「今の里菜が好きなのか、分からなくなった」
それから長い沈黙が続いた。静寂に包まれたリビングに、冷蔵庫の作動音と僕たち二人の息遣いが聞こえてくるだけ。こんなとき、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえてくる……なんて表現がありふれているけれど、そういえば音がしない。
壁にかけている時計をちらりと見ると、電池が切れているのか、今より何時間も前の時刻をさしたまま、針は止まっていた。いつから止まっていたのだろう。それすらも僕には見当がつかなかった。
里菜はこのままなにも話さないつもりだろうか。僕がなにか言葉を口にするまで。間接照明だけが灯っているリビングで、成人の男女が向かい合って立っている姿はなんともシュールで、僕たちの気持ちを無視すれば、ミュージックビデオのワンシーンみたいだった。
「そういうことだから、僕たち距離を置かないか」
とはいえ、いつまでもこの状況なのは埒が明かないから、僕はひとつの提案をした。距離を置く。便利な言葉だ。二人の関係を終わらせることなく、結論を保留にし、そして判断を下す期間も設けない。しばらく経って、互いの気持ちの整理がついて、もう一度やり直そうとすることもできるし、これまでの僕たちの関係などなかったかのように離れて生きていくこともできる。
里菜はダイニングチェアーに腰掛けた。僕が彼女を拒絶してから、初めて見せた行動だった。
「アキトは体格もいいし、丈夫だから、私程度の暴力ならなんともないと思っていた。……だからちょっと甘えちゃったの。ごめんなさい」
「黙って受け入れてた奴が今更……って感じだけど、里菜はどうしてそういうことを僕に平気でするの」
僕も里菜の向かいに座る。テーブルに置いていたリモコンで、リビングの照明をつけた。
「……ストレス解消。私ね、強そうな男の人が痛めつけられて辛い目に遭っているシチュエーションが好きなの。漫画やアニメの主人公が、戦いで苦戦して苦しんでたり、ボクシングの試合とかで、選手が攻撃を食らって悶絶している様子を見てると、すごく興奮しちゃうの」
言葉をきって、里菜は僕の顔を見た。
「最初は映像とか、誰かが描いたイラストを見て、欲求を抑えてたけど、だんだん歯止めがきかなくなってきて。……アキトと付き合うことによってそれがどんどんエスカレートしてきて……絵や映像なんかじゃ我慢できなくなってきた。……仕事で嫌なことがあったり、そうじゃなくても気分的にむしゃくしゃしてるとき、アキトみたいな男の人をこの手で痛めつけてやったら、気分が晴れるんじゃないかって思い始めた」
里菜は付き合い始めた初めから、暴力を振るってくる人ではなかった。そりゃあ最初から自分の本性を曝け出していたら、男女の関係なんてもてないだろう。里菜はきっと、そういうことがわかっていて様子をうかがっていたのだ。月日を重ねるにつれて、僕が彼女のことをなんでも受け入れる傾向にあると分析したうえで、自分の欲望を発散していたのだと思う。
「仮にさ、僕が君の暴力を耐えられないような貧弱な男だったら、どうしてたの」
「最初から付き合ってない」
里菜は即答した。男は、女の体目当てに言い寄るということがあるけれど、その逆もあるのだろうと、僕は思った。
「アキト、優しいし、ほら、体も私の好みドンピシャだから、本当に理想だったの」
「だからってなんで……」
僕は吐き捨てるようにそう言ったが、さっき理由は聞いた。舌の上まで這い上がってきた言葉を飲み下す。代わりに吐くのは忠告。里菜に向ける牙を、僕だって持ち合わせているのだ。
「……君は、誰とも付き合うべきじゃない」
「なんでよっ!」
ひゅっと息をのみこんで、里菜は金切り声をあげた。「アキトを追い詰めちゃったことは悪いと思ってる。でも、そこまで言われる筋合いなんてないじゃない!」
「仮に僕との関係を終わらせたとしよう。里菜に新しい相手ができて、交際も順調に続けば、きっと僕にやったことと同じことをするよね」
里菜の感情に振り回されないぞとばかりに、僕は淡々と言った。
僕以外の被害者を……そう思ったところで、気づいた。僕はもう、自分を被害者だと思っているのだと。里菜のすべてを受け止めるとはなんだったのか。
ジムに吊り下げられているサンドバッグのほうが、僕の心よりも頑丈だ。どんな強いパンチやキック、それにタックルなんかもしっかりと受け止めるのだから。
僕の問いかけに、里菜は肯定も否定もしなかった。ただ、たしかなことは、里菜がどんな未来を選んだとしても、彼女の秘めた欲望に苛まれ、こんなはずじゃなかったと嘆き、ふたりの関係を終わらせようと躍起になる男が現れるだけだ。
君は、誰とも付き合うべきじゃない。そう言ったのは、ささやかな反抗のつもりだった。誰も相手の心の内が分からないように、僕が思っていることなんて口にしない限り、他人には伝わらないのだ。
口に出してみて初めて、自分の感情を認めたことになる。ああ、僕は里菜のことをもう好きじゃないんだ。砂時計のオリフィスに砂が溜まらないのと同じように、僕が里菜に対して抱いていた好意は、心をひっくりかえすとさらさらとどこかに流れていってしまったのだ。自分でも気づかないうちに、いつのまにか……。
それから長い沈黙が続いた。静寂に包まれたリビングに、冷蔵庫の作動音と僕たち二人の息遣いが聞こえてくるだけ。こんなとき、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえてくる……なんて表現がありふれているけれど、そういえば音がしない。
壁にかけている時計をちらりと見ると、電池が切れているのか、今より何時間も前の時刻をさしたまま、針は止まっていた。いつから止まっていたのだろう。それすらも僕には見当がつかなかった。
里菜はこのままなにも話さないつもりだろうか。僕がなにか言葉を口にするまで。間接照明だけが灯っているリビングで、成人の男女が向かい合って立っている姿はなんともシュールで、僕たちの気持ちを無視すれば、ミュージックビデオのワンシーンみたいだった。
「そういうことだから、僕たち距離を置かないか」
とはいえ、いつまでもこの状況なのは埒が明かないから、僕はひとつの提案をした。距離を置く。便利な言葉だ。二人の関係を終わらせることなく、結論を保留にし、そして判断を下す期間も設けない。しばらく経って、互いの気持ちの整理がついて、もう一度やり直そうとすることもできるし、これまでの僕たちの関係などなかったかのように離れて生きていくこともできる。
里菜はダイニングチェアーに腰掛けた。僕が彼女を拒絶してから、初めて見せた行動だった。
「アキトは体格もいいし、丈夫だから、私程度の暴力ならなんともないと思っていた。……だからちょっと甘えちゃったの。ごめんなさい」
「黙って受け入れてた奴が今更……って感じだけど、里菜はどうしてそういうことを僕に平気でするの」
僕も里菜の向かいに座る。テーブルに置いていたリモコンで、リビングの照明をつけた。
「……ストレス解消。私ね、強そうな男の人が痛めつけられて辛い目に遭っているシチュエーションが好きなの。漫画やアニメの主人公が、戦いで苦戦して苦しんでたり、ボクシングの試合とかで、選手が攻撃を食らって悶絶している様子を見てると、すごく興奮しちゃうの」
言葉をきって、里菜は僕の顔を見た。
「最初は映像とか、誰かが描いたイラストを見て、欲求を抑えてたけど、だんだん歯止めがきかなくなってきて。……アキトと付き合うことによってそれがどんどんエスカレートしてきて……絵や映像なんかじゃ我慢できなくなってきた。……仕事で嫌なことがあったり、そうじゃなくても気分的にむしゃくしゃしてるとき、アキトみたいな男の人をこの手で痛めつけてやったら、気分が晴れるんじゃないかって思い始めた」
里菜は付き合い始めた初めから、暴力を振るってくる人ではなかった。そりゃあ最初から自分の本性を曝け出していたら、男女の関係なんてもてないだろう。里菜はきっと、そういうことがわかっていて様子をうかがっていたのだ。月日を重ねるにつれて、僕が彼女のことをなんでも受け入れる傾向にあると分析したうえで、自分の欲望を発散していたのだと思う。
「仮にさ、僕が君の暴力を耐えられないような貧弱な男だったら、どうしてたの」
「最初から付き合ってない」
里菜は即答した。男は、女の体目当てに言い寄るということがあるけれど、その逆もあるのだろうと、僕は思った。
「アキト、優しいし、ほら、体も私の好みドンピシャだから、本当に理想だったの」
「だからってなんで……」
僕は吐き捨てるようにそう言ったが、さっき理由は聞いた。舌の上まで這い上がってきた言葉を飲み下す。代わりに吐くのは忠告。里菜に向ける牙を、僕だって持ち合わせているのだ。
「……君は、誰とも付き合うべきじゃない」
「なんでよっ!」
ひゅっと息をのみこんで、里菜は金切り声をあげた。「アキトを追い詰めちゃったことは悪いと思ってる。でも、そこまで言われる筋合いなんてないじゃない!」
「仮に僕との関係を終わらせたとしよう。里菜に新しい相手ができて、交際も順調に続けば、きっと僕にやったことと同じことをするよね」
里菜の感情に振り回されないぞとばかりに、僕は淡々と言った。
僕以外の被害者を……そう思ったところで、気づいた。僕はもう、自分を被害者だと思っているのだと。里菜のすべてを受け止めるとはなんだったのか。
ジムに吊り下げられているサンドバッグのほうが、僕の心よりも頑丈だ。どんな強いパンチやキック、それにタックルなんかもしっかりと受け止めるのだから。
僕の問いかけに、里菜は肯定も否定もしなかった。ただ、たしかなことは、里菜がどんな未来を選んだとしても、彼女の秘めた欲望に苛まれ、こんなはずじゃなかったと嘆き、ふたりの関係を終わらせようと躍起になる男が現れるだけだ。
君は、誰とも付き合うべきじゃない。そう言ったのは、ささやかな反抗のつもりだった。誰も相手の心の内が分からないように、僕が思っていることなんて口にしない限り、他人には伝わらないのだ。
口に出してみて初めて、自分の感情を認めたことになる。ああ、僕は里菜のことをもう好きじゃないんだ。砂時計のオリフィスに砂が溜まらないのと同じように、僕が里菜に対して抱いていた好意は、心をひっくりかえすとさらさらとどこかに流れていってしまったのだ。自分でも気づかないうちに、いつのまにか……。