意識があるということは、僕の体を濡らしている汗の量は、微々たるのなのだろうか。わからない。わかったところでどうしようもない。僕がここから脱出する方法は皆無に等しい。ああ、こういう非常事態になったときにどうすればいいか、ちゃんと知っておけばよかった……。
体内の水分を失うわけにはいかないのに、目からは涙があふれ出てきた。ごめんなさいごめんなさい。助けてください。ちゃんと仕事をします。里菜と向き合います。喉が渇いた……。いつまでここにいればいいんだ。助けてくれ……。

 事を荒立てないほうがよかったのだろうか。相良がどんな目に遭わされていたとしても、所詮は他人事だと決め込んで関わらなければ、いま僕が窮地に陥ることにならなかったのかもしれない。里菜のすべてを受け入れると一度は決めたのだから、その揺るぎない決意を胸に、そのまま殴られ続けていれば、いま命の危機に瀕することもなかったのかもしれない。
たらればと、かもしれないが語尾にくっついた仮定ばかりが、脳裏に浮かんでくる。
仮定の中ではどんなことだってできる。現実では到底あり得ないことも、過去に自分が選ばなかった選択肢のその先をも、考えることが可能だ。
いまの状況ではない世界線に立っている自分を想像してみる。相良が苦しんでいるのを見て見ぬ振りをして、平然と仕事が出来るとは思えない。里菜の暴力がエスカレートして悩んでいたところに、清志の自己犠牲ともとれる言葉を受け取って決壊した程度の心の強さでは、里菜のすべてを受け止めることはできない。
今度は否定ばかりだ、と自分でも思う。であれば、選ばなかった未来の中に、答えはない。過去に戻ってやり直せるのならともかく、人は「現在」を歩くことしかできないいきものなのだから。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。もう、起き上がる気力すらなくなっている。流れる時間の間隔もわからない。閉じ込められてから何時間も経ったのか、はたまた時の流れは数十分程度しか過ぎ去っていないのか。暑い。水が飲みたい……。凍り付きそうなほどに冷たい水を、全身に浴びたい……。
 水が飲みたい。視界の端に写ったのは、汗に濡れそぼった自分の腕だった。顔を横に曲げて、上腕に唇をつける。舌の先に皮膚が触れ、カラカラにかわいていた口の中に、自分の汗が染みこんでいく。この状況のなかで、辛うじて思いついた水分摂取の方法だった。
だが、そんなものは所詮、気休めにもならなかった。体はもっと多くの水分を求めている。
下手に水分を口に含んだものだから、脳がもっと補給できるのかと勘違いしたのか、喉の渇きをより強く感じるようになってしまった。
 荷台に積み込んでいる宅配の荷物の中に、なにか飲み物はないだろうか。でも、あったとして、勝手に開封して飲むことを許されるはずがない。……こういう緊急事態のときは、みんな、許してくれるだろうか。
 起き上がろうとしても、体が動かない。頭が割れそうだ。いっそかち割ってしまったほうが楽なんじゃないか。息がうまく吸えない。呼吸が荒くなる。視界の端に、自分の胸が大きく上下している様子が見える気がする。いやだ死にたくない。たすけて。だれか……。誰でもいいんだこコに僕ガいるコとニ、きヅいてほシい……。
 頭の内側から金槌で殴られているような痛み。ごぼりと喉が鳴って、食道からせり上がってきた吐瀉物が、口からあふれ出す。生暖かいどろどろの液体が、酸っぱい悪臭を漂わせながら首筋を、胸の上を、流れ落ちていく。もうやめてくれ。僕からこれ以上、水分をウばわナイでクれ……。
 ガクガクと体が痙攣している。手足の筋肉が攣って、激痛が神経を駆け巡る。声にならない叫びが、思考を鈍らせる。イヤだ、シにタクナイ、タスケてくれ、たすけてタすケて、タスけテく……ダさ、イ……。